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2.

 食堂みらく。岩手県八幡(はちまん)(たい)市の小さな食堂で、居酒屋を兼ねており、夜になれば近所の常連たちがちらちらと訪れる。大きな赤提灯がぶら下がるガラスの引き扉を開けると、その奥にも扉がある。八幡平は積雪量が多いゆえに、雪の侵入を避けているのか、二重構造にすることで冷気を防いでいるのか、宮城出身の誠ですらわかっていない。東北人の心のようでもある。心の内を露出せず、奥底に隠す慎ましさと、恥ずかしがり屋な一面を表しているようにも見える。


 扉を開けて中に入ると、赤茶色のカウンターと厨房が左手にあり、カウンターには煮物や魚の焼きもの、揚げ物が盛大に盛られた大皿があり、右手には四人掛けのテーブルが四つ、二人掛けのテーブルが二つ、あとは十人ほどが囲んで座れそうな座敷がある。


 午後四時半、一人で四人掛けのテーブルに座り、カウンター脇の本棚から引っ張り出してきた漫画を読みながら、ずずとラーメンを啜り、時折ビールを飲む男がいた。海瀬誠である。


「あと、何か食べる?」


 そう聞くのは、みらくのご主人だ。


「じゃあ、あと二、三品ください。できればしょっぱいおつまみを」


 ざっくりとした注文だが、これがみらく独自のスタイルのようだった。初めて来た時、誠はびっくりした。頼んでもいないのに、席に着くや否や次から次へと、品物が運ばれてくる。みらくにはメニュー表がない。犬のように座って、勝手に食べ物が出てくるのを待つか、カウンターテーブルに並べられた大皿から取って食べるか、適当に食べたいものを店主に伝えて、運が良ければそれが出てくる。

 一か月ほど前、誠が初めてこの店に訪れた時、当然、誠は突然出てきた豚の角煮に対して「ずいぶんと豪華なお通しですね」と驚いた。


「いや、これはお通しじゃないよ。うちではお通しを出さないからね。お腹いっぱいになったら、もういりませんって早めに言ってね。そうでなければ、俺はじゃんじゃん作ってしまうから」


「斬新なシステムですね。では、食べたいものがある時はどうすれば」


「作れるものなら、作ってあげるよ。例えば何が食べたい」


 突然要求されると、言い出した方の誠が困ってしまった。寒いし、何か体が温まるものがいいと思った誠が、咄嗟に口から出たものが味噌ラーメンだった。


 味噌ラーメン? 何を言ってしまったのだろう。手軽にできるものではないし、出てきたとしてもインスタントじゃないか。ここまで来て、インスタントは嫌だなあ。


 咄嗟に出た自分の発言に、凍えた体の疲労感がさらに増してしまったが、予想に反し店主は快諾してくれたし、味噌ラーメンは驚くほど美味しかった。以来、誠は三日に一回は味噌ラーメンを選択しては無我夢中で啜っている始末だ。

 さて、状況は戻り、誠はいつもの如く味噌ラーメンを啜って、漫画を読み耽りながら人を待っていた。

 八幡平に来て早一か月。誠は居酒屋みらくとしての魅力に虜になっただけではなく、常連客の数人ともすっかり意気投合したのである。東北人の恥ずかしがり屋気質とはどこにいったのかなど、無粋な疑問である。

 残ったスープをちびちびと飲んでいると、最初にみらくの暖簾(のれん)をくぐって現れたのはテツガク君であった。当然テツガク君というのは愛称で、本名は誠も知らないし、言及することもない。誠の姿に気づくと、小さく会釈をして、いがぐり頭をポリポリと掻きながら誠の向かいの椅子に腰かけた。雪焼けのせいで、髭が生えたかのようにあごの部分が真っ黒である。


「もしかして、結構待ったっすか」


「まあ、夜ご飯を一食食べ終えるくらいには待ったけど」


「そすか。すいませんね。一応急いできたんすけど」


 そのようで、テツガク君はとても汗臭かった。おそらく仕事終わりに、シャワーも浴びずに駆けつけたのだろう。テツガク君は現在大学を休学中で、八幡平にあるスキー場で、ゲレンデを整備したり、リフトを動かしたりする仕事をしているのだった。大きな顔に銀縁の眼鏡が食い込んでいた。


 それで、誠とテツガク君は、ほかの人を待っている間、テツガク君の読んでいる漫画本の話になった。いじめられていた高校生の少年が、体を鍛えてボクシングを始め、自分をいじめていた奴らに復讐していく話。話していくうちにテツガク君が次第に高揚し始め、興奮からビールの泡を飛ばしながらしゃべっている。テツガク君は一度しゃべりだすとなかなか止まらない。身振り手振りを交えて臨場感満載の漫画的展開を繰り広げてゆく。


