第1話.僕の妻は、エルフでした。Ⅰ
短編として投稿させていただいたお話の、続編も含んだ連載版になります。
第1~3話までは短編版の内容と同じものを予定しています。
最初に彼女に出逢ったのは、森の中でした。
僕はその日、狩りの最中に帰り道を見失い、森を彷徨っていたのです。
冒険者としてはそれなりの腕前だという自負がありましたが、迷子になってはどうしようもありません。
暗く生い茂った森の中、さてどうしたものかと背の高い植物を掻き分けつつ、遅い足取りで進んでいたのですが……そんなとき、前方に開けた場所が見えてきました。
どうやら泉のようです。しかし不思議なのは、その小さな泉の水が白く発光していることでした。
光る泉など目にしたのは初めてのことだったので、僕は驚きつつ、這って進んでいきました。
というのも、いつどこから魔物が襲ってくるか分かりません。ここに辿り着くまでの道中でも散々襲われて、僕はすっかり疲労困憊でした。
そうして警戒しながら、泉にほど近い茂みに身体を隠して、息を潜めてその周辺の様子を観察します。
そしてすぐに気がつきました。夜風に乗って、小さな鼻歌がきこえてくるのです。
年若い少女のもののようでした。陽気で、危なっかしいくらい無邪気で、可憐な……何だか僕は拍子抜けするような気持ちで、片目だけを茂みの間から覗かせてみました。
その瞬間の僕の衝撃を言葉で表すのは、非常に難しいのですが……一言で言うなら、僕はこう思いました。
――なんて美しいのだろう。
年の頃は十六、七歳くらいでしょうか。
金糸を編んだような繊細な髪の毛に、夜の帳の中でも底知れぬ光を放つエメラルドの瞳。
白磁の肌はその下の血管さえも透き通るようで、頬は甘く蕩けそうな薔薇色をしていて。
岩の上に座り込んだ彼女は、細く長い足先を泉にぶらんと投げ出して……ちゃぷちゃぷと水音を立てて、楽しげに肩を揺らしていました。
正直に白状すると、僕は彼女以上に美しい人を今までに見たことがありませんでしたので、胸の高鳴りを抑えるのは並大抵の苦労ではありませんでした。
先ほどまで大仰に大合唱していた虫も、蝙蝠か夜鷹の羽ばたきの音もいつの間にかきこえなくなっていましたが、それもそのはずです。
きっと森中の生き物が僕と同じように息を潜め、耳を澄ませて、その愛らしい鼻歌に夢中になっている最中だったのでしょう。それほどに彼女の姿は、神聖で……何者にも侵しがたい魅力に溢れていたのですから。
しかしそのときでした。
「――誰!?」
甲高いその声に、僕はびくりとして身体を震わせました。
彼女は、茂みに隠れる僕の方向をジッと睨みつけるように見ています。
夢から覚めたような思いで、僕はこみ上げてきた唾を呑み込みます。
ようやく、彼女の金糸の間から尖った耳が生えているのに気がついたのです。
彼女はエルフ。
それも森人と呼ばれる、神代から存在する純血種に違いありません。
距離はあったのに気配を察知したのか、エルフにしか使えない探知の魔法でもあるのか……明確な答えは分かりませんでしたが、このまま隠れていることは出来そうにありませんでした。
「早く正体を現さないと、矢を撃ち込むわ」
というのも、そんな物騒な発言と共に彼女が岩に立てかけてあった上等な弓を掴んだものですから、僕は慌てて立ち上がるしかなかったのです。
「すまない、悪気はなかったんだ。森を彷徨っていたら綺麗な泉を見つけたものだから」
敵意がないのを示すため、両手を挙げたまま素直に事情を打ち明けます。
しかし彼女は僕の声など聞こえていない様子で「人間……」と呟き、目を見張りました。
「人間がどうしてこんなところまで……」
僕はその言葉の意味がよく分からず、首を傾げました。
しかし彼女はハァと溜め息を吐くと、僕の存在など無かったようにして濡れた素足をタオルで拭い出します。
太ももまで長い靴下を履くと、僕の方を一瞥してから、弓を胸に抱いて器用に片足で靴を履き始めます。どうやらかなり警戒されている様子でした。
それもそのはず。
エルフは高潔なる種族。その多くは人間嫌いで、人間を始めとする他種族との交流を拒むというのは有名な話です。
ただ近年では、そんなエルフも少なくない人数が森を下り、人間の国で生活をしています。冒険者の中にも、ちらほらとエルフの姿を見かけることがありました。
しかし目の前の彼女のような、奥深い聖なる森に住むとされる森人のエルフを目にしたのは初めてのことです。
「……水浴びをしてなくて良かったわね」
よくよく考えればそれは独り言だったのですが、僕はつい話しかけられたのだと勘違いして返事をしました。
「もし君が水浴びをしていたら、さすがに背を向けていたよ」
身支度を整えた彼女は、眉間に皺を寄せて素っ気なく言います。
「……サヨナラ」
「えっ。待って」
慌てて声を掛けますが、聞く耳持たずで彼女は泉の奥へと向かってしまいます。
この森は彼女が定住している場所のようですから、僕は彼女に見捨てられた場合、野垂れ死ぬ可能性が高そうでした。
となると僕に残された選択肢は、ただその小さな背中についていくことだけです。
僕は突き進んでいく彼女に追いすがり、どうにか追いついたのですが……すぐに彼女はぴたりと立ち止まりました。
振り返った表情は露骨に歪んでいます。
「ちょっと。ついてこないでくれる?」
「ごめん。でも、道が分からなくて」
「そんなの知らないわよ」
「僕はイヴァンというんだ。君の名前は?」
「何でアナタに名乗らなきゃいけないの? あたしはエルフよ。人間となんて仲良くなるつもりはないわ」
そう言って彼女は、つっけんどんとした態度で腕を組みました。
ただ、怒った顔もとても魅力的だったので、僕は黙り込むことしかできませんでした。さすがにこの状況で「怒った顔も可愛いね」なんて口走ったら、彼女が僕に向かって今度こそ容赦なく矢を放つだろうことは分かりきっていたので。
「本当に申し訳ないと思うんだけど……でも僕、このままだと森の中で死ぬと思う」
「それこそ知ったこっちゃないわよ」
「君の住む森で、人間が死んでもいいの?」
彼女はそのとき、唖然とした顔で固まっていました。
舌打ち混じりに「ほとんど脅しじゃ無いの」と呟きます。僕は頭を掻きました。
「ごめん。方向感覚さえ掴めれば、あとは勝手に森から出ていくから……」
「…………」
どうやら彼女は僕が諦めが悪い人間だということに、早々に気がついたようでした。
ハァ、とそれはもう深い溜め息と共に、先ほどまでとは別の方向に歩き出します。先ほどよりはほんの少しだけ遅いスピードで。
僕はすっかり喜色満面で、そんな彼女についていくことにしました。
「それで、君の名前は?」
自分で言うのも何ですが、僕は図々しい人間なので、つい数分前に躱された質問であっても諦めずに再度繰り出しました。
僕が笑顔で答えを待ち続けていると、やがて彼女は渋々とですが答えてくれました。
「……エルティーリア」
「素敵な名前だね」
前方から、何かが僕の顔に投げつけられてきました。
引っぺがして確認してみると、それは乾パンでした。
僕はありがたさを噛み締めながら、固い乾パンをガリガリと歯で削って食べました。お腹が空いてヘトヘトだったので、呑み込みにくいその乾パンですら、僕には過ぎたご馳走のように思えました。
そう、初めて出逢ったときから、エルティーリアはとても優しい女の子だったのです。