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4.

 提灯に明りがつき、藤野さん、ジョルさんも集まった頃、テーブルには赤々とした鹿肉に山盛りのセリを投入した鍋とビール、ワインの入ったデカンタが並び、難攻不落の要塞へと変貌を遂げた。藤野さんとテツガク君の前には木製のてかてかと輝く大きな灰皿が置かれ、既に明るんだ頬の二人が美味しそうに紫煙(しえん)を吐き出す。


 ジョルさんはいぶりがっこを齧りながらワインを美味しそうに舐める。誠はその様子を見てポケットの中にある携帯をそっと握る。

 橋本さんは赤いチェックの半纏(はんてん)を羽織って毬のように丸まっている。薄着の橋本さんをみらくのご主人が、店の奥の埃をかぶった洋服ダンスから引っ張り出してくれたものだ。

埃の匂いと、微かな畳の匂いがする。


「教職員なんて大変なお仕事ね」


 ジョルさんが目を細めて橋本さんに寄っている。


「思春期の子たちは良くも悪くも、私たちと比べ物にならないくらいエネルギーに溢れていて、苦労しています。本当に」


「立派だわ。立派過ぎるわ」


 橙色の電飾に照らされてか、酒のせいか、店内にいるものは一人残らず顔を赤く染めており、互いに華々しい人生の輝きを口にしては、肩を組んで酒を飲んだりして、今日の締めくくりを絢爛豪華に彩る。

 カウンターには大皿が並び、藤野さんがそれを眺め歩いてこうつぶやく「レッドカーペットより豪華だな」。みらくの主人は相変わらず働きアリのように店内をあくせく動く。


「動いてないと落ち着かない」


 彼の動きがそう語っている。

 大皿の中身を確認し、しばらく沈思黙考した藤野さんは、山盛りの春巻きと春雨のサラダ、スパゲッティーナポリタンを大きい取り皿に山盛りにして運んできた。

 着ている作業着からは懐かしい鉄と埃の臭いがして、誠は職場という懐かしい概念をふと思い出した。

腑に落ちないことで満ち溢れた場所に座り、首元まで迫った時間の追い込みに少しずつ息継ぎしながら、気づけばものすごい勢いの時間の流れに巻き込まれてゆく。今は、時間とは隔離された生活をしているような気がして、思い出す職場の雰囲気がむしろ現実離れしている場所のようにすら感じてしまう。


「チャグチャグ馬コですか。懐かしいなあ。私も滝沢(たきざわ)に住んでいた時は馬を引きました」


「今年は見に行かなかったんですが。すぐ家の近くを通るもんで、毎年見ていたんですよ」


「馬がお好きなんで?」


「ええ、牧場も競馬場もどちらも好きです。馬もギャンブルも好きなものですから」


「それはいいですなあ。切っても切り離せないものです」


 藤野さんと橋本さんはすっかり意気投合して、話が弾み、弾んだ話がテツガク君の方へと転がり、二人でテツガク君に馬の美しさ、特に尻の綺麗な馬の速さを滔々と述べている。徐々に加速する話に、テツガク君の銀縁メガネの奥に皺が寄って、鬱陶しそうに煙草を吸い始める。


「競馬なんてやりませんよ、時間の無駄じゃないですか」


「分かってないなあ」


「分かってないわ」


 藤野さんとジョルさんは、今日の出来事を知らない。つまり、橋本さんが自殺をしようと山に登って、雪の激しく降る中、誠と出会ったことなど知らないのだ。知っていたら、今の彼女の明るさに、妙な不信感さえ覚えるだろう。


 窓の外はどっぷりと暗くなり、たまに行き交う車のライトが右から左へ、足早に過ぎ去ってゆく。おそらく、今頃舞子は誰の元に行きつくかもわからぬ服を、せっせせっせと仕入れて、過去の思い出にとらわれている弟のことなど忘れて、今の時間に流れているのだろうと思う。

 姉弟で過ごした時間は同じでも、舞子と誠とでは性格の違いも明確であるし、きっと時間の経過の仕方でさえ違うのだろうと、誠は思った。


 やがて、テーブルの上の食べ物が減り、しっとりとした大人の時間が流れ始めた。

 テツガク君は一人おでこで瞼を持ち上げながら、必死に眠気と戦い始め、藤野さんは橋本さんと仕事の話で、真面目な人生論を博引(はくいん)傍証(ぼうしょう)しつつ語り始めた頃、ジョルさんが手招きして、店の外に誠を呼んだ。

