空を飛べなかった
私は、口下手だった。他人が気を使って友好的に接してくれたとしてもそれに応える事がどうにも苦手な女子高校生という立ち位置を確立させている。それ故か私は、饒舌に話す人がどうにも羨ましいと思うと同時に煩わしくもあった。しかし、そんな高校生活でも、友というのはできるものだ。とはいっても、私ごとき人間に数多くの友人がいた訳がなく、所謂、親友という人間が一人だけいたにすぎない。
存外、それはとても幸運なことだ。私のような口下手に、クラスで人気を有していた加奈という女の子とお近づきになれた事は、神様に感謝したく思う。
ところで、私は女であるが、恋多き若き男女のような行動力はない――と云いたいが、すまない、嘘をついた。私にないのは行動力ではなく、単純に人を愛そうという慈愛の精神が荒野の砂ぼこりのように何処かに消え去っているのだ。ところが、話はそうはいかないこととなる。三月の初めの事だった。二年間通った道。正に登校中のこと、急に麻縄を締めたような音が聞こえたのだ。馬鹿のように好奇心だけはあった私は、制服を翻して近づいた。黄緑色の穴あきフェンスが、どうにも邪魔であった。だが、覗くのには十分。瞬間、音はやがて力強く弾けて風船みたいに破裂した。
「……かっこいい」
私は恋をした。頭はポカンとした。しかし、胸の暖かみになんだか嬉しくなって、穴あきフェンスを強く握ってしまう。
少しだけ我に返って観察してみると、そこは弓道場であった。
そして、先ほどの音は引き絞られた弓の軋む音である。キュルリと撓った音が、阿呆みたいにピンと素っ頓狂な音を発して放たれる。その優雅さは私を虜にした。そういえば、音に恋をしたのは遊園地のメリーゴーランド以来だから、幼稚園以来だろう。我ながらクレイジーな恋をした少女時代だった。しかし、よくよく私は変てこな恋の仕方をしているように思う。これについては、親友の加奈も知らない。私は半狂乱だから、普通な加奈に、益してやクラス中の人気者に悪影響を与えてしまっては、私はクラス全員の敵となってしまうだろう。
そして、そういう人間には多少の気遣いは必要だと思っている。それでさえ友人の少ない私の相手をしていただける加奈に感謝したくて仕方ないのに、悪習を学ばせてしまっては私の立つ瀬がないと思ってもしようがないだろう。
しばらくたって、弓道場からまた音が聴こえた。しかし、先ほどのようにポカンとも胸がかっと熱くなるわけでもない。単純に先ほどの音ではないのが残念である。結局、音の持ち主はわからぬまま学舎に向かった。
教室では、友達の加奈が笑いながらおはようといって宿題がやったとかやらないとかについておしゃべりした。席についてからも、今日は現代社会は自習であるとかないを加奈は楽しそうに話した。全く饒舌である。しかし、加奈の舌は不思議と嫌味がなく聞けた。
だが、私はそれどころではなかった。いつもであれば、彼女の一歩的な会話にちょこちょこと頷くものだった。そんな私を見て、加奈は不思議に思ったのだろう。
「大丈夫?」と云った。
「……」
私は、黙って小首を傾げて加奈を見つめた。加奈は、私と違って可愛い。パチパチと開いた瞳。綺麗な白い肌。どこか儚げな雰囲気。私が男であったなら惚れたに違いない。だが、彼女の唇に誘惑された事があった。私の体の何処か、脳でなく心でない場所に彼女への好意を愛情だと勘違いする化学反応が起こっているのではないかと思った。しかし、残念ながら、私には彼女を抱きしめるような特殊な愛情はどうやらまだないらしい。
「加奈はかわいいな」
私の顔が少しほころんだのに対して、加奈は軽蔑したような眼をした。
「私の話聞いてなかったでしょ」
それからは、加奈はそっぽを向いたままであったのでホームルーム前の貴重な談話時間は終わった。けれども、私はそれで構わなかった。寧ろ都合が良いとさえ思った。空想妄想。目を瞑って自分の世界へと入り込む。
