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一 夢

背もたれにもたれて眠る妻の顔を見る。

 小さくてまるい鼻。

 まるい目にかぶせられた瞼。

 その瞼が微かに揺れる。

―お前はどんな夢を見ているんだ?―

私は今見たばかりの夢を瞼の裏に映し出してみる。

二人で泊まったペンションの一室。まるでさっきまで長い間誰かが暮らしていたかのような生活感が漂ってくる汚れた部屋だ。ベッドの横の椅子にリュックを置いて、コップ一杯の水を二人で交互に飲み干す。椅子に置いたリュックの下が気になる。使い古したリュックを摘まみ上げると、手のひら大の死んだ蜘蛛が二匹、腹を見せて転がっている。足の太い黒い八本の足を見ながら、自分が持ち込んだものだと思い出す。ぼうっと見ていると、その中から大きな蟻が何匹か這い出してくる。「やっかいなことになった」と、私が呟く。蟻たちは腹を白い液でいっぱいにしているせいで動きが鈍い。すると部屋の天井を旋回していたアシナガバチたちがゆっくりと降りてきて、蟻たちを捕まえて蜘蛛から引き離し、ヘリコプターがホバリングするように蜘蛛の上に留まっている。黙って見ていた幸絵が小ぶりなブリキのバケツを私に手渡した。私の手指は器用にそれを受け取った。

「ありがと」

「you’re welcome」

「なぜ英語?」

「意味なんてないわ」

 幸絵が小さく笑う。

私は蜘蛛を一体ずつバケツに入れる。ちょうど二体がバケツにぴったりと収まった。

窓際に進んでカーテンを開けと薄い光で視界が霞んだ。鍵のかかった窓を開ける。かたい網戸が音を立てて動く。バケツをバルコニーに出すとアシナガバチも蟻と共にバルコニーへ出る。窓を閉じ、カーテンを大きく開ける。うす曇りの空から降りてきた光が部屋を浸した。

私は幸絵の寝顔を見ながら“welcome”の意味を考える。

―歓迎される―

「意味なんてないわ」夢の中の幸絵が笑う。


私はバス座席で改めて両手首を眺める。失って久しいはずなのに先端に、まだ熱が残っている。夢でバケツを掴んだ感覚が確かめられる。しばらく見えない手を握ったり広げたりしてみる。何度か続けるうちに、酔いが覚めるようその間隔は霧のように散っていった。

隣で眠る妻の腕時計は午後五時を指している。軽井沢高原に向う道は、霧に包まれている。五月の連休が終る日から宿泊を始める私達夫婦を乗せた送迎バスには、他に若い女性の二人連れが乗り合わせていた。

高原の入り口に当たるところに建てられた美術館が、開設記念としての出展を依頼してきたのだった。私としては自分の作品が飾られている美術館に赴くことなど好まないのだが、軽井沢に行きたいと幸絵がせがんだので、できるだけ人出の少ない時期を狙って出かけてきた。妻の幸絵とは先月入籍を済ませたばかり。こちらの仕事の都合で式はまだ挙げていない。彼女にとっては初めての結婚。我慢をさせているという思いはあるが、彼女は嫌な顔せず待っている。忙しく、旅行に連れて行くなどいつになるのかと、困っていたところだった。

 幸絵はよく眠る。ふくよかな寝顔、とでも言うのだろうか決して太っている訳ではないが、彼女が目を瞑って眠りに就いているのを見ると私は安堵する。根暗で禁欲的な自分のどこに幸絵は惹かれたのだろう。ふた周り近く歳の離れた夫婦。盛りを越えた冴えない中年の私と、蕾をその中に隠しているような幸絵。性格も正反対で、彼女は自分の思いに素直で明るい性質だ。

彼女は旅に出る。海に潜り、異国を巡り。やがて戻ってくる。

そして花のようにそこにいる。

私がオフの時は、二人の朝食の準備をし、午後は家の周りを散歩する。その後キッチンで夕食を一緒に作ったり、近くの店でワインを飲みながらディナーを楽しんだりする。そんな日常に戻る。彼女はふと気づくとそこに咲いている花のように、ただそこにいる。彼女と結婚して、「お前の絵は変わった」と誰からともなく言われ始めたのが一年ほど前からだった。画家にとって作風が変わるのは、ごく自然なことだと思っている。誰にでもライフステージが変わる度に考え方や付き合う友人達が移り変わる様に。画家それぞれに作品の変容がある。私もその他多くの画家の例に漏れず、その変化は何度かやってきた。幸絵と出会ってからやってきた私の作風の変化は、画家仲間や批評家の言葉を借りれば「変調した」そうである。そう言われた当の私は、悦びもしないし、悲しみもしない。それまでも、これからも私は自分の見たまま、感じたままをキャンパスに描き出すだけなのだから。それはきっと吸い込んだ息を吐き出す行為に近いのだと思う。そんな自意識の濃い思いに耽ってしまったのは、このバスの落ち着かないほど不自然に静けさを漂わせているからだろうか。

隣を離れて、大きなフロントガラスから見える夕闇の景色を楽しもうと運転席のすぐ後ろの席に移動した。運転手は客が少ないせいかことさらリラックスした様子で、独り言を呟きながらハンドルを握っていた。バスはうねった坂道を登る。エンジン音が音のない車内に響いてくる。道脇に植えられたカラマツが、芽吹いたばかりの枝を車道に覆い被せるように伸ばしている。火山灰で痩せた土地にも生えるカラマツを人々が植えたというのを教えてくれたのは好きな幸絵だった。

時折対向車線を走る車のヘッドライトだけが、ぼんやりと霧の向こうから見えてきては通り過ぎていくだけなので、楽しむべき景色には出会うのは諦めた。

 さっきまで最後部の席で歓声を上げていた二人連れも、音を立てないところを見ると、寝入ってしまったかスマートフォンをいじるのに夢中になっているのだろう。バスの中に響いているのはエンジン音と運転手の独り言だけだ。

 ヘッドライトと濃い霧だけの視界に私は胸のざわつきを抑えることはできなかった。ついさっき見た夢は、確かに私を揺さぶり始め、私の心は元の状態を取り戻すどころか、次第にそのバランスを崩されていくようだった。

バスが辿り着くのは、美術館に近いホテルだった。そこにはこの春に描き上げたばかりのいくつかの作品と、私のデビュー作が並べられることになっている。それが私を揺らしている。あの絵の孕む底知れぬ恐怖は今の私を恐喝したり強請ったりせず、少し離れた物陰からじっと私を見ているように感じられた。今さらながら私はあの作品のオファーを断らなかったことを悔いていた。

妻は絵画にはほとんど関心がなく、幸いにして私の仕事には口出しもしない。いずれにせよ画家としての私を世に認めさせた作品を見せないでいようと決めていたのに。


二 船出

私は二年間の浪人生活の末、ある美大に入ることができた。写生や彩色の技術には自負するところがあったが、友人の中には、希にだが私よりも上手い者もいた。

再考しよう「ただし名の通った美術系の大学を出ても、画家として食っていけるのはほんの一握り」、「そもそも表現者として世に問いたいものが己の中になければ、画家たりえない」。そんな周囲の声が気にはなっていたが、それなりに身を入れて絵を学んだが、もとより人物や事物を本物そっくりに写すのには写真には敵わないし、画家として生きてゆく厳しい現実を目の当たりにすると、浪人生活に費やした二年間が馬鹿らしく感じることすらあった。少しずつ湧き上がった諦観は、一度姿を現すといとも容易く燃えていたはずの野心を薄れさせた。芸術に対する未練が全くないといえば嘘になったが、短大卒の年下の恋人との結婚を決めていたことも手伝って、「芸術より現実」と頭を切り替えるた。卒業作品も片手間に仕上げ、卒業と同時に郷里に帰った。

あっさりと画家への道を改め、郷里に戻って教師の職に就く。早めに準備を進めた甲斐あって、十倍の倍率の教員採用試験を突破し、実家のある町の隣町にある中学で美術教師となった。

子どもに絵を教えながら、たまに気晴らしに絵を描く気ままな生活を送る。都会の喧騒や芸術家同士の競争から離れ、妻と家族を作り悠々自適な生活を送る。それも悪ない。芸術の才能がある人間など五万といる。そしてそれを磨くのも人並み外れた精神力と胆力が必要なことも知っていた。同時に、自分にそのような才能も力も覚悟もないことも既に知っているつもりだった。

