『Burnet-吾亦紅-』
クロイツ
サード
モブの少年A
その他モブ
「アル、話があります。夕食の後、僕の部屋に来てください。一人で」
「え? う、うん……」
王国アリア・クラン、イルディ港町の海沿いに建てられたゲラセンルーエ教会には、孤児院が併設されている。
一日五回行われる祈りやミサには子ども達も参加しており、この孤児院に預けられている少年、アルもまたその『子ども達』の一人だった。
仏頂面と不愛想と他人行儀を混ぜこんで煮詰めたような性格をした牧師である青年、クロイツは、そんなアルに声をかけると、さっさとどこかへ消えてしまう。
クロイツは銀糸のような髪を肩の上で切り揃え、サファイアのような蒼い瞳は怜悧な輝きを持ち、隙も乱れも無い牧師服に身を包んだ、一見すると『近寄りがたい』と言われても仕方ないような人物。
今は、丁度19:00のミサを終えたところ。
順当に考えれば、夕食の準備の為に食堂へ消えたと考えるのが妥当なのだが、用件だけ話してさっさと消えてしまうクロイツは、アルにとって『接しづらい』相手の一人だった。
「アールー。何暗い顔してんだよ」
こつん、と頭を小突かれて振り向けば、そこに居たのは義理の姉にも等しい少女、サードの姿。
長い常盤色の髪をポニーテールにしてまとめ、前髪で隠れた左目は見えないが、右目は紅縞瑪瑙のように赤い。
冷たい態度で一貫したクロイツの妹にあたるのだが、彼とは対照的に砕けた態度で、相談でも雑談でもなんでも乗ってくれる、孤児達にとっては姉貴分のような存在だった。
クロイツが接しにくい人物であることが、余計に彼女を親しみやすくさせている。
サード自身も、それを理解して振る舞っている節があるのだが、そこまではアルの知るところではない。
「サード姉ぇ! あのさ、さっきクロイツ兄ぃに、ご飯の後部屋に来いって言われたんだよ。俺、怒られるのかな?」
困ったように眉尻を下げながら、子ども特有の真っ直ぐな疑問をサードにぶつけた。
『怒られるかもしれない』という不安は至極尤もであり、もし子どもが悪さをしたらこの教会と孤児院の親玉であるクロイツが叱る立場に居るのは不動のものだ。
しかし、サードは肩を竦めて首を振る。
「それは無いね。兄さんは怒るならその場で拳骨飛ばす。私だったら飛ばされる」
「そ、そうなのか……じゃあ、何なんだろう?」
アルは、ヘーゼル色の瞳と同じ色をした短髪の持ち主の、9歳の少年だ。
物心つくより前に親に捨てられて7歳までスラム街でその日暮らしの生活を送っていたところを、孤児を保護するために巡回していたサードに拾われて、孤児院の世話になるに至る。
スラム街で暮らしていた頃の栄養状態が悪いせいか、身長は123cmと、アリア・クランの9歳男児の身長にしては平均と比べて少し小柄なほうだ。
しかしこの孤児院に拾われてまともな食事や運動が出来るようになってからは、めきめきと身長が伸びているし、いずれ平均にも追いつくことだろう。
「そんな深く考えないで良いんじゃない? 少なくとも、悪い事じゃないと思うよ、私の予想だと」
「だと良いんだけれどなぁ……」
「ほら、それより飯だ飯。兄さんに怒られるかも、なんて杞憂で飯が不味くなったらそれこそ勿体ない。飯を食う時はいついかなる時も心が豊かでなければならんのだよ、分かるかね?」
腰に手を当ててふんと鼻を鳴らして偉そうな口を叩いたサードは、後ろからやってきたシスターに首根っこを掴まれてずるずると連れて行かれた。
……彼女は曲がりなりにも『保護者側』の立場の人間なので、食事の際は準備の手伝いをして当然なのである。
