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3.

 誠は夢を見ていた。

 いつものように朝温泉に浸かり、食事をして部屋に戻ると、掃除機に吸い込まれる小さな虫の如く、そのまま布団の誘惑の中へと潜り込んでしまったのだ。そうして、誠は夢と現実の狭間(はざま)をゆらゆらと漂っていた。

 次第に遠くの方から夢の断片が聞こえ始める。それが、過去の自分の経験上の声なのか、単純な妄想上の声なのかはわからない。


 ごめんなさい。ごめんなさい。


 その言葉が誠の頭の中を何度も跳ね返っては、地響きのように弱く、低く、響いていた。あまりにかわいそうだったから、誠はその声の主を何度も落ち着かせようとした。


「まあまあ、落ち着きなさいな」


 それと同時にその声の向かう先へと何度も説得しようとした。


「ほらほらこんなに謝っているじゃないか。その辺で許しておやりよ。このままでは永久に平行線だ。謝る方も疲れてしまうし、君も後に引けなくなってしまうよ」


 だけど残念なことに声の主も、それを向けられた者の存在も、誠からは確認できないので、誠の声も一緒くたになって脳内をバウンドして行き交った。これではやかましくて仕方がない。

 とうとう、誠はその至福の微睡みの中から抜け出すことに決めた。つまり、体温でふっくらとぬくもり始めた布団から這い出るということである。


 体や首筋からはまだ、温泉の硫黄の(にお)いと備えつけのシャンプーの香りがした。


「ごめんくださーい」


 襖の向こうから白鷺のおかみさんの声が聞こえた。冬の岩手山(いわてさん)よりも澄んだ声で、結晶のようにか弱い声である。

 誠ははっとした。急いで襖を開けると、そこには廊下に膝をついて座るおかみさんが、心配そうに誠を見ていた。(かたわ)らにはお盆と、その上に湯気がのぼるお茶がちょこんと乗っていた。


「なんだか、廊下が寒いから、もしかして誠君、部屋の窓を開けて寝ているのでは無いかと思って、心配で来たのよ」


「いかにも、つい、換気の間に寝てしまっていました。どうりで体中バキバキになっているわけです」


「あら、やっぱり寝ていたの」


「寝ていましたが?」


「なんだか、誰かと話しているように聞こえたのよ。許して御上げなさいって」


「それは、寝言なのです」


 誠は気恥ずかしくなった。寝言なんていうものではないと思っていたから。ましてやそれを誰かに聞かれるなど、まるで臍の垢を他人に見られたのと同じような羞恥だった。恥ずかしさのあまり、カチコチだった体がふつふつと溶けていった。

 けれどもおかみさんは嬉しそうだった。


「誠君は寝ていても優しいのね」


「優しいでしょうか」


「許してあげなさいって、なかなか他人に言えたものではないわよ」


「それでも寝言ですから。自分で自分に言ったようなものです」


「それならば、なおの事優しいということだわ」


 おかみさんは部屋に入ると、冬風(ふゆかぜ)が入り込む窓を閉めた。窓の外には大きなつららが牙のように垂れていて、海獣の口の中にひっそりと白鷺が建っているようにも見えた。でも、その表現はあまりに空想的過ぎるから、誠は毎朝それを思っても、決して誰にも言わなかった。


(うめ)昆布(こぶ)茶を入れてきましたから、飲んで温まってくださいな」


 そう言って、おかみさんは部屋から出て行った。

 ツンと乾燥した空気が部屋に残っていて、欠伸をした誠の肺をぴしぴしと刺激する。それ自体は心地よかった。むしろ、誠はその浄化された冬の気配と、網戸越しの岩手山を(さかな)にして梅昆布茶がぐいぐい進んだ。何杯でも飲める。梅昆布茶が何杯でも飲めると思ったけど、ここには一杯しかないし、お代わりを要求するのはあまりに情けないので、たった一杯をたくさん味わって飲んだ。


 昨日訪れた住宅街に再び、バスを乗り継いで、ふらふらと誠は降り立った。バスの暖房が効き過ぎていて、シュウマイのようにむちむちに蒸された誠は、しばらく近くのベンチで小休止をした。

 昨日は曇っていたが、今日は快晴である。快晴だと、心ものびのびとする単純な性格の誠は、今朝飲んだ梅昆布茶のせいか、のぼせた頭が冷やされてすっきりとしたせいか、順風満帆な風が脳内を循環するかのように、今日の目的に対して積極的に動けるような気がしてならなかった。


 だから、修一の母親を今日も見つけることが出来たし、思い切って話しかけたのだ。

 普段の誠ならば考えられないようなことだが、今日の誠は違っていた。まるで別の人間が誠の体を使って話しているかのように、自分の姿を俯瞰して、なるべく好青年で、全くその気持ちに裏が無いように話しかけたつもりだった。