しかし、新しい理想を暖めていた私は四月当初から壁にぶつかった。無論、絵を描くのは好きだ。朝から晩まで描いていても飽きることはない。でも、それを教えるのはまた別の問題だったのだ。だが、そんなことはいざ教えてみなければ分からない。一つ二つ指示を出せば自動的に生徒達が鉛筆を動かし、デッサンを始めるとばかり思い込んでいた。常識や目的のある大人に絵の描き方を教えるならまだしも、興味もやる気もない生意気盛りの中学生に絵を教えるのは、私からすると神業だった。そう思えるくらい子ども達は私の言うことを聞かなかった。男子生徒は配った端から画用紙に落書きを始めたり、丸めて窓から捨てたりした。ひどく授業が荒れた。女子生徒には、暗い、きもいと聞こえる声で陰口を叩かれ、少し優しく構えてやれば、えこひいきをすると悪評を流された。やることなすこと全て裏目に出る毎日に夜は眠れず、本格的な夏を迎える前の七月上旬のある朝、私はとうとう布団から出られなくなり、仕事を休んだ。

一週間ほど休んで復帰してはみたものの、美術教師は学校に一人しかおらず、指導方法も誰からも教えてはもらえなかった。新任の教師にはよくあることだと先輩教師には慰められたが、いつになっても惨状は改善しなかった。子どもが好きだった美術が嫌いになったいう保護者からの苦情に、気持を支える棒が音を立てて折れたのが分かった。

秋休み明けの十月末で休職を願い出た。教師が気を病んで休むこと自体、今の時代珍しくない。治ったらいつでも復職すればよいと周りは慰めたが、初老の校長は老婆心だと添えながらも、他の職を探したほうがいいと戦力外通告を私によこした。だが、すぐには辞められない事情がその時の私にはあった。妻が子どもを身ごもっていたのだ。

療養休暇が認められる半年のうちは、給与の六割が支給される。その間に新しい就職先を見つけなければならない。地元で就職活動を始めたが、一社たりとも私に興味を示さなかった。美大卒という経歴からだろうか、私は他の業界では全く役立たずの経歴を呪ったが、ある会社の人事担当が言った。

「覇気がない」

それは経歴より重い印象なのだろう。不採用の責任を帰せられないと分かり、なおさら落ち込んだ。

休職は四ヶ月目に入っていた。教職からの「戦力外通告」を受け、就活生として烙印を押された私の目に、腹の膨らんだ妻が何も言わずにこちらを見る。私は視線を逸らした。

三 再出発 

休職が認められるのは半年まで。退職まで残り二ヶ月となり、身重な妻を抱えての失職は我ながら恐れを感じた。残り二か月、その数字が当時の私を追い込んだ。教職には戻れない。他の仕事へも就けそうにない。それならば一度逃げた画家への途にもどるほかない。画家への途にもちろん勝算などない。ただ、微かだが、望みがない訳ではなかった。

―庸子。

その名を口にした瞬間、体に痺れが走り、胸の奥で何かが鳴った。庸子との出来事は私の中で、まだ朽ちていなかった。

 庸子は、真空管に保存されていたかのように、時間の浸食から免れ、詳細な記録であるかのように風化せずに私の体内に在った。掌にのせた物を見るように、少女との出来事の一つ一つを思い出すことができた。 

庸子が転校してきたのは、中二の夏。夏休みを翌週に控えた暑い日だった。

校舎のペンキの塗り替えで、廊下の窓には青いシートがかけられ、教室には風は全く通らない。湿気に加え通気も悪く、鬱陶しい空気が校舎全体に滞留していた。どこにいても気持ちの晴れない日が続いていた。夏休みまでの数日は回送列車をホームに立って見送るように、惰性で過ごしてしまおう。教師と生徒に共有された怠惰な空気で教室が満たされていた。

彼女の席は私の後ろに用意された。身長は平均、華奢な身体をしていた。透き通るような白い肌が長袖と長く伸びたスカートから覗いていた。彼女が担任の後に続いて教室に入ってくると、ざわめきが起きた。この暑さで長袖か、と数名の男子がこぼした。担任はその声を遮るように、半袖の制服が手違いで届かなかったのだと代わりに説明した。

教卓の横で紹介を受けている間、彼女は絶えず狼狽したように視線を至る所に向けた。少女はクラスの序列では、「二軍」と揶揄される部類に格付けされることを私は確信した。教室には男女共に明確なヒエラルキーが存在し、男女ともピラミッドの上層に立つ少数の「一軍」が多数の「二軍」を支配するという秩序を形成していた。女子の序列は男子よりもあからさまで、二軍の中にもさらに細かな序列がしかれていた。筆箱につけるキーホルダーや髪の毛を結うゴムまで「一軍」と「二軍」では異なった。発言力のない「二軍」の女子が少し派手なピンク色のゴムで髪を飾ってきた日の放課後には、その女子の筆箱が女子トイレの便器の中から見つかるのだった。見つかるところに隠されるのが常だった。

少女が横を通り過ぎると、タバコと私の知らない異臭を含んだ風が彼女を追いかけるように私を撫でいった。彼女の印象にそぐわない臭いが、凪いでいた私の胸のうちを騒がせた。

私の後ろには新しい商品の価値を見定めようとする客のように、数名の「二軍」の女子たちが群れたが、少女の釣れない反応に、その日のうちに潮が引くように彼女たちは去った。そして、庸子の転入などまるでなかったことのようにそれまでの気だるい教室の風景に収まった。

 夏休みあけの席替えで、庸子が私の右側に来てから、私の生活はにわかに変わり始める。褐色に肌を焦がした他の女子とは違い、彼女の白い肌は一層その白さを増したようにさえ思え、また、以前にも増して病的ですらあった。背丈も伸び、私より少し目線が上にある彼女の視界に自分が入っているのだろうかと知らぬ間に私は庸子を意識していた。私は自分のどこかが彼女の何かにひきつけられていることを無視できなくなっていたが、私のどこが、絵に描いたような日陰者の少女の何にひきつけられているのかは全く分からなかった。庸子の体が成長した分スカートの裾はやや短くなり、全身から大人びた魅力を醸し出しているように思えた。妙なことに、変わらず首筋に汗を浮かせながらも長袖のシャツを着ているのだった。

気づかれないように庸子のいる右側に視線を向けることが多くなっていた。彼女が席を立ち、背中を見せて前へ歩いていく時、私は存分にその後姿を見ることができた。ある日短くなったスカートから伸びるふくらはぎにかけての白い肌に、茶色い染みがついているのに私は気づいた。以前からあったのがスカートの丈が短くなったために現れたのか、それとも新しく痣が出来たのか判別できない。その時から彼女が背中を見せる度に、私はそのふくらはぎの染みを探すようになった。見たことのない萌芽が私の胸に息吹いていた。


四 接触

気持ちを持て余す私へ、庸子の方から手を伸ばしてきたのであった。なんと数学の授業中、ノートの切れ端をよこしてきたのであった。それは誰にも気づかれないように極自然な動きであった。小さな紙切れには、私の横顔が描かれてあった。スポーツ刈りの髪型をした私は実にうまく描けていて驚いた。しかし、当の私は、彼女の奇想天外なそんな振る舞いにどう応えてよいのか皆目分からず、休み時間になると、その紙を丸めてゴミ箱に投げることでしか返すことが出来なかった。怒ったふりをして私は休み時間の騒々しい廊下を歩いた。どこに行けばいいのか分からず、校舎を一周して教室に戻った。戻ってみると庸子は一心に自分の左手をデッサンしていた。私は自分の席に戻り、机に突っ伏した。

庸子はいつもナイフで削った4Bの鉛筆を筆箱に五本揃えていた。私の目には今でもその大事そうに筆箱の中に揃えられた鉛筆が焼きついている。授業に使うシャーペンとは違い、それらは絵を描くことだけに限って使われていた。芯がむき出しになった部分がほぼ同じ細さで保たれ、その先が丸められているものが三本。針のように先が削られている二本には銀色のキャップがはめてある。鉛筆を左手に握った彼女は、目を見張るほど見事な写生を描いた。しかし何故か美術の時間、彼女はまるでやる気を見せず真剣に取り組むことがなかったし、いい加減に描いた写生に他の生徒が驚くことがあっても、すぐにその紙を破り捨ててしまうのである。

横顔を描いた時以来、彼女はなぜか私にだけその卓越した写生技術をさらし続けた。彼女が鉛筆たった一本で描く絵は、今にもノートやプリントから浮き出て、三次元の空間へ出現してきそうだった。何もない白い二次元に黒い線だけでそこに生命すら感じ取れる物たちを簡単に作り出してしまう彼女の不思議な力は、私の彼女への玉虫色の想いを増幅させていくのだった。

