『囚われのフリューゲル』
アストラ
【お借りしたPC】
梔子露玄 (SHOWさん)
クザンベルク・ウル・ルルヘリト (SHOWさん)
グラニー・アハト (SHOWさん)
鉄と埃の匂いが漂っていた。
陽すら差さぬ暗闇の中、金属の擦れる音がしじまに残響する。
手を伸ばし、そっと触れたそれは冷たくて。
じゃり、と、腕に繋がれた鎖が鳴く。
7cmほどの間を開けて規則的に並ぶ鉄の棒は、ぐるりと周囲を囲んでいた。
アストラは、文字通り檻の中に『囚われて』いる。
その姿はまるで――籠の鳥。
アストラは、有翼人と呼ばれる種族の少年である。
二対の見事な翼を背中に持ち、重力を操る能力を有し、そのふたつを合わせることで自在に空を飛ぶことができた。
しかし元来から小柄でありなおかつのんびりとした気質だったアストラは、10歳の頃飛んで逃げる間もなく誘拐されてしまう。
あれから4年。
アストラを攫ったのは見世物小屋の調教師で、アストラの持つ能力や、彼が得意としていた歌を無理やり披露させていた。
当然、こんな環境からは逃げ出したくなるものである。
しかしそう思うのも向こうが織り込み済みなのは当たり前のことで、アストラは芸を披露しないでいる間は常に檻の中、鉄格子に繋がれた枷を右手と左足に付けられていた。
他にも同じように、自由を剥奪されて無理矢理芸を披露させられている仲間が何人も居た。
姑息なことに、調教師たちは目に見えるところに痣などの跡を作らない。
言う事を聞かない者には、芸を披露する際には服で隠れてしまう背中や太ももなどを狙って鞭や棒で叩き付けた。
皆叩かれるのが怖くて、座長たちの言う『楽し気に演技をしろ』という言葉に従って、必死に笑顔を作って舞台に立つ。
そんなことだから当然、裏でこのような酷い仕打ちを受けていることなどギャラリーが気付くはずもなかった。
誰も気付かないということは、誰も助けてくれない、と同義である。
絶望。
その言葉こそ相応しい。
自由に空を駆け、歌い、踊り、楽しく暮らしていられた日々はあの時から死んで消えたのだ。
アストラはそう思い込むことによって、幼いなりにどうにか今の日常に折り合いを付けようと必死だった。
菫色の癖毛に沈んだマラカイトの瞳は悲痛に歪む。
気が付けば、作り物でない本物の笑顔の浮かべ方など忘れてしまっていた。
芸を披露するときだけ枷を外され、袖まで監視が付きながら移動して。
芸を終えれば、また監視に連れられて檻の中へと逆戻り。
今訪れているのは、南国ペ・ナシオン。
常夏の国と言って相応しく、国民も陽気な気質の者が多い。
それになにより、アストラにとってこの国は故郷だった。
ここからどうにかして逃げ出して家族の元に帰ることができれば――そう願えど、それが無意味な希望であることにすぐ気付いてしまう。
絶望に塗り潰された思考回路は、微かな光すらも想起できなくなっていた。
どうせ、この光に手を伸ばしても届かない。
見世物小屋が構えたキャンプは街のはずれで、喧噪は遠かった。
本来であれば、あの賑わいの輪の中に自分も居た筈なのに。
「おい、出ろ」
「……はい?」
膝を抱いて顔を埋めていたから、男が近寄って来ていた事にも気付けなかった。
まだこの街には今日着いたばかり、開演は明日からのはず……。
そう思い不思議そうな目を向けるアストラの右腕に、監視役の男はぐるぐると縄を巻いた。
「今から敵情視察だ。この街にはサーカス団の『百戯夜行』ってぇのが来ている。演者を何人か連れて、見に行くぞ。芸のクオリティを上げるためなんだから、きちんと盗めよ」
がしゃん。
耳障りな音を立てて、右手と左足の戒めは解かれる。
軽くなった四肢を動かしたい衝動に駆られたが、縄をぐい、と引かれて右腕が引っ張られた。
縄のもう片方の先端は男が左手に巻き付けながら握りしめており、そう簡単に解けそうにはない。
「それを見て……僕らはどうすれば?」
「さっき言っただろう、芸を盗めばいいんだよ」
……簡単に言ってくれる。