「お久しぶりです。覚えていらっしゃいますか。海瀬誠と申します」


 訝し気に誠の顔から足元まで眺めると、婦人は軽く会釈をした。


「海瀬君というのは、あの西小学校の海瀬君なの?」


「その海瀬です。小さい頃、山田さんの近所に住んでいた」


 口元に手を当て、少し目尻も下がり「まあまあ」と幼い頃に見たものと同じような笑顔を覗かせたのも束の間、突然の訪問に疑念の表情は消え切らなかった。


「どうしたの?」


 そう聞く頃には、疑心暗鬼を前面に出した表情で、どこか怯えたような表情で誠を見つめていた。目尻には皺が増え、化粧では隠しきれていないシミも点在していた。

 どうしたの、ということは、誠の事を認識したうえで、「何をしに来たの」という疑問を投げている。もしくは「どうやってここに来たの」という疑問である可能性もあるが、ここでは間違いなく前者だろう。


「実は修一君に会いたくて」


 誠は正直に言うことにした。何かを隠してしゃべったとして、何か得られるものがあるとは思えなかったからだ。相手に対して何かをごまかせば、自分に対しても何かごまかされるだけだとも思った。


「修一は、今はいませんよ」


「では、修一君はどこへ」


「ニュースを見ていませんか」


 心臓が小さく息をした。

脳内に見えない誰かの足元が映し出されて、段々と視点が上がっていくような気がした。


「実は、ニュースを見てきました」


 誠の声は(かす)かに震えていた。

 蛹の中を開けてほしくない。そう訴える少年の姿を思い出した。紛れもなく、それは幼い頃の誠自身だ。蛹の中に眠っているのは、幼虫の姿のままか、蝶に変わった姿か、それも観察することに未だに勇気が出ない。


「修一は今どこにいるか、私にもわからないのです」


「と、言うのは」


「まだ捕まっていないのでしょう」


 足元から、腰、胸、首元と視点が上がると、遂に誠の知らない、頬がやせこけた男の顔が映し出された。ここへ来る前、ニュースで見た男の顔だった。

 山田修一。

 誠は、何の気もなく、まるで息をするついでに声を出したかのようにそう呟いていた。

 住宅街の向こうには山裾が広がり、白く塗りたくられてずんぐりむっくりになった山に、薄い雲が伸びている。目線でその山裾を辿れば、なんてことのない緩やかな勾配にすら見えるが、いざ、足を踏み入れるときっと後悔することになるだろう。


「そうですか。何とか連絡を取ることはできませんか」


「警察の方々も、記者の方々も、皆そうおっしゃるのですが、一向に連絡が取れないのです」


 ピリピリと誠の背中が痛むのを感じた。背筋がピリピリと痛痒くなり、その感覚が首のあたりまで登ってくると、誠は溜飲(りゅういん)がせり上がるかのように気持ちが悪くなった。それが、どういう症状であるのか、誠には分からなかったが、誠はすぐにその場所から立ち去りたい衝動に駆られた。テツガク君的に表現するならば戦略的撤退だ。内なる自分が何かを訴えている。そう感じていた。絶望しているわけではない。悲しいわけでもない。何かわからない感情が全身に蔓延し始めていた。

 しかし、誠はすぐには立ち去らなかった。そんな事をしたら、舞子と修一にひどく怒られてしまうと思ったからだ。舞子には愛ある拳で殴られ、修一には滔々と説教をされてしまうだろう。


「お体は大丈夫ですか」


「はい?」


「大変疲れていらっしゃるように見えたものですから」


「そうですね。最近寝られていなくて」


「さっき言っていた、警察とか記者とかですか」


「そうですね。まあ、あとは近所の方も、いろいろご迷惑おかけしています」


「近所の方たちも、ですか」


「小さな田舎ですから、よく思わない人は多いですね」


 とんでもない奴が多いものだ、と誠はますます背中がピリピリと痛んだ。立場的な弱者をいじめるような(やから)のせいで、人がこんなにも追い込まれているのだということを、何故、理解できないのだろう。


「とはいえ、私もこうして押しかけてしまっている者ですが」


 冗談交じりに、誠は言った。婦人はほんの(かす)かに笑ったように見えた。


「久しぶりにマコちゃんを見たら、幾分か気分がよくなった気がします」


「十分に休んでください」


 一息、深呼吸して誠は続けた。


「僕は、修一君とただ話がしたかっただけです。できるだけ他愛ない話がしたかったのです」


 そう言って、誠は立ち去ろうとした。

 すっかり立ち話が長くなってしまって、小さく細かな雪が降り始めていた。岩手山はすっかり雲に覆われて、薄い雲の切れ端が街の方まで手を伸ばしかけていた。細かな雪が降り始めると、もうすぐどっかりと湿った雪が降る前兆である。ひとたび降り積もれば、バスは動かなくなるし、誠も身動きできなくなる。