どこからともなくやってきた少女が、退屈だった世界に彩りを加えてくれている。そんな事態に自分でも想像しきれない期待がもやもやと私の目の前に膨らんだ。

純粋な恋心を感じる一方で、庸子の内包する屈折に強く惹かれる自分も、私は意識し始めていた。私たちにとって喧騒と雑音だけの教室の中で、周囲から隔離された二人だけのための透明な道ができていくようだった。

それまでの私の愉しみは盗み、ただ一つだった。小学校中学年だったろうか時期についてはあやふやだが、その時のことはよく憶えている。母は一人で私を育てるため、夜も仕事をしていた。学校から帰る時分、母はいつも寝ていた。あの日、私が帰ってきた物音で目覚めた母は、ひどく私を叱った。きっと母にも何かがあったのだろう。人が違ったようにその日の母は怒り狂わんばかりに私をひどく扱った。泣いている私をそのままにして、母は、また布団に入った。泣き止んだ私は、腹いせに母の財布から百円玉を抜いた。翌日私は自分の行いに母が気づかないか怯えていたが、幸か不幸か母は私を叱ることはなかった。数日経つと私は母に殴られた心の痛みから解き放たれ母への恐怖や憎しみは薄れていた。その時の自分は自分の盗みとその自分の心境の変化を自然と結びつけたのだった。盗みが恐怖や憎しみを解消してくれたと。その件を境に私は盗みを常習化していった。小売店の品物、級友の筆箱の中身、時には邸宅の表札。日常に転がっているように見える物は、あらゆるものが盗みの標的になりえた。もちろん盗まれた当人達にとっては大切なもの。しかし社会的にはそれほどの価値を持たない物。振り返るとそんな物を好んで幼い日の私は盗っていたように思う。孤独をしのぐために、暇をやり過ごすために、苛立ちを紛らわすために、その“小さな”盗みをはたらいた。

盗みは生活の中で次第に意味あいを持つようになった。それは小さな傷や欠損を世界に与えるということだった。そんな他者を傷つける行為の積み重ねは私自身を暗く色づけていった。それと同時に、他者の及ばない秘匿を有しているという優越感を私に植え付けもした。少しずつその歪んだ優越感が私を支える柱にすらなっていった。

―俺は人を欺いている。

そして世界のどこかは、それを知りつつも私を咎めることも止めることもせず、時間を前に進めていく。悪事をはたらく自分という存在を、罰も与えず生かす世界に、不思議な興味をもいだいたのも子の頃だった。それはまるで腫瘍を臓器に抱えながら何も気づかずに生活する人体のような気がした。そして私は小さい悪性の細菌のように世界の片隅でほとんど気づかれずに良性な臓器組織を蝕み続けるのだと思い始めていた。思うようにいかないことが出てくると常習的に自分を受け入れず異分子の如く扱う他者を住まわせている世界への小さな復讐として、私は盗みを意味づけるようになっていった。

そんな思想に支えられた頃の私に、無言で何かを訴えかけてくる庸子はある玉虫色の光を纏っているようにさえ見えた。時には蛍のように仄明るい光であったり、時には七色の光であったり、実体を掴ませてはくれない庸子への想いはただ膨らむばかりであった。それはむしろ恋として真っ直ぐであったというだけでなく、異分子である自分がつながれるかも知れない何かを隠した彼女を救いとして求めていたという意味においても混じりけのないものであったと思う。

純粋な彼女への想いがゆったりとした時間の流れに乗って、緩やかな放物線を描き、美しい目的地に到達することを私は願っていた。まだ恋とは呼べない未熟で名の付しがたい感情のゆらめきとして彼女への想い私の中に在ったのだ。私が求められる行いを重ねていくことで、恋という形をもつようになるのならそうしなければならない。しかしその時の私にはもちろん、自分がそのために何をすべきかなど知る由もなかった。

何も出来ない歯がゆさを抱えたまま時間が過ぎていったが、自然と知れる彼女のこともあった。すぐに分かったことは、学力が驚くほど低いということだった。授業の時、退屈そうに板書された文字を時折ノートに写すのだが、授業開始から十分もしないうちに机に伏してしまう。加えて、数学の基本的な計算すら満足にできない。もともと彼女が優秀な生徒だろうなどと思ってもみなかったが、これほど学業ができないとは思わなかった。しかしこのことが後になって彼女との距離を縮めるきっかけになるとは最初のうち思ってもいなかった。

その状況をどうやって作り出せばいいのか、私には分からなかった。そうして彼女に近づける予感を得たが、まだ具体的な行動で彼女を誘うことなど途方もなく難しいことだった。休み時間机に突っ伏して過ごしている彼女に声をかけると目立ってしまう。一人でいる彼女をどう誘って距離を縮めていくのか。どれほど考えても全くアイディアは浮かんでこない。そんな中でも彼女と二人ファミレスで談笑していたり、波の打ち寄せる砂浜で語らっている、今の自分からは程遠い交際の風景を夢想する。彼女への想いを素直に行動に移せない鬱憤を晴らすように、彼女に冷たく当たる「二軍」の女子たちの物をくすねるようになった。日常的な行いに他ならなかったが、そこに彼女を意識できたためか、微かに美徳を見いだす余地を与えられたと勝手に私は思った。

九月の終わり、残暑が息を吹き返した日だった。珍しく彼女は授業を休んだ。一日中右側の空白が気になり、私は無性に彼女に触れたくなった。その気持ちを抑えることができず、ある思惑が私を放課後の教室に残した。

授業が終っても数名生徒が教室に残っていたので、私は一旦教室を出て時間稼ぎのために校舎内を徘徊する。校庭では運動部が声をあげ準備運動を始めている。校舎内では吹奏楽部の生徒たちがパート毎に空になった教室を間借りして楽器の練習をしている。他の教室では数名の男女が語らっている。校舎のどこを見ても自分たちとは違う人種ばかりだと私は思った。知らぬ間に、私は庸子と自分を一人称で語るようになっていた。

教室に戻ると、案の定誰も残ってはいなかった。私は勢い彼女の机から椅子を引いて座る。ひんやりとした木の感触は、すぐに私の体温で温められた。無意識に息が浅くなっている自分に気づく。その自分を抑えられず、すぐに彼女の机の中を探る。庸子のいつものノートを取り出す。教科のノートとは違う線のない無地のノート。彼女が思い思いの写生が描かれている。ひとりでに動く自分の体を制御することはできなかった。火照った私の指は乱暴にページを捲っていった。庸子のノートは何かを叫ぶかのように教室に大きな擦過音を響かせた。彼女に触れているような興奮と、許されぬことをしているという罪悪感が、渦を巻き混じり合う。あの美しい渦をどんな配色で表現すればいいだろう。画家となった今の私にも到底表現しきれない魅惑的なうねりの中に私は引きずり込まれていった。

どのページにも庸子が描いた黒い線が無数に在った。精巧に描かれている写生。教室の黒板の端の黒板消しや、消しゴムや自分の掌、椅子や机の脚。床の木目。身の回りにある物が手当たり次第に描かれている感じだった。私は無地のノートに飽き足らず、教科のノートの中も覗いてみたくなった。国語のノート開く。開いた途端、ノート一面にバランスや字形を著しく失った文字が縦に並んでいた。私は自分の取るノートには自信があった。ノートの美しさと頭脳の高さは比例関係にあると小学校の教師から叩き込まれ、自分でも見返して心地よさを感じられる紙面に仕上げることをほどだった。それは音符を見るとその旋律が聴こえてくるのと似ていて、美しくまとめられたノートを見るとそこに物語に似た秩序が浮びあがり、さらに次のページをめくりたくなるものだった。しかし庸子のノートに書かれた文字達は、今にもその場所から這い出して別の場所へ逃避して行きそうなくらいその紙面という生息場所を嫌悪しているほどの嫌気をそれらの文字達は有しているように私には見えた。よく見ると漢字やかなのバランスは悪いだけでなく漢字は横の線が一本足りなかったり、叩かれて折れ曲がった肢体のようにも見えた。痛みを覚えさせるほどの文字だった。庸子の文字は、並んでいるというより、散乱していると言った方がよかった。そのページの隅には、心奪われるほど精美な絵。何らかの力に突き動かされ、私の手は貪るようにノートを捲った。新しいページを捲る度に、私は渦に巻き込まれるように、教室の中の一冊のノートの中に呑まれていった。庸子とノートが離れていく。庸子が書いたはずのノートと私の中の庸子は全く一致しなかった。しかし、それは私の間違った認識で、きっとここに本当の庸子が居るのだと私は、完全に見失ってしまいそうな思考のわずかな余白の中でそれを考えた。

