『oblivious』
鳴海
モブのMさん
【お借りしたPC】
白蓮華 (タイレイさん)※名前だけ
微睡みの中、声が聴こえる。
静かな水面に石をひとつ投じ、波紋が広がっていくように。
決して耳障りではなく、心にすっと入り込んでくるような声。
名前を、呼ばれていた。
「先生! 外科から急患です!」
流民繁華街リーグァンに構えられた医療機関『楓月堂』には、診察や治療を希望して訪れる患者が後を絶たない。
『楓月堂』はリーグァンを自治している組織『星辰会』の派閥のひとつである『山羊座』が取り仕切る総合的な医療機関であり、病人から怪我人まであらゆる患者を受け入れていた。
その『山羊座』の構成員で、『楓月堂』の精神科・心療内科担当医師・薬剤師である鳴海は、悲痛な声をあげる部下に凛とした声で返す。
「容体は?」
「左手首に深い裂傷。おそらく自分で……切ったのかと。縫合と輸血はしましたが、意識はまだ……」
担架に乗せて運ばれてきた女性は、濡羽色の髪を真っ直ぐ長く伸ばしていたが、その前髪に縁取られた顔色は青白く生気が無い。
おそらく手首から噴き出したのであろう血は彼女の桜色の着物をところどころ紅く染め、あちこちが乾いて赤茶色に変色していた。
左腕には何重にも包帯が巻かれており、ガーゼが下に当てられているのだろう、膨らんでいる。
言い辛そうに小声で告げた部下には「分かった」と返すと、病室に運んで安静にさせるように指示した。
……俺の所に来る『急患』なんて、大抵自殺未遂なんだよな。
精神科・心療内科の担当医である鳴海の許に来る急患は、ほぼ自殺未遂した者しか居ない。
この女性も、自分の左手首を深く切りつけるということは、失血死を狙っての行動に違いない。
おそらく発見者か、通報を受けた構成員が応急処置をしたのだろう。
楓月堂に運ばれた時点で手首からの出血は止まっていたため、スムーズに縫合処置と輸血は終わったという。
あとは、目を覚ました女性が『死ねなかった』ことにパニックでも起こさなければ良いのだが……。
死のうとした人間を助けるなんて、皮肉なモノだ。
診察待ちの波を捌き終え少し暇が出来たので病室に運び込まれた女性の様子を見に行くと、穏やかな寝息を立てて眠っていた。
閉じられた瞼には長い睫毛の影が落ち、すっと通る鼻筋に、薄いくちびる。
顔立ちは整っている。
運び込まれた時は蒼白、と言う形容が相応しかった顔色も、輸血のおかげか随分と良くなり、程よくふっくらとした頬は赤く色付いていた。
――せっかくそこそこ美人なのに、どうして死のうだなんて。
恋人とでも別れたか? そう思い、人知れず溜息をひとつ。
さて、様子見はこのへんにしておいて、起きたら部下に知らせてもらって問診といくか――そう思い立ち上がりかけた瞬間。
瞼がぴくり、と微かに動く。
それはゆっくりと開き、鴇色の瞳が何度か瞬くと、少しだけ頭を動かして鳴海の存在に気が付いたらしい。
「あ……」
「どうも。ご気分は?」
生憎、鳴海はあまり気遣いが上手いほうではない。
もちろん、自殺志願者であるということは念頭に置いて、不用意な発言はしないように気を付けはするが、あくまで『それだけ』であり、それ以上の気遣いはしない。
しかし気分を尋ねられた女性は勢いよくがばりと上半身を起こしたかと思えば、鳴海に向かって頭を下げた。
相当量の血液を失っているだろうに、いくら輸血されたとはいえ元気な事だ。
「ごめんなさい! 貴方、お医者様ですよね? もしかして私、また死にかけていましたか!?」
「……は?」
彼女の言葉は大いな矛盾を孕んでいる。
まず、死のうとした人間が『もしかして死にかけていましたかごめんなさい』なんて言うはずがない。
その意味不明な言動に、鳴海は眉根を寄せたが、女性はすぐにこう説明した。
「あの、確かに私、自分で手首を切りましたけれど、死のうとしたんじゃないんです!」
「はぁ。そうでしたら、何故に?」
「ええっと……」
女性は語り始める。
自分は治癒能力を持っている事。
それを発動するには、媒介として自分の血液が必要な事。
怪我人を見つけて、治癒能力を行使しようとして手首を自ら切ったものの、切りすぎたらしい事。
「で? その『怪我人』はどこに?」
「……分かりません」
要するに、自己犠牲によるおせっかいをして、盛大に滑ったのだ。
自分が意識不明の重体になるほどまでに身を削ったのに、肝心の怪我人は霞のように何処かへと消えてしまい、感謝もされない。