 店の外は完全に冷え切っており、空気中の水分が凍って街灯の明かりをきらきらと待っていた。冬の季節に飛ぶ蛍のようにゆらゆらと飛び回っては瞬く間に消えてゆく儚さを持っている。


「修一君の連絡先を貰ったんですってね」


 ジョルさんは細長い煙草に火をつけて、白い吐息なのか煙なのかわからないものを吐き出しながらそう言った。誠の方にも一本煙草を差し出したが誠はそれを断った。


「ジョルさん。やっぱり修一君のお母さんと連絡とっていたんですね」


「そうよ」


「なんで教えてくれなかったんですか」


「なんでって、友達の事を簡単にぺらぺら話すものじゃないわ。それがたとえ関東から来た得体のしれない若者であっても、たとえ仲のいい飲み仲間であっても」


「ジョルさんは修一君がどこにいるかも知っているんですか」


「山田さんはなんて言っていたの?」


「知らないし、連絡も取れないと言っていました。警察にも報道の方にもそう答えていると」


「じゃあ、私も知らないわ」


「じゃあって」


 誠は苦笑いした。

 誠の背丈ほどもある大きな雪だるまが道路わきに立っている。転がした時に付いたと思われる泥やら小石やらをまんべんなく付着させている。胴体には青いビニールシートがかけられていて、青いワンピースを着ているようにも見えた。青いワンピースというフレーズは何か誠の心に引っかかる。少し惜しい気もするし、それがとても重要なことのようにも感じる。


「あなた、修一君が人殺しするような人に見えるの?」


 誠は首を横に振った。誠の想像する修一の姿はひょろ長く、誰に対しても暴力などふるうことなく、嘘つきと呼ばれていても他人の心をよく理解している人間なのだ。仰々しく言い表すならば、誠の中にある、「優しくなるために模倣するべき人物像」なのであった。

 そう言うとジョルさんは嬉しそうに笑った。笑って、もう一本煙草に火をつけた。

 再び誠に一本勧めたので、今度は誠も受け取ることにした。

 肺に入れず、口の中で煙を遊んでぽっぽっぽと吐き出す。水中で口をパクパクする河豚(ふぐ)のように動かすと、薄い煙は輪を描いて空に消えていった。


「明日の午後四時に、電話をかけなさいよ」


 ジョルさんが唐突にそう言った。


「ジョルさんにですか」


「私じゃないわ。修一君によ」


 当然じゃないのと言うようにジョルさんは答えた。

 冬の空で砂時計のような形のオリオン座が泰然自若として輝いている。空が澄み過ぎているのに加え、街の明かりが少ないため、見つめれば宇宙に落ちて行きそうなほど広大な空気の一部が、眼前に広がっているのを誠は落ち着いた眼差しで眺めていた。


「繋がりますかね」


「繋がるといいわね」


「変わってないといいなあ」


「誠君が信じているものを疑ってはいけないわ」


「そういうものですか」


「最後まで信じて、明日答え合わせしなさい。修一君が本物のただの人殺しになっていたならば、その時に落ち込みなさい。今は、ただ信じるしかないはずよ」


 誠の口の中には少し苦い、煙草の後味が舌の上に残っていたが、特段嫌な物には感じないどころか、むしろキンと冷えた空気の中で微かなぬくもりを感じた。

 そうして、一服を終えた二人は店内に戻った。


          〇


 土曜日、北校舎と南校舎をつなぐ二階の渡り廊下の右側を、脱兎のごとく走り去る影がある。インスタントカメラを片手に持つ誠である。

その日は小学校の卒業式で、五年生と六年生のみが登校する日なので、一見、四年生の誠が登校しているのは違和感があるのかもしれないが、舞子と修一の晴れ舞台を見るため、誠は母親と二人で学校に来ていた。