「寒いのは苦手です」


「誰しもがそうです」


「雪かきが大変ですね」


「もう慣れました。マコちゃんはいつまで岩手に?」


「もうすぐ帰ります」


「もうすぐに帰ってしまうのですね」


「経済的危機による撤退です」


 ではお元気で、と誠が告げその場を立ち去ろうと背を向けた。背中に一抹の後悔と不安を残しながら、そうして微かな名残惜しさを持ち帰ることに決めた。

 夫人は伏せていた視線を上げた。

 何かを決めたように頭を微かに振ると、鞄からメモ帳を取り出してある一ページを押し付けるように誠の方に見せてきた。恐ろしく冷たい手に誠は少し驚いた。


「修一の電話番号です。警察の方にも、記者の方にも教えていません」


 携帯電話は細かく、震えていた。たぶん寒さのためだなと誠は思った。


「いいのですか? とても貴重なものでしょう」


「マコちゃんならば、たぶん大丈夫だと思ったので」


 誠は携帯電話を取り出して、その番号をメモした。特別な情報というのは、得てして無機質だ。だから誠もできるだけ、ビニールが張り付いたような無機質な表情で、それを自分の携帯電話に記録した。

 許して御上げなさい。

 そう、呟くのが聞こえた気がしたが、たぶん、誠自身の寝ぼけた声だろうと思う。


          〇


 安比(あっぴ)高原(こうげん)行きのバスの座席で、誠は窓の外の田園と白樺(しらかば)の林を眺めながら、薬指にできたささくれを弄っていた。乾燥して唇も肌もカサカサになってしまって、誠は脳内に白鷺の温泉を思い浮かべて黙想した。

 通路を挟んで反対側の席には、スキー用品を携えている中年の男性が、缶ビール片手に座っている。虹色のサングラスの中から、運転席の後ろに取り付けられたテレビモニターを眺めていた。

 誠は想像した。

 彼の職業はネギ農家。国立大学の大学院農学研究科博士課程を卒業した後、アメリカの研究職に就職。大学院時代に結婚した嫁を連れて渡米したものの、残念ながら環境に合わず、就職先の人柄に馬が合わず、四十手前で退職して帰国。実家に戻り、ネギ農家を営みながら、冬は趣味のスキーに没頭している。

 もしくは、独身無職、親の年金をちゅうちゅう吸いながら、趣味のスキーに没頭。一度は関東のシステムエンジニアとして就職したものの、人間関係がうまくいかず三年で退職。夢は株とFXで儲けて、都内の高層マンションで一生独身生活を謳歌すること。好きな料理は母親の作るすき焼きだけど、最近ではすき焼きが食卓に出ると、必ず就職の話になるので億劫になってきている。

 どちらでもいい。それに、おそらくどちらでもない。誠の乏しい想像力の中では、彼は決まって仕事をリタイヤしているのが悲しい。今分かることは、彼はビールとスキーが好きだということだけである。


「おっかねえ、犯人だな」


 彼は唐突に誠に話しかけた。正確に言うと、誠の方に顔を向けてそう言葉を発した。虹色のサングラスの向こうの瞳は誠を向いているのかは分からないが、近くにほかの乗客もいないので、まず間違いなく誠に話しかけたのだろう。


「そうですね」


 誠は応じた。

 モニターには山田修一の事件と、その顔写真が映し出されていた。彼の顔もまた、液晶越しの無機質なものだ。やっぱり、昔に見た顔とはどこか違うように見える。体はがっちりとしているし、カマキリのような顔というよりは、キツネのような獣に近い顔つきをしている。


「それでもあなたは修一君なんだな」


 誠はそう思った。

ゲレンデの入り口に到着すると、誠はセンターハウスには向かわずに、さらに山奥へと向かう道路に出た。そうして、ジャンパーの襟で顔の下半分を隠しながら、白樺の林沿いに、山裾の伸びる方へと向かったのである。たぶん、その光景を見た人は不思議に思っただろう。この時期に車も持たずに、その方面へと向かう人などいるはずがないのだから。


 ゲレンデの向かいには、窓が所狭しと張り付いた豆腐のように長い建物が建っており、何台かの車がゲレンデから出入りしているのが見えた。赤い軽自動車やら、黒いバンやら、忙しそうに動く蟻のように行き来している。

 雪に足を取られないように、よちよちと誠は勾配をゆっくりと登って行った。

 登っていくうちに体温が上がり、こんな真冬なのに汗が全身から噴き出してくる。

 空は曇り、真っ白な雲が動くことなく停滞している。大きなドームの傘の中に閉じ込められたように、誠の居る世界の、半径数十キロにある静寂という概念を集めて覆い隠しているかのようだった。


 雪がすべての音を吸収して、雪を足が踏む音、体の骨がきしむ音、筋肉が収縮する音が体を伝って聞こえてくる。ぎゅむぎゅむと雪を踏めば、それが孤独の象徴のような音に聞こえてくるのだ。誠にはそれが心地よく聞こえている。

