「ちゃんと読んで」
本棚のいちばん下から出てくるものに、ろくなものはない。
二十七年間生きてきて、蓮はだいたいそう結論づけていた。
「……何だこれ」
膝の上には、紙粘土でできた謎の物体が載っていた。赤くて丸く、目らしき黒い点が二つあり、足のようなものは六本。タコにも見えるし、怪物にも見える。
ひっくり返すと、小学生の蓮の字で『おかあさん』と書いてあった。
「母さん、ごめん」
何に対する謝罪なのか蓮にも分からないまま、それを「捨てる」と書かれた段ボール箱へ入れた。
四月の日曜日、蓮は久しぶりに実家の自室を本格的に片づけていた。
もうここで暮らしてはいない。それなのに、本棚にも押し入れにも机の引き出しにも、子供だったころの蓮が図々しく居座っているようだった。
朝、玄関を開けるなり、母親にはこう言われた。
「今日こそ全部持って帰るか捨てるかしてよ」
「全部?」
「全部」
「思い出とかあるじゃん」
「十五年触ってないものを思い出とは言いません」
正論だった。
正論というものは、だいたい言い返しづらい。
窓を開けると春の風が入り込み、白いカーテンをふわりと膨らませた。本棚の上に積もっていた埃が陽の中へ舞い上がり、長いこと時間の止まっていた部屋に、ようやく空気が通ったように見えた。
昔より少し狭くなった気がしたが、たぶん部屋が縮んだのではなく、蓮が大きくなっただけだ。
「漢字ドリル……いらん」
段ボールへ放り込む。
「自由研究……『アリは何を食べるのか』」
何となく開いてみると、『なんでもたべた。すごい。』とだけ書いてあった。
「研究しろよ」
それも段ボールへ入れた。
机の奥から出てきたゲーム機は電源が入らず、使いかけの絵の具はすべて固まっていた。何の鍵か分からない小さな鍵を一度は保留にしたものの、十秒後には捨てた。
片づけをしているのか、それとも過去に一つずつ判決を下しているのか、だんだん分からなくなってくる。
「全然終わらんな……」
本棚から薄い冊子を一冊引き抜いた。
小学校の卒業文集だった。表紙には、何人もの子供が色鉛筆で描いた校舎や桜の木が並び、角は丸く潰れている。
「懐かし」
床に座ったままページをめくると、六年二組の「将来の夢」が出てきた。
蓮の名前を探す。
『うちゅうひこうし』
「おお」
一瞬だけ、十二歳のころも案外まともな夢を持っていたのだと感心した。
ところが、その下には理由が続いている。
『うちゅうには学校がないと思うからです』
「最低だな、小学生の俺」
宇宙飛行士への冒涜である。
笑いながらさらにページをめくっていると、文集の間から一枚の写真が滑り落ちた。
「ん?」
蓮は床へ落ちた写真を拾い上げた。
卒業文集に載っていた写真ではない。
六年生になったばかりの春、校舎の前で撮った学級写真だった。いつからこの文集に挟んでいたのか、蓮自身にも覚えがない。
まだ桜が少し残っている。三十人ほどの子供たちが二列に並び、担任の横で妙に姿勢のいい女子もいれば、端のほうでは撮影直前までふざけていたらしい男子が笑いをこらえている。
その中に、十二歳の蓮もいた。
今より丸い顔で、なぜか少し眠そうに目を細めている。
「……ひどい顔」
視線を少し横へずらしたところで、蓮の指が止まった。
その少し隣に、一人の女の子が写っている。
肩に届かないくらいに切りそろえた黒髪。まだ子供らしさの残る、少し丸い頬。笑うと目尻がわずかに下がって、もともと大きくない目がさらに細くなる。
写真を撮られるのが楽しかったのか、口元には遠慮のない笑顔が浮かんでいた。
千夏だ。