芸というのは、常日頃の切磋琢磨から向上するものだ。
碌に練習できる時間も与えられず、ただそれぞれが持つ能力だけを披露させるこんな見世物小屋など、あっという間に淘汰されてしまう未来を想像するのは簡単だった。
色々な国の街を転々としているからそれなりに客が付いているだけであって、どこか拠点を据えればたちまち客足は遠のくだろう。
一度目は良い。
二回観たいとは思えない。
そんな芸風、長続きするわけがない。
盗め、と言われたのだから、おそらく盗まなければ後で叩かれる。
理不尽なことこの上ないが、言う通りにしなくては痛い目を見るのは明らかだった。
そうなれば、真面目に『百戯夜行』とやらの芸を見るしかないようだ。
――既に、同業者に対する興味が驚くほど失せていることに気が付く。
それほどまでに心が貧しくなったものかと、アストラは愕然とした。
本来であれば人を楽しませて然るべきサーカス団の実情が『こんなもの』だと知ってしまっては、以前と同じ心でサーカスの演技を楽しめそうにないのだ。
勿論、全てのサーカス団がここのように悪質だとは限らないのは分かっている。
しかし、人というのは自分の物差しでなにかとモノを測りたがるもの。
アストラの物差しは、サーカス団に対してひどく冷たいものに成り下がっていた。
監視役の男の人数はそう多くない。
主に見世物小屋の会計や食事の管理などの裏方業務をする者たちで、彼らは舞台には立たなかった。
その人数はせいぜい5人程度であり、同時に、『百戯夜行』の演技を見に行くために連れ出された演者も5人しかいない。
確か彼女は、テレキネシスを用いたジャグリングが得意で。
あっちの少年は、水を操る能力を持っていて。
向こうの男性は――なんだっけ。
碌に練習もできない、お互いの芸も見られないとなれば、同じ立場であるにも拘らず何を披露しているのかすら知らない演者もいた。
はぁ、と溜息をつく。
おそらく向こうも、こちらが何を披露している演者なのか知らないだろう。
その程度の繋がりしかない。
精々、同じ囚われ者としてのシンパシーくらいしか、彼らと自分を繋ぐものは無い。
どうにも虚しくて、溜息しか出てこなかった。
キャンプから大通りまで出てきて、人ごみの中をすり抜けるように歩きながら、街を横断していく。
久々に間近に感じる人の気配に縋りつきたいような気持ちになったが、戒められた右腕がそれを許さなかった。
あちこちで飛び交う、屋台の客引きの声が脳の中でリフレインする。
「……着いたぞ」
男の低い呟きに、顔を上げた。
街の喧噪からは随分と遠ざかっている。
どうやら、相当街の外れまで来たらしい。
……せっかく外に出られたというのに、『視線を慌ただしく動かしていたら怪しまれるかもしれない』と思って、碌に周りも観ることが出来なかった。
「……わぁ」
大きな天幕は、百人はゆうに入れそうな規模で。
見上げながら茫然としたアストラの所属する見世物小屋とはそもそもの規模がまるで違う。
受付らしき女性に、監視役の男のうちひとりが代表して10人分の料金を支払った。
どうぞ、と導かれるままに入った天幕の中は、なんらかの魔術的な仕掛けが施されているのか適度に明るい。
中央に大きな舞台が設営されており、半径10m近くはありそうなかなり大規模なものだった。
「雑技団『百戯夜行』……これだけの規模をたった一夜にして設営するっていうんだから、さぞかし素晴らしい芸が披露されるんだろうな」
アストラの右腕を縛った縄を掴んでいる男が、皮肉じみた感想を漏らす。
……こういう凄い物を純粋に賞賛出来ないなんて、本当に心の底から腐っている。
そう思えど、当然口になど出さない。
アストラも非常に乾いた気持ちで立っていることを自覚していたからだ。
ここに来られたのは、見世物小屋の座長たちのほんの気まぐれ――。
きっと、一度見たら二度と見ることも叶わないだろう。
ほどなくして、天幕の中には人がぎゅうぎゅう詰めになる。
――こんなに大盛況なのか!?