「血液を媒介、ねぇ……見ず知らずの人間に、よくそこまで奉仕しようと思えますね。素直に楓月堂に運んできて頂ければ、こちらで適切な治療をします」
鳴海は、自分の言葉が刺々しい事を分かっていた。
素人判断で治療するな、専門家に任せろ、と少しだけ遠回しに告げる。
彼女が自殺志願者でないのであれば、少しくらい責めようとまた死のうとは思わないだろう、という考えもあった。
しかし女性は俯くと、ゆるく首を振る。
「ごめんなさい、私この国の生まれじゃなくって……医療機関がこんなに発達していたなんて、知らなかったんです」
「アズマ生まれではない? アズマ風の着物のように見受けられましたが」
女性が纏っていたのは、アズマ風の着物と腰に帯を巻く、正統派アズマ風の装い。
こんな格好をしていては、アズマ生まれだと思われて当たり前だ。
「いえ、旅人です。この着物は昨日立ち寄った着物店で気に入って買ったばかりで……」
「それを早速血で汚したわけですか。血の跡ってなかなか落ちませんよ」
委縮して小声で事実を告げる女性に、鳴海はただ淡々と応じる。
さすがに服のしみ抜きまでは管轄外だ。
退院してから、自力でやってもらうしかない。
「先生、次の患者が来ています」
そこに、部下である看護師からの声が飛んでくる。
鳴海は仮にも精神科と心療内科を任されている身、一人の患者にあまり長く時間を取られるわけにはいかなかった。
それに彼女が自殺志願者でないのなら、尚更。
喫緊に差し迫った問題を抱えているわけではないのであれば、後回しでも構わない。
「では、お大事に」
その言葉だけを残して、鳴海は病室から立ち去った。
淡々と患者達の問診を終え、一度小休止つくべくカルテを取りに来た看護師にアズマ茶を頼もうとすると、ひそひそと小声でこう言われる。
「あの、先生……さっきの急患が、先生とお話がしたいそうなんですが」
「俺に? よく分からんが今は患者も途切れているし、少しくらいなら構わない。入れてやってくれ」
分かりました、そう言った看護師はぱたぱたと小走りで駆けていった。
話?
俺に?
何が。
自殺志願者でないのなら、問診の必要もない。
体調が快復したならさっさと退院するだけだろうに。
精神科の医師でありながら、鳴海はそのあたりの機微に疎いところがある。
だからこそ、患者たちの重苦しい話を聞いても必要以上に共感しすぎることもなく、自分が折れるということもないのだが。
こんこん、という控えめなノックが聴こえたので、「どうぞ」と返すと、きぃ、と軽く音を立ててドアが開かれる。
そこに佇んでいたのは、既に乾いた赤茶色の血の跡が点々と飛び散った着物を纏った、先ほどの女性。
先ほどはベッドに身体を横たえていたので分からなかったが、すらりとしていて女性にしては背が高かった。
手で椅子に座るよう促すと、彼女はぺこりと頭を下げて腰を降ろす。
「ここ、精神科……なんですよね。私を自殺未遂だと思って、それでも、助けてくださったんですよね?」
「そうなりますね。我々は命を助けるのが仕事ですから、死にたいですと言われてはいそうですか死んでどうぞと言う医者はおりません」
精神科として、患者の『死んでしまいたいほどに辛い』という気持ちを決して『否定』はしないのだが、かといって肯定もしない。
仮に肯定したとして本当に自殺でもされた場合、責任を求められては困る。
女性が何を言おうとしているのかいまひとつ分からずに、ただ問いに応じていると、女性はすっくと立ち上がった。
「あ、あの! それで、改めてお礼をきちんと言いたかったんです。助けてくださって、本当にありがとうございました!」
がば、とオノマトペが見えそうなほどに勢いよく上半身を90度に下げる女性。
「仕事ですから」
しかし鳴海の態度は一貫して淡々としていた。
その態度にめげる事もなく、女性はこう続ける。
「私、生まれはアリア・クランでマーレ・エルティアと言います。このご恩、一生忘れません!」
……一生忘れません、ねぇ。
あんたがそうやって助けて来た人間の何割くらいが、あんたに対してそう思っているんだろうな。
そう思えど、口には出さない。
「それはどうも。では、お大事に」
あくまで機械的に対応した。
マーレは少しだけ口を開いて何事かを言おうとしたが、すぐにそれは噤まれて、何も発されない。
ただ、「ありがとうございました!」ともう一度言って頭を下げると、診察室を後にする。
それから、一か月の時が過ぎた。
鳴海は良くも悪くもいつも通りの日常を謳歌、もしくは消費しており、今日は休日。
