第3話.僕の妻は、エルフでした。Ⅲ
僕たちはすぐに森を下り、遠くの街へと行くことに決めました。
森の奥には、彼女の家族や友人知人が住むエルフだけの国があります。
しかし彼女は、そこに荷物を取りに行こうともしませんでした。愛用の弓さえあれば平気だと、胸を張ってみせるだけでした。
その決断が、どれほどの覚悟をはらんでいたものだったのか――。
彼女は自分のことをあまり話してくれませんでしたし、家族がなく、故郷とする場所のない僕には想像することしかできません。
母や父、兄妹や友人達に別れを告げずに。
子供の頃からの宝物や、大切な衣服や、気に入っている小物を取りに帰らずに……。
僕は、そんな彼女の手を握りました。
彼女は森から離れがたかったのでしょう。
きっと一度でも振り返れば、もう、離れることなどできなかったのでしょう。
だから僕は、彼女の手を握ったのです。
彼女に恋した人間として、身勝手さに突き動かされた行動でした。
それでも初めて繋いだ手の温かさだけが、僕の胸を温めていました。
乗合馬車を何度も乗り換えながら、僕たちは少しずつ変わっていく景色と共に旅を楽しみました。
彼女は森を出るのも初めてだったので、目に入るもの全てが新鮮な様子です。子供のように瞳を輝かせて、はしゃいだ声を上げる彼女に、僕もつられて微笑みます。
「あれは何?」
「あれは市場。たくさんの露店が出て面白いよ。今度機会があったら行ってみよう」
「あっちは? あっちは?」
「あっちは港だ。毎日たくさんの船が出航して、漁に出るんだよ」
「すごいわ。人間っていろんなことを考えるのね」
ころころと楽しげに笑ってみせながら、ふとした瞬間に「あっ」と、自分の幼げな振る舞いを恥じるように赤い顔を伏せるものですから、僕はそれが他にたくさんの乗客を乗せた馬車でなければ、何度彼女を抱きしめていたものか分かりません。
彼女は目立つ金髪や、尖った耳を隠したがらなかったので、僕たちの姿はきっと目立っていたことだろうと思います。しかし誰もがそんな僕たちのことを温かく……どちらかというと、生温かい目で見守っていてくれました。
「ここにしましょう」と彼女が言ったので、僕たちは前の街から十一離れた町で馬車を降りました。
そこは小さな町でしたが子供が多く、商店街は活気があって、僕もすぐにその町を気に入りました。
最初は、町の人達からは何となく煙たがられているというか、距離を置かれているようでした。でも冒険者として働くうちに、いつしか彼らは笑顔で僕たちに手を振ってくれるようになっていました。
当初、僕たちは宿屋に住み、狩りや採集をして必死にお金を稼ぎました。
彼女は抜群の腕を持つ弓の使い手だったので、狩りに向かう僕を毎日のように手伝ってくれました。
むしろ狩った獣の数は、僕よりも彼女の方がずっと多かったかもしれません。
五年ほどで貯金は目標額に達し、僕がそれまでに貯めていた貯金も全て放出して、ほんの小さなものですが、町の外れに可愛らしいレンガ造りの一軒家を建てることができました。
その時の彼女の喜びようといったら! 手を叩いて跳ねて、僕に抱きついては「ありがとう」なんて言って笑うのです。お礼を言いたいのはこちらの方なのに。
僕たちは町の人をたくさん呼んで、ホームパーティを開きました。
彼女の手料理をみんなで食べ、語り合い、楽器をつまびき歌を歌っての大団円です。
あの日は本当に、すばらしく楽しかった。
彼女がずっとニコニコ笑っている姿があんまり可愛くて、町の男たちがこぞって見惚れているものだから……僕は大人げなく、彼女の肩を抱き寄せたりしたものでした。
彼女の左手の薬指には、僕が贈った銀色の指輪が光っていました。五年で貯めた資金には、一軒家の建設代金と、ふたりの結婚資金も含まれていましたが、この贈り物だけはもちろん、僕がひとりで密かに貯めた貯金で買ったものでした。
――ところで生き物には必ず、寿命というものがあります。
人間の定命というのは、おおよそ六十から七十歳ほどと言われています。
もちろん、病気か何かでそれより短い場合もあれば、長い場合もあります。突然の事故で命を失うことだって、当然考えられます。
しかしエルフは異なります。エルフは人間より遥かに長命の種族です。