 しばらくすると、もう一人の男が来た。以降この男の名を藤野(ふじの)さんとしよう。


「わるいね。遅くなってしまった。いやあ、なかなか時間通りには進まないもんだ」


 藤野さんは塗装屋で働いている。地方整備局発注の鋼橋の工事が近くであるので、地元の塗装屋として今は繁忙期真っ只中というわけだ。歳は四十近いらしいが、誠にはそれが驚きであった。草鞋のように平たい顔に愛嬌たっぷりの細い目が、藤野さんの人柄の良さを表している。目じりの(しわ)の数は、笑顔になるたびに幸せな時間を顔に刻んだものだそうだ。もちろん藤野さん本人がそう言っているのだ。


 藤野さんはペンキで真っ黒になった手の皺を擦りながら、私の隣に腰かけた。

 働く男の手だ。ゴツゴツとしていて、一日中椅子に座ってキーをせわしなく打ち込む誠の手が貧弱に見えた。


「ジョルさんは来ていないのか」


「そうですね。来ていないですね」


「じゃあ、今夜は来ないのかもしれないな。その辺は気まぐれだから。気まぐれ大歓迎!」


 誠たちは乾杯した。

 それぞれの持ち寄った話を聞くうちに時間があっという間に過ぎて、すっかりと日もまたいでしまい、テツガク君がうとうとし始めた時点で幕引きとなった。閑散とした商店街の街灯が白く路面を映し出し、凍って鈍く光ったアスファルトの上で、誠は何度も転びそうになった。そうするたびに藤野さんは笑い「東京の人には難しいだろうな」とよちよち歩いた。ペンギンのよちよち歩きの何たるかを学べる場所、それが東北の冬の路面である。


「僕一応、出身は東北ですってば」


 藤野さんはタクシーを止めて乗り込んだ。途中まで乗るということで、テツガク君も一緒に乗り込んだ。


「そうか、仙台は雪なんて積もらないからな。じゃあ、誠君、次は明後日な」と、藤野さん。


「俺は、明日も食堂に来るかもしれないっす」と、テツガク君。

 酔っぱらったテツガク君は犬のように窓から顔を()らして、夜風(よかぜ)に涼んでいた。誠は「じゃあ、僕はいつもの時間にいるから、都合が合えば明日も。お疲れ様」と二人に手を振った。街灯が作り出す光の線路の上をゆっくりと、タクシーが進んでゆき、やがて光の粒になって夜に消えていった。



          〇



 朝日が窓から入りこみ、誠は自然と目が覚めた。民宿”白鷺(しらさぎ)”には温泉があるので、ひとまず肩までどっぷり浸かり、玉石混交の感情を含んだため息を吐き出した。そうすることで、長い仕事生活によって凝り固まった思考回路と常識がとろけて、正真正銘の人間だけが湯の中に鎮座することになるのだ。


 何度もため息を吐き出しては、やがて引き締めるべきその時の為に、誠は一時間近く湯の中で気を緩め続けた。

それから、誠は民宿の朝飯を食べた。食べながら携帯を見ると、予想はしていたが職場の上司や同期から山盛りのメールが届いていた。無論、誠の様子を気にするものではなく、お土産を催促するものでもなく、無断で休暇を取り続けている誠への辛辣な批判と、ひそかに含まれる嫉妬と怨念のメールであった。


 無断欠勤をする勇気と、首を切られても別いいやという気持ちはあるくせに、いざ批判の声を向けられると、それに対面する度胸のない誠は、そっとメールの本文を見ないように削除をするのであった。


「お客さん、いつまでいてくれても構わないんだからね」


 食堂を出る時、民宿のご主人にこう言われた。

 これは「お茶漬けでも食べはりますか」という有名な、嫌味を含有するものではなく、ただ単純に、この時期にこうも連泊してくれる客などいないものだから、儲けも出るし、どうやら話し相手がいて楽しいらしい。


「じゃあ、お言葉に甘えてもう少しいさせてくださいね」


 誠がこう言うと、ご主人は軽く踊るように足を弾ませて「明日の朝食の為に魚を仕入れねばな」と、食堂の方へと引っ込んでいった。

 何故、誠がわざわざ東京から実家のある宮城を通過し、岩手くんだりまで来たのかというと、そこに山田修一の意思があるのだと考えたからである。


 山田修一は小学校を卒業すると、家庭の事情で岩手の八幡平に引っ越した。誠とは、それからたまに手紙を送り合っていた程度で、ある年を境にぱったりと連絡が途絶えてしまった。

