1.
深夜時間による割引で、たまたま安くなっていたメンマのラー油漬けと発泡酒をぶら下げて、パソコンに向かう姿勢のまま独身寮の階段を上る男がいる。
彼の名を仮に海瀬誠としよう。誠の部屋は独身寮の五階にある。築二十年の古びた独身寮には、建設当時、想像力の欠如した誰かが「螺旋階段なんかお洒落じゃないか。若い学生が入社すること間違いなしだ。わはは」と、安易な考えで設置した螺旋階段しかないので、べったべったと仕事で疲弊した重い足をならし、寮を設計した者への苛立ちを抱えながらぐるぐると上るほかない。
誠は平和を愛しつつも、彼自身はいまいち平和には愛されない男で、今日も仕事にこっぴどく叩きのめされ、製鉄工場で染みついた鉄の臭いを肩に乗せて帰宅したところだった。
テレビをつけると、十二時のニュースの女性アナウンサーが屈託ない笑顔で優しく誠を迎える。「こんばんは」と言う彼女に対し、当然誠も「はい、こんばんは」と返すのだ。六畳一間の部屋には支給品の勉強机と敷布団しかない。ほとんど寮と職場を往復するだけなので、これからも何か新しい家具を仕入れるつもりはない。書類をまとめるクリアケースが三つ床に重なり、机の上のガラス棚には仕事で使う本や書類を並べている。人一人分の生活に関わる情報など、これっぽっちで済むのだと一人暮らしをしてから初めて知った。
誠は発泡酒を開けて、テレビ奥で微笑むアナウンサーと机のガラス棚に飾ってある仮面ライダーの人形に「お疲れ様でーす」と乾杯して、一息で缶のほとんどを飲み込んだ。
誠は一日一日を全力で生きる男であるから、胸を張って寮まで凱旋するし、胸を張って発泡酒を飲む。テレビの向こうの彼女や、机上の仮面ライダーは拍手こそしないまでも、なんとなく優しい顔つきで誠を迎えてくれているような気がするのだ。
「東北地方では、例年よりも早い冬の到来となりそうです――」
「そうですか。実家の方はもう寒いのですか」
うんうん頷きながらメンマを噛む誠である。二本目の発泡酒も開けてじるじる啜る。出身地の宮城蔵王を思いながら、初冠雪はいつになるのだろうかと胸を躍らせていた。
そういえば姉は正月帰るのだろうか。旦那さんを連れてくるのだろうか。姉は好きだけど、あの旦那さんは妙に気さくでちょっと苦手だなあ。肩に手なんか回されて、「どうだい、うまい日本酒買ってきたから一杯飲もうや」なんて声さえかけてきそうだな。
ご立派な商社に勤めて毎日温かい一軒家と幼い娘、それに大型犬が待っている彼に、人生の豊かさを滔々(とうとう)と語られるなど、毎年のことながらまっぴら御免被る。
誠は想像するだけで、次第に憂鬱になってしまった。
布団を敷いてナマズのように這いつくばった。寝ころびながら作業着と靴下を脱いで、パンツのみまとっていると、布団の冷たいところが火照った体に心地よかった。
今日も疲れたし、明日も必然的に疲れる。そうして明日のこの時間には、またナマズのように這いつくばっていることだろうと思った。螺旋階段を上っている時のように、ぐるぐると同じことを繰り返してゆくだけだ。誠はそれが嫌いではなかった。むしろ、そのような平坦でも実りのある生活に、充実感を見出していると言っても過言ではない。世を跋扈し、世界を塗り替えるような生き方など、想像するだけで地に足がつかずに、どこかへふらふら飛んで行ってしまいそうである。
次第に誠は眠くなってきた。歯も磨かず、風呂も入らずして、布団の上で不本意にも、うとうととしてきたのだ。落ちる瞼にはあらがえず、静かな微睡みの中でテレビの音だけがやけに鮮明に聞こえてきた。
「速報が入りました。先日、千葉県千葉市で起きた殺人の容疑者が逃走しました。容疑者の名前は山田修一。逃亡のルートは分かっておらず、警察が捜査を続けています。犯人は逃走の際、警官から銃を奪っています。情報が入りましたら引き続きお伝えします――」
〇
ポケット中で手をもぞもぞと動かしていた。茶色の短パンに半袖のシャツを着た誠は、歯を食いしばりながら時間が過ぎるのをじっと待っていた。右へ左へ目をきょろきょろと動かしながら、校舎の裏、図書室の脇にある渡り廊下で、大きな紫陽花がもこもこと膨らんでいるのを横目に見ていた。