―これが、庸子なんだ。

でそれはどこか庸子に惹かれている自分自身に近づくことに似ているような気もした。その時、誰かが廊下を走ってこっちへ向ってくる気配があった。大股の力強い走り。私はノートを彼女の机へ戻そうと構えたが、金縛りにでもあったかのようで、不思議と体が思うように動かない。もし彼がこの教室を覗いていたら、私はその行いを目撃され、窮地に追い込まれたかもしれない。そして恐らく最後のページを捲らなかっただろう。

しかし彼は大きな足音を残し、教室の前を通り過ぎていった。しばし呆然とした私は気を取り直し、ついに最後のページを開いた。

たちまち私はその最終ページに釘付けになった。そこにかかれていたのは字でもまた絵でもなかった。

大小さまざまな黒線が、描きつけられている。初めて目にしたものを概念化することがどれほど困難なことであるか、私はおもい知らされた。私はそこに描かれたなにものかを認識するのに長い時間手間取った。

無造作に見えるが、そこに隠された思いが感じとれる。

―何かをこのページに表している。

私は庸子が何かを表現しようとする確かな意志を受取った。屈折し、均衡を失った彼女の内面を読み解く手がかりにならるはずだ。

「人間がばらばらにされている・・・・・・」

これまで黙っていた私は、不意に呟いていた。

焼き尽くされた黒い街。

横たわる黒い亡骸。

強い力が、人々の営みを奪い去った画が、ありありと瞼に浮かぶ。そこから漏れてくる無数の声。その叫び声が私の胸にも響いた。違う意味で、見ることを許されないものを見てしまった。取り返しのつかないことをしてしまったと、私はとっさにノートを閉じた。

何かに抱きすくめられている気になった。そこから動けない。私は自分の体の動かし方を忘れてしまったようだった。ひとまず目を閉じた。そこには暗闇が広がっていた。次第に庸子のノートの残像が浮んできて、すぐに瞼を開いた。今ここには、強張る自分の体だけがある。それだけが確かに思えることだった。ついさっきまで目の前に広がっていた教室と明らかに違う教室が広がっていた。さっきまでの教室の風景が、陳腐で幼稚で取るに足らない物に思えた。そしてその陳腐さや幼稚さや取るに足らなさが、懐かしく愛おしかった。もう前の風景には戻れない、そんな思いが私を占領した。これまで自分の生きていた日常が、遠くに霞んでた。新しい世界が扉を開いて私を招き入れようとしていた。その扉は、一見かなり遠くにあるようで、数歩歩けば触れてしまう距離にあるようで、私の目では遠近感が掴めなかった。その無地の白い扉に、庸子のふくらはぎにある茶色い染みが映し出されていた。

気がつくと傾いた夕陽に蒸された空っぽの教室で、時計の音だけが私の体に響いていた。そのページを眺めていたのは一瞬だったのか、数分だったのか、はたまた数十分だったのか。


五 接近

―もっと彼女に近づかなければ。

次の瞬間何かに突かれたように、私は立ち上がった。足腰は自分の思うように力だ入ったのが意外だった。しかし背後から追ってくる何者かに自分を奪われそうな恐怖に駆られ、教室を出た。追っ手から逃れる罪人のように、窓のない薄暗い廊下を私は走った。体を大きく使って、そして大股で。これまでこれほど雄々しく力いっぱいで走ったことはあったろうか。景色がいつもより速く私の脇に消えてゆく。

息の上がったまま、昇降口で自分の靴に履き替える私は、ふと庸子と近づく方法を思いついた。それは驚くほど簡単ですぐにでもできることで、私は我ながらこれまで何もしなかった自分をあきれてしまった。すぐに教室に戻り、彼女の筆箱の中に、絵を教えて欲しいという旨の手紙を忍ばせた。

次の日、授業中彼女は細い左手で私にしか気づかない小さな所作で、家の住所を書いてよこした。破滅的に不恰好な文字が私の訪問を歓迎していた。

塾通いのない火曜日に、はじめて庸子の家を訪れた。その家はトタン屋根の平屋が軒を寄せる区画の端にあった。そこは当時でも珍しい汲み取り式の便所をもつ家々が密集していたため、湿度が高い日には異臭が漂い、誰もがその近くを通ることを避ける地域だった。

玄関は扉を閉めると昼間でも暗い。扉の上の小さな曇りガラスから射す薄明かりだけでは、目が慣れるのに時間を要した。茶色い下駄箱があり、彼女の靴と私の靴以外は何もなかった。便所の臭いと芳香剤の臭いがそれぞれその存在を主張しているかのように混じり合わず黄色の薄明かりの中に漂っている。そこに微かに漂うタバコの臭いを香ばしく感じた。もう一つ私には正体の知れない臭いがあった。それは教室で嗅ぐ彼女から漂ってくる彼女を特定できる最も確かな匂いだった。

玄関を上がると右側に六畳の部屋がある。畳表は傷みが激しく、所々擦り切れて白い畳み糸が剥き出しになっていた。一度腰を下ろすと、色の抜けたい草のかすが今自分のはいている制服の黒いズボンの繊維の奥に入り込んでしまいそうだと思った。奥には小さな縁側があり、つつじの垣根の向こうに砂利の敷かれた駐車場が見える。押入れの襖戸には長方形の座卓が寄せられていて、タバコの吸殻の溜まった銀色の灰皿が横に置かれていた。

座卓の脚を立てて庸子と私は向かい合って座った。

「見る?」

唐突に彼女はそう言った。

「……」

何も言わない私に一瞥をくれた後、おもむろに手首までの袖を肘まで捲って見せた。

彼女の手には色とりどりの太い線が、乱暴に描きつけられていた。私が息を飲んで彼女を見つめていると、まるでそうするのが当たり前のように、ワイシャツを脱ぎ、立ち上がって躊躇なく紺色の丈の長いスカートを脱ぎ始める。スカートが畳に落ちる音がいやにはっきりと聞こえた。私は縦横無尽に走った太い線や細い線で何色かで染められた庸子の体を見上げた。服で隠れるところは隙間なく色が塗られていた。喉が渇き、視界の中の彼女が心臓の鼓動と同時に白んだ。

 駐車場の砂利を踏む音を聞き、慌てて服を着だした彼女を見て、私は我に返った。彼女は玄関から急いで私の靴を取ってきて、それを持って押入れの中に隠れるように促した。私が隠れるとすぐに玄関から人が入ってくる気配があった。静かに足音が近づいてきた。押入れの中には油絵が描かれた幾枚ものカンバスが詰め込まれていた。油絵の具の臭いが体の中に充満していく。

お帰りなさい、という彼女の声に応える声はない。私は息を凝らして外の気配ただ体を澄ましていた。少しすると掌が何かを叩く音がし始めた。そのうちに、彼女のくぐもった唸り声が混じりだした。

―庸子が父親に叩かれている―。

私の心臓は押入れ全体に響くほど確かな音で脈を打っている。それは柔肌を平手打ちする音に違いなかった。私はそっと襖戸を開けた。外光に一瞬眩んだ目に飛び込んできた光景に、私は固まった。仰向けになった裸の庸子が父親に折檻を受けている。彼女は声を出すのを堪え、代わりに涙を流している。父親はタバコを吹かしていたかと思うと、その先を彼女の体に近づけた。私はそれを見ることはできず、目を瞑った。庸子が苦しみの声をあげる。私は恐ろしさで身がもだえた。必死で声を殺していると、両目から涙が溢れてきた。そこで、その日の記憶は途切れている。その後、私は自分がどのようにして庸子の家を出て、自宅に帰ったのか思い出せない。

 数日後、再度彼女から家に誘われた私は、行かなければいけないという義務感に背中を押され彼女の家を訪れた。

秋の初めの乾いた風が小さな部屋を渡っていく。コップの麦茶は手付かずのまま置かれていた。彼女の体から漂う匂いを意識した。

「ひいた?」

彼女は訊いた。庸子の目は真っ直ぐに私の目を見ている。不思議と随分と久しぶりに聞いた彼女の声だという気がした。

 私は曖昧に首を横に振った。答えようにも、喉が擦れて声がでなかった。麦茶をひと思いに飲み干した。

すると、どこからか黄色と黒の蝶が部屋に入ってきた。私たちの頭の上を飛んでいる。私はやり場のない視線を、もつれ合って飛ぶ二匹の蝶の軌道に託した。すると、なぜか蝶から目線を切ることができなくなっていた。どれくらいの時が経ったろう。横を見ると彼女は私の横に足を崩して座っていた。ノートの切れ端に二匹の蝶が描かれている。庸子の絵だと一目で分かる精巧な絵だ。私は彼女の技巧に目を奪われていた。教室で見る写生も、これほど精巧なものはない。二匹の蝶が色素を抜かれ、白い紙の上に張り付けられているのか。二匹の行方が気になり、もう一度部屋の中に蝶を探したが、蝶はどこにもいなかった。