自分が芸を披露するときは、せいぜい10~20人も見てくれれば良い方だった。
それなのに、こんなにも。
『百戯夜行』という名前自体は、以前座長が口にしていたのを聞いた事がある。
しかしそれだけで、と思ったが、そもそも移動して芸を披露している座長ですらその名を知っているというのは相当なことであるということに今更ながらに気が付いた。
ぱっ、と。
天幕の中の灯りが落とされる。
――開演だ。
そう、肌で感じられた。
すぐにぼうっと舞台の中央にスポットライトが当たり、そこには先ほどまで誰も居なかったはずなのに、燕尾服を纏った痩躯の男性が立っている。
「ようこそ、老若男女・紳士淑女の皆々様。我ら一座の織りなす珠玉の芸の数々、どうぞ最後の一瞬までお楽しみくださいませ!」
ぱちん、と指を鳴らすと、途端に男性の姿は消え失せた。
そこからのことは、よく覚えていない。
いや、圧倒されていたのだ。
まるで畳みかけるように、息をつかせる暇もなく次々と披露されてゆく技の数々はどれも熟練した技術を伺わせた。
それになにより、演者の表情の活き活きしたことといったら!
――『百戯夜行』の演技は、素晴らしい!
アストラは、自分の胸の中にまだ燃える物があることに気が付いた。
気分が、高揚している。
『百戯夜行』の演技に、感動しているのだ。
技を盗めなんて言われて、渋々やってきたサーカス団に、すっかり心を奪われてしまっている。
結局、夢中になってしまい、ただの観客として楽しんでしまった。
これでは怒られるだろうか……ちら、と監視役の男の顔を伺い見る。
……はて。
舞台では、開演の挨拶をした座長らしき男性が閉演の挨拶をしていた。
どうやらこの男、まだ舞台に気を取られているようだ。
――これはチャンスだ。
そう思えば、迷ってなどいられなかった。
「……ぅわっ!?」
アストラは躊躇なく、自分と男性の重力を操作する。
いつもであれば、檻をしっかり閉じてから拘束を外し、再び檻を開けてから外に連れ出されるほど厳重なのに。
今日はこんなにも、容易い。
空中に身を投げ出す羽目になった男は突然のことに理解が追いついていないようで、わたわたと四肢を動かしてもがいていた。
アストラは右腕を強く引くことで、男の左手に巻かれた縄を引っ張る。
狙い通り、パニックに陥った男は握力を手放しており、握りしめられていた縄はあっさりと全てアストラの手に渡った。
あとは羽ばたいて観客達の上を飛びながら、天幕の入り口を目指す。
すとん、と恙なく着地すると、天幕を飛び出し、やってきた方向とは逆――天幕の入り口から見て裏側へと、ひた走った。
とりあえず、男達の目を逃れられればいい。
街を出るのは、その後考えればいい。
いざ飛び出してみれば、どこに向かえば良いのかなど全く分からなかったが、身体は動かずにはいられなかった。
「はぁ、はぁ、はぁ……ここ、は」
気が付くと、どうやら『百戯夜行』の舞台裏に来てしまったらしい。
20台以上はあるだろうか、馬車がずらりと並んでいる。
しかし、それは却って都合が良かった。
おそらく演技中で警備が手薄になっているのだろう。
演技がもう終わる頃となった今、ここに演者達が戻ってくるのは時間の問題だ。
木を隠すなら森の中。
人を隠すなら人ごみの中。
部外者である監視役の男がここまで入って来られるとは思えないし、演者達に匿って貰えれば、監視役の目を欺ける。
とりあえずどこかの物陰にでも隠れよう。
そう思い、一番大きな馬車目指して走った。
「よっ……と。お馬さん、ごめんねー。ちょっとの間だけ、隠れさせてねー」
犬でもあるまいし、まさか馬が部外者を見つけて報告はしないだろう。
そう思いつつ、一番大きな馬車を任されるに相応しい、美しい金のたてがみを持つ白馬の脇を通り、馬車の裏へと隠れようとした。
のだが。
「おい、お前。今俺のこと『お馬さん』っつったな?」
「ひっ!? 喋った!?」
びくりと肩を震わせて振り向けば、馬の目線は確かにこちらに向いていて。
馬はふん、と鼻を鳴らした。