白と紺色の袴が似合う細身な姿。それでもどこか力強さのある背中が魅力的な青年。そんな造形を愉しんだ。きっと家に帰って反省することになる。帰りに神社にでも寄って反省の念を告げようと思った。猛省。
ところで、あの音を聞いた時の感動は忘れることができない。感銘を受けたというのはこのことではないかと考える。冷静になってみれば、破裂音がしただけである。だが、平凡の中の非凡。弓道場は、私の次元には存在しなかった。だからこそ、そんなことで私は恋をしてしまったのだ。
午前の授業が終わると、早速、加奈と昼食をとることにした。
「その前に私にいう事があるんじゃないかな」と加奈は今朝の事を怒っていた。
私は一言謝罪を告げて、購買のサンドウィッチで手を打つ裁断を整えた。
「今日は購買のサンドウィッチなんだ」
それはそうだろうと思った。私が買ったものであるのだから。
「だから、」
「もう、冷たいな。そこは私もって続くとこでしょ」
「いや、ないから」
我ながら加奈は時に変な子だと思う。自分は半狂乱だから、比べることはおこがましいことだったけれど、彼女を普通だは決して云えないのでないかというのが私の意見だ。
だが、不思議と人の輪の中にいる加奈と人を寄せ付けない雰囲気の私ではどこがちがうのだろうか――彼女は子供じみていて人懐っこく笑顔が似合う女の子。私は冷徹で、内気な人間である。なんとも腹立たしい自己分析だ。私は、その憤りをコンビニのゴミ箱に放り込むように話を替えた。
「加奈は好きな人っている?」
「いるよ」
あっさりと応えた加奈に驚愕した表情を悟られないように、購買で買った山彦のような名前のお茶を一口飲んだ。
「お母さんに、弟、後、お父さんもかな」
私は、なんとなくそんな気がしていたからと強がってみたが、安心してつい頬が緩んだ。
「違うって、そういう好きじゃなくて……、特別な男の子ってこと」
加奈はあまり考えていなかったのか、悩む様子もなく、いないと応えた。
「でも、なんで?」
自分の思惑が見透かされているわけでもないのに、鳥肌が立つような身震いがした。間を置きたかったのが本音だが、お弁当の卵焼きを一口食べた。
「好きな人ができたんだ」
小さな体が急にはしゃぎだし、机から身を乗り出してやけに大きく見えた。その余りの圧力に一瞬たじろいだ私は正直に顔は見ていないと云った。すると、加奈は膨らんでいない水風船みたいに元に戻った。
「それで、好きな人もいない私に何が聞きたいのかな?」
「なにもそんな風にいわなくても……」
加奈はくすりと小さく笑って、暫く下を向いた。そしてまた、私を一瞥すると踵を返すように下を向いてけらけらと笑った。
「殴る」
「待って、だってあの彩が、」また笑った。
「彩、あんなに男の子を毛嫌いしてたのに、これじゃあ笑うって」
お箸をおいて引っ掻いてやろうかと思ったが、加奈は私の期待していたことを聞いてくれた。
「別に嫌いじゃないよ。ただ、」
私は昔、家庭について男の子に虐められて以来、男という人種を疎遠にしていた。怖いのだ。乱暴に私を殴り、引き千切るかのような握力をもっている手が怖い。いや、おぞましい魔手だとさえ思っている。体の自由を容易に奪う魔手。一時は、女性の手を見ただけでも恐怖を感じた。しかし、加奈という無二の親友の手は恐怖しきった心を包みあげてくれた――そんな彼女の手は特別だ。私が思い出に耽っていると加奈は急に立ち上がって私を教室から連れ出した。
「助言なんてできないけど、行ってみない?」
確かに画期的な案だった。今朝から熱っぽかった頬が蛍みたいにゆんわりと赤くなってまた澄んだ音を思い出させた。心なしか鼓動が早くなって落ち着かなかった。ただ、内心気乗りもしなかった。私はその感覚がどうにも府に落ちず、窓をちらり眺めると窓から風が吹き抜けた。ほんのりと火照った頬の熱と相まって心地良く、純情めいた乙女心にぽっと火がついて今朝の妄想が浮かんだ。しかし、そのありもしない妄想は、一瞬の風になって流されるのである。