ほどなくして、食堂での夕飯の準備が整った。
ライ麦パンに煮込んだキャベツ、蒸し焼きにした白身魚。
雪深い国であるアリア・クランの平均的な夕食の光景だ。
この孤児院の収入は主に信者からの献金や寄進であり、牧師であるクロイツが癒しの力を持っているため、怪我の治療の礼や、もし怪我をしたとき綺麗に治して貰えるようにと寄進を弾む者が多い。
そのため、大勢の孤児を抱えていても成り立っていた。
食事の前の祈りの言葉をクロイツが述べ、皆が静かに目を閉じて手を合わせれば、次の瞬間には賑やかな夕食の時間が始まる。
「もー、アル! わたしの目の前でそんな暗い顔しないでよ! ご飯が美味しくなくなっちゃうじゃない!」
アルの向かいに座った少女、シスがぷりぷりと怒りながら声を張り上げた。
彼女はアルとほぼ同時期に引き取られてきた8歳で、2年前泥と埃にまみれていた髪は、今はその頃のなりを完全に潜めた美しい金の輝きを湛えて肩から背中へと流れている。
そばかすと元気なテンションが個性の、アルとは引き取られてきた時期が近い事から腐れ縁のような関係だ。
「んだよ、うるせぇなぁ! お前はクロイツ兄ぃに呼び出された事がないからそんな事が言えるんだよ」
「呼び出された事、あるよ?」
「げ、まじかよ」
とろとろになるまで煮込まれたトマトベーススープのキャベツ煮をフォークで切り離しながら、シスは歌うような声色でその時の状況を語り始めた。
「あの時はねぇ、怪我をして運び込まれた人がいたの。わたし、お湯やタオルを用意して、クロイツ兄様が来るまで手当てしてあげたのよ。そしたらね」
「そしたら?」
「やってきたクロイツ兄様が怪我をしたところに手をかざしたら、ふわーって光って、あっという間に傷が塞がっちゃって! その後呼び出されて」
「呼び出されて?」
「よくやってくれました、これは皆には内緒ですよって言って生キャラメルを3つもくれたの! あー、アレは本当に、美味しかった!」
ぱぁっと花の咲くように笑うシスは、どうやら生キャラメルを貰った時の事を思い出したようである。
シスもアルもまだまだ幼気な子ども、甘い物にはだいたい弱い。
しかもこの孤児院、不便はしていないが余裕があるわけでもないので、生キャラメルなんてものはたとえアリア・クランの名物と言えど贅沢品なのだ。
アルはがたんと音を立てて立ち上がると、大声でシスを非難し始めた。
「生キャラメル!? はー!? なんだよそれ、めちゃくちゃ羨ましい!」
「ふっふーん、生キャラメルが羨ましければ、アルも積極的にクロイツ兄様をお手伝いすることね!」
偉そうな口調でそう言ってのけると、シスは再び夕飯を摂らんとフォークを握り直す。
アルはシスにまたも何か言おうとしたが、二人の大声を聞きつけてやってきたシスターに叱られて、「ごめんなさい」と謝ると黙々と夕食に向き直った。
そうして、夕食を終えて食器を台所に下げれば、クロイツの部屋に向かわねばなるまい。
シスが生キャラメルの話をしたのは助かったかもしれない。
彼女が暗い顔をした自分を非難してあんな風に楽し気に語ってくれなければ、夕食を完食できなかったかもしれなかった。
クロイツの部屋は、子ども達の寄宿舎とは教会を挟んだ反対側に建てられた建物の中にあった。
こちらは牧師であるクロイツを含めた、シスターやサードなど『保護者側』の人間が寝泊まりしている。
しかも彼の部屋はその最奥にあるので、アルの不安感を余計に波立たせた。
シスターやサード達はまだ夕食の片付けをしているのか、人の気配はない。
ランプ片手に窓から月明かりの差し込む廊下を進んでいくも、その足取りは重かった。