寮の狭い部屋で、修一のニュースを見た時、誠にはどうしても殺人という物騒な言葉と修一を結びつけることが出来なかった。誠にとって修一は優しい男で、人を傷つけるような行為を一番憎んでいた。たとえ自分が嘘つきと言われていても、正義感に溢れ、人の気持ちに敏感な少年であったからだ。

同性同名か? その可能性だってもちろんあり得る。テレビ画面に映し出された顔写真には、既に少年時代の面影はなく、言われてみればどことなくそんな風な顔つきだったかもしれない、という程度であった。でも、もしも本人であるならば、誠は修一がどんなことを考えて、人を殺したのか、その本心を知りたかった。


――あんた、まだ岩手にいるの?


 姉からメールが届いていた。誠の姉の名前を以降、海瀬舞子とする。舞子は現在、東京のアパレル会社に勤めている。アパレル会社といっても全国展開しているような大きな会社ではなく、街中の背の低いビルの一角を店舗として構えている小さな会社である。その方が、自分の好きなブランドを取り扱うよう、会社に意見を通しやすいらしい。そして舞子には野望がある。いずれは自分のブランドを立ち上げるという野望だ。ブランド名を聞いても残念ながら誠にはピンとこない。どことなく古臭いそのブランド名の響きは、誠の記憶の中のどこかに引っかかり、そしてじたばたと暴れるうちに陽炎(かげろう)のように消えてゆく。


 舞子は今でこそ、アパレル店員にふさわしい、お洒落な女性ではあるが、幼い頃は今とは違い、言うなればかなりの暴君であった。であるから、誠は自分の姉について「お前の姉ちゃん、可愛いし、お洒落だよな」と言われる度に、お腹のあたりがそわそわしてしまうのだ。


「君は幼い女の子のやんちゃついて、可愛い程度しか想像できないかもしれないけれど、事実は本当にすさまじい。例えば、いじめっ子で有名な上級生のズボンを力ずくでひっこ脱がして、ずたずたに切り裂いて教室の窓から放り投げたり、その上自家製パチンコで局部を執拗に狙ったり、あるいはオタマジャクシを入れた泥水(どろみず)を、お洒落なミルクティーだと言って無理やり口に流し込んだりする場面に遭遇したことがあるかい。僕はそんなことすら『ああ、今日の姉はとても大人しいな』と思って、にこやかに見ていられるほど、暴君と化した少女のそばで育ってここまで大きくなりました」


 誠はそう主張してしまいたいのだ。

 そんな彼女も今では他人から「お洒落で可愛い」と言わせしめるほどの変貌ぶりを発揮しているので、どうも世の中の軌道修正力にうまく乗っていたのだろうと誠は思うのであった。

とにかく、弟思いな姉がそんなメールをよこすので。


――そうだよ。とにかく岩手は素敵なところだ。


 そう、そっけなく返した。


――修一には会えたの?


――いや、残念ながらまだ会えていないし、会える気配すらない。


――そりゃそうよね。


――そもそも修一君に会うことが目的ではないのだから、そんな質問はおかしい事だ。


――あんたのやっていることがおかしなことなのよ。


 姉もまた凝り固まった常識にとらわれているのだ、と誠は無意識にそう感じていた。それと同時に自らが意固地(いこじ)になって、自身の思い出の中にとらわれているだけなのでは、とも感じ始めていた。凝り固まっていたものがほどけて、複雑な思考が流れ出ていっただけではなく、自らの体の内側すら透けて見えてきたのかもしれない。


――あまり馬鹿なことしていないで、早めに会社に復帰させてもらったらいいのに。


 続けざまに、そう連絡が来たが、誠はそれに返信しなかった。

 布団が片付けられた部屋に戻ると、窓が開いておりキンと冷えた空気が入り込んでいた。誠の体は長風呂でふかし芋のように濛々(もうもう)とゆだってしまっていたため、嫌な気分は無く、むしろ涼しくて心地よい朝霜の香りが、満腔(まんこう)の幸福を感じさせた。



          〇



 幼い頃の山田修一の話である。

 修一はその日、誠が埋めたモンシロチョウの墓地を見下ろしていた。今朝、家にいた男にワインオープナーで傷つけられた腕の付け根を、もう片方の手で押さえながらだ。家にあったでっかい絆創膏を二枚重ねて頑丈に張り付けたため、服に血こそ滲んでいなかったが、間違いなくその奥にある傷が体の表面でずくずく脈打つように動いていた。