冷静になって考えてみれば、顔も名前も知らないのである。ましてや、性別もわからないのであるから加奈にはとんだ説明をしてしまったのかもしれない。私はあくまでも音に恋をしたのだ。そんな事を彼女に云うわけにもいかず、学校中を聞き回る彼女の後ろをついて行くことしかできなかった。
当然見つかる筈もない。しかし、強ち間違った推理をしていたわけでもなかった。加奈が聞き回った生徒は全て弓道部の知り合いや部員だったのだ。奥手な私は上級生の教室にどかどかと入って行く加奈を教室の外から見守ることしかできない上に、例の病気持ちの私は、リノリウムの床をずっと見ていた。そして、そればかりを気にするようにしてなるべく人を見ないようにした。
数分たって話が終わったのか、加奈は教室から出てきた。結局、一度教室に戻ることになったのだが、放課後に部活に行くことになってしまった。正直な話、私の意図しないところで話が進んでいくことに違和感を覚えた。感謝したい気持ちが半分といった具合だったろう。しかし、ほいほいと後ろをついていったのは彼女の言動に感服したとしか思えない。加奈にこれほどまで探偵の才能があるなんて考えもしなかったのだ。
放課後、私と加奈は例の弓道場に足を運んだ。しかし、少し早かったのかあの音どころか、似たような破裂音さえも聴こえなかった。安心した。胸を下すかのように肩からいっきに力が抜けて顔の火照りも収まったように感じた。
「まだ、早かったね」
加奈はやや力なく云ったが、内心いなくて良かったと思った。相談した手前、加奈に後ろめたさがあって付き合ってしまったが、私自身この不安定な気持ちに身を投げるのはまだできそうになかったというのが本音だった。優柔不断な私には、これが原因で悪い結果を生んでしまったらと考えたらどうにも許せそうになかったのだ。でも、だからといって奥手の私を引っ張ってくれている加奈の行為を私に止めることはできそうになかったのは真実であり、だからこそ私に残されていた選択肢は加奈の制服の裾を力なく引っ張って後ろをついて行くことしかなかった。
「ちょっと待ってみない」
加奈は胡乱なく私を見つめて微笑んでいた。私には自分の為に夢中になっている女の子を止められなかった。薄暮には遠いその陰りない瞳に、私は小さく俯くのだった。
それから暫く経って、音が鳴り始めた。風を掻っ切るような締まった音が的へと届く。そのすぐ後には例の炸裂音が木霊する。そして、何度もその音が木霊し始めると、加奈は私へと振り返って、興味深々な表情で一喜一憂するのだ。時折、一目ぼれしたかのような後味を私の胸に残す音がして内心喜ぶのだが、また別の音が体に響いて、今朝のようにときめかなかった。
数時間ほど経つと音も絶え絶えになった。同時に辺りの薄暗さに数本の照明が弓道場を包み込みまぶしくなった。
「もう遅いし帰ろう」
提案したのはやはり加奈であった。申し訳なさと残念さが入り混じった曖昧な表情をしている彼女に、私は考える素振りだけ見せるのみだった。
加奈と別れると、踵を返したかのように弓道場が気になった。しかし、迎春の冷気が制服に覆いかぶさるとその考えも一掃して帰路に進ませた。しばし歩くと小さな物音が私を惹きとめた。胸が熱くなって鼓動が強くなった。澄んだ空気が音を空から降らせる。それは雪のように素肌に触れては解けてゆく。私は不思議とその降ってくる音に近づいて行った。そして、その音が大きくなるにつれて私の鼓動も早くなる。最後には駆け足になってその音を追いかけていた。おとぎ話のような想像がふとこみ上げて、今朝のあの感動が蘇えった。そして、ある一つの予感がするんだ。
やがて、降り注いでいた音は正面から聴こえるまでになった。静寂とした雰囲気に時折キリッと聞こえる歯軋りのような聞き苦しい音が響いて沈んだ気配を打ち砕いた。
ついに――は、脇の林道から聴こえるまでになった。ふと、自分の熱気に我に返ると、蒸気機関車のようにぼうぼうと噴出す息と歯軋りのようなべたついた汗が額から一筋ぽとりと滴っていた。