いつもであれば部屋の掃除をした後は惰眠を貪ることに決めているのだが、晴れでも雨でもなく適度に薄暗い花曇りの陽気はどことなく居心地が良くて、なんとなく街に繰り出していた。
行きつけの酒屋を覗き店主と一、二言交わして酒を購入する。
帰って呑むか、と酒瓶を片手に帰路につこうと思った、その刹那。
「もしかして、先生?」
後ろから投げかけられた、鈴を転がしたような透き通るソプラノ。
振り返ると、そこにはマーレが居た。
服装はあの時のようなアズマ風の装いではなく、アリア・クラン風の少し厚手なものの動きやすそうな恰好をしている。
長い黒髪が印象的な彼女にアリア・クラン風の装いは少しちぐはぐにも感じられて、最初に見た時アズマ風の装いだったせいかなんとなくの違和感があった。
相変わらずぱっちりと開いた大きな双眸は鳴海と偶然出会えた喜びからか輝いている。
腰にはナイフの収まった鞘がベルトで固定されており、もしかしたらあの時手首を切ったのもこれだろうか、となんとなく鳴海は思った。
「やっぱり! あの時はお世話になりました! そういえば私、先生の名前知らないです!」
「はあ、そりゃどうも。俺は鳴海。じゃあまたいつか」
ぱぁっと顔を華やがせて手を合わせるマーレに対してすっと片手を挙げて一揖すると、さっさとその場を去ろうと歩き始める。
しかし、すぐに駆け寄ったマーレが腕を引っ張ってきた。
「ちょっと待ってくださいよぉ! せっかくお会いしたんですから、あの時のお礼くらいさせてください!」
「結構。今日はオフなんだ。今の俺は医者じゃないし、あんたはもう退院したから患者でもない。手術代はもう貰っているしそもそも俺は手術に関与していないから、あんたが恩義を感じる必要は無い。俺達の間で交わされたやりとりはもう完結している」
露骨に眉を顰めて拒絶の意思を見せ腕を振り払うも、マーレはどこか何かを決意したような顔で鳴海の腕に縋ってくる。
目敏く鳴海の片手に提げられた酒瓶の包みを見るや、声を弾ませた。
「あ! もしかしてそれお酒ですか? 私もお酒は好きです! この間美味しいお店見つけたんですよ! 呑みましょう呑みましょう!」
「はぁ? だから俺はもう帰……って引っ張るな! おい!」
これが、相手が男であったならばもう少し強引に振り払えたものの、衆人環視のもと女性を何度もこっぴどく振り払うなんてできるわけもなく。
……結局、流されるまま酒場へと連れて行かれる。
「あのなぁ、俺は酒にはそこそこ詳しいし、ここ俺の行きつけ」
「みたいですねー! 店主さん、鳴海さんのことご存じでした! あ、私焼酎~!」
正直な話、鳴海はリーグァンにある酒場という酒場のほぼ全てに足を運んだことがある。
蟒蛇と言って差し支えない程度には酒に強い彼は、美味しい酒のためならば労力を割くことも厭わない。
しかしそれはあくまで『その気になったら』の話。
今日は帰って一人でしっぽり呑んでひたすら眠ろうと思っていたのに……。
ひときわ大きい溜息をこれ見よがしに吐いて見せては、鳴海も焼酎を注文する。
「結構強いんですよー! 呑み比べします?」
「よくもまぁ、昼からそんな発想が出て来るな……」
昼間から酒場で呑んだくれるだなんて、医者としてあるまじき行為だ。
せめて家で一人静かに呑めたら良かったのに……。
そう思っても、マーレのテンションは鳴海の孤独を許しそうにない。
結局、呑み比べは鳴海の勝利で幕を閉じる。
「……なんで俺がここまで世話焼かないといけないんだかなぁ……」
酔い潰れたマーレは千鳥足で、いくら日が沈みきっていないとはいえ一人で帰すには抵抗があるくらいには酔っぱらっていた。
「らぁ~いじょうぶれすよぉ、わたしぜんぜんげんきれすからぁ~! あははははは!」
そのまま見捨てて放置でも良かったのだが、それで本当にアルコール中毒や暴漢に襲われたりやらで死なれたら寝覚めが悪い。
あまり肯定したくはないが、酔態を晒していてもなおマーレは比較的美人の部類だ。
鳴海にしなだれかかるように体重を預けている彼女は、どう考えても一人では帰れそうにない。
せめて、マーレが宿泊している宿にまで送り届けたら、自分の果たすべき責任は果たした気がする……と思ったので、完全に出来上がる前に聞き出した宿へと連れて行った。
重なっていた影が離れる。
「ほら、着いたぞ。ちゃんと立て」
「えぇ~みんはいさんつめたぁい、わたしのことこのまま帰しちゃっていいんれすかぁ?」
「何の話だよ……」
俺はちゃんと送り届けたからな?