シスのように、生キャラメルを貰えるような事をした記憶も無い。
「アル」
やにわに名前を呼ばれて、びくりと肩を震わせ振り返る。
そこに居たのは、ランプを右手に持ち、聖書を左腕で胸に抱き、背筋を伸ばして佇むクロイツだった。
「先に来ていたのですね。夕食の片付けをしていたら遅くなりました。では、僕の部屋に行きましょうか」
相変わらず淡々と無表情のまま、自分の部屋に来いと告げるクロイツ。
一人でも居心地悪かったが、彼が一緒ではもっと居心地が悪い。
シスやサードのように気軽に雑談を投げかけられる相手でもなく、かと言って、自分を保護してくれている立場の相手に不躾な態度を取れるわけもなく。
結果、『どうすればいいのか分からない』状態になってしまうのだ。
ただでさえ身の振り方を知らない9歳の少年であるアルに、正解なんて分からない。
結局無言のまま、クロイツの部屋へと着いてしまった。
「どうぞ、入ってください。座って」
ドアを開けながら先に入ったクロイツが、ベッドサイドテーブルにランプと聖書を置くと、部屋のランプに火を灯す。
ぼうっ、と微かな音を立てて、柔らかな光が部屋に広がった。
座れ、と言われたので、とりあえずベッドサイドテーブルに据え付けられていた椅子に腰を降ろす。
腰を落ち着けてもなんとなく居心地が悪くて、視線はクロイツや、本棚や、暖炉などあちらこちらを行ったり来たり。
「寒いですか?」
「う、ううん。大丈夫」
振り返り尋ねてきたクロイツに、ぶんぶんと首を振って声を跳ねさせる。
おそらく、『寒い』と言えば暖炉に火を点けてくれるつもりだったのだろう。
しかしアルが大丈夫だと答えたからか、クロイツは暖炉に火を点ける素振りは見せなかった。
――そういえば俺、クロイツ兄ぃのこと、何にも知らないな。
ふと、そんな考えが頭を掠める。
――サード姉ぇだったら、寒いと思えばさっさと火を点けるだろうけれど、こういう所まで節約するのが、いかにも『牧師サマ』って感じだな。
そんなアルの心中を知ってか知らずか、クロイツはもう一脚ある椅子を引き寄せると、アルと向かい合わせになるように向きを揃え、腰を降ろした。
乱れも隙も無いその態度に、アルは思わずごくりと唾を飲む。
「さて、アル。手短に行きましょう。貴方に引き取り手が現れました」
「……え?」
心の準備もへったくれもないアルに、突如投げかけられた重要極まりない出来事。
その言葉の意味を理解するのに、アルはクロイツの言葉を3度か4度、心の中で反芻した。
「え……っと。あの、俺に? 引き取り手……って、俺、ここ出て行くの?」
「そうです」
「なんで俺? ベックのほうが足が速いし、シスのほうがクロイツ兄ぃを手伝っているし、ルカのほうが頭だって良い」
アルの心に去来したのは、喜びよりも戸惑い。
自分よりもっと、引き取られるに相応しい子どもは居る。
そう思った矢先、口は勝手にそれらを発していた。
自分より優れた仲間たちの名前を。
「引き取り手にそのような事情は関係ありません。向こうが、貴方を選んだ。それだけです」
「選ん、だ……?」
「引き取られるのは今日からちょうど1週間後の朝食の後です。仲の良い子が居るのであれば別れの挨拶を、手紙を認めたいのであれば便箋をあげます。遅れないように荷物を纏めておいてください。この1週間で」
抑揚も温度もない声が、ただただアルの耳朶を打つ。
信じられない。
信じられない。
俺は気が付いた頃にはスラム街でゴミを漁る生活をしていて、サード姉ぇに拾われて、仲間が出来て。
そこから、新しい家族に――引き取られる?