彼女は新しいページに絵を描き始めていた。右肘を大きく動かし、ざくざくと大胆に描き始める描き方と様子が違う。手首を使いながら丁寧に線の太さを調整し、細心の注意を払いながら描いている姿に、私は再び目を奪われた。右手は一切の迷いなく動き、鉛筆は命を吹き込まれた生き物のように微かな擦過音を部屋に響かせている。彼女が描いているのは、上を向いた私の横顔だった。描かれた喉仏の大きさに驚き、私は喉を確かめた。指の腹には確かに大きく迫り出した喉仏の感触がある。喉から顎のラインの次は、髪の毛へ彼女の鉛筆は触手を伸ばしていく。無造作に伸びたスポーツ刈り。不揃いな髪の毛を描く鉛筆の線が、毛先に向うほど細くなっていく。自分の横顔など見たことがなかったが、鼻梁にかけて伸びる曲線のせいか、自分自身よりもずっと大人びていたるように思えた。空を見上げるように、真っ直ぐ上を見ている。黒目には生気がみなぎり、眉は柔らかく、睫毛は鋭利な棘をほうふつとさせるほど繊細だった。しばし呆然と彼女を見つめていると、胸の中がいつの間にか空洞になっている感じがした。まるで彼女に私の中身を吸い取られ、吸い取られた自分がノートに生き写しになっているようだった。

彼女は、芯の尖った鉛筆に持ち替えると、黒い蝶を紙上の私の目に被せた。黒い蝶は羽を広げたまま圧し掛かるかのように私の目を塞いだ。すると今にも何か言い出しそうだった私の口は、死人のような冷たさを漂わせ始めた。

―何も語らせない―。

庸子の意志を感じた。

蝶を描き終えるやいなや、不意に彼女が私の目を覗き込んできた。唐突な庸子の振る舞いに全身に鳥肌が立った。その視線は腕力のような力で私を押さえつけた。

彼女の唇が近づいてくる。駐車場の砂利を走る子供の歓声に混じって運ばれてくる彼女の匂いが私をじわりじわりと縛っていくようだった。少しずつ風は弱まり、やがて止んだ。二人だけがいる部屋は、茹でられるような暑さに包まれている。ああ、唇はこうも紅いのだ。庸子に唇を奪われたその時の私は、そんなことを思うのが精いっぱいだった。彼女の父親との情事が誰かに書かれた物語であって欲しい。自分の存在が虚しく感じられた。卑小な自分が、大きなものに飲み込まれていく。あの日、教室に現れた白い扉の中に自分はいつの間にか足を踏み入れてしまっていたことを私はようやく認めることができた。そして私の体は、抗うこともせず、庸子の求めに答えるのが当然であるかのように、目を瞑り自らを彼女に開いた。するとしめたはずの蛇口からぽたぽたと雫がシンクに滴るように、純真な彼女への愛おしさが小さな私の胸に静かに染み出し、それはたがていっぱいになった。だから私は思わず彼女から唇を離した。

私の無言の訴えに彼女は瞠目して、改めて私を見た。細い糸のような血管に侵食された庸子の両目は私を責めたてた。そんな風に庸子に求められると私は無力だった。私は新たな世界のルールとも言える力に、抗う力を吸い取られてしまった。

彼女が別の何かに化けてしまっている。悪魔を呼ぶ迎え火が、この近くで焚かれていると私は感じた。タバコの臭いが漂ってきた。

彼女のくぐもった声が喉の奥からし、私を唆した。私は再び目を閉じる。朦朧とした意識を不安が満たしていく。温かい庸子の舌先はその不安の輪郭を巧みになぞるように私の口の中をかき回す。その動きは緩慢だったが、次第に私は何かから解き放たれていくように楽になっていった。体の強張りはうすれ、彼女に任せてもいいように思われ、私は自分を彼女に許した。

庸子は覆いかぶさるようにして私を横えた。目を開くと部屋全体が煙で白く濁っている。彼女はわたしのズボンをずらし、私の性器を口に含んだ。

タバコの臭いに混じり、精液の臭いが鼻孔に留まった。その精液の臭いを私は自分のものとは認めたくなかった。

玄関で靴を履き外に出る時、また来てねと彼女はささやいた。が、もう二度と来ないと私は自分の胸に誓った。

駐車場の砂利を靴で踏みつけて歩く。体が、得たばかりの熱を逃がさないと意地になっているかのように、頭の先から足の先まで熱かった。うらはらに澱が下りたような冷たい重苦しさが胸の底にある。早くここを離れよう。私はべそをかきそうになりながら自転車に跨りペダルに力をかけた。

全てを忘れたかった。駅前のゲームセンターに入り、すぐにゲームを始めた。必死で目の前の敵を殴り、蹴り、銃で撃ち殺した。いつの間にか性器は息を吹き返した生き物のように、ズボンの中で膨らんでいた。ちくりと刺すような痛みが走り、それは脈打つように激しくなった。腰を屈め、トイレに駆け込んだ。暗い個室に入って確かめると、下着には赤い染みが滲んでいた。鋭い痛みが等間隔にやってくる。紅潮した柔肌に切り傷がいくつか走っていた。痛みを感じることは、庸子を思い出すことだった。彼女の欠けた前歯が私の性器に擦れた。あの前歯は父親に殴られて欠けたのだろうか。私は痛みにむせびながら、自慰に耽った。

教室でも自分の一部がおかしくなっていく恐れを抱えていた。それなのに、ノートの端に彼女の真似をして写生をしている自分に気づく。それは彼女に惹かれていることを確かめる行いであり、彼女に自分を繫ぎ止めておく行いでもあったのかも知れない。自分の思考が自分の行為に追い付いていけない。二人の自分が逆の方向に進もうともがいたり、私の真ん中で擦れあったりしている。その熱が体を焦がすようだった。

その頃から、それまでのように物を盗ることが急に馬鹿馬鹿しいことに思えてきた。これまでとは違う自分に変身したい。脱皮をする蛇のように、むず痒くなった自分の体から外に跳び出したかった。

整髪料をつけたり、タバコを吸ったりした。授業をさぼってゲームセンターで遊んだ。しかし、どれもこれも悶える私を救ってはくれなかった。

その頃から庸子はあまり学校に来なくなった。私は決められた火曜日に庸子の家に通うようになり、それ以外の日は必死で自分を演じた。毎晩母の再婚した男の背中を流し、塾では勉強し、教室では時間が過ぎるのをじっと待った。

私は庸子とタバコの煙に蒸された密室で情事を繰り返した。誰かを求めることは、こんなにも苦渋に満ちた行いと結びつかないとならないものなのか。だとすれば自分には生きること自体が重すぎる。もしかするとこれは恋などではなく単なる性欲の為す災いなのかも知れない。しかしだとしても今の自分にはそれを抑えることができない。

私は享楽と罪悪の渦巻く波間で何度も溺れかけ、その度に虹色の体をもった少女に助けられた。もうその波間から、私は逃げ出せそうもなかった。

 火曜日以外、庸子は駐車場で少し私と話すだけで、すぐに家に篭ってしまうのだった。いつもと変わらぬ声色で、靴の先で砂利を突きながら話す。彼女は中学二年の同級生と同じように笑うことはなかった。笑顔を見ることが叶わないなら、せめて何か彼女に教えたいと思った。この世界を生きていくために、私たち二人にはごまかしが必要なのだ。それが彼女への哀れみの感情から生み出された思いではなく拙い連帯感を私は抱いていたのだろう。私は彼女を少し離れたところにあるコンビニに連れて行き、板チョコを一枚盗み、彼女に渡した。

「いっしょにやらない? 絶対ばれないんだ」

私の勧誘に彼女は乗らなかった。ただ、近くで見ているのは面白いと言い、小さく笑った。暗雲の立ち込めていた私の心は一時軽くなった。

庸子と別れて帰る道の途中、曇り空から雨が降り始めた。傘も役に立たない粉のような霧雨。風に運ばれて顔が濡れる。無数の水滴に顔をさらしながら、脳裡から離れない彼女の父親を思い出した。

射撃手のように、私はその男を想像の中で何度も射殺した。彼は真ん中で分けた髪を目が隠れるほど伸ばし、度の強い眼鏡をかけていた。目つきがきつかった。彼女の父親は神経質、一言で表せばそんな男だ。薄い髭を貧相に生やした白い頬がこけていた。庸子が色白なのは父親ゆずりか、と不快な思いが胸の中で膨らんだ。両手をポケットに突っ込み、何かを呟いて、薄っぺらな体を引きずるようにして歩いていく。しばらくするとタバコをくわえて玄関に消えた。