 撥水性の高いジャンパーでよかった。

 誠はそう思った。

服に着いた雪を手で払うと、床屋で切った髪を払うよりも滑らかにジャンパーから滑り落ちていった。空気がよく乾燥しているので、一つ一つの雪の結晶が飴細工のように繊細に輝いているのが見える。ある一定の法則で、規則正しく形作られた結晶の一粒は、幾何学的であるのに決して無機質ではない。ある種の感慨の計り知れない深さを手のひらの上で見つめているようだった。

 全く人通りのない道をずうっと登って行こうと、再び歩み始めると、誠の脇に一台の赤い軽自動車が停まった。先程、白い建物を出て、ゲレンデへと向かった一台だった。

助手席の窓が開く。そこから顔を覗かせたのは、目を丸くしたテツガク君であった。


「誠さん。何してるんすか」


「いや、なんとなく、山に登りたくなって」


「その恰好で?」


「うん、この格好で」


「ジーパンにスニーカーにジャンパーで?」


「うん、ジーパンにスニーカーにジャンパーで」


「スニーカーに雪が入ってしまったら、大変冷たいっすよ」


「うん、もう、指先の感覚がないね」


「……俺が車で行けるところまで乗せていきますよ」


「いいの?」


「行ったら満足するんすよね」


「たぶん」


「じゃあ、乗ってください」


 誠はテツガク君が運転する愛車の助手席へと乗り込んだ。

 車内は煙草臭い。センターコンソールのドリンクホルダーにはボトル型の灰皿があり、同じ銘柄の吸い殻で溺れかけていた。


「テツガク君、よくこんな道を通って来たね」


「バイトに向かう途中で、誠さんによく似た人が山道に入るのを見たんすよ。まあ、案の定、誠さん本人だったんすけど。この時期に徒歩で山に入る人なんていませんからね。自殺者だと困ると思ったんです」


「自殺者だと困るのかい」


「山が人間に侵される気がするじゃないですか」


 テツガク君は(いぶか)しがり、誠の方を見ながら煙草に火をつけた。


「僕は自殺なんかしないよ」


「頼むっすよホントに」


 テツガク君は車を道路の脇に停めて、バイト先へ休みの連絡を入れた。

 その間、誠はテツガク君が灰皿にかけていた、灰のたまった吸いかけの煙草を、面白半分で咥えてみた。肺に入れないように、吸って、ぽっぽっぽっと煙を吐き出して遊んだ。やがて、飽きたので、灰皿の縁でもみ消して、吸い殻の山の一角へと押し込んだ。舌の上には苦くてじんじんする唾液が残る。

 窓から、外を見ると、今朝修一の母親と会った方角に、黒い箱型の建物が四つ並んで、そびえたっているのが見えた。

その光景は明らかに異質であった。

辺りは雪で一面真っ白なのに、その建物だけ画用紙に墨汁を塗ったかのように、あるいは地面から黒い物体がにゅっと()えてきたかのように見えた。誠は目を凝らして、その全体を観察する。何か、建物であることは間違いなさそうだ。


「あれは、今は使われていない団地の跡です」


 テツガク君が僕の視線に気づいて、そう言った。


「真っ黒じゃないか」


「日に焼けてあんなに黒ずんでいるんすよ」


「誰も使っていないのに取り壊さないのかい」


「俺はこの街の市長でも何でもないので、その辺は分かりません」


「そりゃそうか」


 山に入る道は、すぐに行き止まりになった。というより、冬季は通行止めになるようだ。その先は八幡平アスピーテラインと呼ばれる道路で、道の先は秋田のトコロ温泉まで通じている。とても車が入ってはいけないほど、坂も急で雪が降り積もり、山が唸るような音が響いていた。山眠る冬とは言うが、誠にはむしろ生き生きと、ゆっくりと息をしているようにすら見えた。


「近くにコンビニなんかありませんから。これ、飲んでください」


 テツガク君は誠に未開封のミネラルウォーターを差し出した。


「ちょうど喉乾いてたんだ」


 誠はゆっくりと喉にミネラルウォーターを流し込んだ。喉が収縮するほど冷え切っており、じんわりと冷たさが体にしみ込んでいった。そのしみ込み具合に誠は大変驚いた。


「おいおい、思いのほか体がかぴかぴだったみたいだ。面白いくらいに水が染み込んでいく」


 煙草を吸いながら、テツガク君は横目に誠の方を見た。

 銀縁の眼鏡がぬらりと光る。


          〇


 阿武(あぶ)隈川(くまがわ)の方から、山盛りの雲が吹き上がっているのが見える。これが入道雲だということを、誠は三年生の頃に授業で習った。見た目は丸っこくて、ふわふわと大人しそうだが、その中では急激に吹き上げられた水蒸気同士の摩擦によって、すさまじい電圧が発生しているらしい。雲は見かけによらないということだ。

 人間も同様に、とにかく見かけによらないところが多い。

 例えば、誠の担任の先生である久保田(くぼた)先生は、見た目は真面目で優しそうな先生だが、ひとたび怒りだすととても怖い。細身で黒縁の眼鏡をかけていて、髪型はすっきりとした短髪の先生で、眼鏡の奥の瞳が三角になると怒った時の合図だ。