「……ああ」
十五年という時間を挟んでいても、見間違えることはなかった。
蓮の声が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
忘れていたのは、千夏のことではない。
隣の席で毎日のように言い合っていた、あの春の細かな出来事のほうだった。
小学六年生の春、千夏は蓮の隣の席だった。
よく喋り、よく喧嘩した。消しゴムを忘れれば半分貸してくれたし、給食のデザートが余れば本気でじゃんけんをした。図書室では怖い本を二人で読み始め、結局どちらも怖くなって途中で閉じた。
写真を眺めているうちに、蓮は千夏から少し変わったものをもらったことを思い出した。
春の日差しや、教室の匂いまで、ひどく鮮明に蘇ってきた。
*
それは十五年前。
蓮が十二歳になったばかりの、小学六年生の春だった。
帰りの会が終わった教室は、授業中とはまるで別の場所のように騒がしかった。
黒板の前では日直の男子が、担任に頼まれた連絡事項をまだ書き写している。その横を、ランドセルを片方の肩だけに引っかけた男子が走り抜け、廊下へ飛び出していった。
「廊下走るなー!」
誰かが先生の真似をして叫ぶ。
「お前も走ってんじゃん!」
別の声が返り、教室の後ろで笑いが起きた。
机の中へ教科書を押し込む音。ランドセルの金具が閉まる音。椅子が床を擦る音。
窓の外からは、ひと足先に校庭へ出た子供たちの声が聞こえてくる。サッカーボールを蹴る乾いた音が何度も響き、そのたび窓際のカーテンが春の風を受けて、ゆっくり膨らんではしぼんでいた。
蓮も早く帰るつもりだった。
机の上に広げたままだった算数の教科書を閉じ、ランドセルへ押し込む。宿題のプリントが少し折れたが、気にしなかった。
「蓮」
すぐ隣から名前を呼ばれた。
「ん?」
顔を上げると、千夏が自分の机の横に立っていた。
もう帰り支度は終わっているらしく、赤いランドセルを背負っている。けれど帰る様子はなく、両手を背中側へ隠していた。
「これ、あげる」
「いらない」
「まだ見せてない!」
千夏の眉が跳ね上がった。
声が思ったより大きくて、前の席に残っていた女子が一瞬こちらを振り返る。
「だって、お前がくれるものって変なの多いじゃん」
「そんなことない」
「昨日のやつ」
「何?」
「消しゴムのカス丸めたやつ」
「あれ練り消し!」
千夏は背中に隠していた手を出しかけ、思い直したようにまた後ろへ戻した。
「消しカスじゃん」
「違う。育てたの」
「何を?」
「練り消し」
「だから消しカスじゃん」
「もういい!」
千夏が頬を膨らませた。
怒った顔をしているわりに、帰ろうとはしない。
数秒だけ睨み合ったあと、千夏は観念したように背中から手を出し、蓮の机の上へ何かを置いた。
透明なフィルムで挟まれた、小さなしおりだった。
中には、緑色の葉が一枚収まっている。
蓮はそれを指先でつまみ、蛍光灯へ透かすように持ち上げた。
「草?」
「違う」
即答だった。
「葉っぱ」
「そういうことじゃない」
「じゃあ何」
「クローバー!」
「ああ」
言われてみれば確かにそうだった。
蓮は葉を数えた。
一枚目を親指で押さえる。
二枚。
三枚。
それで終わり。
「三つ葉じゃん」
「うん」
千夏は何かを期待するように蓮の顔を見ていた。
だから蓮も、もう一度しおりを見る。
しかし何も変わらない。
「……普通だ」
「普通で悪い?」
期待していた顔が、一瞬で不機嫌になった。
「こういうのって四つ葉じゃないの?」
「三つ葉だっていいじゃん」
「でも四つ葉のほうがすごいだろ」