 

五 惜別

霧の濃い夜だった。塾から帰る私の腕時計は十一時を回っていた。私は庸子の父親の車がライトを点けずに駐車場をゆっくりと出て行くのを見た。霧で視界の悪くなった道を、車は釣り橋を確かめて渡るように進んでいくのだった。見ると家に灯りはない。彼女の姿を助手席に窺ったが、そこに確かめることはできなかった。

 数日後、庸子の転校を担任が告げた。転校先は明かされることはなかったが、私以外クラスの誰一人として関心の持たれない彼女の転校は、それから一度も取りざたされることなく忘れ去られた。私の学校生活は、それまでの平穏で退屈なものへと戻った。私自身は前の自分を取り戻すことは出来ず、空いてしまった穴を他のもので埋めることも出来ず、色彩もないが混乱もない、貧相な年月を送った。

一度だけ学校から自転車でいける近くの海に彼女を誘ったことがあった。秋らしい空の高い放課後。あの部屋ではないどこかで二人になりたかった。しかし彼女は頑なに誘いを拒んだのだった。私は彼女に会えなくなってから毎日のように波打ち際ではしゃぐ彼女を夢想した。

 庸子の転出は明らかに普通のそれではなかった。夜霧の中の車を見た翌週の月曜日だった。数日の空白は私に彼女との別れを悟らせるには充分だった。翌日から彼女の家からは人の気配が消えていたし、父親の車は姿を消していた。庸子の転校の発表はどうみても唐突であった。しかし、誰も触れないのが普通だった。教室からはあっさりと庸子の机がその中身ごと無くなっていた。数日はそこに置かれていた机はそれでも、私に庸子の存在を残り香だけでも漂っているような気にさせてくれた。机が撤去されてからは、庸子との出来事はまるで夢であったのかのような錯覚がより現実感をもたせるほどになった。庸子のことを話せる相手もおらず、私は庸子のノートの切れ端だけを自分の部屋の机に仕舞いこんで決して消えることのない証拠としてとっておいた。そして時折見つめなおし、それで庸子を、庸子を感じた自分の体の隅々の感覚を取り戻そうとあがいた。ほとんどの記憶と感覚が失せてゆく中で、そのノートの切れ端だけが熱く燃える恒星のように強い光を放っていた。

彼女が去って一年ほど経った冬の朝、私は幸福なまどろみの中にいた。夢の中で庸子と再会したのだった。目覚めるとまだ日の昇らない暗い部屋の天井に、夢に見た庸子の姿が映し出された。ベッドから下り、外灯が照らしている窓外の景色を眺めながら、夢の記憶を追った。少し前まで見ていた彼女の姿や声や肌触りが、窓外の陽光の広がりとともに薄れていくのを止められなかった。清々しい朝の町の景色に彼女の残像が吸い取られていった。

その日の午後、一通の封書が届いた。差出人の名前のない封書だった。母親からそれを受取った時、私の目の前が眩んだ。が、私の名前の字を見た途端「庸子」とその名を胸の中で叫んでいた。庸子が玄関先で私を呼んでいるような気がし、靴も履かずに外に飛び出したが、乾いた風が郵便受けの前を通り抜けただけだった。

封筒に書かれた自分の名前が彼女に書かれた。その事実だけで、私の体は抑えきれない感情が渦巻いた。一晩その封書を開くことができず、翌日改めてその封書を開けた。

―ひとりでくらすためのお金をおくて

庸子の文に、私の下腹部は自動的に火照りだした。今もなおあの境遇に身をおく彼女を思うと髪の毛を掻き毟りたくなり、地団太を踏んだ。彼女の居場所を窺わせるものを探したが見つからない。紙に書かれているのは、郵便局の口座番号だけだった。その手紙は彼女を救う手立てを持たない私を責め、なじるようだった。あるいはただ救いの手を求めた彼女の文面から、私が勝手にそんな彼女の思惑を創り上げたのかも知れない。

私は郵便局へ走り、自分の口座から数万円を引き出した。振り込み用紙を起こそうと備え付けのボールペンで口座番号を書き入れ、列に並んだ。自分の番号が呼ばれるのを待っている間、私は手に持っていた手紙をまた読み返した。

短い手紙はその終わりに近づくにつれ鉛筆の筆圧が強くなり、芯が折れた跡をいくつも認めることができた。

―ひとりでくらすためのお金をおくて

―あの男からはやくはなれないとむり

 心からのの叫びが、文字から漏れて聞こえる。私は地底から這い上がってくる亡者の声を聞いた気がした。

振込用紙を千切ってゴミ箱に投げ捨て、郵便局から走った。地獄へ私を引きずり込もうと、大きく口が開かれている。その地獄への入り口から私は逃げなければならなかった。一晩中、私は街の中を逃げ回り、駅前のゲームセンターで補導され自宅に戻された。

その後の数日間はろくに眠らなかった。眠りに落ちそうになると、黒い影が横たわっている私に圧し掛かり体を揺すった。女が部屋の隅でむせび泣いた。自分が高い建物の上から落とされ、堅い地面の上で体がバラバラにされている。そのバラバラになった体を拾おうとすると、どうすることもできず嘆きの声を挙げる。その自分の声で目が覚める。目を覚ますと私の体は暖かいベッドの中にあった。

私は机の引き出しから一枚の紙を出した。彼女のノートの最後のページ。裏庭におりて火をつける。強い風にやっと着火した紙の塊はやがて炎の塊になった。一塊の炎は、亡者に息を吹き込むように、葬り去ったはずの私の記憶を土の中から引きずり出した。  

私と庸子の交わりの時、その部屋の押入れの襖戸は、少し開けられて、その奥から向けられる一筋の視線と感じていた。そこから微かに聞こえる息遣いの主は、庸子の父親に違いなかった。私は彼女の髪を撫でながら、父親が潜んでいるはずのその闇に、何度も視線を送った。しかし、どんなにその中を窺おうと目を細めても、隙間から上がる白い煙に遮られて奥は見えなかった。私は見るのを諦めて、押入れの中の視線の求めに応えるように彼女の体を貪るのである。

彼女のノートを焼いたあと、不可思議な高揚感と喪失感に突き動かされるように、庸子の家のあった場所に自転車を走らせた。そこにあったはずのトタン屋根の家の数軒は跡形もなく、そこには駐車場が広がっていた。庸子の家は影も形もなくなっていて、そこには砂利がしかれている。私は庸子の残り香にすがるように、部屋のあった場所に立った。ぐるりと体を回して、そこから見える景色を目に焼き付けた。家々から夕餉の支度をしている物音や人を呼ぶ声、テレビから流れるニュース、子供向けのアニメの音声も聞こえてくる。傾き始めた太陽から注がれる光はか弱く、薄白い光が家々の屋根や壁を照らしている。家々の窓からは灯りがもれ、そこに息づく人の気配が感じられた。私は今すぐに目の前の景色を描き残したかった。庸子の体温を感じられる空気を、せめて何かに残しておきたかった。手元にスケッチブックと鉛筆がないのが悔しかった。私は改めて胸いっぱいに息を吸い、もう一度目の前に広がる風景の全てを目に焼き付けた。その時、東の空に一つの星が白くぽつんと、群青の空に浮んでいた。

自宅に戻った私は部屋に戻って、スケッチブックと鉛筆を用意した。ライトスタンドのオレンジ色が白い画用紙に眩しい。夜の闇にひたされた部屋の中で私は庸子の家の跡地から見えた景色を描き始めた。庸子がいつか私の顔をスケッチした時のように、わたしは自身の体で吸い取ってきた風景をそのまま画用紙一枚一枚に吐き出すように書き出していきたかった。どれくらい時が過ぎたか判らない。わたしはいつの間にか駐車場で見てきた景色をスケッチブックの画用紙8枚に書き出していた。書き終えてようやく私は時間の経過を意識して、部屋のカレンダーの横にかけてある時計を見た。十一時半だった。私は、一階の食卓に用意してある夕食を食べに下りた。しじみの味噌汁と白米。豚の生姜焼き。全てが冷めていたが覚醒した私の身体はいつになくそれらを速く平らげた。自分の身体の中にもう一つの生き物がいて、それが供物を欲しているようでもあった。食器を片付けるとすぐに部屋へ戻り、彩色の準備にかかる。絵の具を溶く水を洗面台に入れに行った時、灯りをつけた洗面台の鏡に映ったわたしは、束の間自分の顔に怯んだ。「いったい、お前はだれだ……」鏡の中の目はそう言っている。そう言ったのは、私なのか鏡に映った誰かだったのか、今も分からない。