 いつもよりも人がいない校舎の中はしんと静かで、いつもより長く感じる廊下は塗ったばかりのワックスが反射して、朝の太陽の光が水面のように揺れて見えた。姉と修一のクラスに向かう途中、誠は自分のクラスにも寄ってみたが、やはり誰かいるはずもなく、教室の後ろにある水槽のポンプだけが、低く振動するような機械音を鳴らしながら休日も真面目に働いていた。

 前述した通り、誠は廊下を走っていた。

 廊下は走ってはならないものだという一般認識を脱する誠の意思の根源は、舞子がいる最後の教室風景をカメラに、いざ納めんとする意気込みによるものだった。

 今朝、誠が起きるのとほとんど同時に家を出発してしまった舞子は、自室から眠い目をこすりながら階段を下りてくる誠に、綺麗なワンピースを見せつけ「いってきます」と快活な笑顔を向けていた。

 近所の洋服店で購入してきた黒いワンピースの裾に、誠の母が黒に映える茜色の金木犀(きんもくせい)の刺繍を施したものだった。昔は手製の鞄や洋服を売っていたりした誠の母は、とにかく手芸の腕が達者なので、舞子はそれを身にまとうのが待ち遠しく、ついでにそれを着る卒業式という晴れ舞台が待ち遠しくて仕方がなかったようなのだ。

 自分の姉がスカートを着るなど、誠には想像したことがなく、今朝その目に見たものでさえ信じられない始末である。とにかく、馬子にも衣装さえ着せれば大変立派な女性にすら見えるので、誠はこの上なく感心したものだった。それほど舞子に金木犀のワンピースは似合っていたのだ。

 舞子の教室が近づくと、廊下のあたりに人の気配がやっと漂い始めた。静かに響く人の声や、時折誰かが椅子を引く音が聞こえ始め、誠はその部分だけ、校舎が生気を帯び始めたように感じた。

 舞子のクラスは階段を上がってすぐだった。

 廊下にはぴっちりとしたスーツに蝶ネクタイをつけた男の子もいれば、黒いワンピースに白の綿菓子のようなストールを首から下げる女の子もいた。彼らは、教室の外から中を見ていたり、互いの服装を冗談交じりで茶化したり褒め合ったりしていて、普段とは趣の違う年上の雰囲気を誠は感じた。


 教室の中は一段とざわめいていた。

 誠は人だかりに肩を入れるようにしてゆっくりと、縫って歩き、片側だけ空いた引き戸から教室の中を見渡した。六年生の教室は自分の教室と同じくらいの広さであるはずなのに、机や椅子が大きいせいか、誠には少し狭く見える。

 誠は教室の隅で丸くなっている大きな背中を見つけた。

 どこか寂しそうな背中だった。

 その背中にはきれいな茜色の金木犀の刺繍が並んでおり、それが舞子の背中だと気づくのに時間はかからなかった。

 では、何故舞子は丸くなり、机に伏せるようにしているのかと、その原因を探すと、もう片方の隅っこで下品な男の子の笑い声が聞こえてきた。

 その男の子は中山だった。去年の夏にプールに自ら投身し、誰よりも早くプール開きをしたはずの彼であった。中山の頬は赤く腫れており、それを片手で押さえながら、舞子の方を指さして笑っていたのだ。

 聞くに堪えない幼稚な(ののし)りの口上(こうじょう)に、誠は今日に卒業を控える目上の者であるとはとても思えなかったが、諦聴(ていちょう)すれば少しずつそれを聞き取ることが出来た。

つまり、体が大きく日に焼けた肌の舞子がスカートをはくと、まるでトランスジェンダーを含めた男性同性愛者のように見える、ということだった。ありていに言えば「おかま」と言っていたのだが、その言語に様々な誤解が生まれるので注意しなければならない。


「おかまがスカートははいてら。そんな古臭い花柄のスカートなんて似合わないもんだ」


 そう言う彼の頬が腫れているのは、おそらく舞子が一仕事した後なのだと推測できる。

 誠は背中のあたりがピリピリと痛むのを感じた。

 廊下に並ぶその他大勢の小学生と同様に、誠はただ茫然とその教室の中を眺めているのが悔しくなった。その教室の中に踏み入り、下卑(げび)た笑いを舞子に向けて、舞子が反抗しないのをいいことに、ここぞとばかりに胸を張る男の器に、一発の拳もたたき込めない自分の不甲斐なさにだ。