 そんな服から隠れるところを狙わなくても、いつも長袖を着ていくのに。修一はそう考えていた。

修一が二歳の頃、特別熱い夏の日に修一の父親は交通事故で死んだ。修一は父の事をほとんど覚えていない。頭のいい人であった気もするし、運動好きの力持ちであった気もする。修一の頭の中で、亡き父の姿が絶え間なく切り替わり、浮かんでは消え、また違う人が現れ「修一、転ぶなよ」と優しく声をかける。次第に自分の父親像というものを、修一自身が組み立てていることに気づき、おもむろに寂しい気持ちが胸に滲む。


「あ、修一。早く教室に行こう」


 登校してきた舞子が、つま先で地面をつつくダンスのように上履きに履き替えている。日に焼けて肌は黒く焼け、女子の中では背丈が学校で一番高い。背が高くて力も強い。修一が幼馴染でなければ、間違いなく口を利くことなどなく過ごしただろう。


「何してたの?」


「そこの紫陽花の草むらにツチノコが居たんだ。動きが早過ぎて捕まえらなかったけど」


「まじ! 放課後捕まえに行こう」


「草むらに逃げちゃったよ。それにものすごく速いんだ。すごく臭かった。下水道みたいな匂いがしたんだ」


「あんまり臭いなら、やめとくか。うち、臭いのは嫌だしなあ。うちのパパの髭の臭いとどっちが臭いかな」


「うーん、分からないけど。たぶんいい勝負だと思うよ」


 後ろから誠が遅れて昇降口に入ってきた。「お姉ちゃん足早いね!」と興奮気味で駆け寄り、はあはあと息が上がっていた。汗で髪の毛が頬に張り付いても気にしていなさそうだった。舞子は「あんたが遅いのよ」と冷たくあしらい、さっさと教室に向かう。誠は急いで靴を履き替え、舞子の手を後ろから追いかけて握ろうとするとき、修一に「おはよう!」と笑いかけた。当然、修一も「おはよ!」と返す。


 二年生の教室は南校舎の一階にあり、四年生のクラスは別校舎の二階にある。別校舎なのは四年生だけなので、皆不満の声を漏らすが、内心は四年生だけの特別感を味わうことでまんざらでもないのである。


「いいよ。毎日、クラスまで送ってくれなくても」


 誠は少し恥ずかしそうに言う。


「あんたがクラスの子に、からかわれないか見てあげるの」


「からかわれてたらどうするの?」


「窓を全部割って、机を全部放り出すわ。その場にいる子も全員叩きだす」


「ほら、物騒じゃないか。からかわれた方がましだと僕は思ってしまうよ」


「じゃあ、あんた自身が強くなりなさいよ。やられたらやり返すのよ」


「無理だよ」


 誠はへらへらと笑う。実際、舞子が一緒に行くことで、教室は水を打ったように静かになり、緊張が走っているのが見てわかる。誰もが「あの怪物を怒らせてはいけない」と、一様に口を真一文字に結び、窓の外の遠くの景色を見たりする。ああ、今日も(おう)()山脈(さんみゃく)の峰が青々と映えているなあ、といった具合に、不自然なほど皆がそろって雄大な山を眺めだすのだ。


「修一君、今日夜ご飯食べにおいでよ。お母さんが言ってた」


 修一たちが自分たちの教室に向かおうとすると、思い出したように誠は修一に声をかけた。

この頃の誠の両親は事あるごとに、修一を夜ご飯へと誘うのだった。修一にはそれが、単純な親切心からくる遊びのお誘いだと思っているが、実際には修一の家庭環境を鑑みて、こまめに声をかけるようにしていた誠の両親の計らいだった。そんな日には、修一の母親も不思議と優しくなるものだった。厄介払いができるからだろうか、いや、父親の暴力から我が子を守れるという安心からくる優しさであった。

そのような複雑で(いびつ)な思いやりのやり取りを、誠たちは知るはずもない。それに、気づくのは修一が引っ越して、連絡が途絶えた頃である。それを知った時、これまで見てきた景色が一変してしまうような衝撃を二人が受けたことは言うまでもない。


 そうして、舞子と修一は自分たちのクラスへと入った。

 昨今(さっこん)四年生界隈(かいわい)では将棋が空前のブームとなっていた。と言っても当然、四年生全員が将棋好きというわけではないが、教室を見渡せば、あっちで盤を囲い、こっちでも盤を囲い。対局している者と、それを傍観する者が二、三人ほどの輪を作っていた。

 運動好きの者、中で遊ぶのが好きな者、と言うように二極化してしまうと思いきやそうでもない。ドッチボールが得意で有名な彼でも将棋にはまり、今ではクラスの中でも強い方であったり、いつも可愛い文房具を見せびらかしている彼女も、クラスの女流棋士会の中では断トツであったりする。