それはまるで人間の青年が人を小馬鹿にするときの仕草のようにあまりにも人間的で、しかも驚くことに人語をすらすらと喋ってみせる。
「驚くより謝罪が先じゃないのか? 俺のことは敬意を込めて『グラニーさん』、もしくは愛を込めて『お馬さん』のどっちかだ。お前はそのどっちも込められちゃいねぇ」
「あ、ご、ごめんなさい……僕としては、謝罪と、間借りするお礼を込めて言ったつもりなんだけれど……」
「込めた『つもり』でも、相手に伝わらなきゃ世話ねぇんだよ。分かったか?」
「ハイ、すいませんでした……」
何故か馬に説教されている。
『グラニー』と名乗った馬は、何故か非常に偉そうであり、しかし神々しい見た目からして、無下にするのもなんとなく憚られた。
とりあえず謝ったことだし、少しくらいここに居させて貰えても良いだろう。
そう思ったのに、グラニーはじとりとした睥睨を向けてくる。
長い睫毛の下の瞳は懐疑的で、少なくともアストラを歓迎していないことは一目瞭然だった。
当たり前だ、どこの馬の骨とも知らない人間を舞台裏に入れて良い気分のわけがない。
馬だけに。
「お前、『百戯夜行』のメンバーじゃないだろ。部外者が何しに来たんだよ。ドロボーか? さっさと出て行きな」
「あう、だから、それはその……ちょっと事情があって。一時間だけでいいから、ここに隠れさせてくれないかなぁ」
何も盗まないし、一時間経ちさえすれば消えるから、と言うと、グラニーは首を前に戻した。
……何も盗まない、か。
元はと言えば、『芸を盗め』と言われてきたのに……もし万が一見世物小屋の人間に見つかったりしたら、どんな仕打ちを受けるだろうか。
後ろ向きな想像ばかりが脳裏を駆け巡る中、ざり、と砂を踏む足音が。
「グラニー、今誰と話してた?」
年若い男性の声が耳朶を打つ。
――まずい、演者が戻ってきたか。
いや待て、しかし演者に協力を仰いで匿ってもらうつもりだったのだ。
覚悟を決めなくては。
アストラは立ち上がると飛び出して、グラニーに声をかけた男性の前へと出る。
男性はアストラより頭一つ分は高いか、という程度の身長で、さらりとした金髪を長く伸ばしており、ピエロのメイクを施した顔に奇抜な衣装。
髪の隙間から伸びる耳は長く尖っており、一目でエルフと判断できる。
確か、舞台では軽業を披露していたピエロだ。
「あ……あの! すいません。僕、アストラって言って……この街に来ている、みせっ、同業者なんですが、色々あってちょっと逃げてきて……一時間だけで良いので、匿っては頂けないでしょうか?」
時折言葉に詰まりながら懇願すると、がばりと90度に上半身を曲げた。
しかし彼はアストラの言葉のうち、とある単語を耳敏く拾い上げる。
「『逃げて来た』?」
ぴく、と。
ピエロのメイクの下で、微かに眉尻が動いたのが見えた。
「に、逃げて来たっていうのは……えっと……」
ええい、もう全て言ってしまえ。
アストラは全てを告白した。
4年ほど前から、見世物小屋に囚われていること。
自由など無いに等しく、ただ命令されるがまま能力による芸を披露させられていること。
『百戯夜行』には、敵情視察の名目で見に来ていたこと。
なんとか能力を使って逃げ出したは良いものの、そこから先どうするかは考えていないので、とりあえず追っ手が諦めるまで一時間ほど隠して欲しいこと。
それら全てを聞き終えると、男性はふ、と鼻で笑った。
真意が掴めず、アストラは顔を見上げて窺うも、ピエロのメイクが濃すぎてよく分からない。
ただアストラと同じマラカイト色をした切れ長の瞳が、微かに細められた。
「おい! お前!」
そこに響く、裂帛。
声には聞き覚えがあった。
間違うはずもない、いつもいつも、自分を強引に連れ出す、あの声。
――まさか、舞台裏にまで追いかけてくるなんて!
こんな時、やたらと目立つ自分の二対の羽根が恨めしくなる。
一人だけで来たのは、不幸中の幸いか。
他の演者を連れてまで自分を探しには来られなかった、というところだろう。
――だなんて、冷静に分析している場合ではない!