大丈夫、僕は悪い事をしてない。こいつらがおかしいんだ。
さっきまで日陰で冷えたコンクリートの壁から背中に涼しさが伝わってきていたが、もう何分も背中をつけていると嫌な生暖かさしか伝わってこない。
「いいから早く手を出せよ。証拠を見せればいいんだって言ってんだろ」
「いじめてるみたいじゃないかよ」
仮に彼らを大山君と小山君としよう。大山君はその名の通り大きな体をしているし、小山君もその名に恥じぬ背の小ささ、でも体は太い。太く短く生きているということだと思う。小学二年生の誠にとって五年生の彼らはとても大きい存在だ。ここで言う大きいというのは見た目だけでなく、人間的な能力の差が大きいという意味だ。言わずもがな。
「僕はお金なんて持ってきてないよ。持ってきちゃだめだってことも知っているし」
誠の声はわずかに震えていた。怖くないのに、誠は自分の主張を言葉に出そうとすると何故か泣きそうになってしまうのだ。
「だから、ポケットの中を見せろよ。証拠見せればいいじゃねえか」
「持ってきていても先生には黙っておいてやるよ」
大山がしゃべると、小山もしゃべる。言葉を真似する人形が家にあったなそういえば、と誠はふとどうでもいい事を思い出していた。姉が友達から貰ってきたもので、何でもかんでもオウム返しにしてくるので、誠はその人形が鬱陶しくてしょうがなかった。
「ポケットの中は見せない。君たちに見せてもしょうがないものだから」
「生意気だな。俺たちは年上なんだぞ」
「生意気だなこいつ」
「僕には僕の主張があるから、それを言っただけだ。生意気じゃない。こう見えても家では聞き分けのいい子だと言われるし、確かに先生たちには、生意気と言われることもあるけど……」
「なんかぶつぶつ言ってら」
「殴っちゃおうか、教育だよこれは」
早く時間が過ぎてはくれないか。そうすればこの人たちも諦めてくれるだろう、と思っているがなかなか時間というのは都合よく過ぎてはくれないものだ。であれば、いっそのことポケットの中を見せて、さっさと無罪を証明すればいいのだと思うのかもしれないが、もはやそういった問題ではないことは誠も知っている。
この人たちにとって、もはやポケットの中身などはどうでもよくて、自分の言うことを聞かない誠に対してどうしてやろうかということだけがこの空間に充満している。いや、実はさっきから細かく小突かれているのだ。「おい、聞いてんのか」でパシン。「早くしろよ」でこつん。さあ、次はバチンか、もしくはゴツンか。
誠はむしろこういう場面で「でも、僕は悪くない」といっそう意志が固くなり、まるで引っ込んだ貝のように押し黙る節がある。
どうやら彼ら大小の山は、一度小突いてしまえば、繰り出す暴力に歯止めがきかなくなるようで、しばらく誠の頭や頬を殴ったり平手打ちしたりで忙しかった。誠は必死に耐えていた。もちろん誠にもやり返してやりたいという思想はあった。そうしなかった理由は、単に誠が非暴力主義であるというわけではなく、やり返してもその倍で返され、またやり返してもその倍で……、という指数関数的な暴力の連鎖を避けるためであった。そして、そうなってしまえば非力な誠に勝ち目などあるはずがない。
ああ、僕は無力だ。僕にも姉ほどの度胸と筋肉があれば、ある程度の反抗が出来るのに。
そう思った時だった。
「いや、先輩方。これは危ないですよ。それ以上殴ってしまうと暴力罪で捕まりますよ。弁護士である僕の父が言っていましたので間違いありません。それに、弁護士の息子である僕も見逃せなくなってしまいます。それは、避けたいでしょう。今ならまだ間に合うから、さっさと逃げてしまいましょう」
そう言って現れたのは、誠の近所に住む小学四年生の山田修一という少年だった。青い長袖のシャツに黒い長ズボンを履いていた。ひょろひょろと細くて、背が高いので、誠は度々カマキリみたいな人だなあ、と思っていたのである。
突然、妙な少年が入って来たので大山と小山は警戒して、訝し気に修一を見上げていた。大山が口を開けて何か言おうとする。しかし、修一は大山の言葉の出鼻を挫くかのように再びしゃべり始めた。