「すごくなくてもいいの」
「なんで?」
「いいから」
「分かんない」
「もう!」
千夏は蓮の机へ両手をついた。
その拍子に、机の端に置いてあった消しゴムが床へ落ちた。
二人とも一瞬そちらを見る。
けれど誰も拾わなかった。
「……裏」
千夏が小さく言った。
「裏?」
「裏返して」
さっきまでの勢いが少しなくなっていた。
蓮は言われるまま、しおりをひっくり返した。
裏側には英語でクローバーと書かれていた。ただ、最初と最後の文字だけが、ほかより少し大きかった。
「クローバー」
蓮が読む。
千夏は何も言わない。
「何?」
「……ちゃんと読んで」
今度の声は、さっきまでより小さかった。
蓮ではなく、しおりのほうを見ている。
「読んだよ」
「ちゃんと!」
「クローバー」
「もっとちゃんと!」
「だからクローバーだろ」
「そうじゃなくて!」
蓮は少し考えた。
何か読み方に問題があるのかもしれない。
英語の授業で聞いた外国人の先生の発音を思い出し、妙に舌を巻いてみる。
「……クロゥヴァー」
「発音じゃない!」
「じゃあ何だよ!」
教室の後ろで、帰り支度をしていた男子がとうとう吹き出した。
「何やってんの、お前ら」
「見ないで!」
千夏が振り向いて怒鳴る。
「見てないし」
「笑ったじゃん!」
「聞こえるんだもん」
「帰って!」
「はいはい」
男子は笑ったままランドセルを背負い、廊下へ出ていった。
その姿が見えなくなるまで千夏は睨んでいたが、教室が少し静かになると、また蓮へ向き直った。
さっきより頬が赤い。
「文字」
「文字?」
「ちゃんと見て」
「見てるよ」
「見てない」
「どっちだよ」
「最初と最後!」
千夏がしおりへ指を伸ばした。
指先が、まず最初の文字を示す。
それから最後。
蓮はその二か所を見比べた。
「ちょっと大きい」
その瞬間、千夏の顔がぱっと明るくなった。
「そう!」
机に置いていた手まで少し浮いた。
「書くの失敗した?」
「違う!」
明るくなった顔が、一瞬で元に戻った。
「じゃあ何?」
「……」
千夏は答えなかった。
「何?」
「……もういい」
「なんでだよ」
「もういいの!」
「自分から言ったのに」
「蓮が分かんないから!」
「俺のせい?」
「そう!」
ぷいと横を向いた。
窓から入ってきた風で、千夏の短い髪が頬にかかる。
自分で払えばいいのに、そのままにしていた。
耳が赤い。
蓮は、怒っているからだと思った。
十二歳の蓮には、女子の耳が赤くなる理由など、それ以外に思いつかなかった。
「とにかく、なくさないでね」
千夏は横を向いたまま言った。
「なんで?」
「いいから」
「三つ葉なのに?」
「また言った!」
今度はすぐに蓮へ向き直った。
「だって三つ葉だし」
「じゃあ返して!」
「いいけど」
蓮がしおりを差し出した。
千夏の手が反射的に伸びる。
けれど、触れる直前でぴたりと止まった。
「あ、やっぱ返さなくていい!」
「どっちだよ」
「……持ってて」
千夏は伸ばした手を引っ込め、ランドセルの肩紐を握った。
「分かった」
「ほんとに?」
「うん」
「蓮、すぐ物なくすじゃん」
「なくさないし」
「昨日、筆箱なくしてた」
「あれ机の奥にあった」
「それをなくしたって言うんだよ」
「見つかったじゃん」
「自分で見つけてないじゃん。私が見つけたじゃん」
「結果は同じだろ」
「違うよ」
千夏は呆れたように息を吐いた。
それから少しだけ考えるように、蓮の手にあるしおりを見た。
「じゃあ、そのしおりも十五年後とかに見つかるかもね」
「そんな先までなくさないよ」