「……へぇ」
ピエロはさして動揺したふうでもなく、闖入者を一瞥するとアストラに声をかけた。
「あれ、おたくの?」
「そ、そうです……僕を追いかけてきたんだ……」
「なるほどね。オレ、そういうの大ッ嫌いなんだわ」
軽薄な口調で言うと、男性はす、と腕を上げる。
微かに風が巻き起こり――まるで見えない弓を番えるような姿勢に。
「……弓……?」
ひゅん。
空気を裂く音がしたと同時に、追いかけて来た男が立ち竦む。
「次は当てるぜ」
「な……にを」
アストラには、何が起きたのか理解できなかった。
ただ、ピエロの男性が何かをして、追っ手を牽制した、というのだけは何となく分かる。
しかし何も見えなかったし、聞こえたのは空気を切り裂くひゅん、という音だけ。
「オレはあんたらみてぇな外道は気に食わねえんだ。このチビっ子を取り戻したいんなら、悪いが諦めて貰おうか」
再び、弓を引き絞るような動作をする。
しかし、弓も、矢も、全く見えなかった。
「オレはちゃんと言ったからな? 『次は当てる』、って。戻れ右するなら今のうちだぜ?」
「クザンくん、何を……」
そこに、『四人目』が現れる。
グラニーを入れれば『五人目』か。
後ろから飛んで来た声に振り返って認めたその姿に、アストラはぎょっとした。
この人は――開演の挨拶をしていた男性だ。
客席からでは『燕尾服を着ている』程度しか分からなかったが、声や雰囲気が全く同じ。
ピエロの男性は弓を引き絞るような体勢のまま、振り返らずに応じた。
「団長、そこのチビっ子をちょっとばかしの間匿ってくれるか?」
やっぱり、この人が『百戯夜行』のトップ……!
そう思うと、言い知れない緊張感がアストラの背中を撫で上げる。
ピエロの男性はどちらかというとこちらの味方に思えるが、監視役がなんらかの嘘をついて騙してアストラの信頼を失わせる可能性だってある。
悔しい事に、アストラはこういうここぞという時で頭が回らない。
舌戦に至れば、負けるのは確実だ。
「……分かりました」
『百戯夜行』の座長は、静かな語気でそう言うと、アストラの目をじっと見つめる。
それから微かに身体の向きを変え、遠まわしにここから二人で離れよう、と促しているように思えた。
アストラはそれに応じ、座長の傍に駆ける。
「……貴方は?」
座長は穏やかな声で、アストラ自身について尋ねてきた。
「……えっと」
混乱する頭の中をどうにか繋ぎ止める。
――大丈夫、この人はきっと、味方になってくれる。
先程ピエロの男性にした説明と出来るだけ同じ内容を語ると、座長は時折頷いたりしながらただ静かに最後まで聞いてくれた。
「……分かりました」
それだけを言い、座長はピエロの男性の許へと戻っていく。
痩躯を追いかけると、ピエロの男性と監視役は相変わらず対峙していた。
張り詰めた空気はそこに近寄るだけで身を切り裂かれそうなほどで、監視役が眉尻を吊り上げて明らかに怒っているのが見て取れる。
どちらかが足を一歩踏み出せばそこから全てが爆発しそうな、一触即発の気配が漂っていた。
「……クザンくん、彼と何を話していたんですか?」
「なに、ちょっと世間話だよ。なぁ、チビっ子。お前さんの言うことは真実なのか?」
どこか軽佻浮薄にも思える、まるで夕飯の献立でも尋ねるような気軽さで、男性はアストラに確認を求めてくる。
それに応じるより前に、男性は言葉を続けた。
「このおっさんは否認してんだよな。それに実際、お前さんが本当に囚われていたという証拠もない。実際、こうしてここまで逃げてきたわけだしな?」
確かに、彼の言う意見は尤もだ。
彼らは、本来であれば関わることもなかった火種を唐突に持ち込まれた、言ってしまえばとばっちりを受けた被害者に近いのだ。
何のメリットもない『アストラを匿う』という選択肢を、安易に選ぶ方がおかしい。
さっきは助けてくれるようなことを言っていたが、監視役が『まだ子どもなもので、練習を嫌がって逃げ出したんだ』とでも言えば通じる可能性は十二分にあるわけで。
フラットな立場から俯瞰して物を見れば、監視役との会話の中で彼が掌を返すことはなんらおかしくない。
しかし。
アストラには、揺るがない証拠がある。
「……分かりました。これを見てもらえば……分かってもらえると思います」
本当は、人目に晒したくなどなかった。
だが、そうは言っていられない。
