雨葬 ―あめのおくり―
なぜ、ここにいるのだろう……。
土の匂いが混じる下草に躰を丸めながら、ぼんやりと考えていた。
真っ暗な空を見上げると、冷たいものが降り注ぐ。
頭を振って気休め程度にそれを振り払うと、オレはぐっしょりと濡れた躰へと鼻先を埋めた――
オレは生れた場所も親の顔も知らない。
おぼつかない脚を踏ん張って、あったかくてふにふにしたモノと押し合いへし合いしていた記憶は微かにある。
けど、それだけだ。
脳裏に焼き付いているのは、腹が減ったという強烈な感覚だけ。
飢えを満たすために、己を維持するために、オレはかしこをさ迷い流れて来た。
カッコ良く言えば自由だけを道づれに。その実は、ただの野良ってやつだ。
毎度ねぐらが変わるのも悪くはない。気ままはお猫さまの特権だ。
――の、はずだった。あの人に逢うまでは……。
あれは、ようやく陽だまりでうたたねが出来るようになった、春のはじめのことだった。
いつものように空きっ腹を抱えていたオレは、目に付いた人家からまんまと獲物をせしめると、戦利品を口に咥えてその庭へと入り込んだ。
そこは他の庭とはちょっと様子が違っていて、やたらに植木が多くて身を隠しやすい。草木が芽吹いてさわさわと風に鳴るようになると、絶好の昼寝場所も提供してくれるだろう。
いい縄張りを見つけたと、あたりを隙なく窺いながら、小走りに脚を進めていた。
ふと気配を感じてオレはそれを止めた。
小さな離れの縁側に人影がある。
相手はまだこちらに気づいてはいない。今のうちに身を隠そう。
そう思ったのに、なぜだか脚が動かなかった。
恐怖に身が竦んだわけじゃない。
誤解されるのは心外だから言っておくが、オレはもっとヤバイ橋も渡って来たからね。人間の姿に脅えるほどヤワじゃない。
そういうことではないんだ。
なんていうか、その人の瞳が……。
ぽつぽつと顔を出し始めたやわらかな緑に春を楽しむ様子もなく、ただぼんやりとそれを眺めていた空っぽの視線が、なんとなく気に掛かってしまったのだ。
それが出逢いだった。
それ以来その人が眺めていた樹の下に座って、なんとなくオレは時を過ごすようになった。
初めのころ、その人の所へは時々客人が訪れていた。
客人が来ると、その人は良く笑った。
時には逆に心配されるほど、明るく振舞ってみせた。
だが、独りになった後の表情を、オレ以外誰が知っているだろう。
一度だけ、たった一度だけ、その人が客人の前で泣きそうになったのを見たことがある。
立ち上がるのを咄嗟に引き止めた痩せた腕を、男はそっと受け留めた。
「総司、またな」
泣き笑いの頷きに笑みを残し、客人は席を立った。
そのやりとりだけで十分だった。
敬意を表して門口まで見送りに立ったオレに、男はしばし視線を留めた。
「おめえ、ヤツを頼むよ」
少し癖のある物言いで呟くと、自分で自分が可笑しく思えたのだろう。ふと苦笑し、振り返りもせずに男は出て行った。
以来その客人は、二度とその門を潜ることはなかった。
彼だけではない。その後訪れる客は途絶えた。
戦があったのだと風に聞いた。
近くでも、遠くでも、たくさんの命が失われたらしい。
人間のやる事に興味などない。誰が死のうと生きようと、オレにはなんの関係もない。
ただ、ふと、ここを訪れた客人を思った。
“おめえ、ヤツを頼むよ”
脳裏に響く、声……。
あの時、オレはたぶん、一生で一番嬉しかったのだ。
あれから何度も何度もそれを思い出し、くすぐったいような、気恥かしいような、初めての感覚を楽しんだ。
それは、今まで誰にも振り返られる事のなかったオレが、初めて投げ掛けられた唯一の想いだったから……。
さっきまで冷たく落ちていた雨を今は感じない。
ぱらぱらと小気味よく葉を叩いていた音も届かない。
雨は、やんだのだろうか……?
緑が深まりツヤを増しても、毎年見かける花が鮮やかに咲いても、なかなか暑くならずにじめじめと雨ばかりが続く妙な年だった。
雨がやむのは歓迎だ。
この雨がやみさえすれば、キラキラと輝く夏が来る。
お天道さまが顔を出せば、冷たい手足も、無残に濡れた躰も、すぐにほくほく温まるだろう。
――ほら、こんなふうに……?
湿った下草に躰を預けているはずなのに、なんだか妙にあたたかな気がした。
眠くて瞼を上げるのもおっくうだけど、もう夜が明けたのだろうか……?
御主人。
オレは一度もあなたに近寄らなかったけれど、
一度もあなたに呼び掛けなかったけれど、
本当は、
本当はね……。
ああ、大地ってやつは、こんなにもあたたかいものだったんだな。
まるで、誰かに抱かれているみたいだ……。
ねえ、御主人。
もう一度逢えたら、
その時はね……
『空の子供』にコメントくださいましたおふたかたに勝手に捧げます。
お求めのモノとは大きく違うと思いますがゴメンナサイ。
拙い文章にお付き合いくださったみなさま、本当にありがとうございました。
来る時がみなさまにとって良いものでありますように。 碧海 月