「ほんと?」
「ほんと」
「じゃあ大事にして」
「はいはい」
「はいは一回!」
「はい」
「よろしい」
ようやく千夏が笑った。
蓮もつられて少し笑う。
そのとき、開いた窓から桜の花びらが一枚だけ教室へ入り込んだ。風に押されるように床を滑り、二人の机の間を通って、机の脚に引っかかる。
「入ってきた」
千夏が言った。
「何が?」
「桜」
「ほんとだ」
二人で足元を見る。
ただそれだけのことだった。
けれど十五年後、蓮がこの日のことを思い出したとき、なぜかその一枚の花びらまで覚えていた。
その週末、千夏は父親の転勤で町を離れることになっていた。
だから蓮は、あの三つ葉も、転校する友達がくれた少し変わった記念品なのだと思った。
それ以上の意味など、考えもしなかった。
*
翌日は、千夏がこの学校へ来る最後の日だった。
その昼休み、蓮は校舎裏でしゃがみ込んでいた。
表の校庭ではドッジボールをしているらしく、歓声が途切れず聞こえてくる。しかし校舎を挟んだこちら側まで来ると、その声も少し遠かった。
フェンス沿いにはクローバーが群れていた。緑の葉の間から白い小さな花がいくつも伸び、風が吹くたび、草全体が波のように揺れた。
蓮はその前にしゃがみ、一枚ずつ葉をめくっていた。
右手の人差し指で茎を押さえ、左手で葉を広げる。
三枚。
次も三枚。
その次も三枚。
「全然ないな……」
小さく呟いた。
指先には土がついていた。膝にも少し草の汁がついている。
それでもやめる気にはならなかった。
昨日もらったものより、少しだけいいものを返したかった。
理由はそれだけだ。
転校するなら、普通の三つ葉より四つ葉のほうがいい。四つ葉は幸運になると言うし、珍しいものを渡したほうが千夏も喜ぶだろう。
十二歳の蓮の頭にあったのは、その程度の単純な考えだった。
「何してんの?」
「うわっ!」
背後から突然声がして、蓮は肩を跳ねさせた。
振り返る。
千夏が立っていた。
逆光になっていて、一瞬だけ表情が見えない。
「急に後ろから来るなよ!」
「普通に歩いてきたけど」
「音しなかった」
「忍者だから」
「いつから」
「今」
千夏は蓮の横まで来ると、膝を曲げてしゃがんだ。
服の裾が地面につかないよう片手で押さえながら、蓮が見ていた草むらを覗き込む。
「で、何探してるの?」
「別に」
「ずっと草見てるじゃん」
「徳川の埋蔵金」
「ここに?」
「あるかもしれない」
千夏は真顔で草むらを見た。
「じゃあ私も探す」
「なんで乗るんだよ」
「見つけたら半分ね」
「俺が先だったから七三」
「ケチ」
「じゃあ八二」
「増えてる!」
千夏の笑い声が、静かな校舎裏に響いた。
蓮も笑う。
そのまま二人で並んで草を探し始めた。
「これは?」
「三つ」
「こっちは?」
「三つ」
「全部三つじゃん」
「普通は三つなんだよ」
「じゃあ何探してるの?」
「だから埋蔵金」
「葉っぱ数えて?」
「そういう埋蔵金なんだよ」
「意味分かんない」
千夏は笑いながら、また葉を一枚持ち上げた。
蓮はその横顔を一瞬だけ見た。
昨日とは違って、いつもの千夏だった。
怒ってもいないし、耳も赤くない。
それを見て、なぜか少しだけ安心した。
「……あ」
草へ戻した指が止まる。
「何?」
緑の中に、一枚だけ形の違う葉があった。
蓮は顔を近づけた。
一、二、三。
四。
「……あった」
「え?」
「四つ葉!」
思わず声が大きくなった。
千夏も蓮の肩越しに覗き込む。
顔が思ったより近くて、蓮は少しだけ身体をずらした。
「ほんとだ!」
「すごいだろ」