そうマーレと自分自身に言い聞かせて、宿の前でマーレを放置して、帰った。
それから三日。
「みーんはーいさーん!」
「げ、なんで居るんだお前」
出勤しようとした道すがらに、待ち伏せしていたとおぼしきマーレの襲撃を受ける。
何故彼女が自分の住所を知っているのか、出勤時間を知っているのか。
あの時酒の勢いで色々と聞き出されはしたが、そこまで話した記憶はない。
自分が酔ったとしても記憶を飛ばさない自信に関しては揺るがないものがある。
……そういえば言っていた気がする。
『私の能力は治癒だけではない』と。
「まさか、能力で俺の居場所を特定したのか」
「ご名答! マギアを込めた髪の毛を付けておいた相手の場所が分かるんですっ! 昨日と一昨日は確実性を高めるためにここから覗き見していました!」
……髪の毛。
呑んだ時に付けられたか……。
しかし。
「ストーカーで訴えるぞ」
「そんな酷い! 私はただ鳴海さんのことがちょっと気に入ってしまっただけなんですよぅ」
「仕事に遅れるから、あんたの相手をしている暇はない」
悲しそうな顔をするマーレを一瞥し、にべもなく断る。
彼女が自分を気に入るのは結構。
だがそれに応じるかどうかはこちらの自由だ。
「あ、私今日から楓月堂のバイトです」
「はぁ!?」
急にからりとした語気になって言う彼女に声をワントーン跳ねさせれば、にっこりと笑顔が返ってきた。
「というわけで、暫く私は鳴海さんの部下です! と言っても部署はまだ分からないんですけれど」
楓月堂へと向かう道すがら、彼女に詳しい経緯を吐かせる。
自殺未遂紛いの際に楓月堂に支払ったリランは、彼女の懐にとってはそれなりに大きな打撃だったこと。
リーグァンが気に入ったので、暫く滞在するつもりであること。
あの時は途中で意識を失ってしまったが、能力を行使する関係で怪我の応急処置などに慣れていること。
それら全てを総合した結果、彼女の中で『楓月堂でバイトとして雇ってもらう』という結論に至るのはそう難しくなかったこと。
――そして、楓月堂は彼女の持つスキルを高く評価したこと。
頭が痛い。
そう思ったのはいつぶりのことだろうか。
酒を呑みまくっても頭痛が誘発されたことなど無いというのに。
よりによって、マーレが配属されたのは精神科・心療内科だった。
「先生! 次の患者さんのカルテです!」
「……あんたの能力、ここじゃ役に立たないだろう。外科に行けよ」
「そうですか? 私、人の頭に触れたら記憶を消せるんですけれど。それを鑑みて精神科に配属されたみたいです」
「……初耳だぞ……」
蓮のやつ。
そう思いながら、鳴海は歯ぎしりする。
しかし、そうなってしまったものはもう仕方が無い。
諦めて、マーレのことは他の部下と同様に扱うことにした。
意外にも彼女は飲み込みも早く、明るく人当たりも良いので、すぐに精神科・心療内科のアイドルとなってしまう。
特にお年寄りからは可愛がられて、お菓子を貰ったりすることもあると聞かされた時は気が遠くなった。
「変なもんが入っていたらどうするんだよ……」
「そんなの入っていやしませんって。鳴海さんは人を疑いすぎです。でも、ご心配ありがとうございます」
そして今日は休日、なぜかまた彼女と席を隣合わせにして呑んでいる。
というのも、休日は部屋の掃除をしたらあとは眠っているか酒を呑んでいる、と言ったら『そんなの不健全ですよ!』と言われ無理やり連れ出されるようになったのだ。
……陽の沈まぬうちに呑む、というのもそれはそれでどうなんだ。
そう思わなくもなかったが、マーレの基準では『一人でいる』ことが良くないらしい。
特に、一人旅をしている彼女にとっては、人との縁というものは非常に尊く、尊重すべきものであるとのこと。
「……あんた、いつまで楓月堂に居るつもりだ?」
