第5話.私の夫は、人間でした。Ⅰ
……最初にアナタに出逢ったのは、泉のほとりだったわね。
私はあの日……確か妖精たちと森を駆けて遊び回っていて、疲れて泉の近くで休んでいたのよ。
弓矢を持ってきたのは、魔物に出くわしたときに身を守るため。だから足を泉に浸けて涼んでいたとき、何者かの視線を感じて――私はすぐに、魔物がやって来たものだと思ったの。
「すまない、悪気はなかったんだ。森を彷徨っていたら綺麗な泉を見つけたものだから」
でも違った。
茂みの中から出てきたのは――見たことのない男だった。
私は驚いた。だってソイツの耳は尖っていないし、肌も浅黒かったんだもの。
もしかしてこれが、里に言い伝えられる人間という生き物なのかしら?
でも森の一部には結界が張られていて、人間は方向感覚を失って惑うように仕掛けられているはずなのに。
男は穏やかな風貌に困った顔を乗せて、私のことを見つめていた。
どうやら言葉に嘘は無いみたいだけれど……だからと言って信用はできない。
昔から人間といえば、争うことを好み、頭の中は金儲けばかりの、弱者をいたぶる低俗な種族だと言い伝えられている。私たちエルフとは相容れない存在だ。
私はすぐに身支度を整えて、その場を離れようとした。
でも身を翻してその場を去ろうとする私に、男は慌ててついてきた。
ていうかそもそも、私についてこられるのがおかしいのよ。長老の施した結界、壊れてるんじゃないの?
私が何度はね除けても男――イヴァンと名乗った――は全く諦めず、「君の住む森で、人間が死んでもいいの?」だとか、失礼なことを抜かしてくる。
それで私のことを脅してるつもり?
確かに人間なんかの血で森が穢れるのは、歓迎される事態ではないけど……。
……致し方なく、本当に致し方なくだけど、私は方向転換。
このままエルフの里についてこられても困る。開けた道まで案内すれば十分だろう。
何でこんなことになったんだろう、と溜め息を吐きながら歩いていると、後ろから彼が話しかけてきた。
「それで、君の名前は?」
「……エルティーリア」
「素敵な名前だね」
――なに、この人。
変な人だわ、と思った。
人間ってみんなこうなのかしら?
私は何だか苛ついてきて、服のポケットに仕舞ってあった乾パンを背後に向かって投げつけた。
「痛っ!」
ふふん、良い気味だわ。
と思う間もなく、男は包み紙を解いて「美味しい!」とか言いながら乾パンをガリガリ食べ始めた。
それ、ただの安っぽい携行糧食なんだけど……それでも男は何度も美味しいと呟き、しまいに私に「ありがとう」とはにかんだ顔で話しかけてきた。
ああ、何か本当に……調子が狂うわね。
それからも彼は、しつこいくらい私に顔を見せるようになった。
それは私にとっては思いがけないことだった。
だって道案内をしてあげた日に「金輪際、姿を見せないで」と忠告していたし、森を彷徨う危険を冒してまでわざわざ私に会いに来る理由なんて見当がつかなかったから。
それなのにイヴァンは何度も足繁く泉の前にやって来ては、懲りずに私に話しかけてきた。
「今日は森の空気がよく澄んでいるね」
「見たことも無い植物が咲いていたんだ。何の花かな?」
何のつもりか分からない。挨拶以下の、つまらない会話ばっかり。
私は毎日暇を持て余して、このあたりに遊びに来ているだけだ。だから泉の近くに彼が居ようと居まいと、関係ないんだけど……でも、煩わしいのは事実。
それから数日が経って、いよいよ耐えがたくなった私は彼に訊いた。
「アナタ暇なの? 冒険者なんじゃないの?」
岩場に腰掛けてのんびり日向ぼっこしていた彼が、照れくさそうに微笑む。
「その端くれではあるよ。昨日も魔物を狩ったしね」
「なら今日は何してるのよ?」
「何って――エルティーリアに会いに来たんだよ」
きょとん、とした顔でそんなことを宣うのが腹立たしい。
私は彼を睨みつけた。いい加減、キチンと拒絶しておいた方が良さそうだ。
欲深い人間がエルフに望むモノなんて、古今東西、決まっているもの。
「あのね……言っておくけど、私と仲良くしたところで不老不死の薬なんかあげないわよ? そんなもの無いんだから」
「……不老不死?」
「それともこの私を奴隷にでもするつもり? 私に指の一本でも触れたら、次こそアナタの眉間に穴を開けてやるわよ?」
さあ、どう?
こうも見事に図星を指されて馬鹿にされた以上、二度とこの場所には来られなくなるんじゃないかしら?
すると彼は、しばらくポカンと私を見つめていたが……急に慌ただしい口調で言った。
「ごめん。今日は帰るよ」
「そう。勝手にすれば」
そのまま、彼はペコペコと頭を下げて走っていってしまった。
私はその後ろ背中を無言で見守り……密かに拳を握った。
これで神聖なる領域に勝手に立ち入る不届き者を、追い払うことが出来たわ!
エルフという種族は活動的とは言いがたい。
その多くは家の中でのんびり過ごすか、あるいは隣家の人々と集まって談笑するか……そんな静かで変化の無い、悪く言えば淡々とした暮らしを送っている。
そして誰にも知られず里の危機を救った私も彼らと同様に、木材を削って工作したり、楽器を奏でたりとゆったりとした毎日を送ってしばらくを過ごした。
そんな私の様子を見ていた母が、何やら気遣わしげに言った。
「リア。何だか元気が無いわね」
――元気が無い?
思っていたのと真逆の言葉を向けられ、私は呆然とする。
だって私は不届き者を退けることができて、むしろ高揚しているくらいなのに。
「……そんなこと無いけれど?」
私が不服そうな表情をしているのに気がついてか、母が苦笑を浮かべる。
「いつも外でばかり遊んでいたじゃない? それなのに家に引きこもってばかりいるから」
その言葉に、ようやく私は思い出した。
今までの私は、森の中を歌いながら散歩して、小鳥や妖精たちと戯れて、木の実を取って過ごしていた。
家の中でぼぅっと過ごすなんて、まっぴらごめんだった。毎日そんな風に無色透明な日々を過ごすほど、エルフであってもまだ十五歳の私は人生を達観していなかったのだ。
だから母の言うとおり、よくよく考えればここ数日の私はおかしい。
家に出る気力もなく引きこもっていたなんて……ゼッタイにおかしい。
「ちょっと? リア、どこへ行くのよ?」
私は呼び止める母を振り返らず、家を飛び出した。