僕とエルティーリアは同い年ですが、僕たちが命を失うタイミングには、大きなズレが生じるのは間違いないことでした。
時折、酒が入ると何とはなしに、彼女ともそんな話をするようになりました。
そうすると決まって彼女はこんなことを言い出しました。
「イヴァン。ねぇイヴァン、アナタの寿命をもっと長く延ばす方法は無いかしら?」
……今だから分かります。
アルコールに弱い僕と異なり、彼女は酒に酔った振りをしていただけだったのでしょう。
酩酊した状態であれば、彼女は僕の本音を――弱音を、少しでも引き出せるのではないかと期待したのです。
本当に、そんなところもいじらしく、可愛らしい人でした。
「そんなものは無いよ、エル。僕はあと十数年もすれば死んでしまうから」
「……そんなの、嫌よ。ねぇ……何か方法を探しましょうよ」
酔った振りをしてクスクス笑ってみせながら、彼女のエメラルドの瞳は全く笑ってなどいませんでした。
「何かあるんじゃないかしら。この世界には魔法があって、たくさんの種族が生きていて、いろんな国があるんだもの。そうよ、人間の寿命をエルフほどに延ばす方法だって……無いほうがおかしいわ」
「そんなもの、無いよ」
「あるわよ。絶対どこかに、あるはずだわ」
声には一点の曇りもありませんでした。
ただ切実な祈りのような、そんな響きが込められていました。
彼女は酒を浴びるように飲んで、そのたびに「どこかに……きっと」と呟くのでした。
そんな出来事から少しずつ、彼女は家を空けることが多くなりました。
どうやら本当に、僕の寿命を延ばす術はないかと探している様子です。
僕は驚きました。なぜならそんなものは、無いからです。
どこかの国の王や、名のある貴族や、力ある騎士がそれを追い求め探しましたが、とうとうそんなものはこの世界中のどこにも無かったからです。
それこそ、もしもこれがエルフと人間の種族をまたいだ恋物語を描くおとぎ話か何かであったなら――紆余曲折の末に不老不死の秘薬が見つかり、僕と彼女は永遠の時を共に過ごすことも許されたのでしょう。
しかし現実に、そんなものはありません。だから僕は、彼女がひとりでどこかを旅するくらいなら、少しでも長い時間を一緒に過ごしたいと思いました。
「ねえ、エル。またどこかに出かけるの?」
僕がそう声を掛けると、彼女は「すぐ戻るわ」と笑って手を振るのですが、出かけたその日のうちに彼女が帰ってくることは稀でした。
妊娠しているのが判明すると、それからは遠出をしなくなりましたが……ただ、聡い彼女はきっと全てを分かっていたのでしょう。
彼女はあまり子供を欲しがりませんでした。
でも、僕はどうしても彼女との間に子供を授かりたかったのです。
だって僕は彼女を、この広い世界にたった一人で残していくことになる。
だけど僕たちの間に、子供が出来たなら――その子はきっと、エルフと人間の血を継いだ存在として、永くエルティーリアの傍で笑っていてくれるはずだから。
僕が居なくなっても、その子が居るならば……僕はそんな身勝手な期待を、まだ産まれてもいない我が子に抱かずにいられなかったのです。
少しずつお腹が大きくなってくると、彼女は家を空けることもなくなり、子供のための編み物作りなどに没頭するようになりました。
僕はそんな姿を見て安堵し、彼女のお腹を撫でました。そんな僕のことを、彼女は微笑ましそうに見つめて訊いてきます。
「生まれてくる子は男の子かしら。女の子かしら」
「どちらがいい?」
「どちらでも。元気に産まれてくれるなら、それだけで」
僕も同じ思いでした。思いは確かに同じでした。
「産まれてくる子はアナタに似ているかしら。私に似ているかしら」
「どちらがいい?」
「……どちらでも」
そのとき、ふと違和感を覚えたのですが、僕にはその正体が分かりませんでした。
その頃には彼女はかなり落ち着いているように見えたので、変に刺激するような真似はしたくなかったというのもあります。
寿命の話になると、必ず彼女はひどく落ち込んでしまうので、僕は自分からは一切その話をしなくなりました。ただ毎日、産まれてくる子供の名前の候補について話したりなんかして、ふたりで陽気に笑い合っていました。
……けれど今思い返せば、僕の言葉や行動は、彼女の不安を全て拭い去ったわけではありませんでした。