 誠は黒縁の奥で三角になっている顔を、純粋無垢な瞳でぼうっと眺めた。


「先生は、嘘は許せない」


「俺は嘘なんかついていません」


 怒られているのは誠ではなく、山田修一なのだ。彼は、誠の隣のソファで両ひざに拳を乗せる格好で、礼儀正しく座っている。

 校長室は冷房が効いていていいなあと、呑気に降りてくる風に前髪を揺らしていた。


「先生、修一君は本当に人をいじめるようなことはしません」


 誠は水掛け論という言葉は知らないが、その意味と会話の不毛さは理解している。だから、横から意見を出したわけだし、ここに誠もいるということは意見を述べる権利を持っていることに違いなかった。


「しかし中山(なかやま)は、山田と海瀬君のお姉さんにプールに放り投げられたと言っている」


「ならば、うちの姉をここに呼ぶべきではありませんか」


「君のお姉さんは、ここで大人しくしてはくれないだろう」


「なるほど」


 その理由ならば納得だと誠は承知した。


「僕は修一君が誰かに暴力をふるうとは思えないんですけど」


「もちろん俺は、さっきから言っているように、誰かに暴力をふるうようなことは絶対にしないし、その時、舞子も暴力をふるってない。中山が勝手にプールに落ちたんだ。俺が見ていた」


 修一の声は、グラスに注がれた氷入りの麦茶のようにひんやりとしていた。

 怒り乱し気味だったのは久保田先生の方だった。


「嘘をつくなと言っているんだ」


 口から出た言葉が、雷のように爆発していた。思わず、久保田先生が勢い余って身を乗り出したので、先生と誠たちを隔てているテーブルが揺れて、ガラスコップの中の麦茶が少し零れた。久保田先生の横に座っていた校長先生が、まずその勢いに驚き「まあまあ」と優しく宥めた。

 誠が想像するに、舞子が手を出すのは容易に想像できた。何故ならば、姉の舞子は口より、脳より、脊髄より先に手が動くのではないかと言われるほど、行動を起こすのに制限が効かない人間だからである。

 それでも、修一が「やっていない」と主張する限り、誠は信じると決めていた。

 やったやってないの見事な平行線を二人は速足で歩き、話は未来永劫続くかのように思われたが、見かねた校長先生が不毛交戦のレフェリーとして、遅過ぎるタイムアウトを取ったのは始まって三十分後のことだった。誠は二人の横でただただ固まるだけの蛹になっていた。


「もう一度、中山君と山田君の間でちゃんと話し合って。お互い誤解のないように、付き合える関係を築きましょう。学校とはそういうものを学ぶ場でもあります」


 このような全く落としどころもなく、まとまり切れてもいない話し合いの結末は、レフェリーの締めの挨拶まで含めて、まったく最後の最後まで不毛だった。


 学校からの帰り道で、つまり放課後の帰路で、誠は修一と舞子と三人で帰宅していた。

 細かい正方形で区切られた迷路のような住宅街を、たまに、街路樹の木陰で休憩しながら、ゆっくりと歩いていた。誠は歩くのが遅いので、修一と舞子はこまめに立ち止り、小休止を取ってくれているのだ。たまに、舞子がいつも持ち歩いている水筒の麦茶をゆっくり飲んだ。幅員(ふくいん)十六メートルの道路の真ん中に設置された中央分離帯を眺めると、その上を陽炎がゆらゆら揺れていた。木陰の中には麦茶の香りが漂い、夏の香りがした。


「久保田の奴はくそだ」


 舞子がそうぼやいた。今日の出来事を誠から聞いて、舞子は明らかに不機嫌になっていた。半袖から出る丸々とした二の腕が日に焼けて黒い。


「一応聞くけど、お姉ちゃんはそんなことしてないんだよね」


「するわけないじゃない」


「いや、正直していてもおかしくないと思うんだけど。もちろん、お姉ちゃんがそうしたいと思ったのなら、僕は大山でも中山でも小山でも、好きなだけプールに叩き込んでくれればいいんだけど」


「マコちゃん。本当に舞子は何もしてないんだよ」


「修一君が言うのなら本当なんだろうな」


 誠は神妙な顔で頷くと、舞子は「むかつく」とこぼしながら、誠の手の中の水筒を奪って、喉を鳴らしながら麦茶をがぶがぶ飲んだ。口元から垂れた水滴が、喉を伝って落ちた。汗と交わって一つの大きな水滴となったのかもしれない。


「久保田がむかつく」


「ああ、久保田にむかついてたのね」


「直接私を呼び出せばよかったのよ」


「呼び出したらちゃんと理由を話したのにね」


「そうよ」


 舞子が自分のTシャツの裾を引っ張って(ひたい)の汗を拭おうとしていたので、誠は母に持たされていたタオルハンカチを差し出した。舞子は、それで顔を洗うようにごしごしと額を拭った。


