『リーグァンは眠らない』
羽黒杏子
羽黒桃子
【お借りしたPC】
蘇芳 (SHOWさん)※名前だけ
リーグァンは眠らない。
たとえ空に夜の帳が降りようと、この街は眠りを知らないかのように、随所にともる灯りが消されることはない。
歓楽街に飛び交う客引きの声、酒場から漏れ聞こえる笑い声、それらが混然一体となって、『流民繁華街リーグァン』の空気を作り上げていた。
この街の歴史はジャングリラでは浅い。
と言うのも、かつて『存在していた』国、鳳華国からの流民が住民の過半数を占めるからである。
鳳華国は滅んだ。
神国アズマの東方の海に浮かぶ島国であったが、今からおよそ500年前、突如海の蒼に呑まれ、消える。
裏で糸を引いていたのは、とある一人の邪仙。
邪仙の手で列島の大火山が噴火したことにより地殻変動が引き起こされ、鳳華国は海に沈む運命を辿った。
その邪仙は、調停機関『ラタトスク』の手によって処罰されているが、行く宛てを失った鳳華国の者の殆どはアズマに渡ることとなる。
アズマに移住した鳳華国民が作り上げた街こそが、このリーグァン。
鳳華国の文化を色濃く残したまま栄えたこの街は、アズマではやや異色の街とも言えよう。
しかし、決してアズマの手を離れた街ではない。
リーグァン最大の特徴として、『星辰会』と呼ばれる組織が自治している事が挙げられる。
彼らはこの街が栄え、大きくなっていくにつれて治安の悪化が問題視され始めたおよそ400年ほど前に発足した。
黄道十二星座の名前を宛がった組織がそれぞれ様々な業務を担当しており、それらのトップに立つ幹部は『十二星宮』と呼ばれる。
星辰会はアズマ朝廷に絶対の忠誠を誓っており、その代わりにリーグァンの自治権を得ていた。
時にはアズマの警察組織である『八咫烏』とも情報を共有して動くため、その母体は大きく磐石なものと言えるだろう。
さて、そんな星辰会の幹部の一人、羽黒杏子は忙殺されていた。
「はぁ~ん……今日も朝から書類書類書類。右手が疲れましたぁ」
彼女は星辰会では『水瓶座』、『天網恢恢』の幹部の任に就いており、主に会計や朝廷との連絡役、内偵などを担っている。
しかし、杏子は鳳華国の者ではない。
――『覚』。
『覚妖怪』とも言われる種族。
その能力である『読心』は忌み嫌われ、彼女の一族は疎まれるたびに移住を繰り返して生きて来た。
流れるような生活の果てに偶々行きついたリーグァンで『星辰会』が彼女らの能力を評価し、当時の『牡牛座』の幹部に引き抜かれる形で一族ごと『星辰会』の傘下に収まる。
覚達の中でも最も情報処理能力と記憶力に優れた杏子が幹部となり、他の仲間たちは部下として働いている。
『星辰会』に引き取ってもらえたおかげで覚の立場があやふやなものから確かなものとなり、言わば『恩』がある状態のため、杏子達は『星辰会』として動くことに異議は無い。
そんな心を見透かす淡いアクアマリンの垂れ目がちな瞳は、デスクに鎮座したキャンドルスタンドの上で揺らめく炎をぼんやりと眺めていた。
老人のように長く白い髪は、ゆるくウェーブを描きながら顔を覆い隠すように垂れこめ顔に影を落として、その表情も決して明るいとは言えない。
普段であれば彼女は人当たりが良いのか悪いのかわからない笑みをにこにこと張り付けているのだが、誰も居ない今わざわざそれを浮かべる必要は無かったために、『素』の顔をさらけ出していた。
部屋の灯りは落とされており、光源はデスク上のキャンドルの炎だけ。
それが揺れ動くのに合わせて、顔に落ちた影もゆらゆらと不規則に揺蕩う。
書類仕事をしていた万年筆をデスクの上にぽいと放るとぶらぶらと右手の手首を動かして、背もたれに背中を預けた。
小休止と行こうか、と杏子の頭に掠めた頃、こんこん、と遠慮もへったくれもないノックが響く。
誰何もせずに、「どうぞぉ」とノックの主に入室を許した。
必要が無いからだ。
不審者であれば、そもそもこの建物に入れない。
杏子自身は非力であるが、彼女を守る用心棒はそうは行かないし、なにより『星辰会』の幹部がおいそれと誰かに面会を許すわけがないのだ。
そこから弾き出される答えは簡単。
――ノックの主は、杏子とは少なくとも顔見知り以上の関係である。
しかもこの時間なのだ。
どう考えても、来訪者としては無礼に感じられるくらいには、時計の針は深夜を示していた。
それでも杏子との面会を許されるような関係と来れば、それこそ同じく『星辰会』の幹部くらいのものだろう。
「失礼する」
毅然と、芯の通った声が響く。
女性にしては少し低く掠れたアルト。
その声の主を、杏子はよく知っていた。
「あらぁ、トーコちゃんじゃないですかぁ。これはまたどうもぉ」