それ以上何も言おうとしないクロイツに何かを問う気も起きず、アルは部屋を後にした。
本当にただ、事実を淡々と告げられただけ。
シスは、喜んでくれるだろうか。
それとも、抜け駆けだと怒るだろうか。
ベックは。ルカは。メリーは。
――ああ。
自分で思っていたより、ここで過ごしていた2年間はかけがえの無いものだったのかもしれない。
気が付けば、アルの双眸からは暖かい涙が溢れていた。
それを拭うこともせずに、涙は頬を伝って、ぼろぼろと床に落ちていく。
――あと1週間で、皆ともお別れだ。
「えぇっ!? アルのくせに、引き取ってもらえることになったの!?」
次の日シスに打ち明ければ、案の定素っ頓狂な声をあげて驚かれた。
「しーっ! 声がでけぇよ! まだシスにしか話してないんだから!」
口の前に人差し指を立てて当て、『静かに』と言うと、シスは申し訳なさそうに身体を縮こめる。
それから小声で尋ねてきた。
「ご、ごめん……でもなんでまずわたしなわけ?」
「いやぁお前とは一応、引き取られた時期も同じくらいだし、ご飯の時も向かいだし、それがこれから無くなると思うとちょっと寂しいなと思って」
「は? 嫌だ気持ち悪い。最後の最後にそういうのいらないから」
「お前なーっ! このなーっ! しんみりした空気の時になーっ!」
結局しんみりした空気は打ち破られて、二人の大声を聞きつけた仲間たちがぞろぞろと集まって来る。
そうして、アルが引き取られて行くことが孤児達の間で周知の事実となるのに、そう時間はかからなかった。
「よっ、幸せ者」
「サード姉ぇ……」
日課の一つ、墓所の掃除をしていると、サードがマントを羽織って片手を挙げながらやってくる。
おそらくこれから彼女は『仕事』である、孤児を探しに行くのだろう。
その前に、アルに顔を見せに来てくれたのだ。
「暗い顔すんなよ。幸せなことなんだよ? この世界にはね、今でも泥をすすって、生きるだけで精いっぱいの奴がいる。そこから救い上げられたんだよ、アルは」
「うん……分かってる。俺、サード姉ぇやクロイツ兄ぃ、シスター達には感謝してる、よ」
ざり、と箒が地面を擦る音がする。
供えられた花が枯れ落ちたせいで散らばった花びらを掻き集めているところだった。
サードは頭の後ろで腕を組むと、すらすらと流れるようにこう続ける。
「まぁ、環境が変わるのに不安感を抱くのは当たり前だとは思うけれどね。でもアル、あんたには強みがある。それはその人懐っこさだ」
「人懐っこさ?」
「それは武器になる。新しい環境でも、アルは上手くやれるって、私が保証してやるよ」
「サード姉ぇ……」
彼女の後押しを受けて、アルはようやく微笑みを取り戻した。
サードは「そうそう、その顔」と満足げに言うと、仕事へと出かけてゆく。
「そう、だよな……俺、幸せ者、なんだよ……な」
今の生活に不満は無い。
ゴミを漁って生きていた頃と比べたら、遥かに幸せなのだから。
しかし、自分はこれから一般家庭に引き取られていくのだ。
それはもっと――幸せな事、らしい。
烏兎怱怱、時が経つのは早いもので。
アルが引き取られる日が、やってきた。
「こーしてあんたと一緒にご飯食べるのも、これが最後だなんてね」
感慨深げに言うシスに、アルは軽口を叩く気にもなれずただ頷く。
「シスは良い奴だから、きっと近いうちに引き取り手が現れるよ。俺に現れたくらいなんだからさ」
「そーね。落ち着いたら手紙ちょうだいよ。読んであげなくもないから」
これが最後なのだ。
腐れ縁の彼女に、素直な心情を吐露すると、シスもまた素直な――とは言い切れないかもしれないが――態度で応じてくれた。
朝食を終え、歯を磨いたら、寄宿舎の自分の部屋へ。
荷物はそう多くない。
「アル」
迎えに来たクロイツと、もう一人、見慣れぬ男性が傍らに立っていた。
男性はクロイツより少し背が高い。
クロイツは成人男性にしてはあまり背が高いほうではないので、まぁ平均的な身長の持ち主と言えるだろう。
「皆に、お別れを」
「……はい」
荷物を詰め込んだ鞄の持ち手を握りしめながら、振り返る。
「……みんな、2年間、本当にありがとう。俺はみんなより先に、ここを卒業します」
声は、震えていた。
駄目だ。
駄目だ。
おめでたい事なんだから、泣いてはいけない。
そう思っても、暖かい液体が頬を撫でる。
しかしそれを拭うことはできなかった。
拭おうとも思わない。
これがきっと、2年間此処で過ごした証なのだから。
「みんなにも、幸せを。……さようなら!」
クロイツが言うに、もう一人の男性は『ちゅうかいにん』というものらしい。
クロイツ達ゲラセンルーエ教会と引き取り手の橋渡し役らしいが、説明を受けてもアルの拙い頭ではいまいち理解が出来なかった。
要するに今しか会う事のない人だということで、まぁ覚えなくてもいいか。
というのが、アルの弾き出した結論だった。
馬車に揺られる事およそ15分で、目的地に着いたらしい。
ホテルのような施設で、看板には『Кукареку』とある。
「くくりくー?」
「鶏の鳴き声のことですよ」
疑問を思わず口にしたら、クロイツに拾われた。
それだけを告げて馬車を降りる大人二人に慌てるように続いて、鞄を握りしめながらアルもホテル・ククリクーへと入っていく。
子どもじみた名前とは裏腹に、天井にはシャンデリアが吊るされていた。
初めて目にしたシャンデリアを見上げて、アルはぽかんと口を開けて呆気に取られる。
『引き取り手』はロビーに居た。
「やあ、久しぶり。3カ月ぶりくらいかな? 『ツヴァイト』さん、『ドリッド』さん」
鼻の下に髭を蓄えた男性は上等なスーツに身を包んでおり、品の良い革製のアタッシェケースが小脇に置かれている。
一目で、金持ちだと分かった。
しかし、アルの頭に去来した違和感。
――『ツヴァイト』『ドリッド』って、誰の事だ?
