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きっかけは、隣家に住む困った幼馴染へ、気まぐれにご馳走した昼食だった。
六月が目前に迫った土曜日の正午に、淳美は快晴の空の下、小学校から自宅へ続く道を歩いていた。勤務先の小学校は実家から歩いて行ける距離なので、住宅街の塀に蔓を伸ばした早咲きのトケイソウを見ていると、時間が巻き戻って小学生を繰り返している気分になった。青空の雫を溶かしたような影も濃く、夏の足音に耳を澄ませながら、昼食を済ませたら仮眠を取ろうと考えていた。取り組むべき仕事は多く、休日を返上しても追いつかない。淳美は身体が丈夫だが、仕事は身体が資本であるからこそ、ぴりぴりとしたプレッシャーを感じていた。自炊をするか、カップラーメンで済ませるか。二択の狭間で揺れながら、自宅に着いた淳美は、扉に鍵を挿し込んだ。この日は家族も出かけていて、淳美一人だったことも、運命的だったと言えるかもしれない。
「……ん?」
扉を開ける途中で、淳美は思い直して振り返った。視界の左端、隣家のガレージに、黒い影が見えた気がしたのだ。果たして、見間違いではなかった。露原家のガレージの影に、こんもりと黒い岩のようなものがあった。凝視すると、それは岩ではなく人だった。スーツを着た人間が、庭で背中を丸めて蹲っていたのだ。
「浩哉?」
呼びかけると、岩はむっくりと顔を上げた。地毛だという焦げ茶色の髪は佳奈子ゆずりで羨ましいが、本人の淳美に対する数々の口説き文句を知っているだけに、ぴしっと決まったスーツから浮いて見える。就職活動の帰りと思しき三つ年下の幼馴染は、淳美に気づくと尻尾を垂らした犬のような顔をした。
「あっちゃん? 先生になってから超多忙で、俺と全然会ってくれないあっちゃんが目の前にいる? 俺、へこみ過ぎて幻覚を見てる?」
「人のことを、お化け扱いするのやめてくれる?」
ひと睨みしてから、あんまり相手がしょげ返っているので、隣家との境目の柵に近づいて軽く屈み、「どうしたの?」と訊いてみた。いつだって能天気で元気な浩哉らしくない。すると浩哉は、今度は捨てられた子犬のような目になった。
「落ちた。二次選考」
「そっか」
「これでもう五社目。社会は俺を必要としてないんだ。今日は最悪の一日だ」
「らしくないよ浩哉。そういう本当は思ってもないようなことは、口にしないほうがいいよ」
「さすが、あっちゃんの言葉には重みがあるね。結婚して」
「就職を決めてから出直して」
「ああー」
浩哉は塩をかけられたナメクジのように、しおしおとその場に頽れて、再び庭の岩になった。この程度のやり取りは日常茶飯事だが、今日ばかりは言い過ぎたので「ごめん」とすぐに謝った。子どもたちが喧嘩の後で互いに言い合う言葉一つ、教職に就いた淳美が言えないようでは宜しくない。浩哉がまだ顔を上げないので、弱った淳美はつい言った。
「浩哉、お昼はちゃんと食べた?」
「まだ。腹減って死にそう」
「うちで食べる? 簡単なものでいいなら作ったげる」
「まじでっ!」
顔を上げた浩哉は、あっさりと復活した。散歩を持ちかけられた犬のような、ぴんと立った耳と尻尾が見えるようだ。変わり身の早さに呆れた淳美だが、浩哉らしい笑顔に免じて今日は甘やかそうと決めて苦笑した。
「一応リクエストを訊くけど、何か食べたいものはある?」
「あっちゃんが作るものなら何でもいい。今日は人生最高の一日だ」
「最悪の一日から大出世だね」
予想通りの返答だったが、作る側としては欲がないのも困りものだ。家に上がった淳美はテレビを点けると、浩哉に座布団を勧めて台所へ引っ込み、母が買い込んでいたエビのパックを冷蔵庫に見つけて閃いた。
「確か、ホールトマト缶もあったから……浩哉ー、お昼はスパゲティにする」
「うわー、まじであっちゃんの手料理! 俺も何か手伝おっか?」
「有難いけど、静かに待っててくれたらそれでいいよ。ニンニク使っても平気?」
平気ー、と暢気な返事を背に受けて、淳美はエプロンの紐をぎゅっと背中でリボン結びにした。エビの臭みを水溶き片栗粉で処理する間に、包丁でニンニクを一かけ刻んで、オリーブ油と合わせてフライパンで炒める。スタミナがつきそうな香りが食欲をそそり、まだまだ頑張れると背筋が伸びた。夏はまだ始まったばかり。へこたれている暇だって惜しいのだ。エビを白ワインと塩胡椒で味つけしてから火を通すと、じゅっと景気のいい音がして、透き通る灰色はじりじりとオレンジがかったピンク色へ、夕暮れ時の空のように染まっていく。焼き色のついたエビを皿にいったん引き上げて、残したニンニクにアンチョビチューブを加えてから弱火にかけると、浩哉が台所の隅から顔を覗かせていたのでぎょっとした。
「無言で立たないでよ、怖いじゃない」
「邪魔しちゃ悪いと思って。あっちゃんって、すげー家庭的なんだなあ。結婚して」
「ちょうどいいや。ホールトマト缶とスパゲティの袋がそこの棚に入ってるの。取って」
「俺のプロポーズ、無視された! っていうかホールトマト缶ってどこ?」
「もー、人の話を聞いてないんだから!」
お互い様で凸凹な言葉をぎゃあぎゃあ賑やかに投げ合いながら、トマトの酸味を砂糖でふんわり緩めて、塩で味を引き締めた生クリームのソースが完成した。そこへ茹でたスパゲティを混ぜ合わせてから、黒胡椒の絡んだエビを載せた時には、浩哉と二人でちょっとだけ感動的な気分に浸ってしまった。幼い頃から互いの家への行き来は多く、食事をご馳走になり合ってきたが、二人だけで料理を作り上げたのは、意外にも初めてだったのだ。
「一人暮らしをしてたら、こんな気持ちになるのかな」
赤いスパゲティをフォークで絡めとりながら、淳美は明るいリビングで呟いてみた。大学生時代も、小学校へ勤め始めてからも、淳美はずっと実家暮らしだ。浩哉はテーブルの向かいの席で大盛りスパゲティに夢中になっていたが、淳美が自分の独り言を忘れたくらいの時が流れた頃に「ん、そうかもしんない」と言ってきたので、淳美はじっとりと睨んでやった。
「何で他人事みたいな言い方なの。大学一年生の時にはしてたでしょ、一人暮らし」
「まあね。でも友達を家に呼んだりはしなかったし、料理は一人だよ。それに寂しいんだよ、一人暮らし。ちょっとくらい大学が遠くなっても、あっちゃんの顔をちらっとでも見られる毎日に、俺は全てを懸けてるっていうか」
「はいはい、その話はもういいです」
浩哉が一人暮らしをやめた話はタブーだった。どんな顔をしたらいいのか困った淳美が、最後まで残していたエビの咀嚼に集中すると、性懲りもなく何度もプロポーズをしてくる幼馴染は、「あっちゃん」と曇りのない笑みで言った。
「ごちそうさま。すげえ美味しかったよ」
この出来事が、翌日の椿事に繋がったのだ。