林道には、新宮神社という石看板が立っている。私は、思い出したかのように携帯を取り出して時間を見ると、家に帰るには門限を守れそうになかった。焦燥感があった。だが、ここまで来てしまったら興味がどうにも抑えられそうになかった。私はお母さんに一通メールを送ると同時に林道へ足を進めることにした。
林道は思いのほか暗かった。床冷えのようなぞわぞわした寒さが恐怖を煽った。道に落ちている木の葉や枯れ枝の音がさくさくと私の心を囃したてて、風も林というフィルタを通すとおどろおどろしかった。先ほどの音もしない。私は急に怖くなって振り返った時、音が鳴った。違和感のある奇妙さが私の心にチクリと刺さると、するっと消えてまるでシャボン玉みたいだった。
「そんなとこで何をしてるんだ」
唐突に聞こえた声に私は驚いて尻もちをついた。なんだか自分がとても悪いことをしたのではないかと思ってならなかった。
「――変な音が聞こえたので、」
上ずった声だったが、精一杯大きな声を出した。
「……そうか、もう遅いから気をつけて帰れよ」
少し落ち着いて聞くと男の人の声だった。薄暗くて輪郭がぼやっと浮かんでいただけだったが、背は私より幾分高く、袴のような服を着ていた。ふと、神社の神主ではないかと思った。しかし、顔は見えない。ただ、花火のような静かな声だった。
「あっ、――あの、何をしてたんですか」
草履の音が遠くに行くのを私は阻んだ。すると神主さんは立ち止まった。
「――もう遅い、どうしてもしりたいなら、明日、少し早く来ればいい」
神主さんはそういうと見えなくなった。
次の日、学校が終わると一目散に校舎を飛び出した。鞄がブラブラと揺れて自分がはしゃいでいるのがわかった。信号がとても煩わしく、『とおりゃんせ』というフレーズしかわからない曲がとても遅く聞こえるほど私は期待で一杯だった。
そういう心境だったわけで、新宮神社には思ったよりも早く着いた。昨日とは違って、日は暮れていなかった。心躍っていたものだから気付かなかったが、具体的には少しとはどれくらいなのだろう。そう思っていた矢先、林道から恋する音が聴こえた。小路から吹き抜ける風を体感した。雑木林は風が強い。その音は風上にあるのだろう。一際大きな音のように感じた。私が、その昨日の彼がまたふらりと遣って来た。
「来たのか、」
彼はそれ以上何も云わず、背中を向けて歩きだした。私はというと距離を保ったままおどおどと後ろにひっつくのである。
彼が案内した場所は、細長い空間だった。赤土が敷かれた長い滑走路みたいな長方形。その先には赤白黒の的が三つほど立っていた。
私は、それが弓道の一種であることが想像できた。すると、彼は一頭の馬に跨った姿で現れた。服装も歴史の教科書でしか見たことがない面白い恰好だった。平安時代の警察――検非違使だったか、そのような面持ちだった。
それから、少し離れて颯爽と馬から降りた彼は馬の横顔を撫でると私の傍まで来た。
「流鏑馬ってわかるか、」
私は俯いたのを伺ったのか、彼は頭を掻いて話を続ける。
「見た方が早いな」
そういうと彼は、馬に跨り、両足をばたっと閉めた。すると、馬は歩きだし、やがて走りだした。ずいぶん遠くになったところで、彼は数百メートル先の方から一気に近づき弓を引いた。馬の駆ける音が、どんどんと近づくにつれて、私の胸は期待で高鳴った。そして、引かれた弓は流れるように的に吸い込まれていく。破裂音がした。あの音だった。すでに私のときめきは、最高潮。どうにかもう一度見せてもらえないかと思い切ってみると神主さんは、もう一度だけ見せてくれた。
目が慣れた私でも彼の動きは繊細でいて美しかった。弓が取り出される間は馬もみない。勿論、馬も主人が落ちないようにと、できるだけ正面を走っているのだろう。それは寸分の狂いもなく起こっていた。気付けば二本目の矢が放たれていた。瞬間だった。カーンという音が林を突き抜けた。
流鏑馬が終わると少しずつ速度が緩やかになって、慌ただしさがなくなった。
「これでいいだろう」
