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接触へん その2


 KOGAという名前から、てっきり国内メーカーだとばかり思っていたが、実は()にあらずオランダの自転車メーカー、但し製造は台湾、であった。

 正月休みの間にネットでちょっとだけ調べたところによると、KOGAキメラはプロチームも使用するようなカーボンバイクで、その元はオランダがオリンピックのトラック競技でメダルを獲得することを目的としたプロジェクト。そこから派生して誕生したもの。

 グレードは三種類あり、3K、1K、UD。

 あのバイクはUD。一番、扱いやすい代物なのだが、それでもネット上にある数少ないインプレ記事を読むと、非常に高剛性で硬く、力や体重のある人向けのフレームと。

 あいにくと僕はこのバイクに乗るような体型ではなった。身長はまあ高い部類に入るが、腕も脚もガリガリでそれだけならばまだいいのだが姿勢が悪いのか、それとも運動不足からなのか、はたまた加齢によるものなのか、とにかく餓鬼のように腹が出ているという酷いもの。こんな体型では力なんてあるはずもなく、ずっと非力な日常を送ってきた。

 そんな独活の大木のような僕には絶対に扱いきれないロードバイク。

 もし仮に所有したとしたら、宝の持ち腐れもいいところである。

 だが、それでも、今はまだ相応しくないが、乗りながら自身の体を鍛え上げ将来レースに出場するといった気概があれば、このカーボン製のロードバイクの購入の選択もあるのかもしれないが、僕はそんな気には一切ならなかった。

 レースには出るつもりは全然ない。

 大体においてレースイベントは日曜日に開催される。そして僕にとって日曜日は休日ではなかった。

 だが、それ以上にこのロードバイクにある種に憧れ、羨望を懐いているにもかかわらず選ばない、二の足を踏んでしまっている理由があった。

 それは、カーボン製だからだ。

 僕がこの時購入しようとしていた、注文していたロードバイクはアルミ製のフレーム。

 それなのに、取り扱いには慎重さが求められるカーボン製のロードバイクは。正直憧れのようなものはあるけれど流石にハードルが高かった。

 転倒したり、不注意でぶつけたり、こかしてしまって傷がつくだけならば御の字、フレームを破壊してしまい、そして二度と乗れなくなってしまうという暗い未来が頭を駆け巡った。

 そんなことは全然ない、多少転んだところで打ち所が悪くなければ、カーボンが割れてしまうなんてことはないし、最悪破損したとしてもお金はかかるが修復も可能、むしろアルミのほうがフレームが破断した時は酷いことになることもあるらしい。だけど、その時の僕にはそんな知識はなかった。

 アルミのバイクは少々雑に扱っても平気だという、ネット上で拾ってきた知識しかなかった。

 初心者だった。 

 いや、それ以前の段階だった。

 右も左も全然分からない、周囲には助言をくれるような経験者も存在しない。そんな僕がいきなりカーボン製のロードバイクを購入するなんて、それに乗るなんてあり得ない話だ。

 だけど、興味、憧れ、羨望のようなものは確かにあった。

 だからこそ、魔が差してしまった。

再び来店した際に店員さんに触れさせてもらえないかと訊ねてしまった。

 試乗することは流石に叶わかったが、それでもサドルに腰を下ろしてみることは許された。

 サドルの上にお尻を乗せる。そして両足はペダルの上、ではなく横に置いてもらった台座の上に。

 ああ、こういう景色なんだ、ロードバイクから見える風景というのは。

 前にカゴがない、タイヤが細い、コードがハンドルから伸びている。

 これまでの人生で乗ってきた自転車とは全然違う。

 店内の中だけど、そんな感想を懐いた記憶が。

 そして特徴的なドロップハンドルを握る前に、股の間に伸びているトップチューブの上部、黒に塗装されている部分を軽く指で触れてみた。

 カーボンがどんな手触りなのか。ちょっと知りたかった。

 金属のとは異なる、少しひんやりとした手触りを感じた途端、声が聞こえた。

「どう? カーボンの感触は? 私の触り心地は?」

 女性の声。

 店員さんは男、当然僕も男、女性の声が聞こえるはずはないのだが、聞こえた。

 咄嗟に僕はトップチューブの上にのせていた指を引っ込めた。

 声はもう聞こえなかった。

 幻聴だったのだろうか、そんなことを考えながら、今度は店員さんに促されながら、ちょっと遠く、そして低く感じるドロップハンドルに手を添えてみた。

「そんなに怖がらなくても簡単には壊れないから。もっと強く触ってもいいのよ」

 また、声が聞こえた。

落ち着きのある、大人の女の人の音。

「少しくらい乱暴に扱っても平気よ。初めてでも大丈夫、私が教えてあげるから」

 さらに続く言葉、そこには何か淫靡な、妖艶な雰囲気が。

 その脳内に、僕だけに聞こえる声とは別に店員さんも僕に話しかけてくれていた。サイズは合っている、注文しているバイクは何時届くか不明だから、いっそのことこのロードバイクにしたらどうか、と。そして、カーボンだからといって初心者が扱えないということはないという注釈も。

 変な声が聞こえるというのに、何かしらの縁、運命の出会いのような感じが僕の中に生じた。

 二の足を、ハードルが高いと思っていたけど、清水の舞台から飛び降りるような覚悟で、このロードバイクに変更しようかと。

 カーボン製ではあるが、使用歴があり、つまり中古で、使っているパーツもグレードの低いものであったから、僕が注文しているアルミのロードバイクとさほど値段は変わらない。差額を少々支払うだけで、もしかしたら運命であるかもしれないバイクが所有できる。

 そしてこの、KOGAキメラに乗り、颯爽と走る自身の姿を想像。

 おかしな状況であるにもかかわらず、僕はそんなことを夢想してしまった。

 夢想したら、途端に所有欲が、欲しいといい気持ちが僕の中で肥大していく。

「私にしなさい、絶対に後悔はさせないわ」

 また、声が。

「このロードバイクに変更します」

 魅惑的な提案だった。

 この言葉が喉元、口の中までせり上がってきた。

 だけど、それを外に出すことはなかった。

 代わりに、店員さんにお礼を述べ、店から逃げるように出ていった。


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