「とにかく、この子供には俺から厳しく言っておきましょう。なんせ先輩に対する言葉遣いも分からないようですから。気分、悪くなりますよね。それから、これは内緒の話なんですが弁護士の家族は暴力罪で捕まらないんですよ。ほら、うまく隠ぺい工作できるみたいで。だから、ね、俺の方からあと二、三発やっときますよ」
流暢にしゃべりながら、修一は目の前の空気をビシビシと平手打ちするような動作を見せた。大山と小山が何か話そうとすると、それよりも先に修一が話し始める。軽佻浮薄な言葉の羅列を並べる姿は、軽やかなフットワークとジャブで相手の初動をしとめるボクサーのようであった。
二つの山は去って行った。決して誠のだんまりに根負けしたわけでもなく、修一の話術に納得したわけでもない。ぺらぺらとしゃべる修一の尻に大山が蹴りを入れて「気持ちわりい嘘つき野郎」と吐き捨てて、去ってしまった。
「行ってしまったな、見事に。俺たちの勝利だな」
「でも蹴られちゃたよ。大丈夫?」
「全く問題ない。それよりも、マコ君の事を嘘つき呼ばわりするのは許せないな」
「たぶん僕じゃなくて、修一君のことを言ってたんだと思うよ」
「そうか、俺の事を言っていたのか。じゃあ許してあげるか」
「許してあげるんだ」
「許してあげましょうよ」
修一はそう言ってくしゃっと笑った。
誠はポケットから緑色の小さな石のようなものを取り出した。
そして、紫陽花の咲く花壇に手で穴を掘り、そこに置くとじいっとそれを眺めた。紫陽花の葉を一つちぎり、葉先でちょいちょいと突くと、ゆっくりと柔らかい土をかけて埋めた。
それはモンシロチョウの蛹だった。
ところどころ黒くなり、かつて生き物だったそれには、既に生命の気配がなかった。
図書室で借りた本に、モンシロチョウの観察について書かれていた。ほかにもたくさんの虫の観察の仕方があったが、誠はモンシロチョウが一番手軽にできるから選んだ。本当は蟻やクワガタムシ、あるいはもっと本格的にやるのであればヤゴなどに手を付けたかったが、教室の片隅でそれをやるには目立ち過ぎるし、なんせ臭い等の懸念もあるのだ。
校庭の隅っこの草むらでモンシロチョウが葉にお尻をつけているのを見つけると、やがて卵を産んだ、それを植物ごと引っこ抜いて大きい虫かごに入れていた。
ほとんどの卵たちは無事に成長して空へと飛び立っていったが、末っ子の甘えん坊だった幼虫だけ、いつまでも誠の脛を齧り、葉を齧り、いつまでたっても実家から出て行かない人間の子のようだった。ここで仮にこの子の名前を八郎としよう。
「さよなら八郎。手のかかる子だったけど、僕は君を我が子のように愛していたよ」
「それをポケットに入れていたのか。本当にお金持ってなかったんなら正直にそういえばよかったんじゃないか」
「乱暴な人は嫌なんだ。僕のクラスに似たような子がいるんだけど、蛹のまま死んでしまった八郎を見て『解体してみようぜ』なんて言ってた。本気で観察するのなら必要なことだろって」
彼らの言い分も理解できないわけじゃないけど、誠は興味本位で行われる残酷な行為を、無理やり正当化する言い分に辟易していた。そもそも誠が始めた観察に最後の最期で割り込んできておいて、さあ、本来の目的の為にかわいそうだけど分解してみようだなんて、おこがましいとは思わないのだろうか。
「よかったな、舞子が来なくて。来ていたら大騒ぎになっていたもんな。ぼこぼこに殴っちゃったりしてさ。あとで親から苦情の電話が来ていたかもな」
「お姉ちゃんは最後の親分だからね。僕たちは三匹のがらがらどんだ」
誠は修一を自分の兄のように慕っていたし、おそらく修一もまんざらではなく、誠の事を可愛がっていた。だからどんな時も、誠は舞子か修一が助けに来てくれると思っているし、何かとてつもない不安に襲われた時は二人を存分に頼ることにしていた。何があっても、二人ならば自分の事を見捨てることはしない、という確固たる自信が、誠にはあった。
だからこれからも、誠がそのような不安で寂しい状況に陥った時は、すぐに舞子か修一のどちらかに頼ることになるだろう。その時にはこのように切り出すと思う。
「ちょっと、最近疲れてしまうようなことがあって」
そうすれば、舞子か修一はこう答えてくれるはずである。
「よし、三人で作戦会議しよう」