 さらに言えば、誠はこの傍観者共にも一喝してやりたいとも思った。

 そこら中に固まって、口元に手を当てて事の成り行きを悲しそうに見つめる者や、心配そうに舞子の周りをウロチョロとする者、中山と共に姑息な笑みでどっちつかずな主張をする者、すべてがまどろっこしく感じた。

 この教室は循環しなくなった沼の、腐りきった濁りに満ちているようだった。

 そして、誠もその濁りの一部に成り下がったままで、ただただ握りしめたインスタントカメラの感触だけが、強く手の中に残っている。

 その時、人ごみを割って軽い足取りで教室に入り込む者がいた。

 山田修一であった。

 休み時間に、何の気なしに友達に会いに来たかのような様子で、飄々といつもの長袖を振ってくる修一は、教室の雰囲気も気にすることなく、舞子の机の正面に立ち、向かいの席の椅子を引き、そこへ腰かけた。服はところどころ汚れていて、心なしか頬がこけて見えた。


「なあ舞子、今日さ卒業式だって知ってたか。なんか、みんなお洒落して俺だけ場違いなんだが。寂しくて遊びに来ちゃったよ」


 黒い長袖からは細い手首が見え、ぽっきりと折れてしまいそうな足をバタつかせながら椅子に座って、舞子に話しかけている。舞子は腕を枕にして机に伏せているので修一の話にもぞもぞと小さな声で答えている。



「嘘つき野郎だ」


 中山の呟きが微かに聞こえた。

 修一が中山の方をちらっと見るが、興味なさそうにすぐに目を背けて再び舞子に話しかける。その行為がますます中山を苛つかせたようだった。


「お前らみたいなの、恥ずかしいんだよ」


 そう遂に声を荒げる始末だ。中山の顔は真っ赤になり、唾を飛ばしながら二人に怒鳴る。


「汚れた服でくせえ奴も、ダサい服でおかまみたいな奴も、恥ずかしいから学校に来るなよな」


 中山はそう吠える。彼はここで畳み掛けるしかないのかもしれない。口論では修一にかなわないし、力では舞子にかなわないのだから。プールでの出来事もあり、いや、もしかしたら誠の知らないところで、もっと舞子と修一とは因縁深いのかもしれないが、とにかく二人が憎くて仕方のない思いを爆発させるには今日しかなったのかもしれない。


「汚い服かな」


 修一は自分の袖元を嗅ぐ。


「まだ、あとに三日は行けると思うんだけどな」


「普通、毎日服は洗濯するし、着替えるんだよ」


「君、今日はとてもお洒落しているね。いつも俺と変わらないような服装なのに。特に前見た時はびしょ濡れだったし。今日は綺麗でピシッとしているし、服も濡れていないね」


「それは、その時プールに落ちたからだろう!」


 そこで、中山ははっとしてすぐに顔を青ざめさせた。赤くなったり、青くなったり忙しい奴だなと誠は思った。


「お前ら今日の俺をプールに落としたら許さないぞ。うちの母親が高い金払ってこの服を買ったんだからな」


「そんなことしないよ。君をプールに突き落としたことなんてないし」


 修一は教室の周りを見渡した。そして、一瞬誠と目が合ったかと思うと、表情を少しだけ緩めて再び中山の方を向いた。


「とにかく、君が俺と舞子にひどい事を言ったことなんて許してあげるよ。俺、大体の事は許してあげることにしているからね。でも、勘違いをしているみたいだから、そこは指摘してあげなきゃいけない」


 修一は穏やかな目で、中山に語りかける。

 修一が舞子の近くにいると、誠はその景色に心地よさを感じる。

 たとえ、上級生の教室の中で舞子がうつむいてしまっていても、二人がそろっていればそこは誠のホームになる。そんな気分で修一がしゃべるのを見ていた。窓から刺す太陽光が教室を明るく包む。