静かに、ケープに手を伸ばすと脱ぎ捨てた。
それから上着を寛げて、肩を露出させる。
ズボンをたくし上げて、太ももを露わにさせる。
「僕達が彼らの意向に沿わないことをしたときに……酷く叩かれた、という証拠です」
痛々しく浮かんだ、青い痣。
それが、アストラの身体に刻まれた絶対に揺るがざる証拠。
「……なるほどね」
ひゅう、と口笛を吹いて、ピエロの男性は監視役に向き直る。
座長はアストラに駆け寄ると、少しだけ慌てたような声を出した。
「なんて酷い……後で、きちんと手当てをしましょう」
「というわけで、オレ『たち』はチビっ子のほうに付くわ。おっさん、怪我したくなきゃ諦めな。念のためもう一度言うぜ。『次は当てる』」
再び、弓を引き絞るような動作。
相変わらず弓も矢も視認できない。
しかし監視役はそれの恐ろしさを理解しているようで、数歩後ずさるとそのまま踵を返して走り去った。
張り詰めていた緊張の糸が切れたようで、息を吐いて安堵する。
「……はぁ。なんつーか、モヤモヤするな。このままだと。なぁ? 団長」
「そうですね。……アストラさん、貴方の居た見世物小屋では、同じように囚われている仲間が居らっしゃるんですよね?」
「は、はい……」
確かに、彼らの存在が後ろめたくなくはない。
自分一人が助かって、彼らを見殺しにするというのは、あまりにも非情というものだろう。
たとえ、碌に会話をしたことがない、『同じ組織に囚われている』というだけの、たったそれだけの希薄な繋がりでも。
彼らを見捨てるのは、どうにも後ろ髪を引かれるものがある。
「んじゃ、潰しに行きますか。見世物小屋」
「えっ!?」
ピエロの男性によってあまりにも軽いトーンで放たれた宣戦布告に、アストラはぎょっとした。
もちろん、仲間たちが助けられるものなら助けてほしい。
しかし、この『百戯夜行』のメンバーには、そこまでしてやる義理などどこにもないはずだ。
ただでさえ厄介ごとの種を持ち込んだアストラ一人助けてくれただけでも充分すぎるほどなのに、さらに仲間たちを助けてくれなど、口が裂けても言えそうにない。
「そうですね。然るべき機関に通報して、解体されるべきでしょう」
なんと、先程『梔子露玄』と名乗ってくれた座長までも乗り気になる。
クザン、と呼ばれていたピエロの男性はメイクの下で唇を弓型に描くと、どこか得意げにすら聞こえる声でこう応じる。
「意見は一致、ね。なら話は早い。チビっ子、案内しな」
「クザンくん、『チビっ子』ではなく、アストラさんです」
「はいはい。アストラ、な」
訳が分からない。
自分でも付いて行けないうちに、とんとん拍子で話が進んでいる。
もちろん、仲間を救い出してくれるのであればありがたいが、何故そこまでしてくれるのか――。
まさか、『正義感』なんてあやふやで不確かで原動力としてはいささかパワー不足が否めないもので、見世物小屋を解体まで追い込もうとしているのか?
ずっと悪質な見世物小屋に居たせいか、そのあたりの善悪の判断がどうにも鈍っている。
駄目だ。
どうせ自分は頭が悪いのだ、考えたところで答えなど出るはずもない。
ならば、彼らの言う通り――見世物小屋へと、案内していた。
来た時と同じように街を突っ切って、『百戯夜行』の設営地とは正反対の街の外れへと。
物陰に隠れるようにしながら、どうにか辿り付く。
アストラが逃げ出し、追っ手が奪還に失敗したことがもう伝わっているらしく、キャンプに建てられたテントとテントの間を監視役の男達がひっきりなしに行き来していた。
おそらくこの様子では、座長にも話が行っているだろう。
「規模は小さいんだな」
バレないように小声で、クザンが感想を漏らす。
確かに、20台以上の馬車を持つ『百戯夜行』と比べたら、この見世物小屋は児童のお遊戯会のようなものだろう。
いくつかあるテントはどれも固くジッパーを閉ざされているが、アストラは中身を知っている。
――檻だ。
「あの茶色い小さいテントの中には、それぞれ檻があります。持ち運べるような大きさじゃないんですが、そういう魔導具になっていて……」
「んなこたどうでもいいんだよ。とりあえず団長はここの座長に話つけて来てくれ。他のおっさんはオレが引き付ける」
それだけを言い残し、クザンは勢いよく物陰から飛び出した。
当然、監視役の男達にはすぐ発見される。