「修一は本当に何もしていないのにね」


「確かに俺は何もしていない。しいて言えば、つまずいてプールにずり落ちた中山を見て笑っていた。いや、微笑(ほほえ)んでいた」


「笑われたのが嫌だったんだねえ」


 修一も額にはうっすら汗をかいており、それを長袖で鬱陶しそうに拭っていた。誠は、修一にもハンカチを差し出したが、既に舞子の拭った後で無残にもぐっしょりとしている。それを察してか、修一は差し出されたハンカチを丁重に断った。

 時折、肩のあたりをさすっている。肘あたりもさする。

 そうだ、修一が他人に暴力をふるうなど、論じるまでもなくありえないのだ。

 誠はその時になってやっと確信した。


          〇


「木の根元に近づくときは気を付けてくださいね」


「どうして?」


「枝とか木の根が傘になって、その上に雪が被さっているだけで、近づくとその下の空洞に落ちてしまうことがあるんす」


 道路脇に拡幅されたスペースがあり、そこに誠たちは車を止めて、近くの山道に足を踏み入れた。タイヤ交換やチェーン取り付けの為に設けられた簡易的な停車スペースだった。

 足を踏み入れるというのは、もっともな表現で、誠の胸ほどもある高さの雪の壁を、先行きくテツガク君が押し分け、足を一歩一歩踏み込んではその後が道になるのだ。テツガク君の車に積んであったスコップが一つしかないので、少し進んでは止まり、また少し進んでは止まるのを繰り返して、三十分ほどかけてようやく小高い丘の上までたどり着いた。二人とも汗だくであった。

 テツガク君は雪の壁をガシガシと押し固めて簡易的な椅子を作ってくれた。


「見てください。これ、全部兎の足跡っすよ」


 テツガク君が指さす雪の斜面には、着物の模様のように四方八方へと伸びる鎖線の足跡がくっきりと残っていた。何匹分の足跡かと数えるには、両手ではとても足りない。

 誠とテツガク君がちょうど収まるほどの狭い雪のスペースには、桜の花のようにちらちらと雪が降っていたが、風が雪の壁に遮られて存外温かった。

「これは何かの木の実かな」と誠が安易につまみあげたものは兎の糞だった。

 ぽっかりと空いた穴から空を見ると、無数のぼた雪が次々に落ちてくる。

 テツガク君は今晩のみらくの惣菜は何かを気にしていた。テツガク君はなんでも食べるから、何がカウンターに並んでいても「これが、ちょうど食べたかったんすよ」と言って、犬のようによだれを垂らすだろう。それを、藤野さんとジョルさんが見つめているのだ。まるで、自分の息子を見守る父や母のようなまなざしで。

 誠はやはり味噌ラーメンが食べたくてしょうがなかった。

 今、あのスープをゆっくりと流し込めば、かき氷にかけるシロップのように誠の体に味噌のうまみがじわじわと染み渡ることなど容易に想像できる。

 長居してしまえば、さすがに体が冷えてきてしまうので、誠とテツガク君は下山することにした。

 遠くの空に黒々とした重い雲が潜んでいるのが見えた。

 駐車していた場所に戻ると、テツガク君の軽自動車の後ろに、一台の白い軽自動車が停まっていた。テツガク君が訝し気にそれを見つめると、近づいて中の様子を軽く伺った。


「様子が変です」


 戻ってきたテツガク君は誠にそう耳打ちした。


「中で人が寝ています」


「休憩かな」


「こんな山の中で、そんなことはあり得ません」


 山の奥の方で轟轟(ごうごう)と唸るような音が聞こえた。風の音なのか、雪が崩れた音なのかは分からなかった。山に反響して音がこもり、毛むくじゃらの獣が力強く吠えたようにすら聞こえた。

 その車は静かだった。誠とテツガク君が止めている無人の車よりも、水を打ったように静まっていた。そこだけ深海の沈んだ一部のようにも感じられた。人が寝ているのにエンジンすらついていない。


「自殺ですかね」


「練炭のようなものがあったかい」


「いや、そういうものはありませんでした」


「じゃあ、本人に聞いてみよう」


 誠はその車に近づいて窓から中を見回してみた。

 運転席のシートは限界まで倒されており、そこに髪の長い女性が横になって寝ていた。助手席には雑誌が数冊と、色あせた毛布が雑多に置かれている。ダッシュボードは埃がかぶっていて、窓もスモークがかかっているかのように汚れていた。何十年も前からここに車が置かれているように、ほとんど自然の一部のように静まり返っているのだった。


 女性の寝顔は精も根も尽き果てた様子で、眉間には皺が寄っていて、瞼はぼた餅のように腫れていた。

 あまりじろじろと見ていても、状況は改善されないし、何より変質者を疑われては誠の沽券(こけん)に関わるし、とにかく、スニーカーに(はい)り込んだ雪のせいで一刻も早く車に戻りたいという気持ちもあった。


 だから、誠は割とためらうこともなく、その窓を強めにノックした。

 飛び起きて怪訝そうな目つきで見られても構わないし、そのような想定もしていたが、その女性は驚くほどゆっくりと起き上がり、何も関心のなさそうな目で窓外(そうがい)の誠の顔を見た。