水入れを持って上がる階段がきしんだ。普段は気づかない些細な音にもわたしの身体は反応し、これから絵に色をつけようとするわたしに力を与えるようであった。階段を照らす光は、空中に浮かぶ埃にぶつかると線香花火を思わせるようにあちこちに散り、光をあびた埃は落下傘のように悠々と降りてきて、すぐに気流に押し上げられるのだがまるでそれを楽しんでいるように見えた。こんな感覚は初めてだった。視覚が冴えわたっていき、目に入るあらゆるものから情緒が感じ取れる。そしてそれら全てがもつ物語を創造することができた。みなぎって来る力は、自分の身体から蒸気のように立ち上がっていく。肌は擦過傷を負ったように熱くひりひりとする。部屋に広げられた画用紙8枚を目にした時、それらの絵が嘘のようだった。あの景色を何も表していない。無性格なスケッチ画が偽物に見えて苛立たしかった。正確に描いたはずのスケッチを見渡すたびに、「何かが違う、何かが違う」。そんな声が身体の内からする。「いや、何もかも違う」。少しずつ声は大きくなる。少しずつ、あの駐車場の景色がありありと浮かんでくる。家々の色や形、夕日の眩しさ、家々の台所で動く人の小気味良い動作。空には白い月がこちらを見ていた。すっかり暗闇が侵食している空は、私には夜の案内人のように思えた。わたしは窓を開けた。それは音を立てて開いた。静かな夜が外には広がっている。わたしは無意識に駐車場で見つけたあの一つ星を探していた。しかし、広い空のどこを探しても、あの星らしき星は見えなかった。

 その時初めて、わたしは自分の中に目覚めた何かの息遣いを感じた。わたしの中にあった何かが目覚めたのか、はたまた外からやってきた何者かが私に寄生したのか。湖面に生まれた小さなさざなみのようであったそれは、微かではあるが確かに棲息するわたしの新たな意思であった。


六 対峙

200号(259cm×181.1cm)のカンバスに、私は描き始めた。闇で大きな火が焚かれている。その火に七色の少女が薪とともにくべられている。男と少年がその火を真ん中に向き合って座る。火に照らされた二人の顔は大きく裂けた口で笑っている。恍惚の光が眼から滲む。高く舞い上がった炎の頂からは、白い火の粉が撒き散らされている。それに触れた二人の髪の毛や肩から火が立ち上がっている。二人とも自分の体が燃えているのに気がついていない。いや、もしかすると気づいているのかもしれない。私は、描きながら分からなくなっていった。

私は自分の底に眠らせていた全てを吐き出そうとしたのだが、まだ底に行き着くまでには長い道程があると思い直した。一週間寝ていなかった私は、筆をおくとしばし眠りについた。光の届かない湖底でとった休息のような、静寂に満たされた夢のない眠りは、狂気に焼かれた私を冷ましてゆくようだった。


七 光

目覚めた私は、黒い絵の具でその炎と三人を塗り潰した。すると、私を呑み込まんばかりの闇が、口を開けた。次に私は、それに蓋をするように、白い絵の具を覆い被せた。

描き始めてから何日目が終ろうとしているのだろうか。

西の空を赤く夕陽が染めていた。

自分の傍らに、中学生の自分が立っている。

庸子のノートを盗むようにして見た、あの日の夕陽も教室をこんな風に染めていた。

―あの一ページに、描くべきすべてがあったのだ。

街を焼き尽くし、人々を殺め尽くし、白い灰と黒い炭だけになった荒野を、庸子は描いていたのだ。  

人を戦慄させる脅威は、人類の歴史に名を刻む大事件によってのみ、その存在を証明されるのではない。

名もない小さな町の片隅。

ひっそりと佇むある部屋。

誰かに蝕まれ、静かに殺されていく。

日常に身を隠すように遍在する悪意を、庸子はあのノートに描き出していたのだ。

「庸子……」

あの日目に庸子の描いた黒線を思い出した。目を瞑っても瞼に浮かび上がる白と黒。

ナイフを握り手首を回すようにしてカンバスを覆った“白い灰”を削っていく。

ナイフが乾いた絵の具を削る刹那、私は何を信じてナイフを振るっていたのだろうか―。

絵の具の削れる音が空間を満たしていた。その音に身を浸すと、次第に私の神経は研ぎ澄まされていく。生命の生息さえ許さない深い海底の蒼い闇を見つめるように、私はその絵を描いた。庸子を見殺しにした少年の日の私を体のどこかに確かめながら。


「なに、これ?」

完成の知らせを聞いて腹を抱えてアトリエを訪れた妻は言った。大きくなったな、私は改めて妻の腹が大きく迫り出しているのに気がついた。妻の言葉に答える言葉をその時の私は持ち合わせていなかった。

「どうした?」

立ち尽くして何も言わない妻に近づいて確かめた。彼女は瞳の奥に慄きを湛えて細かく震えていた。

「どうした?」

彼女の手を取って部屋から連れ出そうとしたが、なぜか妻はアトリエの床に根を下ろしたかのように動かなかった、いや動けなかったのかも知れない。

「向こうに行こう」そい言って肩を抱いた腕に、妻の体の重みが伝わったかと思うと、そのまま倒れた。病院に搬送され、彼女は子どもを死産した。

こん睡状態から意識を回復しても、妻は私との面会を拒んだ。やがて両親に連れられ、私のもとを去って行った。

妻が去って、私はしばらく水だけを飲んで過ごした。妻にあの絵を見せた後悔に苛まれ、眠りに落ちてもすぐに目が覚めた。ある朝、コップに水を汲もうと蛇口を握ろうとすると、右手首が痛み、蛇口が捻れなかった。私はあまりの痛さにシンクの前にうずくまった。

それが手首の壊死の始まりだった。

少し様子を見れば痛みが和らぐことを期待して待ったが、午後になっても痛みが和らぐどころか増すばかりで、ドアノブを回すこともできなかった。

整形外科の医師は腱鞘炎と診断し、痛み止めを処方され自宅で療養するように言われた。夜は痛みが激しく寝付けなかった。白い光が窓から射し始めた明け方、右手首から先は紫色に変色し始めていた。右手首の痛みは飛び火するように左手にも痛みが宿った。早朝、痛みに顔を歪め、恐怖に涙を流しながら何とか動く左手で母親に電話をし、呼び寄せた。午後になるころには右手首から先は褐色に色を変え、その感覚さえ確かめられなくなっていた。母親が家に到着した頃には、私は意識を失くしてベッドの上で横たわっていた。緊急で手術をしたが、両手首が壊死しており、やむなく切断することになった。

突然の出来事に私は呆然とすることしかできなかった。病室のベッドに友人や知人が現れたが、彼らとて私を励ます言葉すら浮ばないようで憔悴しきった私に花や果物だけ届けて早々に帰っていった。その後退院して自宅で療養していた時期の記憶がすっぽりと抜け落ちている。

一年後、私はその絵を「沈黙」と名づけ―ただし仮題とした―コンクールに応募した。それは新人賞を受け、仮題のまま世に出された。


七 再航

私たちをホテルのエントランスで降ろしたバスは、退屈を表現した様なエンジン音を残して軽井沢高原を後にした。五月の高原の空気は、まだ冷たく、鋭い棘のように私のない筈の手や指を刺した。

幸絵は私の肩に凭れながら、微かに笑っている。私もそれに応える。どこから見ても私たちは互いに愛し合う夫婦である。二人は幸せに包まれていて、豊かな未来も約束されている。そんな風に見えている自分達が誇らしかった。妻はロビーでドリンクを飲みながら待つ間も、私の胸の一抹の不安に気付く様子もなく、満ち足りた心持ちをそのしなやかな肢体から漂わせていた。

暖かなロビーに入ってもなお、相変わらず私は失った手指に感じていた。それは手首から先を失ってから初めての経験で、私の精神のバランスを崩すのには充分だった。少しずつ大きさを増す波間で、必死に耐える小船のように私は力に翻弄され始めていた。新しい命を身ごもった妻を気遣いながら、私はあの絵をホテルが展示することを、断らなかったことを、一生分の後悔とも思えるほど悔いていた。

初老の支配人に案内され、ロビーの先の展示会場に私たちは進んだ。その間に支配人から何か話しかけられたが、強ばった私の体は、その声を聞き理解することも許さなかった。一歩一歩恐れを誤魔化すように足元に視線を向けながら進むのが精一杯だった。会場に入るとそこには、私の作品が並んでいた。どれも自分の子どものように思い入れのある作品であることに違いないが、それらへの思いに浸ることもなく、画家として成功の小さな証とでも言えるその展示に誇らしさを憶えることもない。