「夜分遅くにすまないな。姉さんのことだからどうせ起きているだろうとは思っていた」
しっかりとした足取りで入ってきたのは、羽黒桃子。
杏子の妹だ。
姉とは対照的に、淡いルビーの瞳はつり目がちで、髪もさっぱりと短髪に整えられている。
杏子は妹の急な来訪に不快感を示すこともなく、やんわりと口を弓型にすれば立ち上がり、彼女を出迎えた。
桃子はインドア派の杏子とは対照的に武闘派で、幼少の砌から野良犬や猪を退治していたほどである。
そこにさらに覚としての能力と、それを反映させ意のままに動く性質を持った三節棍『意到随筆』を持ち合わせた彼女は、大抵のチンピラを一人でいなせるくらいには強い。
彼女は『星辰会』のメンバーであるが、『水瓶座』の構成員ではない。
厳密には、かつては『水瓶座』の用心棒、杏子の部下として働いていた。
しかし、『他の組織にも覚を置いたほうが良いのではないか』という杏子の意向により、今は『獅子座』の『禽獣組』幹部である蘇芳の秘書に就いている。
桃子の言う、『どうせ起きているだろう』というのは、杏子の不規則極まりない生活のことである。
杏子の平均睡眠時間は、およそ三時間。
寝ろと言われればはいそうしますとアイマスクを着けて3分で就寝し、起きろと叩かれれば3秒で起きる。
「待っててくださいねぇ、今お茶でも淹れますからぁ」
杏子のために設えられた事務仕事用のデスクの他に、来客に応じるためのローテーブルが部屋の中央に鎮座していた。
その両脇に据えられたソファを示しながら簡易キッチンに入ろうとした杏子を、桃子は止める。
「あぁ、待ってくれ。差し入れがあるんだ」
言いながら、右手に提げていた紙袋から小さな包みを取り出す。
杏子は桃子に歩み寄ると、それを受け取った。
「あら……? これは、お茶っ葉、ですかぁ」
アルミの袋に貼られたシールに並んだ文字を見て、杏子は満足げに微笑む。
ちょうど小休止しようとしていたのだ、都合が良い。
しかも。
「まぁ、アプリコットティーだなんて」
そう言って、杏子はくすくすと声をあげて笑った。
桃子は腰に手を当てると、少しだけ砕けた雰囲気になって、こう応じる。
「まさに姉さん向きだなと思ってな。元々はボスの頂きものなんだが、分けて貰ったから。どうせなら姉さんと飲みたいなと思って。それに、姉さんは不摂生だから、たまに顔を見ないと心配で。まぁ、こんな時間に来訪する私に言えた事ではないが」
「本当ですねぇ。あと10時間は早く来てくれたら、部下にスコーンでも買いに走らせたのに」
お茶を沸かしますねぇ、と言って簡易キッチンに消えた杏子の背中を見送り、桃子はソファに腰を降ろした。
数分後、トレイに紅茶を二人分載せた杏子が戻ってくる。
「んん~、いい匂いですぅ。それにしても蘇芳さんに紅茶の差し入れなんて、一体どういう魂胆なんですかねぇ?」
「魂胆もなにもないさ、ただその人が紅茶店に勤めていた、というだけだよ」
アプリコットティーの馥郁とした香りが漂う中、二人は談笑に耽り始めた。
桃子の上司であり杏子の同僚である蘇芳は、あまり人を寄せ付けるようなタイプではない。
まず風貌がかなり厳ついというのと、態度も『粗暴』と言ったところが相応しく、こんな繊細な贈り物をしそうな人間が近寄るとは思い難いのだ。
「うちは孤児院も経営しているだろう。そこの出身の人がな、ボスに恩返しがしたいと思ったらしい」
「なるほどですぅ。でも、蘇芳さんに紅茶はちょっとイメージと違いますねぇ。なんて言ったら、失礼でしょうかぁ」
桃子の説明に得心がいったようで、杏子は頷きながらティーカップを持ち上げると、くん、と鼻を鳴らした。
フレーバーティー特有の甘い香りに、表情を緩めると口を付ける。
「あれ、姉さん。ミルクはいいのか?」
ミルクを落としながら桃子が尋ねた。
姉は確か、紅茶にはミルクと砂糖を少しずつ入れる人だったはずだ。
桃子の記憶は、そう語る。
それに、彼女の持ってきたティーセットには、きちんとミルクと砂糖のポットがあった。
カップを一度ローテーブルに置くと、杏子はぽんと手を叩いて語り出す。
「キョーコも以前アップルティーを頂いたことがあるんですけれどねぇ? その時に教わったんですよぉ。フルーツ系のフレーバーティーは、あまりミルクを入れない方が香りを殺さずに済む、とね」
「……そういう事は私がミルクを入れる前に言ってくれないか?」
苦々しい顔をする桃子に対して、杏子は心底おかしそうにけたけたと笑った。
もしかしたらわざとかもしれない。
人をおちょくるのが好きな姉の事だから、こうなることを見越してわざと桃子がミルクを入れるまで待っていた可能性がある。
「大丈夫ですよぉ、聞いた話だとベリー系とアプリコットは『少しなら』ミルクを入れても大丈夫らしいですからぁ」