「なにかしら」


 車から出てきた、女性は誠に尋ねた。いや、誠とその隣にいたテツガク君の顔を、ゆっくりとした動きで交互に見ながらそう言った。以下、この女性を橋本(はしもと)さんと表記することにする。


「こんなところで寝てたら風邪をひいてしまいますよ」


「風邪ですめばいいですね」


 すかさず、テツガク君が横から口を出す。

 橋本さんは目を伏せがちにしながら、青いシャツの肘のあたりをしきりにさすっていた。ジーパンに襟付きシャツの姿は、雪空の下ではあまりに不格好で、寒さで体が小刻みに震えていた。長い髪はぼさぼさで、顔には化粧っ気もなく、唇の薄皮がむけて血が滲んでいた。


「急に雪山を散歩したくなったのよ。そういう時ってあるわよね」


「そんな恰好で、ですか」


「そうよ」


「スニーカーにジーパンにTシャツで、ですか」


「どうでもいいじゃない」


「そんな恰好で冬の雪山に入るなんてのは非常識です」


 テツガク君が誠の背中に冷たい視線を向けたが、誠には幸いなことに届いていない。

 次第に誠の背中が再びピリピリと痛み始めた。


「この雪山は人を引き寄せる力があると思わない」


 橋本さんはそう言った。さっきまで遠くにあった深く重い雲が、山裾の方まで近づいていた。大きな目を持つ黒い鯨が山を丸呑みしようとしているようだった。雪山は真っ白で、ところどころ杉の木肌が黒く見え隠れし、白黒があべこべになった版画のように強い陰影を浮き立たせていた。何層にも重なる山裾の折り重なりが、遠近感を失い一枚の平面上の出来事のように見える。

まさしくその美しさに引き寄せられるかのように、誠自身こうして足を運んでいる。


「それは、分かります」


「いえ、あなたには私の言いたいことの本質は分かってはいないわ」


「と、言いますと」


「きっと、絶望の中にいる人には、ひと際極まって見えるのだと思うの」


「貴方は、絶望の中にいるのですか」


「私はずうっと、昔から不幸だったけれど、最近はもっと不幸よ。帰納法的に考えれば、私はこのまま永遠にずうっと不幸で、今よりももっと不幸になってゆくの」


「それが絶望的だということですか」


 降る雪の重みが次第に増していった。


「難しくて、僕には難しくてあなたの言っていることが分かりません」


 背中の痛みが増してきて、誠は次第に背中をさすっていた。

 上から打ち付けるように強くなった雪のせいで、視界も次第に悪くなり、誠には橋本さんと、その後ろの車のみ、かろうじて見ることが出来る。

 口では強がっているのかもしれないが、体は嘘をつけない。死にたいのならば何故、橋本さんは寒そうに体をさすっているのか、こんな無駄話をしているのか、誠にはまったく腑に落ちない。腑に落ちないということは橋本さんの中のすべてを理解していないということで、それを知ることは誠の信念に反することであるとも言える。すなわち、蛹の中を覗き、彼女の本心まで介入するということだ。

 考えるだけで、誠の背中は余計に痛んだ。


「橋本さんは死のうとしていたんじゃありませんか」


 誠は直接的に、話の核心に触れてみることにした。


「もちろん、私は死のうとしていたわ」


「そんなことはおやめなさい」


「私を()めるのね」


「もちろん、全力で止める所存です」


「ひどいお方ね」


 誠には理解が出来なかった。


「いえ、私は橋本さんに死んでほしくないのです」


「ですから、それがひどい事だと言っているのよ」


「何故ですか」


「死ぬより生きる方が辛いから、私は死ぬ決心をしたのに。それをあなたは、何の保証もなしに、『死なないでください』なんて無責任じゃない」


「なるほど」


 誠は小さく頷いた。

 後ろの方で、テツガク君が「怒ってもいいんすよ」と囁いた。

 しかし誠の手は既に、小刻みにわなわなと震えていた。

 その時、はっと気が付いた。先程から、誠の背中を伝うピリピリとした痛みの根源に気づいたのだ。痛みは背中の方から脊髄を伝わり、後頭部を鉄パイプで殴りつけるようにガンガンに痛み続けた。鼻血が出てしまいそうなほど痛かった。

 そのうち、痛みに堪えることに飽きて、誠はドロドロに溶けてしまいたいほどだった。溶けて、この雪の下に沈んでしまって、この山の一部として吸い込まれてしまいたくなるほどだった。

 それは紛れもない怒りそのものだった。ありていに言えば、心の奥底にあった怒りに気づいていたものの、その原因に気づかなかったのだ。


「なんで、死にたいのですか」


 誠は静かに橋本さんに尋ねた。

 振り絞る声だった。ついに、介入したその一歩は思っていたよりもあっけないものだった。想像していたよりも、あっけなく、そしてえげつないのかもしれない。この瞬間から、誠は彼女の心理の弱い場所を共有しなければならなかった。その覚悟が出来ずに発した一言だった。


