接触へん その3
店から飛び出すように出ていったのは、急に幻聴が、普通の人間ならば絶対に聞こえるはずのない無機物の声、つまりロードバイクの声がしたから、というわけではなかった。
幻聴が聞こえた、聞こえたような気がしたのは、おそらく昔からの癖、妄想癖のようなものが作用して、内なる欲求が声のようになって脳内でしただけという自己判断をした。それにあの時は異常な事態であるというのにそれを怖いとは感じずに、なんとなくだけど受け入れてしまっていた。
ならば、何故急に買う、これに変更する、という言葉を殺して店から出たのかというと、それはあのロードバイクの魅力、魔力のようなものから一刻も早く逃れるためであった。
欲しい、素直にそう思えた。
素人が買っても、問題はないと言われた。
それならば、素直に欲求に従えばいいと多くの人は思うだろうが、そうもいかないような事情が僕にはあった。
あのロードバイク、KOGAキメラは僕にとって分相応なのである。
キメラマークがそう思わせているのかもしれないが、あのロードバイクは獲物を狩る獣のような、あるいは戦闘機のような獰猛な美しさがあった。
僕のような素人が乗っては駄目だ。宝の持ち腐れだ。
もっと経験がある、経験はなくとも貪欲な、力のある人が所有すべきロードバイクである。
力もなければ、貪欲さもない、向上心のかけらもない僕にはオーバースペックである。
その点注文していたのは、気軽に乗れるようなロードバイク。
僕が求めているのは高い運動性を持ったマシンでなく、快適でゆったりと走れるもの。
レースではなく、ポタリングをしたい。
自転車を使い、公共交通機関や車では行きにくい神社仏閣、城跡巡り、遺構、古墳の散策をしたい。
ならば、アルミではなくクロモリのほうがと思う人もいるかもしれないが、この当時の僕にはその知識はなく、アルミのロードバイクが自分の実力に相応しいものだという固定観念に捉われていた。
少し話がずれてしまったが、それだけではなく実はもう一つ理由が。
それはコンポーネント。
コンポーネントとはギアやクランク、ブレーキのこと。
KOGAキメラはフレーム売りのバイクに、ティアグラという下から数えたほうが早いグレードのコンポーネントを店で取り付け販売されているものだった。
対して、注文していたアルミのロードバイクはそれよりもワンランク高い105というものが付いていた。
グレードが高ければ速くなるというわけではない。自転車を速く走らせるのはあくまでエンジン、つまり乗り手の脚力次第。
ならば、何が違うのかというと、ギアチェンジのスムーズさや、力の伝達具合。
けど、この時の僕は何度も書くがさほど知識があるわけでなく、それがどんな風に違うのかよく分からなかった。それなのに、グレードに少しこだわっていたのはブレーキという大事な部品について。ネット上で拾った情報ではブレーキは105以上にしろ、それ以下は止まらない、というのを鵜呑みにしていたからであった。
先に述べておくが、もちろんそんなことはない。ティアグラでだって十分止まるし、それ以下のブレーキであっても街乗りで使用するのは十分な制動力を保持している。105以上というのはレースにおいての話である。
だけど、当時このネットの情報を信じ込んでいた僕には大きな問題であった。
ブレーキは事故に、最悪命にかかわる。
これらの点で、僕はあのロードバイクを買うべきではない。
だけど、それとは裏腹に、欲しいという願望も同時に持ち合わせていた。
そんな気持ちを振り払うように、僕は少しでも早く、そして少しでも遠く店から離れるように必死に足を動かした。
家に帰って、KOGAキメラのことを少しでも早く忘れ去ってしまうかのように、僕は店から貰ったカタログとにらめっこをした。
勧められた商品を吟味した。
本音を言えば、未練のようなものがある、けど何度も言うが僕にとっては高嶺の花。経験を積み、筋力がついた後ならば、否応なしに飛びつき、買うという選択をしただろうが、経験も筋力も皆無な僕にとってはまさに分不相応。
KOGAキメラを駆り、街中を、あるいは人里離れた場所を、峠道を、颯爽と、あるいは軽やかに走る夢想はしてみた。
だけど、それをするには僕は実力不足。
いつの日にかとは思うけれど、それは遠い未来でのこと。
今ではない。
一時でも所有しそうになった。
それを胸に今回は、諦めることに。
後日、再びあの店に。
入店すぐに、店員さんに声をかけられた。KOGAキメラを他の人も買うかどうか迷っていると。
そんな情報を知ったところで、僕にはもう関係のない話だ。
僕は別のロードバイクを選ぶ決意をし、それを伝えるために来店したのだ。
未練が、決意が鈍るかもしれないから、なるべくKOGAキメラを見ないようにしたはずだった。それなのに僕の視線は入店してすぐに、そちらへと。
見ているだけならば問題はない、なのに僕の身体は見えない糸で引っ張られるかのようにKOGAキメラのほうへ。
綺麗な車体だった。
僕のものにはならないけど、見惚れてしまう美しさが。
少々嫉妬のような感情が生まれるけど、僕には高嶺の花、このバイクの良さを引き出すような走りはできない。
諦めたのだ。
そのはずなのに、僕の口は、
「すみません、また跨らせてもらってもいいですか?」
という言葉が勝手に口をついて出てしまった。
だけど、これは未練ではなく記念のようなものであった。
今はまだ僕にはこんなグレードのロードバイクになるような力は無い、でもいつの日にかはきっと。
そんな想いで。
股下に見えるトップチューブに手を乗せてみる。
前回は幻聴が聞こえたけど。
「私に決めたのね」
また、聞こえてしまった。
ということは、あの時納得した理由、僕の妄想が生み出したものではなく、本当にこのロードバイク、KOGAキメラが僕に話しかけているのか。
けど、無機物が話すわけなんかないし。
でも、もし本当にこのKOGAキメラが話しかけてくれているのだとしたら。これは運命なのかもしれない。
そんな妄想が僕の脳内を駆け巡った。
その間にも、
「私に決めたのよね」
「ねえ、そうでしょ」
「おーい、聞こえているの? 聞こえているんでしょ?」
「無視しないでよ、何か答えてよ」
という声が絶えず、僕の耳に、というか脳内に。
不可思議な、おかしな現象が自身の身に起きたというのに、何故だか意外と冷静な心境であった。
おかしいとは思いつつも、何故だか、その声が聞こえるのが当たり前のような気がした。
僕は声に、KOGAキメラに応えることに。
だけど、声には出さずに。心の中で。
声に出したら、店員さんにおかしな人間と思われてしまう。前の時には、おそらくだがこの店員さんにはKOGAキメラの声は聞こえなかったはず、そして今回も多分僕以外の人間には聞こえていないはず。
「……聞こえてますよ」
「良かった、もしかしたら全然聞こえていないかもと思っちゃった」
「……あの……僕に乗れと言っています……」
「そうよ、私の声が聞こえるということは、君は選ばれた人間なのよ」
選ばれたという言葉はちょっとだけ嬉しかった。
これまでの人生で選ばれるような特別な存在にはなったことがなかったから。
だけど……。
僕の意思はもう決まっていた。
「すみません、僕はあなたに乗ることはできません」
悩んで決めた意思をKOGAキメラに、ちょっとシュールな光景と思いつつ、伝えた。
「どうしてよ」
KOGAキメラの怒りの感情がこもった声がした。