「種も仕掛けもありません、って言いたいところだが……ごめんなぁ、あるんだわ。種」
どこから取り出したのか、クザンは木で出来た杖のような……形容しがたい物体を手にしていた。
それを掲げると、たちまち地面にはヒビが生まれ、次第にそれは『裂け目』へと悪化していく。
クザンへと一斉に集まった監視役たちはそれらに見事に足を取られ、情けないこのこの上ない様相を呈していた。
その間露玄は何をするのかと視線を遣れば――その姿は、揺らぐ。
何事が起きているのか理解の追いつかぬアストラの目の前で、露玄の身体はぐにゃりと歪み、宵闇に溶けるように消え失せた。
アストラはただそれを、何事が起きているのかすら分からず、黙って物陰から見ているしかできない。
もし加勢しようとしても――なんだか、足を引っ張りそうで。
あまりにも見事で、余裕があって、監視役たちを翻弄しているクザンの手並みに、自分が付いて行っては『邪魔になる』としか、思えなかった。
そこからは簡単な物で。
露玄は、どう話を運んだのか座長の口から真実を吐かせたらしい。
そのままこの街に駐屯していた軍に突き出して、見世物小屋は解体決定。
監視役たちはクザンの生んだ地割れに足を取られている隙に、さらなる追撃で蔦を絡ませられて、全く身動きが取れないままだった。
そのまま、まとめて逮捕。
戻ってきた露玄は檻に囚われていたアストラの仲間を、座長から奪ったマスターキーで一人一人丁寧に解放し、話を聞いて『百戯夜行』への所属を希望するか否かを確認する。
希望しない者はそのままこの街で解放され、希望する者は本日付で『百戯夜行』のメンバーに。
アストラはただ、それを黙って見ていた。
見ている事しか出来なかった。
月が高く空に昇る頃、全てが『終わる』。
しかし。
「……で? お前さんはどうすんの?」
「はい?」
「『はい?』ってお前な。うちに所属したいのかどうすんのか、って訊いてんの」
頓狂な声を返したアストラに、クザンは少し呆れたような声をあげた。
その向こうで、『百戯夜行』に所属する意思を伝えた『仲間』が、アストラのほうをじっと見てきている。
「僕……入っても、良いんですか」
「勿論ですよ」
それには、露玄が応じる。
「しかし、強要はしません。すべては『貴方がどうしたいのか』、です」
『どうしたいのか』、と尋ねられると、どうにも困ってしまった。
この4年の間、自分の意思というものを完全に剥奪されて生きてきていたから――どうしたい、と問われても、すぐに答えが浮かんでこなかった。
かといって、この街にいきなり放り出されて一人で生きて行けるかというと、心許ない。
しかし、そんな理由で所属を志望するのは歪んでいる気がして、言えなかった。
「簡単な話だよ。お前さん、うちの演技観たんだろ? なら、答えは決まってんじゃないの」
「あ……」
思い出した。
あの、胸の奥を焦がすような感動。
熱気に包まれたテントの中で起きた、一夜限りの夢のような光景。
卓越した技術の織りなす、芸術的なまでに磨き抜かれた演技。
そうか。
あれを見た時に、自分は既にもう、『憧れていた』んだ。
「僕……僕は、『百戯夜行』に……入りたい、です!」
震える声で、告げる。
露玄は切れ長の瞳を細めて柔らかく笑うと、頷く。
「分かりました。では、本日から貴方は私達の仲間です。『百戯夜行』は、貴方を歓迎します」
伸ばされた右手を、固く握り返した。
――あれから、5年。
「……ん。寝ちゃってたか」
随分と久しぶりに見た。
あの、忘れられない一夜。
『百戯夜行』に出逢い、そして、奇妙な縁で、こうしてここに所属するに至るようになった、あの日。
あの時のことはこうして時々夢に見ていた。
しかし今は、自分がその『夢』の立場に居る。
誰かがかけてくれたらしい毛布を丁寧に畳んで置き、ぐ、と伸びをして身体をほぐして馬車から外に出ると、陽は随分と高く昇っていた。
「クザンさーん!」
そして、名前を呼ぶ。
あの日、自分を助けてくれた恩人であり、今では軽業の師匠である、クザン――クザンベルク・ウル・ルルヘリトの名前を。
「おう、やっと起きたか寝ぼすけ。毛布かけてくれたファオに感謝しな」
「分かった、後でお礼言っとく! それよりねぇねぇ、こないだ教えてくれた技の続きを――」
籠の中の鳥は、今、羽ばたこうとしている。
大切な仲間と、かけがえのない絆という翼で。
2016/7/4