「どうせ死ぬつもりならば、理由くらい冥途の土産に教えて下さいよ」


 テツガク君が後ろから口を出した。

 人を白眼視(はくがんし)するような言い方で、冷たい態度に誠は少し苛々した。それに、冥途の土産ならばこちらが何かを差し上げるべきだと思ったが、突っ込む余裕すらない。


「私には父がいないの。母が女手一つで育ててくれたわ。幼い頃は家にお金がなかったから、私はお金に憧れていたし、貧乏というものを憎んでいた。でも、駄目ね。世の中、お金のない人にはお金のない生活を送る運命になっているのね。社会のシステム上の問題なのかもしれないけれども。夫もいつの間にか家を出て行って、今では連絡すらない。もう十年になるわ」


 彼女の表情が雪に霞むが、声は潤むようにしっとりとしていて、誠より、彼女の方が先にそのまま雪に沈んでしまいそうだった。


「一か月前に、猫を飼ったの」


「猫ですか」


「寂しさを紛らわすためにね。茶白の子猫だったわ」


「いいじゃないですか」


「でも、いなくなっちゃった」


 山頂の方で、轟轟と唸るような音が聞こえる。次第にあたりの風も強くなり、誠は顔に当たる雪の強さに顔をしかめるようなしぐさをした。靴の中は冷たく、指の一本一本が凍ってくっつき、足が一個の塊になってしまうようだった。

 彼女はのべつ幕なし話を続ける。雪が激しく吹き付ける中、瞬きもせずに誠とテツガク君を見ながら話し続ける。


「窓が開いていて、そこから団地の駐車場が見えたわ。珍しく雪の降らない日で、乾いたアスファルトがちらちらと光って見えた。そこに、カラスが見えたの。何羽も、羽をバタつかせながら、必死になって何かをつついていて。私は、目を凝らした。うっすらと、黒い影の集合の中に、茶色と白の綿毛が、散らばっているのが見えた時、思わず、目をそらしてしまったわ」


 日の光が遮られ、あたりは海底のように(かげ)っている中、誠は幼少期に紫陽花の花壇に埋めた蛹を思い出した。少し黒ずんだ蛹の表面。日にかざすと中が透けて、生命の塊が隅の方で丸まっていたはずの小さな蛹。


「私はこれまでも、これからも不幸の渦の中に留まっているのだと思った。だとすれば、死ぬことの方がとても簡単よ」


 橋本さんが声を発するたびに、誠の背中は次々と電撃が走るように痛んだ。誠の中で定義された正義であるとか、その線引きを担う象徴に反すると、そう感じたからだ。

誠はここで自らの内から湧き上がる怒りに気づかなければならなかった。怒ることが、これまで誠が奥底で抱き続けた信念を正当化するものだった。


「渦の外に出たくはありませんか」


 誠は喉を、体を震わせて、そう言った。


「そんな、抽象的な表現に出口は無いわ。これは私の精神的なものだから」


 橋本さんはそう答えた。


「渦の外はあります。具体的に言えばこの街に。例えば、ここから山を下りて、平館(ひらだて)駅の近くのバス停前です」


「何があるというの」


「みらくという食堂があります。そこに行かずして死ぬのはあまりにもったいないのです」


 あたりは相変わらず暗いが、急に風が弱まった。

 うねり舞うように跋扈していた雪の(つぶて)たちも、海底をプランクトンが漂うかのようにゆっくりと地面に沈んで行った。

 そこで久しぶりに誠は、橋本さんの顔をまじまじと眺めることが出来た。

 橋本さんが寒さに小刻みに震え、目が真っ赤に充血しているのを見て、ようやく誠は安堵したのだった。


 テツガク君は車で煙草を咥えながら、空調のつまみを最大まで捻った。エアコンの吐き出し口から、煙草臭い風が吹き出して凍えた手先を包み込んだ。


「テツガク君、嫌だった?」


「何がすか」


「いや、橋本さんをみらくに連れて行くの、嫌だったかなって」


 ちりちりと煙草の先で赤い火が葉を焦がして、テツガク君は煙を口から漏らしながら言った。


「俺、誠さんの事は本当に信頼しているんすよ」


 窓を少し開けて、煙草の先に溜まった灰をとんとんと窓の外に捨てる。

 後ろからは、橋本さんが運転する白い軽自動車が白いガスを吐き出しながらゆっくりとついてくる。エンジンの調子が悪いのかもしれない。よく見ると、白い車体のあちこちの塗装が剥げていて、錆びのついた車体が痛々しく見える。塗装の事なら、藤野さんに相談するのがよいのではないかと誠は思った。


「だから、誠さんが決めた事ならば全く嫌な気持ちになりません」


 半ば呆れたような表情を見せながらも、テツガク君は白い歯を見せて笑った。このような人であるから、テツガク君は優しい人なのだ。


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