彼はぶっきらぼうに言うと私を帰らせた。拍子抜け。正にそれはお気に入りの玩具を取り上げた子供のような喪失感だった。しかし、それは私の中で一種の呪いのように思い出されるべき衝撃だったのかもしれない。だからこそ、私はここで終わってしまうことに、後悔するのではないかと思った。例えばそれは、魔法少女のポシェットをねだった時の泣きっ面ではなく、ありのままを受け入れることがどうにもできない心境だ。
私は徐にひた帰る足を止め、振り返った。
「また来ていいですか」
精一杯の声に彼は振り無かなかったが、右手をひょこりと上げて歩き続けるのだった。
次の日から、私は彼の元に通うことが日課となった。
「すいません。お名前をお聞きしてませんでした」
彼は憮然とした態度のまま、額に掛った前髪を掻いた。あまり熱心に聞いてはいなかったが、自己紹介をしてくれた。暫く、それからの日々は変わらなかった。
けれども、一週間たった日、例の弓道場からあの音が聴こえた。清涼感のある音だ。私は焦ってフェンスに向かった。だが、内心で、もわっとする悪を感じた。浮気心。浮ついた心が私の何処かで蠢いているのかもしれなかった。だが、あの軽快な心を囃したてる音が大好きなのだ。だからこそ、この清涼感のある音の正体を明かすことを決意したのである。
翌日から、私は加奈を連れて見学に行くことにした。終始驚いた表情だったが、快く受け入れてくれた加奈には感謝した。
道場では、部長の戸田という人がいろいろ講釈を垂れていたが、私も加奈も聞き入れることはなく、ただただ意識は活動にしか興味がなかった。いよいよ、部活動を見せてもらえるようになってからは――といっても隅で座っているだけだったが随分楽しいものだと思った。的を射る清涼感がひしひしと伝わり、綺麗に射ることができると激しい炸裂音が弓道場の内部で聞ける。びくびくしていた頃とは違った。
突然、一人の部員が挨拶をした。すると、辺りの空気が一変して重くなった。沈黙、自然の音が異様に聴こえた。加奈は、もじもじと体をくねらせて足を弄っていたが、私は目の前の真実に驚きを隠すことが精一杯だった。
「見学の方ですか?」
慇懃に応える袴姿は魅力的だった。どこか彼に似た雰囲気の人。そっくりな物でも見ているかのようなむず痒さがあった。
ふと、隣から足を擦るような音がぴたりと止まった。不思議に思って加奈を一瞥すると、くねらせていた動作をぴたりと止めて顔を火照らせていた。
「初めまして、この学校の非常勤講師兼、弓道部の指導をさせていただいております。高瀬です。まあ、腕前はまだまだなんですが――」
高瀬は気恥しそうに頬を緩ませていた。私は、加奈の顔を一瞬目に入れると私の後ろに呆けている小動物の背中を押した。
「初めまして、私の名前は、高木 彩といいます」
「……私は、水野 加奈といいます」
「今日は、急にすいませんでした」
加奈の髪がふわっと持ち上がると、高瀬は呆気にとられた表情をした。
「全然構いませんよ。寧ろ、有り難いものです」
固まった表情が崩れてくすりと笑うと加奈はちらっと私を見た後、顔を上げた。
それから暫く、私たちは弓道場の隅で正座をすることになった。加奈は、浮ついた心がまだ表情に出たままだったが、私は例の音を探すことに自棄になっていた。
「先生、指導の方よろしくお願いします」
高瀬は慇懃に応答すると、先ほどまでの緩みがあった頬が締まり、無表情に近い顔をした。その姿をまじまじと見ていた小動物に私はカマをかけるのである。
「高瀬さんって、かっこいいよね」
加奈は足を崩し、姿勢を体育座りに移行して小さく頷いた。
「入部しようか?」
次の日から、私は弓道場に赴くのも日課となった。しかし、私は途中で辞めるつもりである。無論、加奈の付添いでの入部それが私の計画だ。
一か月がたった頃には、加奈は高瀬のことを話す時が一番楽しそうになった。良く笑い。よく頬を赤らめる。私は父母のような感覚に陥っていた。大切なものが嬉しそうにしている姿は、とても暖かく心にしみわたった。私と加奈お互いに幸せになれればいいと思った。
やっぱり私も直人さんの事が好きなのだ。