接触へん その4
傍から見ていれば、ある種異様な、滑稽な姿に写っていただろう。一人の男がロードバイクに跨り、右手をトップチューブの上に乗せたまま、身動ぎ一つしないでいる様は。
だが、内では攻防が繰り広げられていた。
僕は前述した内容を声には出せないので心中で伝えた。
そして最後に、
「これが、僕が貴女、キメラさんに乗れない理由です」
ロードバイ対して、どのような呼称で呼ぶのが相応しいのか皆目見当もつかないけど、おそらくメーカー名よりも、フレーム名で呼ぶほうが失礼に当たらないのではと考え、別に言う必要性はどこにもなかったが、貴方という代名詞で押し通しても良かったのだが、最後になんとなくだけど名前を言ってみたいような心境に突如駆られて、キメラさん、と言ってみた。
しかし、この選択は結論から言うと誤りであった。
僕の心の声に、反論を、口に挟まずに、ずっと聞いてくれていた。
なのに、また口を開くとさっきよりも怒りのこもった声が。
「キメラって呼ばないでよ。その名前、ちょっと怖い、厳ついから好きじゃないよね」
たしかに、キメラという単語は日本語に直すと合成獣。女性? に言うのは失礼に当たるかもしれない。
「では、何と呼べば?」
僕は、KOGAキメラには乗らないと決めている。だから、呼称について尋ねる必要なんかない。
それなのに思わず訊ねてしまった。
「そうね……固有名詞みたいなものとしては製造番号があるけど数字じゃ味気ないから、KOGAでいいわ」
ついさっきの怒ったような口調はもう影を潜めていた。
「……えっと……KOGA……さん」
これまでの僕の人生において、幼い頃は除いて、女性を呼び捨てで呼んだ経験がなかった。さっきのキメラもそうだがKOGAと言った後、何かしっくりと来ないような、変な気がして、思わず敬称をつけ足してしまう。
「さん、はなくてもいいのに。まあ、それはいいとして、君は自分の実力が不足していて私の力を存分に引き出せないから、乗れないと言うのね」
「……はい」
そう、情けない話だが僕の脚力ではKOGAさんには相応しくない。
「そんなの気にしなくても平気よ」
笑いながらKOGAさんは言う。
それは決して僕を嘲笑するようなものではなかった。が、その時少し羞恥を覚えた。理由は分からないが、恥ずかしくなってしまったのは紛れもない事実であった。
この恥ずかしさから逃げるには、彼女、KOGAさんから離れることだった。
何が要因で触れている間だけ会話ができるのか不明ではあるけれど、それは裏を返せば触れることを止めてしまえば声は聞こえないということ。つまり離れてしまえば。いくらなんでもKOGAさんが自走して追っかけてくるなんてことは流石にできないであろう。
そんなことを考えた。
けど、僕の身体はまだKOGAさんに跨ったままで、右手はトップチューブの上に添えられたままだった。
そして……会話も継続したままであった。
「誰だって最初は初心者なんだから」
「それはそうかもしれませんが、でもその初心者がいきなりカーボンというのは、やはり……扱いやす自転車で経験を積んでからのほうが……」
「経験なら私で積めばいいじゃない。将来カーボンのバイクに乗りたいという願望はあるんでしょ」
「ですが……僕では貴方、KOGAさんに相応しくないような」
「初めてで失敗すると、その後ずっと引きずるものよ。だから、最初は経験豊富なお姉さんと体験したほうがいいのよ。ほら、筆おろしと同じよ、童貞と処女は失敗しやすいって言うでしょ」
確かにそんな話は聞いたことがある。そして僕自身にも、身に覚えがあった。
一理あるような気がした。
「それは、そうかもしれませんけど……」
「自分で言うのはちょっとおこがましいかもしれないけど、初めに上級なものに触れてみるというのは良いことなのよ」
それも、聞いたことがあった。
「……けど、僕の目的はツーリングやポタリングで、レースなんかには出ません、出れませんよ」
「別に構わないわよ、レースに出ることだけど人生、私の場合は自転車生かな、まあいいけど、じゃないから。気持ち良く走れればいいのよ」
「でも、僕のような貧脚では満足なんかしないんじゃ」
「そうね……40km/h以上で巡行なんかしてくれたら最高に気分が良いと思うわ」
「……僕では完全に実力不足ですよ」
そんな速度を出せるような自信はない。
「だったら私と一緒に走って力をつければいいのよ」
「無理ですよ」
これまでの人生でいくつかのスポーツに手を伸ばしてきた、挑戦してきたが、どれもそんなに上達しなかった、長続きしなかった。
「自転車は走れば走るほど、速くなるのよ」
「……らしいですね」
これはロードバイクを買うに当たり、色んな資料を読んだ時に書いてあった。
「だから、私と一緒に走ろうよ」
「……無理ですよ……たとえ将来僕に脚力がついたとしても、KOGAさんに踏み負けないような力がつくとは思えません」
KOGAキメラは硬いフレーム。
「大丈夫、その頃には私もハリがなくなって柔らかくなっているはずだから」
「……どういうことですか?」
「悲しいことだけど、私もずっと硬いままじゃいられないの。経年や走りこむことによって徐々に衰えていく、ヘタっていくの……こんな感じに」
僕の頭の中に突如グラフが展開された。縦軸が固さで、横軸が年数。
緩やかな右肩下がりの図。
そこに急角度で上昇する線が付け足される。
「そして、これがキミの成長線。ほら、この図なら良い具合になるでしょ」
ある地点を境に、そこからピタリと一致していく。
こんなグラフに整合性があるとは到底思えない。けど、視覚化されて見せられた。
そしてKOGAさんの声。
この二つが妙な説得力があるというか、これならば僕がKOGAさんに乗ってもと思わせてくれる。
明るい、楽しい未来予想図が浮かび上がった。
だけど、僕はまだ「乗ります」とは言わなかった。
心が動かされてしまったのは本当だけど、買うにまでは至らなかった。
「まだ、駄目なの?」
「どうして僕なんですか?」
溜息交じりのKOGAの声に後に、僕は質問で返した。
「……うん?」
「僕以外にもKOGAさんを買おうとした人がいるって聞きました。どうしてその人じゃなくて……僕なんですか?」
その人がどんな人なのか全然知らない。だけど、僕みたいに経験も力もない人間ではないだろう。僕のような最底辺ではないだろう。
「そうね、まずは私の声が聞こえたことかな」
「その人には聞こえなかったんですか?」
「うん、全然」
「それじゃ、他に聞こえる人が待つというのは」
「駄目よ、気長に待っている余裕なんかないの。声が聞こえない人に買われちゃう。また売りに出されてしまうのならいいけど、乱暴に使われて壊れてしまうかも」
「……ですけど……」
そんな言葉を聞き、憐憫を微かに覚えたが僕の心は定まらなかった。
求められている、だけどその期待に応える自信がない。だけど……
揺らいでいる僕に、KOGAさんの声が。
「それと、君となら絶対に楽しく走れそうな気がするから。私の勘は当るのよ」
この言葉が決定打であった。
僕はあの日、飲み込んだ言葉を今度は外に出した。