第6話.私の夫は、人間でした。Ⅱ
息を切らしながら必死に森を走る。
もう二度と、彼は泉にはやって来ないだろう。
それで良い。当然の帰結だ。私は彼に失礼なことを言ったのだから。
それに、ここは人間が軽い気持ちで踏み入っていいような場所ではない。
それなのに、私の胸はどうしてこんなにも――空っぽなのだろう?
泉に辿り着いた私は、しばらく肩で息をしていたが……すぐに顔を上げる羽目になった。
「ああっ。居た、エルティーリア!」
むやみに明るい調子の聞き覚えのある声が聞こえてきて、驚いて顔を持ち上げる。
すると目の前には、森の中で転びでもしたのか、ひどく汚れた格好をした彼が息せき切って駆け寄ってきていた。
夢か幻か、とも思う。こんなにタイミング良く会えるなんて。
「久しぶり、ようやく会えたね。もう会えないんじゃないかと思ってた」
だけど、どうやら違ったらしい。
もしかして私が居ない間、ずっと彼はここに来ていた?
その理由は分からないままだ。分からないけれど……私はもう少し、彼のことが聞きたくなって問うた。
「どうしてまた、ここに来たの?」
「露店で見つけたんだ。どうしても君にプレゼントしたくて」
そう言って彼の差し出す片手には――小さなエメラルドの宝石があしらわれた、首飾りが載せられていた。
私は目を見開いてそれを見つめる。すると彼は笑って、
「この前、ふと思ったんだ。なにか君に似合うプレゼントをしたいなって」
「プレゼントって……私、アナタに何もしてないけれど」
「そんなことはないよ。初めて会ったときも、親切に道を案内してくれたじゃないか」
「……ハァ?」
「それにこの宝石、どことなく君の瞳に色合いが似ていると思ってさ」
……何言ってるの、この人。
私は呆れかえりそうになった。
私は嫌々、帰り道を示してやっただけだ。親切心も何もないし、そもそもこの男が変なことを言って脅してくるから、渋々と先導してあげただけなのに。
しかも「この前、ふと思った」ということは、もしかしてあの日慌てて帰り出したのは、それが理由だったんだろうか。
私に図星を突かれたからじゃなく……単純に私の目を至近距離で見つめて、それで贈り物をしようと思い立ったと。
なんて馬鹿げた話だろう、と私は溜め息を吐く。
でも。
でも――、一番おかしいのは彼じゃない。私だ。
この人間が来ると分かっているなら、泉に足を運ぶ必要はない。
とっとと長老に言いつけて、結界を強化してもらえば良かったのだ。
そうすれば私は、もう二度と彼には会わずに済んだはずだった。
……それなのに私は、何度もここに来た。
ほんの少しの期待を抱いて、でも毎日行くと変に思われそうだから、なるべく自然な頃合いを見計らって泉にやって来て……そして、偶然を装って彼と話をした。
そんなのが、いつの間にか私の日常になっていたらしい。私自身も気づかない間に。
「それであの――う、受け取ってくれる?」
台詞を噛みながら、彼は私にプレゼントだという品を差し出してくる。
私はしばらく、彼の赤い顔と、その手のひらの上を交互に見つめた。
それからボソッと言ってやる。
「…………ばか」
「えっ!?」
彼のショックを受けた顔が面白くて、私はあははと声を上げて笑った。
そんな風に笑ったのは生まれて初めてのことだった。でも不思議と、涙が出ても一向に止まらない。
笑われた彼は、何だか居心地悪そうな顔つきをしていたが、笑われている間にだんだんとニヤニヤとおかしな笑いを浮かべるようになっていた。
「何よその笑い。気持ち悪い」
「いや、君が楽しそうだと何だか僕も嬉しくて」
「……ほんとにばかね」
「顔が赤いよ」
私は彼の無防備な脛を蹴っ飛ばした。痛い、痛いと言いながらなぜか彼が笑う。
私はこの何だか落ち着かない空気に耐えられなくなってきて、顔を背けてどうにか言った。
「……直接、私に着けて。その首飾り」
「いいの?」
「いいも何も、そのままじゃアナタに買われた首飾りがかわいそうでしょう?」
可愛くない言い方だと自分でも落ち込みそうになるが、彼は目が溶けないか心配になるくらいニコニコと目を細めて笑いながら、私の首にそっと首飾りを掛けてくれた。