「んー、そうですねぇ。正直な話、もう次の国に発てるくらいには貯まりました。でも、心残りがあって」
「心残り?」
はて、旅人とはそのような郷愁は抱かずに斬り捨てるものではなかろうか。
とは言え、自分も鳳華国には思い入れがある。
この数か月でマーレなりに、リーグァンに愛着でも湧いたのか。
そう思いながらグラスを煽ると、マーレはぽつんと呟いた。
「鳴海さん、私の名前を呼んでくれたこと、一度も無いですよね」
「は?」
頓狂な声で返す。
何を言っているんだ、こいつは。
確かにマーレの事を名前で呼んだことはない。
しかしだからそれがどうして、『心残り』なんて大層なものになってしまうのか。
困惑がじわりと胸の内に煙る中、整理もつかぬ間に、マーレはローズクォーツの瞳で鳴海のルチルクォーツの双眸を見据えた。
「私、鳴海さんが好きです」
「な……」
唐突の告白に、流石の鳴海も面食らう。
驚きのあまり、つい目を逸らしてしまった。
「……駄目、ですか?」
縋るような声。
それに応える回答を、持ち合わせていなかった。
「ちょっと待て。考える時間をくれ」
「はい」
意外にもマーレは、その言葉には素直に応えてくれる。
とん、と置いたグラスの中で、溶けた氷がからんと音を立てた。
テーブルに肘をつくと指を組み、額をそこに乗せて暫し、熟考。
その姿勢のまま、鳴海は『答え』を言い始める。
「……別にお前が俺を好きでいるのは構わん。好こうが嫌おうがそれはお前の自由だ。だが俺はお前をそういう目で見たことがないから何とも言えない」
「はい」
「一週間くれたら結論を出す。その代わり、公私混同はするな。あと頼まれても名前は呼んでやらない。俺が呼びたくなったら呼ぶ」
「はい!」
マーレはしっかりと頷くと、「待っていますね」と祈るような声で言った。
一週間。
全ての患者の診察を終え、『今日の診察は終了です』に札をひっくり返し、待合室の掃除をする看護師たちを邪魔しないように診察室に引っ込む。
少しだけ残っていたコーヒーは冷めていて、生ぬるい苦味が喉を通った。
さて、俺も帰る支度をするか――そう思った瞬間。
「先生! いや、鳴海さん!」
「げっ」
マーレが箒片手にずかずかと診察室に入り込んでくる。
せめて箒は置いてこい。
そう話を逸らすより前に、ずいとマーレが迫ってきた。
「一週間ですよ、いっ・しゅう・かん! 私待ちました! もう閉まりました! 掃除は終わっていませんが皆さんオフのモードです! 公私混同していません! どうなんですか!」
「やめろ、でかい声を出すな、他の看護師に聞かれたらどうする……」
小声で反論する鳴海は、どう考えてもマーレに押し負けている。
それを重々自覚しつつ、彼女の両肩に手を置くと、引き剥がした。
「……私頑張りましたよ? 公私混同しないで、お仕事もちゃんと頑張って、でもお仕事だと看護師はカルテを渡す時くらいしかお会いできませんから、すごく寂しかったのに……」
「あー……うん、悪かった、それは」
寂しそうに言うマーレになんとなく申し訳なさが湧いてきて、がりがりと頭を掻きながら、どうしたものかと思案する。
確かに、一週間で結論を出すと言ったのはこちらだし、実際マーレはきちんと公私混同せずに一週間待ってくれた。
それに真摯に応えられないというのは、男としてどうかという以前に人間としてどうなんだという感じである。
「で? どうなんですか?」
鴇色の大きな瞳は、ぱっちりとした睫毛に縁取られて純粋な光を宿しながら鳴海に尋ねた。
言わずとも目が語る大きな期待と緊張は鳴海にも伝わって、先ほどコーヒーを飲み干したばかりだというのに妙に喉が渇く。
どう切り出したものか。
結論は出ているのだ、実のところは。
そう思いながら、結局マーレの目を真っ直ぐ見ることもできずに「えーと……」と言い淀んでから、答える。