「すご」
「めちゃくちゃ探したから」
「何で?」
「え?」
千夏が首を傾げた。
「何で四つ葉探してたの?」
「ああ」
蓮は慎重に四つ葉を摘んだ。
茎が途中で切れないよう、根元に近いところを持つ。
そして、そのまま千夏へ差し出した。
「ほら」
「……何?」
「やる」
「私に?」
「昨日のお返し」
千夏はすぐには手を出さなかった。
差し出された四つ葉を見て、次に蓮を見る。
また四つ葉へ目を落とす。
「昨日の?」
「お前、三つ葉だったじゃん」
「……うん」
「だから」
蓮は四つ葉を軽く振った。
「こっちのほうがいいだろ」
千夏の表情が止まった。
さっきまで笑っていた口元から、笑みが消える。
「……こっちのほうが?」
「四つ葉のほうが幸運なんだろ?」
「うん」
「向こう行っても、いいことあるように」
風が吹いた。
二人の間を通り抜け、クローバーの白い花が一斉に揺れる。
表の校庭から聞こえていた子供たちの声が、その瞬間だけ遠くなったように感じた。
千夏は四つ葉を見つめていた。
口元が少し動く。
何かを言いかけたようにも見えた。
でも、言わなかった。
代わりに、鼻から小さく息を吸った。
「……いらない?」
「いる!」
今度はすぐに手が伸びてきた。
蓮の指先から四つ葉を受け取る。
千夏は茎を折らないように、両手でそっと持った。
「大事にする」
「そこらへんの草だけど」
千夏が顔を上げた。
何も言わず、じっと蓮を見る。
「……何」
「ほんと一言多い」
「ごめん」
「お母さんにも言われるでしょ」
「なんで分かるんだよ」
「分かるよ」
千夏は笑った。
けれど、いつもの笑い方とは少し違った。
口元は笑っているのに、目だけがどこか困っていた。嬉しいのか、悲しいのか、蓮には判別できない。
少しだけ、泣きそうにも見えた。
「……何?」
「何でもない」
「またそれ?」
「何でもないの」
千夏は四つ葉を胸の前へ持ってきた。
その小さな葉を、しばらく見つめている。
どうしてそんな顔をするのか。
十二歳の蓮には分からなかった。
*
その日の放課後、二人はいつもの交差点まで一緒に帰った。
ランドセルが肩に食い込み、まだ夕方には早い春の陽が、二人の影を道路の上へ長く伸ばしていた。
千夏は、昼休みにもらった四つ葉を教科書へ挟んだと言っていた。
「折れない?」
「帰ったらちゃんとする」
「ちゃんとって?」
「押し花」
「できるの?」
「できる」
「ほんとに?」
「蓮よりは器用だから」
「比較対象俺?」
「うん」
「基準低くない?」
「低い」
「ひど」
そんな話をしながら歩いた。
いつもと同じような会話だった。
けれど、いつもならすぐ着いてしまう道が、その日に限っては妙に長く感じられた。
千夏も普段より少し歩くのが遅かった。
蓮は気づいていたが、何も言わなかった。
「転校先でさ……」
しばらくして、千夏が前を向いたまま口を開いた。
「うん」
「友達、できるかな」
普段より少し声が小さい。
「できるだろ」
「早い」
「だってお前、知らないやつにも普通に話しかけるじゃん」
「蓮とは違うからね」
「俺だって話せる」
「コンビニで『袋いりますか』って聞かれたら?」
「大丈夫です」
「終わり?」
「袋の話なんだから終わりだろ」
「友達できなさそう」
「うるさい」
千夏が笑った。
今度はいつもの笑い方だった。
それを見て、蓮も笑う。
やがて交差点へ着いた。
信号は赤だった。
二人は並んで足を止める。
車が何台か目の前を通り過ぎ、そのたび春の風が二人の服の裾を揺らした。