 この将棋ブームの火付け役になったのが何を隠そう修一なのだ。


 口は達者だが運動はからきしで、体つきも細く背だけがひょろひょろと長い。皆、修一を度々「嘘つきだ」と言い、嫌厭(けんえん)して近づこうとしなかった。唯一、修一と仲良くしているのは暴君で名をはせている舞子だという点においても、皆から距離を置かれている原因の一つかもしれない。


 修一の名前と顔写真が市内の雑誌に掲載された時は(みな)驚いた。なんと、大人も参加する市開催の将棋大会で優勝したのだ。全校集会では校長先生から表彰状を受け取り、修一は一躍有名人となった。


「僕の父親は将棋名人だったんだ。だから僕もその血を受け継いでいるせいで、相手がどこを守って何で攻めてくるのかが分かるのさ」


 当然、そんなものはいつもの修一の嘘だと、皆が分かっている。だからまともには受け取らない。

その当時は、修一に一戦挑みに来る児童もいたが、今となってはほとんどいない。対局中に嘘か本当かもわからぬ話をべらべらとしゃべり、挙句の果てには本当に強く、誰も勝てやしない。饒舌な強者というのはどこか嫌味ったらしいもので、人から嫌われるのが世の常なのである。まさしく定石通り、修一に挑む児童の数は次第に減ってゆき、前と変わらずに修一は一人教室の机で詰将棋の本を黙々と読むほかなくなったのである。


 そうして修一は孤独に戻った。


 修一が体をあざだらけにして登校したり、何日も食べていない野良犬のようにやせ細っていたりしていても教師を含め、学校にいる者は修一の事を空気と同じように、そこにただいる者として扱っていた。触らぬ神にたたりは無いように、複雑な家庭環境にいる修一に触れなければ、大きな面倒ごとに関わることもないだろうと、誰もが思っていたに違いない。

舞子と誠を除いては。

修一自身もそうしてくれて一向にかまわないとすら思っていた。自分の置かれている環境が、特別なものだと自覚していたからだ。


「痛い痛い」


 試しに修一は腕の付け根の傷を押さえて、わざと声に出して痛がってみた。しかし、誰もそれに応じようとする者はいない。一人ぽつんと無人島に取り残された放浪者のように(うずくま)っていた。本当にずくずくと痛む腕の傷を押さえて、ああ、よかった、と修一は心の底から安心した。



          〇



「その修一君てのは両親に虐待を受けていたんだな」


 藤野さんは言った。今日も爪に黒い塗料をたっぷり付着させて、仕事終わりのごつい男の指に頼りないほど短い煙草を挟んで、顔を酒で赤らめている。


「両親というか、父親にだと思います。当時の僕は気づかなかったけど、今思えば夏でもずっと肌が隠れる服を着ていたのも、そのせいだったのかも」


「犬猫ですら自分の子供を大切に育てるってのに、人間はどこで成長を間違えたんすかね」


 テツガク君の顔は既に赤くなる段階を通り越して、真っ青になっている。これは、彼が言うには覚醒段階の手前なのだそうだ。ひどく気持ち悪く、そうして眠気が最高潮まで達した時に彼は顔が真っ青になるらしい。だから、今彼はほとんど眠っていて、意識の外側で声を発している。

 現に「犬猫ですら……」と発した後、テツガク君はワインの入ったデカンタを大事そうに抱えるようにして眠ってしまった。熊のような彼がデカンタを抱えていると、その姿は、はちみつを愛してやまない赤い服を着た黄色い熊そのもののように見える。


「テツガク君は下戸(げこ)のくせに飲みたがるものねえ」


 ジョルさんが自分の上着をテツガク君の肩にかけた。ジョルさんというのは御年(おんとし)六十歳の女性であるが、年齢に伴わない若々しい見た目をしている。みらくに来るのはいつも気まぐれで、たまに厨房で料理の手伝いなんかもしているのを見たことがある。

 八幡平に来て、誠にとっての一番の収穫はジョルさんと親しくなったことだ。ジョルさんには息子がいて、その息子が修一と同級生だったのだという。


「でも、それほど親しくはなかったのよね。だから、修一君が今、どこで何しているかなんてわからないわ」


 ジョルさんはそう言っていた。真っ赤な口紅でワインをぐいぐいと飲むジョルさんは人の生き血で勢力をたくわえる吸血鬼(きゅうけつき)のようだったが、それは本人には言わない。

ジョルさんは容姿に対する嘘や冗談を心から嫌う。軽々しく、彼女の妖艶さを冗談交じりで話してしまうと、そのするどい爪で頬をひっかかれてしまうからだ。何を隠そう、藤野さんの頬にある一本の傷跡が、その爪の鋭さを巧みに掲示しているのだ。