「……嫌いじゃ、ない」
「嫌いじゃないってどういうことですか!」
「嫌いじゃない、というのは、嫌いじゃないということだ」
「理屈になっていませんよ!」
マーレは強引に鳴海の襟首を引っ張ると揺さぶって、今にも泣きそうな声を漏らした。
「……嫌なら、素直に断ってください……半端に希望を残されたほうが、つらいです」
揺れる声に思わず彼女の顔を見れば、その双眸は潤み、今にも零れそうな涙が溢れている。
……ああ。
鳴海は、ただ黙ってそのままマーレを抱きしめた。
ふわりと、どこか懐かしいような花の香りがする。
女性特有の柔らかな身体は、思っていたよりも細かった。
「分かったよ、俺の負けだ……好きだよ、マーレ」
「鳴海、さん……!」
不慣れな抱擁に、マーレは応じてくれる。
細い腕を鳴海の背中に回し、しっかりと抱きしめ返してくれた。
――と言っても、仮にもここは職場なわけで。
待合室の掃除が終われば、診察室の掃除に看護師が入って来る。
そう思えば、長くこうしているわけにもいかない。
少しの名残惜しさを感じつつ、マーレの体温を手離す。
彼女はそれすらも寂しいとでも言うように、鳴海の白衣の裾をちょこんと掴んだ。
「……上がったら、俺の家に来い。……と言うより、一緒に帰ればいいのか」
「……はい!」
マーレは微笑んで頷く。
合わせて、涙がぽろりと頬を伝った。
それから、鳴海とマーレの秘密の交際が始まる。
看護師や蓮華に気取られては――蓮華は、察していたかもしれないが――気まずいので、秘密に、ということに。
マーレは初めこそそれを不服そうにしていたが、必要以上に話題を荒げたくないという鳴海の心境を知ると、理解を示してくれた。
「そういえばマーレ、別にここで働く必要ないんじゃないか? 稼ぐ必要が無くなっただろう」
カルテを受け渡しするという刹那の逢瀬の中、鳴海は尋ねる。
言外に『養ってやる』と言っているのだが、まぁそこまでは10言わずとも伝わると信じたい。
問われた彼女は不思議そうにきょとんとしていたが、「うーん」と唸るとこう返してきた。
「でも私、この仕事結構気に入っちゃったんですよね。顔見知りの患者さんも増えましたし」
「そうか……でもお前、旅していたんだろ? その目標とか目的とかは無いのか」
「目標……ですか」
す、と。
目を逸らした。
今まで、何があっても絶対にその鴇色の双眸で鳴海を見据えて来たマーレが、目を逸らした。
まるで、突かれたくない藪を突かれたかのような顔をして、『それ以上触れてくれるな』と言外に言っている。
……何か、隠している。
鳴海にはそんな直感があった。
結局マーレから『目標』について語られることは無く、その場は別れる。
仕事中なのだ、そう長々と雑談にも耽ってはいられない。
あの時のマーレの顔。
何かを隠しているような、心にしこりを残すものだった。
答えは、彼女からきっと明かしてくれる。
そう信じて、鳴海はマーレには問わないでおこうと心の内で決めた。
マーレに違和感を抱いてから、半年が過ぎる。
鳴海の心のうちに生まれたしこりが、記憶の地層に埋もれて消えかけた頃。
『話がある』と言うので、じゃあいつものようにどこかの酒場にでも、と思ったら引き止められた。
家で話したい、と言われ、テーブルを挟んで向かい合う。
マーレの表情は暗く沈んでいた。
自分がなにかまずい事をしただろうか、という不安が生まれたが、心当たりがない。
一体彼女が話さんとしていることがなんなのか不明瞭なまま、ただ鳴海はマーレが語り始めるのを待った。
珍しくきっちりと正座をしたマーレは、重々しくも、しかしはっきりとした口調でこう告白する。
「私、記憶が一年保たないんです」
「は……?」