「ああ、そう……」
最早これ以上突っ込む気も起きず、桃子は『少しだけ』ミルクを落としたアプリコットティーに口を付けた。
甘やかな香りに反してしっかりとした紅茶特有の苦みを持ちすっきりとした後味で、純粋に『美味しい』と称賛できる。
「美味しいな」
「美味しいですねぇ」
馨香漂う執務室の中で、ひとときの憩いの時間。
書類に追われて時間を忘れていた杏子にとって、こうして時間がゆっくりと流れるように感じられることは至極幸せなことのように思えた。
休みを取ろうと思った時に妹が手土産付きで現れてくれるとは、偶然としてはあまりにも嬉しすぎる。
「それにしても、こんな時間まで仕事とはな。……忙しいのか?」
どこか言葉を探るようにしながら、桃子が問う。
それには軽い口調で応えた。
「まぁそこそこ、ですねぇ。部下に任せても良いんですが、キョーコは自分が働くのは良くても人を動かすのはあんまり上手くないんですよねぇ」
「その割には言動で人を転がしている気がするが」
「そこはほら、ご愛敬ですよぉ」
肩を竦めてぺろりと舌を出して誤魔化そうとする姉に、はぁと溜息を一つ。
彼女の言動にいちいち本気で取り合っていたらキリがない。
「そういうトーコちゃんの方こそどうなんですかぁ? 景気のほうは」
「別に変わりやしないさ。ボスも私も、いつも通りだ」
投げかけられた問いをさらりと流して紅茶を一口。
しかしその答えが不満だったらしく、杏子は口を尖らせた。
「もう少し面白い返事をしてくださいよぉ」
「姉さんは私に何を求めているんだ……?」
「ただでさえ面白い蘇芳さんの下に居るんですから、何か面白いネタとか引っ張ってきてくださいよぉ」
蘇芳のどのあたりが『面白い』のか皆目見当も付かないが、少なくとも姉が不謹慎なことを考えている事は分かる。
桃子は眉根を寄せて、杏子を咎めた。
「……そういうのはフェアじゃないからやらないんじゃなかったのか?」
「嫌ですねぇ、流石に冗談ですって」
杏子も桃子も、目さえ合わせれば心を読み取ることが出来るのだが、信頼に関わるため星辰会や八咫烏の構成員にむやみにその力を行使することはない。
さらに言えば、蘇芳の心を読むチャンスがあったとしても、彼の心のうちを読むことは『不可能』なのだ。
蘇芳は精神干渉系の能力に耐性を持っているため、読もうとしても強いノイズが走る。
こくん、と紅茶を飲み干してカップを置くと、杏子は莞爾と笑った。
「あー、それにしてもトーコちゃん、よく見計らったようなタイミングで来てくれましたねぇ。キョーコ、丁度休もうと思っていたところだったんですよぉ」
「それは流石に偶然だな。私たちはお互いの心は読めない」
それは彼女達覚の一族にも同じこと。
彼らもまた、精神干渉系の能力には強い抵抗力を持っていた。
テレパシー、洗脳、読心などの大抵は通用しない。
「さて、お茶もご馳走になった事だし私は帰ろうかな。残りの茶葉は姉さんが飲んでくれ」
「はぁい。差し入れ、わざわざどうもですぅ」
杏子と同じペースで紅茶を飲み終えた桃子が立ち上がると、それに合わせて杏子も立ち上がり、帰ると言う彼女の為にわざわざドアを開けに行った。
長身、長髪、そして美しい瞳を持つ彼女のなよやかな動きは嬋娟たるものであったが、ややこしい性格のせいで蘇芳からは『根暗女』『サトリ女』などと呼ばれているのはここだけの話。
杏子はそれに対して特に不快感を示したことはない。
それだけお互いが同じ『星辰会』の幹部として気を許している証左なのだ。
蘇芳なりの親愛の情を表現した結果なのだと、杏子はそう捉えている。
もちろんそれを彼本人に言ったところで素直に応えてくれるわけがないので、直接的に聞いた事は無い。
「じゃあな、姉さん。お休み」
「はぁい、お休みなさい」
杏子の開いてくれたドアから部屋を出ると一度振り返り、桃子は少しだけ口角を上げて笑った。
それから踵を返した彼女の背中をゆるく手を振りながら見送り、曲がり角に溶けたところでぱたりとドアを閉める。
部屋の中を見渡すと、窓の向こうでは、柔らかい黎明の空気が呼吸を始めたのがカーテン越しに見てとれた。
「もう少し仕事をしておこうかと思いましたが……トーコちゃんにも『お休み』と言われましたし、ちょーっとだけ、眠っちゃいましょうかねぇ」
誰に言うでもなく呟いてくすりと笑えば、杏子はゆるやかな動作でデスクに歩み寄ると、机の上に散らばった書類を一纏めにし、とんとんと机の上で叩いて整える。
それから本棚からファイルを引き出して仕舞いこむという一連の片付ける動作を終えると、執務室に鍵をかけて帰路についた。
どこかで、雀の囀る声が聞こえる。
――リーグァンは、眠らない。
2016/5/6