「実は昨日、修一君のお母さんに会いました」


 店に入り、皆がそろってから一時間が経過していた。遂に誠が今日の成果を話し始めた。

集まれば、大皿の料理をつつき合い、互いの本日の話題をつつき合い、酒飲みも下戸も互いのしくじりやら武勇伝やらを、冗談と少しの誇張を交えて面白おかしく話すので、一向に宵は耽るばかりである。実りある話などほとんどない。それは誠の岩手に来た目的も含めてだ。


「おお! ついに本格的に動き出したか」


「いやいや、一応ここへ来た時からずいぶんと本格的に動いてはいるんですよ」


「嘘つけ、毎日温泉に入ってはラーメンとビールを飲んでばかりだろう。隠居した爺さんみたいに人生を謳歌しているな」


「これでも日中は動いているんですよ。例の事件の犯人についてニュースを見たり、ネットで調べたり」


「民宿の部屋で缶ビール片手にテレビを観て、スマホを(いじ)っているだけじゃないのか。感心せんなあ、働き盛りの若者がその(てい)たらくでは」


 藤野さんはゴマのように散らばった(あご)(ひげ)をジョリジョリと掻きながら、誠を楽しそうに攻めるのが趣味なのだ。誠の勤務している製鉄所で出荷された構造物が現場に入り、今、藤野さんがペンキを塗っている。藤野さんの作業着から香る塗料の匂いに紛れて、ほのかに紛れる鉄の懐かしい気配が、誠の職場を思い出させることは度々あった。


「まあ、いいじゃない」


 ジョルさんが面白がっていじめる藤野さんを制する。藤野さんが動くたびにラベンダーの香りが素早く届く。電子タバコを、ストロー付きの紙パックを吸うようにきゅうっと吸い、口から淡い煙を吐く。


「なんだかんだ、藤野君も誠君みたいな生活に少なからず憧れているのでしょう。それは嫉妬というものよ」


「そうですよ。これはまさしく嫉妬ですよ。いいなあ、俺も朝風呂で温泉に浸かりてえよ」


「それで、山田さんはお元気だったの? 話は出来た?」


 順調に逸れて言った話の軸を、ジョルさんは丁寧に戻す。


「それが、話はしていないんです。僕の事もたぶん覚えていないので。それになんだかやつれているように見えて、とても声なんか掛けられませんでした」


「そう、残念ね」


 本当は声をかけようとした。

 八幡平駅からバスに乗り、三十分ほど揺られて閑散とした街に入ると、山裾までずうっと広がる田んぼと道路を隔てて住宅街となっており、そこに小さな業務スーパーがある。看板もすっかり色あせた業務スーパーだが、中に入ると意外に広く、清潔感漂う立派な施設だった。人もそれなりに多く、この周辺の住民の食料を、このスーパーが牛耳っているのだと推測できた。だから当然、山田修一の母親もここに買い物に来るのだろうと考えた。

 誠は八幡平に来てから何度かそこへ足を運んでいた。この近くに修一の母が住んでいるという情報を、ジョルさんから聞き出していたからであった。


「もっと具体的に、住所とか教えていただけないですか」ある日、誠はジョルさんにそう言ったが「だめよ、あくまで個人情報だもの」と言われてしまった。ジョルさんは誠を酷く焦らす。この周辺に住んでいるという情報を聞き出すのも、誠には一苦労であった。おそらく、まだ修一に関する情報の大部分を、ひた隠しているのではないだろうかと誠は睨んでいる。


 そうしてようやく今日、誠は修一の母の姿を見つけることが出来た。

最初は誰か分からなかった。うっすらと記憶の輪郭をなぞるように、その顔が浮かび上がり、目の前の女性がそうだと認識できたのは、見つけてから十分ほど経過した時だった。

見覚えのあるその女性は、鮮魚コーナーで安く売っていたタラの切り身を手に取り、値段を見て商品を吟味しているところであった。

酷くやつれているような気がした。それが歳で増えた皺のせいなのか、昨今の心労のせいなのか定かではなかったが、とにかく最初は誰か分からぬほどであった。白髪(しらが)交じりの髪の毛はコスモスの茎のように弱々しく毛羽立(けばだ)っており、目の下には段々になった(くま)で覆われていた。


 誠は声をかけようと近づいて、正面から向かっていった。あわよくば向こうから声をかけてはくれないかと、顔を上げて真っすぐその女性を見据えて歩いた。女性は切り身を置き、次の獲物を探るようにあたりを見渡した。そうして、誠と目が合った。