「舞子が来ているオリビアのドレスってのは凄い高級品なんだ」


 背中を丸くした舞子のワンピースを指さして修一は言う。誠は知っている。そのワンピースは近所の洋服店で購入したワンピースに、母が自ら刺繍を施したものであることを。


「君は舞子の服はダサいって言うけれど、このオリビアってブランドの服は凄い品物なんだ。ほら、タグに名前がついてあるだろう」


 誠も含めて、教室にいる者は皆、聞いたこともないブランドに明らかに困惑する。


「そんな嘘つくな。そんなブランド聞いたことないぞ」


「まいったな、君知らないのか。すごく高級なブランドなんだぜ。しかもこの柄、見たことないなあ。オーダーメイドなんじゃないか。茜色の金木犀なんてさすがだなあ」


 オーダーメイドであることには違いない。何故ならば、それは誠の母が作ったものなのだから。

 修一はしきりにそのワンピースの色合いや、刺繍の見事さを褒める。褒めちぎるというのはこういうものだと言わんばかりに、舞子の周りをグルグル回りながら、その細部に舌鼓を打つように時折唸る。しまいには舞子自身のことも褒めだした。


「いやあ、全く健康そうな足だ! それに筋肉のつき方も理想的だ! エクセレントだ!」


 次第に舞子の体が小さく震えだしているのが、誠の方から見ても分かった。

 笑っているのだと誠は思った。あまりに必死に修一が自分を褒めるものだから、舞子は机に顔を伏せながら小刻みに体を震わせて笑いをこらえていたのだ。

 誠はその二人をフレームに入れるようにカメラをゆっくり構えた。

 するとその時、クラスにいた一人の女の子が声を出した。


「オリビアのドレス。知っているわ。すごい!」


 誰が発した言葉かは分からなかったが、その声を皮切りにしてぞろぞろと舞子の近くに女子が集まり出した。先程まで傍観者を決め込んでいた者たちが、教室を動き始め、教室のどろどろになった水が再び循環されるように、教室の空気は変わっていった。

 中山が作り上げた舞子を見世物とする雰囲気は、修一によって何気ない平常的な教室の風景へと戻されたのだった。舞子の服をよく見ようとする女子たちにより、教室の一角は明るくなり、舞子はようやく伏せていた顔をゆっくりと上げて、各自の質問に対応する運びとなった。

 気づけば中山の姿は教室から消えていた。

 そうして、人だかりを抜けていつの間にか修一が誠の隣に立っていた。


「オリビアなんてブランド、僕も初めて聞いたよ」


「俺も初めて聞いた」


 悪戯をする少年のように、修一は目を細めて笑った。


「俺は嘘つきなんだ。許してくれ」


誠にとってはそんな修一の姿は憧れだった。


「修一君は嘘つきじゃないよ」


 誠はそう答えた。

 その言葉は誠の、修一に対する尊敬による意地だったのかもしれない。それは、近所の洋服屋で買った服を一瞬にして高級ブランド品に変えてしまった修一に対する尊敬などではなく、ただこうして話すだけで、舞子や誠のような変わり者に、温かな感情を分け与えてくれる好事家(こうずか)に対する尊敬であることは言うまでもない。


         〇


 午後四時になった。

 布団を畳んで、すっかり伸び切ってしまった髭も、先程温泉に浸かった後で綺麗に剃って、さあ、あとは宿を後にして会社に連絡を入れ、しかるべき処遇を待つのみだと腹をくくったところで、誠にはやるべきことが残っていた。


「会社に電話するよりもどきどきするじゃないか」


 窓の外には、霞みがかる景色の中に雪化粧をした岩手山が(そび)え立ち、乾燥した空気中には微かな冬の香りが換気の為に開け放した窓から優しく入り込む。

 誠のすべてを詰め込んだ荷物は来た時よりも着実に増え、何よりテツガク君に貰った古い漫画本と、ジョルさんに貰った酒瓶と、藤野さんに貰った饅頭で鞄はパンパンに膨れ上がってしまっていた。

 下の階からは、誠を盛岡(もりおか)駅に送るために準備している白鷺のご主人の足音と、ハイエースのエンジン音が聞こえている。刻々と迫る帰路への足踏みの音が聞こえるかのようだった。体に残る温泉のぬくもりが名残惜しい。