当初その展示依頼は、初婚に花を添える妻の幸絵へのほんの気持ち程度のサプライズプレゼントに考えていたものだった。春先から初夏にかけて開かれる個展であるからには、その作品たちは、どれも明るい色彩のものばかりのはずだった。しかし、展示交渉の最終段階になって、ホテル側からそれとなくデビュー作である「沈黙(仮題)」の展示を求められた。その時の私は、ホテルの経営陣の中に長年のファンがおり、その人の熱心な要望が故の依頼だと知り、躊躇したが、最終的に断ることができずにしぶしぶ承諾したのだった。しかし、よく考えてみれば、いや考えるまでもなく、あの作品は私を世に知らしめた物であると同時に、私のかつての幸福を一瞬にして奪っていった物でもあるのだった。

―小さなボタンの賭け違いが大きな不幸を生むことになる。

生々しい恐怖が私を呑み込んでいた。私は蛇に睨まれた蛙のように、身を硬くしてそこにいた。私の運命に筋書きがあるとすると、なんと救いのない脚本なのだろうか。私はただの演者のように振る舞うしかなかったのだ。

 「沈黙(仮題)」は、ホールの隅に飾られていた。くすんだ金色の額縁の中からも、こちらの世界を覗くように、その存在感をホール全体に投げ放っていた。私はまるで、呼ばれたかのように歩き、気がつくとその前に立っていた。

ふと左右の掌に温度を感じた私は、それを目の前に確かめた。数年ぶりに感覚として認められる自分の両掌は、嘘のようにそこにあるのだった。

私の手首からもうあるはずは、ない。

何がこの虚像を見せているのだろう―。

「途方もない・・・・・・」

呟くやいなや、私はその場に座り込んだ。分厚い絨毯の感触だけが、私にとって自分を現実世界に繋ぎとめておく手立てだった。

私は「沈黙」からのいを拒もうとした。もう充分だ。それでもなお、何者かが私を引き込むように私を見ている。

ゆっくりと瞼を閉じた。二つの音叉が響き合うように、キャンバスと私は少しずつ互いに近づいてゆく。私はいつの間にか呑まれていった。

―まだ、終っていなかったのだ。

そんな気づきが足の裏からから湧き上がる。私は恐怖に抗うのを諦めた。すると僅かな安らぎが、私を庸子との時間へ巻き戻してゆく。

瞼を閉じている私の目に、赤い光が射した。その光が私を過去にう。

窓から差し込む夕日に焼かれたように赤く染まったアトリエの中で、私はペインティングナイフを握ったまま、硬い床に座り込んでいた。「沈黙(仮題)」を描き上げた自分の見た光景だった。ひんやりとしたコンクリートの質感が尻から腹の底まで這い上がってくる。

―いやだ―。

私の自我は“今”に留まろうとその力に抗う。どこかに連れ去られようとする恐ろしさで呼吸が浅くなり、溺れる者の様に、息を胸いっぱい吸いこんだ。肺に入り込む空気と一緒に「沈黙」から何かが流れ入ってきた。静かにではあるが、意思を感じさせる息遣いをもった力だった。意識はさらに混濁していった。

―吐き出さなければー

そう思った刹那、細くて白いふくらはぎが瞼に浮かんだ。それが何だが分からずに、私に侵入しようとする誰かを追い出すために、何度も深い呼吸を繰り返した。すると呼気に混じって、私自身が体の外に出て行くのを感じた。再び、諦めと安堵が少しずつ私を充たしていく。徐々に薄れゆく自分を感じた。体内から何かが私と交じり合いながら私を体の外側へ押し出してゆく。呼吸が速くなり、次第に自分でも抑制が難しいほどに激しい呼吸になっていった。海の波が砂浜に寄せては返すように、自然の理のように確かで譲歩の余地のない強さを思わせた。仮にそれを私が拒もうとしても、きっと無に帰されてしまうことがわかるほど運命的な力を私だった。激しく繰り返す呼吸は音を上げながら続き、私の視界は白濁していく。真っ白い光に視界が侵食される前に幸絵を呼ぼうとしたが声が出なかった。振り向きざまに幸絵と目が合うと同時に、地響きのような振動がした。それを合図に私の最後尾が身体を抜け出した。


八 その先

音もない。

温度もない。

臭いもない。

眩い何かに包まれている感覚だけが、私自身が自らの存在を認めることのできるものとして、そこにあった。どれくらいの時が流れただろう。そのさに慣れてくると、私はさらに大きな闇が光に包まれている私の外側にあるのに気づいた。その暗闇が、遥か遠くまで続いていることを、私はかつて誰かから教えられたことのように知っていた。次に見たものは、漆黒の空の中に散りばめられた小さな光たちだった。

一つ一つが異なる色で瞬く無数の星たちが私を見つめている。突如訪れたその光景にも、不思議と私の心は凪いでいた。星たちは、それぞれの光で私に何かを伝えきた。それはまるで小さな子どもが母に今日の出来事を伝える言葉のような、雛鳥が親鳥を呼ぶさえずりのような、真っ直ぐで混じりけのない響きだった。星たちの声を聴くたびに、私にも微かな温度が生まれ始めた。両手に載るほどの小さな温もりは、しかし一瞬で遠くまで拡がっていった。すると次の瞬間、それに応えるものがあった。

―庸子だ。

彼女はずっと私を待っていたと、星たちは伝えている。ここからどれくらい離れているのだろう。何光年、そんな途方もなく遠い場所にいる庸子を感じ、目を閉じて庸子を思い出そうとした。瞼の闇の中の庸子はまばゆいほど美しかった。しばしの沈黙の後、わたしは名前を呼ばれて目を開けた。私たちは、同じ場所にいた。

庸子は言う。

―わたしはあなたで、あなたはわたし。

愛おしさが込み上げる。恐れや不安、焦りと後悔。これまで庸子のことを思うと湧いてきた感情は、もはや私には在りはしなかった。

無数の星たちに見守られながら、庸子とわたしは再会した。

何かを知らせるように、星たちは瞬くのを止めた。私たちは漆黒の空の中で一つになった。この時を迎えるために、すべて道のりが用意されていた。そんな思いに私たちは抱かれていた。

物語のページを捲るように、私たちにはいくつかの共有されるべき経験が用意されていた。

二つの視線の先には、いつかの私がいた。少年は、部屋の窓から夜空を見上げている。

―あの時、この星を探していたんだ。

 私は、独りで部屋にこもって庸子の家の周りの風景を描いた日のことを思い出した。

―きみに会いたくて、でも会えなくて……。何をしていいかわからなくて、仕方なく窓を開けたんだ。ふと、空を見上げたんだ。そしたら、空にきれいな星がいくつか光っていた。それを見ていたら不思議と力が湧いてきたんだ。

ほどなくして中学生の私は部屋の中に姿を消した。窓から漏れるオレンジ色の光の中で、絵を描き始めているはずだ。

今度は独りで街の灯りから外れた小路を歩いている庸子が、こちらを見上げた。

―わたしも、この星を探していたの。わたしは、家から逃げ出した。何度も連れ戻されてきたけど、あの日とうとう逃げ出すことができたの。

気がつくと、私たちはまた無数の星の瞬きの中にたゆたっていた。

どれだけの時間の流れの中に漂っていたのだろう。一瞬だったのか、それともとても永い時間だったのか。私たちは、別れなければならなかった。しかし、既に私にとって辛さとは過去のものだった。きっと庸子もそうだっただろう。私たちは幸福なまま、星たちに別れを告げた。


九 再生

 幸絵と支配人は私の作品を眺め、歓談している。二人の会話から和やかな空気がホールに広がっている。

二人を呼び寄せ、幸絵には部屋に運ばせていた道具をここに持ってくるように伝えた。幸絵は顔の隅にたおやかな笑みを浮かべ頷いた。支配人にも事情を話し、諒解してもらった。幸絵は私たちの部屋に向い、支配人は従業員を呼びに、ホールを後にした。

 一人になった私を、自分の描いた絵たちが囲んでいる。

 別れしな、星たちは幸絵の体に新しい命が宿っていることを教えてくれた。

私は、新しい命とこれから迎える未来を想った。体の奥から湧き出てくる歓喜が、体の隅々に沁み渡ってゆく。私はそれを確かめるように目を閉じた。

用意されたパーテーションの内側で、私は再度「沈黙(仮題)」と向かい合った。いつものように幸絵が私の手首に絵筆をくくりつける。準備ができるといつものように彼女と目が合う。いつもと変わらず、幸絵は柔らかく笑った。私はこれから使う絵の具の色を指示した。幸絵は音も立てずパレットに絵の具を出してゆく。

 庸子と聴いた星たちの囁きが、筆先から放たれる時を待っている。




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