 誠は自分に気が付いたものだと思い、「ああ、どうも、お久しぶりです」の声を発しようとしたが、女性は特に誠を気にしていないように、すっと目を背けたのだった。


 他愛もない話がしたいと、目を覚ましたテツガク君が言った。世の中、ひとたびニュースを見れば物騒な話が蔓延(はびこ)り、ニュースを消しても自堕落な半学生の生活に憂鬱になるだけだと。最近ではテレビを消した時に映る自分の顔が情けなくなり、苛立ちすら湧いてくると。


「そんな、卑下することは無いだろう」


 と、優しく藤野さんが宥めてもテツガク君は眉間に皺を寄せて、泣きそうにも怒り出しそうにも見える表情をする。今にも俺の何が分かるんですか! と言いだしそうな顔である。大学に入学して二年ほどだが、何を目的として入学し、何を考えてテツガク君が休学して山に籠っているのか、誠を含めここにいるメンバーは深入りすることなどしない。もちろん本人が進んで語れば別だが、そうすることは今まで無かった。


「俺の何が分かるんすか……」


 ほら言った。

 眠りから目覚め、覚醒したテツガク君は大変饒舌になる。抱え込んでいたデカンタのワインをそのまま口に運びずるずると啜った。


「特に夢もないまま大学に入ったので、とにかく俺は怖かった」


「将来の不安か」と藤野さんは尋ねた。


「未来に対する不安というよりかは、むしろその時の不安っす」そうテツガク君は答えた。


「周りの人間が恐ろしかった。自分みたいな人間がたくさんいる気がして、自分の愚かさを見せられているような気がしました」


 みらくのご主人が厨房の奥から、水の入ったコップを運んできて、それをテツガク君の前に置いた。水滴の滴るコップの縁を指でなぞったかと思うと、おもむろにテツガク君は一気に飲み干してしまった。鯨飲とは読んで字の如くである。


「このまま、何の目標もなく高い学費ばかりを垂れ流して生活するのかと思うと、とてもそこに居続けることが出来なくなりました」


「じゃあ、ほんとに短い期間しか通ってなかったのか」


「実質、通っていたのは半年くらいでさっさと逃げました」


「逃げたのか」


「戦略的撤退っす」


 もし、大学に通い続けていたら、テツガク君はもっと違ったテツガク君になっていただろう。例えば、そこに親しい友が出来て、同じ悩みを抱え続ける者同士で慰め合っていたりするのかもしれない。あるいは、テツガク君をも包み込む包容力を有した女性と共に、雪山とは縁がない人生を送っていたかもしれない。


 誠は誰の人生にも深入りしない。

 それは信念のようなものではないが、無理やり誰かの人生の殻を破って中を覗いては文句を垂れるような、えげつない行いをしたりはしない。誰かの人生を本気で諭すほど、自分の人生に自信がないのと同様に、誠自身が自問自答ばかりである。


「杞憂だから」


 そう誠は言葉をこぼしたが、誰の耳にも届くことなくテーブルの隅に落ちて消えて行った。


「常に目標を掲げるなんて、なかなか難しい事なのかもしれない」


今度は皆に聞こえるように、誠は言った。


「とかいう僕も、学生の頃は別に製鉄所で働くことが目標ではなかったんだけど、さらに言えば、会社に無断で休み続けては、温泉に入って酒を飲むことを目指していたわけではないんだけど」


「私も年を取ることを目標にしてきたわけじゃないわね」


 ジョルさんが自分の手のひらを見ながら言う。


「俺は塗装屋になるのがある程度目標ではあったけど」


 藤野さんが手に付着した黒色の塗装を、指先で弄りながら言う。

 しかし、それならば何故、テツガク君はわざわざ八幡平の雪山で仕事しているのか。テツガク君の目指す先が深い山中にあるというわけではあるまい。海外のサンデーボーダーよろしく優雅にウィンタースポーツを嗜んでいるわけでもあるまい。テリエ・ハーコンセンに憧れた青年たちが、自由な遊びを主張する中で、テツガク君は誰よりも孤独に悩んでいるのかもしれない。


「誠君もここでずっと暮らしてしまえばいいのに」


 ジョルさんが言った。


「僕はここで暮らしてゆけるほど、お金にゆとりがないのです」


「あら大変なのね」


「僕は大変です」


「テツガク君も誠君も、若者はいつも大変そうね」


ジョルさんは時折、誠とテツガク君を若者という一括りでとらえる節がある。


「確かに大変っす。何故ならば、この若い時間を如何(いか)に充実させるかで迷い続けているからです」


 テツガク君は大きく頷く。誠も焼いた蒲鉾を頬張りながら頷く。


「でも、俺と誠さんは違います。誠さんの悩みは、俺に言わせれば贅沢っす。もう仕事もあって、普通に仕事していけば厚生年金だって貰えるじゃないすか。将来安泰すよ。誠さんは、修一さんの、いわゆる旧友の心変わりの理由を知りたいのでしょうけど、人なんて何年も経てば変わるんすよ。知ってますか? 人の細胞は一日で何十兆個も入れ替わっているんすよ。脳だけで言っても一年ほどですべて入れ替わるらしいっす。それって、もう他人すよね」