その告白の意味を理解するのに、脳内で数度彼女の発言を反芻する必要があった。
記憶が、保たない。
保たないということは要するに、『忘れてしまう』ということだろう。
鳴海は茫然として、口を開いては――しかし、何も言えなかった。
言葉が、見つからない。
そんな鳴海を見て、マーレは自嘲するように笑う。
「だから旅をしていたんです。同じ人と一年以上接していると、だんだんおかしなところが出てきちゃうから」
そうか。
あの時マーレが見せた『らしくない』表情は、鳴海にいつか見せてしまうであろう『おかしなところ』を想像したのだ。
旅の目標。
そんなものは『無かった』。
彼女はただ、自分のせいで違和感を抱く人を生まれさせない、ただそのためだけに、人と長く付き合わないで済む道を選び進んでいるだけだ。
しかし、マーレは言っていた。
『人との縁というものは非常に尊く、尊重すべきものである』と。
いつか忘れてしまう旅路の中、誰かの記憶に自分の存在を残す――。
マーレの旅に『目標』は無くとも、『目的』は、そこにあった。
「私、鳴海さんのこと忘れていきたくない。だから本当は、離れたくない……けれど、私はいつか鳴海さんと『初めて逢ったとき』のことを忘れてしまう。それはすごく悲しいし、失礼なことです」
ぽろぽろと、音も無く涙が頬を伝う。
話す合間の度に唇を引き結んで、嗚咽を我慢しているように見えた。
涙を拭うこともせずに、マーレの吐露は続く。
声は、震えていた。
「こんな私じゃ、鳴海さんのこと、いつか絶対に傷つけてしまう。鳴海さんのこと、本当に大切だから……嫌な思いをさせたくないんです。だから、そうなる前に」
手が、伸ばされる。
白く柔らかな両手は鳴海の頬に触れた。
そこには確かな体温のぬくもりがあって、驚愕に言葉を失った鳴海の頬を柔らかく包む。
「言いましたよね、私。人の記憶を消せるって」
「まさか、お前――ッ!」
――『頭に触れれば、記憶を消すことができる』。
確かに彼女はそう言っていた。
楓月堂に勤め始める頃に。
「ごめんなさい。さようなら、鳴海さん。……好きでした。私の、最初で最後の、本当に……大切なひと」
少し身を乗り出して、薄いくちびるが鳴海のそれに触れる。
ほんの一瞬、ふたりの関係を清算するには、あまりにも足りない。
拙い、不器用なキス。
それが、最後だった。
「……あれ」
気が付けば眠っていたらしい。
陽は傾いて西日が窓から差し込んでくる。
酒を呑んだ記憶も、眠りに就いた記憶もなかったが、今の状況は『眠っていた』と判断するしかなかった。
「ん……?」
身を起こして、違和感がひとつ。
テーブルに、カップが『二つ』載っていた。
あまり家に人を上げることもないのだが、上げた時くらいは茶を出すようにしている。
しかしその相手の姿は忽然と消えていて、気配すらない。
それにそもそも、誰かを招いた記憶もなければ、上げた記憶もない。
……まあいいか。
些事に囚われていては、大局を見失う。
おそらく蓮華でも招いたのだろう。
彼が相手であれば、油断して自分が寝落ちしたことにも説明がつく。
まるで狐に化かされた気分だったが、そうしないと説明がつかない。
ふむ、何の話をしたんだかな。
それは明日にでも蓮華に訊いてみよう、と思った。
眩しい西日を遮るように、カーテンを閉じる。
カップを台所に下げると、再び眠りに就こうとベッドに身を投げ出した。
――夢を見た。
長い黒髪を風に靡かせ、無邪気な鴇色の瞳を持った女性が、遠くで自分の名前を呼びながら、手を振っている。
彼女に近付こうと走っても走っても、届かない。
手を伸ばしても、届かない。
自分の手は悲しいほどに短くて、影すら掴むことが出来ず、彼女は蜃気楼のように消えてしまった。
声だけがふわりと響いて耳朶を打つ。
『さよなら』。
2016/5/15