亜麻色の紐が揺れ、中央に小さな宝石が埋め込まれたシンプルなデザインの首飾りと、私の目が合う。
……私の瞳の色と同じ色をした、宝石の首飾り。
彼が私のことを考えて選んでくれたもの。
こんなにも嬉しい贈り物は、初めてで……だから私は、素直にお礼を言うことにした。
もちろん素っ気なく、そっぽを向きながらだけれど。
「ありがと、イヴァン」
「どういたしまして、エルティーリア」
きっと私は、明日もこの泉に来るのだろう。
照れ笑いをするイヴァンの顔を横目で見ながら、私はそんなことを思った。
――私は彼に、恋をしてしまったらしい。
それを自覚するのに、あまり時間は掛からなかった。認めるのにはそれなりの苦労が要ったけど。
だって朝起きてから、夜眠るまで……否、夜眠ってからも夢の中で、私は彼のことばかり考えている。
ちょっと情けない微笑みや、はにかむときに浮かぶえくぼや、私のことを見つめる瞳の甘さや、意外と逞しい腕や胸板のことを、私はずっと頭の中で思い描いていて……恥ずかしくなるくらい、彼のことだけでいっぱいだった。
自分でも、うんざりするくらい。
会っているときは天に舞い上がるくらいの気持ちなのに、別れ際になるとずきりと胸が痛くなる。
会っていないときなんて、切なさがこみ上げて溜め息ばかりが零れてしまう。
恋とは、とてつもなく恐ろしいものだ。私は日々それを痛感していた。
ある日は、こんなこともあった。
プレゼントされたた首飾りを着けて、いそいそと泉に向かうと……彼が岩場に転がってすやすやと寝ていたのだ。
「もう、こんなところで眠りこけて……」
たぶん、私を待ったままいつの間にか眠ってしまったんだろう。
彼はどうやら私に会いに来るために、他の短い時間に集中して仕事を済ませているらしいから疲れているのも無理はない。
でもこの周辺にだって魔物は居るので、あまり感心できる行為とは言えない。
……会いに来る回数を減らしていいから休んで、とか言えない私も私だけれど。
私は我儘な自分自身に呆れながら、彼に音もなく近づいて膝を貸してあげた。
意外とずっしりとした丸い頭を、私の太ももの上に乗せる。
彼はしばらくむにゃむにゃと言っていたが、少し経つと気持ちよさそうな寝息だけが聞こえるようになった。
しばらく経ってから、私はそっと――自分の鼻先を、彼の髪に近づけた。
満たされた気持ちで目を閉じる。彼の髪の毛はポカポカの、お日さまの匂いがする。
いつも冒険者として大地を走り抜けているからかしら?
つまりこの匂いは、彼の頑張り屋の証とも言えるものかもしれない。
私は何だか急に愛おしさがこみ上げてきて、普段は言えないようなことを口にした。
「……イヴァン、いつもお疲れさま」
私が呟いても、真下のイヴァンは何も言わない。眠っているのだから当然だ。
……寝てる、わよね?
私はきょろきょろと周囲を見回してみる。
こんな場所じゃ別に誰に目撃されるはずもないけれど、用心はするに越したことは無い。
そして誰も居ないということが確認できると、私は恐る恐ると、そんな彼に顔を近づけた。
――ああ、心臓がドキドキしてくる。
手を繋いだり、腕を組んだりしたことはあったけど……今まで彼と、こういう接近はしたことがなかったから。
でも、人間もエルフも、愛情を伝える行為は一緒だもの。
眠っているときに勝手にやるのは、卑怯かもしれないけど、でも……
「んっ……」
逡巡していた私は、突然、唇に訪れた感触に――思わず息を漏らした。
柔らかい何かが私の唇に触れていた。
と思えば、それはすぐに離れていった。
…………え?
…………ええ??
私は唖然と目を見開いていた。
私の頭を引き寄せた不届き者の手は、未だにそこに置いてあるままだ。
「ごめん。あの……口づけをしたいのかと思って」
真っ赤な顔をしてイヴァンが、私からぎこちなく目を逸らす。
「お――起きてるなら起きてると、早く言ってぇ!」
私は羞恥のあまり絶叫を上げ、その場から飛び退って逃げた。
当然ながら彼の無防備な頭も私の膝から落ち、悲鳴を上げながら泉にボチャンと落ちてしまったのだった。
ああ、本当に、恋っていうのは――恐ろしいものだと思う。