 誠はゆっくりと携帯のキーパッドを押してゆく。


「もしもし」


 海瀬舞子はすぐに電話に出た。コール音はたったの二回だった。


「今、大丈夫?」


「大丈夫だけど、仕事中だから早くして」


「これから東京に帰るんだけど」


「そうなの」


「仕事に復帰できるかなあ」


「どうかしらね。私なら許さないと思うけど」


 メールで心配そうなそぶりを見せる割に、実際は冷たい言葉を投げる舞子。しかしながら、先程コール二回で着信に出るところを見ると、実際には弟思いなのかもしれない。彼女は幼い頃からそうだ。暴力的であるが誠の事はどうも無下(むげ)には出来ないらしい。


「オリビアってブランド知ってる?」


 誠は尋ねた。

 記憶の隅に眠っていた修一との思い出の断片をなぞるように言葉を発した。とても深いところで眠っていたので、今、よみがえったばかりの思い出である。あの時撮り損ねたインスタントカメラのワンフレームを脳裏に描いていた。もちろん、俯瞰してみた画で、陽だまりの教室の中で誠と舞子と修一が三人で固まっている、そんな構図だ。誠の思い出の中はいつも若干の美化と、誇張を抱えている。


「……なんのブランドよ」


「服のブランドだよ」


「そんなアパレルブランド聞いたことないわ」


「だよなあ」


 少し寂しそうに、誠は頷いた。思い出のひとかけらを正当化し過ぎている節があるのかもしれない。正直のところ、誠は本当に晴れの日だったか、そんなことすら忘れてしまっている。実際は廊下までじめじめと濡れる雨の日の事であったのかも。


「でも、私の立ち上げたいブランドの名前はオリビアだけどね」


 無機質な電話越しの声で舞子はそう言った。特別な情報というのは得てして無機質なものだ。そう聞こえるように、舞子自身が意識したのかもしれないけれど。


「さっさと働くのよ。あと、正月は帰ってきなさいよ。私の旦那も会いたがっていたから」


 そう言って舞子は電話を一方的に切ってしまった。照れ隠しのための戦略的撤退だったのかもしれない。

 時刻は午後四時半になってしまっていた。

 約束の時間は午後四時なので、もう遅いのかもしれない。

 それならばそれでもいいと誠は思っていた。とにかく、誠は人と対面することに向いていない。臆病で卑怯な性格だからだ。人の心理に足を踏み入れることなどそう簡単には出来やしない。


「心理に踏み込む必要などない」


 誠は自分自身に念入りにそう言い聞かせた。他愛ない話さえできればそれでいいのだ。みらくで散々練習したはずだ。いつも他愛ない話の雑貨店だった。そこに少しのお酒とつまみがあっただけだ。踏み込んでしまった話はとにかく煙草の煙と一緒に吐き出してしまえばいいのだ。

 誠は携帯のキーパッドを押した。先程とは違う番号を、一字一字間違えないように確認しつつ、震える指で最後に発信ボタンを押した。

 心臓が振動するのにもよく似たコール音が響く。

 一回、二回、三回とコール音が鳴るのを、右耳がしっかりととらえている。

 相手はなかなか出ない。

 むしろ、このままでないでいてくれた方が安心なのではないかと、愚かな考えが一瞬よぎるが、それは全くばかばかしい恐れだと誠は頭を振る。先述した通り、ただ、昔の友人と軽い、他愛もない話をするだけだ。


 コール音は続く。

 冬の夕日が部屋に入り込み生暖かい空気に誠は包まれている。

  何故か、それが誠には懐かしい者のように感じられ、強調されていた心臓の高鳴りもゆっくりと治まっていった。


「やっぱりあの日は晴れだった」


 誠はそう確信した。

 コール音が止まった。

 こもるような音が聞こえ、そこがどこかの室内なのだと誠は気づいた。

 電話の向こうからは何の反応もない。「もしもし」という言葉すら聞こえていないが、微かな息遣いが耳に伝わってくるのを確かに感じた。だから、誠から恐る恐る話しかけてみることにしたのだ。


「実は、最近ちょっと疲れてしまうようなことがあって」


 すると、電話の向こうで微かに笑うような声が聞こえた。聞き覚えのある、優しい声だった。

 そうして誠はその返事を聞いた。

 思わず涙が出るほど、誠は笑ってしまった。


-了

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