100キロ 往路へん 4
性質の悪い悪戯だったのだろうか、ロードバイクという乗り物に恨みがあったのだろうか、それとも偶然運悪くそうなってしまったのか、僕はあの車の運転手ではないからさっぱり判らない。そしてそれを訊ねようとしたとしても、件の車はもう僕の視界からは消えてしまっていた。
シートから腰を降ろし、トップチューブに跨って、両足を砂利の上に。
あの車の消えた方角をぼうっと見ていた。
そんな僕に、KOGAさんが、
「大丈夫?」
と、心配の声をかけてくれる。
「あ、はい、平気です。それより助かりました」
僕はKOGAさんにお礼を。
あんな目に遇いながら無事、転倒することもなく、またどこも怪我することもなく停車できたのは偏にKOGAさんのおかげであった。
KOGAさんが危険な車を察知して声をかけ、そして適切なアドバイスをしてくれたことはもちろんだが、それに加えてKOGAさん自身の持つ性能といっていいのだろうか、能力が、あのような事態に直面していかんなく発揮されたおかげであった。
ロードバイクという乗り物は、走っている時にこそ安定するものであった。それはKOGAさんも例外ではない。クランクを回転させることは止めたが、速度は大きく、急激に落ちたりはしない。ある程度のスピードを維持したままで、砂利道の上を走行した。それに加えて、KOGAさんは若干ではあるが、僕が乗るにはちょっと大きめのサイズである、これが幸いすることに。ホイールベースが長い。これは四輪車でも同じことが言えるのだが、前輪と後輪の間が離れていれば直進性は増し、反対に詰まっていれば旋回性が向上。大きめのサイズであったから、当然ホイールベースも数ミリではあるが長くなる。もしかしたらこれが要因に、決め手になってコケなかったかもしれない。
だから、感謝の言葉を。
「ありがとうございました」
「大丈夫なの? いきなり私のお礼を言ったり、後ボーとしたりしてるけど」
KOGAさんの指摘のように、僕はボーと、呆然としていたのは事実であった。
もしあの車が、まだ近くにいたのならば、もしかしたらあの行為についての怒りが烈火のごとく沸き上がり、ドライバーに暴言を、それでは済まずに最悪手を出してしまう、暴力沙汰になっていた可能性も無きにしも非ずであったのだが、それをぶつける相手はもうとっくの昔に視界の外へといってしまっていた。
そして、人間というものは突然の事態に見舞われてしまった時、存外平静とまではいかないけど、それでも大きな感情の動きというものない。
まさにこの時の僕がそうであった。
だからこそ、KOGAさんにはボーとしたように見えていたのであろう。
「本当に平気なの?」
「はい」
「この後走れる?」
どこも怪我はしていない、身体も別に不具合は生じていなかった。なのに、どうしてKOGAさんはそんなことを訊くのだろうと不思議に思い、訊ねた。
「あんな目に遇って、もう私の乗るの怖くなったんじゃないかと思って」
「それは大丈夫ですよ。怖くなんかありませんよ。むしろ安心に」
「何で?」
「KOGAさんが後方を見てくれていますから」
再びKOGAさんに跨り、走り始めた。
停車する寸前には速度が出ていた。だから、KOGAさんのフロントギアはアウターに入ったままだった。重たいギアでゼロ加速をするのは非常に疲れる、なおかつ筋肉にも負担が。普通ならばすぐにギアを軽いものへとチェンジする。けど、この時の僕はこのままのギアで。体重をかけてペダルを踏みこむ。重い。それでも構わずに踏み込む。
KOGAさんが僕に軽いギアに落とすように助言を。
その声をあえて無視した。進まないKOGAさんをなんとか進ませようと、重たいギアをなんとか踏み込もうと、サドルの上から腰を上げる。所謂立ち漕ぎの状態に。
重たいペダルが少しずつ軽くなっていく。それと同時にKOGAさんの速度も上がっていく。
サイコンの表示が、停車する前、あの車に遭遇する前の速度に。
右のシフトレバーを内側に押し込む。リアのギアを一段上げる。
これは大丈夫、問題ないという意思表示であった。
だけど、僕は速度を上げていく。こんなことする必要はない、まだまだ先は長い、こんなところで無駄な体力を浪費することは馬鹿げた行為である。KOGAさんもゆっくり走れと言っている。にもかかわらず、こんなことをしたのは単純にアピール、見栄のようなものであった。
自分でも若干子供じみているなと思いながらも、僕は重たいギアで走り続けた。
見栄というのは、別の表現に置き換えると無茶である。これはまあちょっと強引ではあるけど、この時の僕を表すのにはピッタリの単語であった。本来持っている以上の力を出してKOGAさんを漕ぎ続ける。当然そんな力は継続しない。仮に僕がスポ根漫画の登場キャラであったならば、根性でこの力を永続できた可能性ももしかしたらあったかもしれないけど、そんな才能は微塵もない。そんなものがあったとしたら、もっと別の人生を送っていたであろう。話が脱線したので元に戻すことに。次第にペダルが重たくなっていく、足が動かなくなっていく、力が出なくなっていく、息が苦しくなっていく、KOGAさんの速度が落ちていく。平坦な道なのに全然前へと進まなくなってしまう。
「そんなに無理しない。まだまだ先は長いんだから。ちょっと休憩しよう。そろそろエネルギーも切れちゃうでしょ」
そんな僕にKOGAさんが声を。
この言葉はもっともであった。まだ全行程の半分にも達していない。それにお腹も少し空いたような気もした。
走りながら、さっき買ったクリームパンを食すことも考えたが、さっきみたいなことがまたあるかもしれないと危惧し、安全面を考慮して、KOGAさんを停車。
そこでクリームパンを一つ取り出して口の中に。
甘さが口の中に広がった。その甘さが、先程の疲れを吹き飛ばしてくれたような気がした。もちろん気のせいだ。食べてすぐに効果がある、ゲームの薬草のような即効的な効果なんてものは有り得ない。試したことないけどアンパンならもしかしたら可能かもしれないけど、現実の世界はそんなに便利にはできてない。
それでも回復したような気分になったのは紛れもない事実であった。
再びKOGAさんに跨り走り始めた。平坦であり、かつ走りやすい道であったが、今度は無理をせずに軽いギアのままで。
潮の匂いが鼻腔をくすぐった。海の近くを走っていたことを思い出した。と、同時にこの近くに漁港があったな、そういえばもう少ししたら穴子の美味しい季節になるな。二度旬のある穴子、冬の穴子の方が脂がのって好みだが、さっぱりとした穴子も悪くない、時期になったらKOGAさんに乗って食べにこようか。
そんな妄想じみたことをしながらクランクを回していたら、大きな国道との合流点が見えてきた。