「ええ。こちらが件の。アルと言います。人懐っこく、体力もあり、良い子ですよ」
クロイツが背中を押して、アルを男の前に立たせる。
動揺して振り返ろうとするも、クロイツの手で乱暴に男の方を向かされた。
男は品定めするような睥睨をアルの頭のてっぺんからつま先までじろじろと向け、1分か2分ほどそうしていただろうか。
「ふぅむ。そうだね。元気そうで良いじゃないか。よく『働いてくれそう』だ」
「お気に召したようでなによりです」
――え?
ちょっと待って、クロイツ兄ぃ。
俺、この人の『家族』になるんだよね?
『選ばれた』んだよね?
なんだかまるで、『召使い』になるみたいじゃないか。
そんな話、聞いていない。
クロイツ兄ぃ。
クロイツ兄ぃ。
おしえてよ。
疑惑は言葉にならない。
空気を求める金魚のように、声にならずぱくぱくと口を開閉させるだけで、アルはただ呆気に取られていた。
「では、これを」
男性はアタッシェケースを、ケースごとクロイツに手渡す。
「確かに受け取りました」
一揖して、クロイツはそれを受け取った。
それらの動作はまるで何度も何度も行われた、慣れきったものに見える。
――クロイツ兄ぃ、それの中身、なに?
「……早速『帰ろうか』。アル」
男はにっこりと笑うと、立ち上がり、アルの両肩に手を置いた。
「え、あの、待ってください……!」
「君に選択権は無いんだよ」
動揺して男の手を振り払おうとするも、ぱしん、と小気味よい音を立てて右手を掴まれる。
そのまま捻り上げられて、恐怖に「ひっ」と喉奥がひくついた。
肺の奥がぎゅうと押し上げられたかのように、呼吸の仕方が分からなくなり、不規則に呼気を吐く。
心臓はぐらぐらと煮えるようで、奥底から押し上げられるような感覚。
「ここはね、本来であれば君のようなスラム生まれの汚い子どもが入れるような所じゃないんだ。高級なホテルなんだよ。そのロビーで私に恥をかかせないでくれ」
「ご、ごめんなさい……!」
反射的に謝ってしまう。
――クロイツ兄ぃ、フォローして!
そう思って振り向いたが――いつの間にか、クロイツと『ちゅうかいにん』の姿は霞のように消え失せていた。
置いて行かれたのだ。
アルの頭でも、理解できた。
その事実にただ呆然として、気が付けば両目からはぼろぼろと液体が溢れ出す。
「さぁ、やり直しだ。『帰ろうか』アル?」
男の口は綺麗な弓型を描く。
射竦めるような視線に、遂に身体の制御が効かなくなって、アルの身体はがたがたと震え出した。
しかしそれも織り込み済みであるかとでも言うように、男はアルの手を引いてホテルを出ると、豪奢な細工の施された馬車へとアルを放り込む。
「……っ」
――そういえば、シスが言っていた。
『落ち着いたら手紙をくれ』と。
しかし、アルの記憶に、引き取られて行った子どもから手紙が来たことなど殆ど無い。
それが意味するものは、果たして。
――これから地獄が始まることを、幼い心は予感していた。
2016/5/6