 テツガク君は一度、デカンタに入ったワインをグイっと喉を鳴らして飲み込み、また続ける。


「こんな辺鄙(へんぴ)な場所に来てもしょうがないのだから、早く職場に戻ってあくせく働いた方が実りある人生になるのでは」


 厨房では主人がせわしなく動いている。客は誠たちを含めて三組ほどしかいないが、一人で酒を準備したり料理をふるまったり、店中を跋扈し巧みな店回しを披露している。忙中(ぼうちゅう)(かん)有りで、たまに空いている椅子にもたれかかり、ぷかぷかと煙草をふかすが、急に思い立ったように煙草の火を消して厨房へと引っ込む。そうして、しばらくすると小さい鍋を鍋掴みで運んできた。


「そう言えば、セリが手に入ったから煮込んでみた」と、ご主人が言う。


「セリ鍋か。む、セリしか入ってないじゃないか、肉は無いのか」と藤野さん。


「セリに一番合うのはセリに決まっているだろ。だから必然的にセリだけの鍋になる」


 ご主人は誠たちのテーブルにそう言い残して、さっさと厨房に引っ込んでいった。

 店の真ん中には、煙突が天井を突き抜けている大きな石油ストーブがあり、その上に大きなやかんが置いてある。丸々としたフォルムに斜めに突き出した口から、ふわっふわっとリズムよく湯気を吹いている。店内を照らす橙色の照明が、やかんから噴き出る湯気に滲んで淡く薄く伸びる。


「まだ、犯人が、誠さんの知る修一さん本人じゃないと、本当に思っているんですか?」


 銀縁メガネがきらりと光る。両肘をテーブルにつき、口元で指を組む姿は、何かのキャラクターの模倣であろうか。眼鏡のガラスの部分が光り、目の奥の表情が見えないため、なにか重要な言葉を発しようとしているかのように見えた。実際はセリ鍋の湯気のせいで眼鏡が曇っているだけなので、雰囲気だけが空回りしているようでとても残念だ。

「テツガク君」とジョルさんが鋭く声で制する。

テツガク君は少しむっとするが、すぐに表情が元に戻り、また続ける。悪戯が見つかった子供のように、歯を見せてにかっと笑う。


「まあ、俺が言いたいのは、人の心が変わってしまうのは必然の事で、それを(さぐ)るなんてのは、ナンセンスだということっす」


「確かになあ」と誠が頷くと、「怒ってもいいんだぜ」と藤野さんが横から囁いた。


「あまり誠君をいじめるのは良くないぜ。人のやることにナンセンスだとか、意味がないだとか」


 ゴマのように散らばった顎髭を左手でジョリジョリと弄り、悲しそうな視線をテツガク君に向ける。

人を見下したように話すのは、テツガク君が酔った時によくやるレトリックの一つで、大抵の人は藤野さんのように彼の態度を指摘しようとする。が、それは根本的な策中にはまってしまう悪手なのだ。このような場合、誠はいつもへらへらとごまかす。暖簾に腕押し戦法で、そもそも話をゆらりとかわすのが得策だと考えているのだ。


「なんだかんだ、結構他愛ある(・・・・)話になってしまっているわ」


 ジョルさんが笑って指摘した。先生に喧嘩を仲裁された生徒のようにはっとした顔になり、テツガク君は手に持っていたデカンタを静かにテーブルに置いた。


「そうでした。他愛もない話をしようとすればするほど、パラドックスの中に迷い込んでしまいました」


「そうよ。他愛ない話っていうのは、例えば『セリは春の七草だけど、みんな七草全部言える?』とか、『鍋の主役は肉だ、と言っているのはまだまだ若いけど、いや(きのこ)だ、と言っている人間は信用できない』とかそういうことよ」


「鍋の主役は白滝であると相場は決まってるっす」


「それは奇をてらい過ぎじゃねえか」


「何を言うんすか。あの口の中で踊るような、はじけるような触感。さながら鍋会のヒップホップ担当大臣でしょう」


「そうよ、その調子よ。今、最高に他愛ないわ」

 この調子で八幡平の夜は今日も更けてゆく。

          〇


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