信号機の電子音が、向かいの横断歩道から小さく聞こえている。
「蓮」
「ん?」
「私、忘れないから」
突然だった。
蓮は千夏を見る。
千夏は正面の信号を見たままだった。
「何を?」
「……いろいろ」
「何それ」
「給食のプリン取られたこととか」
「じゃんけんで負けたんだろ」
「私、プリン好きだったのに」
「じゃあなんで賭けたんだよ」
千夏が一瞬だけ口を閉じた。
ランドセルの肩紐を握る手に、少し力が入る。
「蓮が欲しそうだったから」
「え?」
「なんでもない」
「今言ったじゃん」
「言ってない」
「言った」
「忘れて」
「どっちだよ」
千夏は顔を背けた。
少しだけ耳が赤かった。
その理由は、やっぱり蓮には分からなかった。
信号が青になる。
「ほら」
「うん」
二人で道路を渡る。
千夏は向こう側へ着くと、そのまま数歩進んだ。
蓮はいつもの角で曲がるため、足を止める。
「じゃあな」
「……うん」
千夏も止まった。
数秒だけ、二人の間に妙な沈黙が落ちた。
いつもなら「じゃあね」で終わる。
でも、その日はもう一度会う約束がなかった。
千夏がくるりと振り返る。
「蓮!」
「何!」
「しおり、なくさないでね!」
「分かった!」
「ちゃんと読んで!」
「もう読んだって!」
千夏は一瞬だけ、困ったような顔をした。
口を開く。
何かを言おうとして。
でも、結局言わなかった。
代わりに大きく手を振る。
蓮も振り返した。
千夏は角を曲がる直前まで、何度か振り返った。
蓮も、その姿が見えなくなるまでそこに立っていた。
その週末、千夏は町を離れた。
週が明けると、隣の席は空いていた。
机だけが、先週までと同じ場所に残っていた。
*
「……懐かし」
蓮は学級写真を文集へ戻し、卒業文集を閉じた。
十五年前の教室は消え、窓の外を走る車の音と、埃っぽい自室の匂いが戻ってきた。
「そういや、あのしおりどうしたっけ」
口に出した途端、妙に気になった。
記憶が正しければ、かなり長い間持っていたはずだ。どこかの本に挟んだことまでは覚えているものの、その先がない。
「……まさかな」
蓮は本棚を振り返った。
残っているのは辞書や図鑑、ほとんど開いた記憶のない参考書ばかりだった。
一冊ずつ抜いて振ってみるが、何も落ちない。次の一冊からも、やはり何も出てこなかった。
「そんな都合よく出るわけ――」
分厚い国語辞典を持ち上げた。
表紙には、子供のころに貼った名前シールがまだ残っており、白かったはずの端が黄色く変色している。
「これか?」
ページをぱらぱらとめくると、紙が擦れる乾いた音と一緒に、古い本特有の匂いが立ち上った。
真ん中あたりを開いたとき、ぱらり、と何かが床へ落ちた。
「……え」
落ちたのは、透明なフィルムに挟まれた、茶色く乾いた三つ葉だった。
「うそだろ」
蓮はしばらく見つめてから、そっと拾い上げた。
本当に十五年後に見つかった。
「千夏、予言者かよ……」
思わず笑ってしまう。
クローバーはもう当時の鮮やかな緑色ではなかった。それでも形は崩れず、あの日と同じ三つ葉のまま残っている。
「三つ葉」
懐かしさに少し笑ったまま、蓮はしおりを裏返した。
そこには、子供の字が残っていた。丸く、少し歪んでいて、最初と最後だけが少し大きい。
昔と同じだ。
英語でクローバー。
「……結局、何だったんだ?」
十五年前にも分からなかった。
二十七歳になった今見ても、やっぱり分からない。
最初と最後だけが少し大きい。
だから何だというのだろう。
「ちゃんと読めって言われてもなあ……」
しおりを顔の前まで持ち上げる。
角度を変えても、裏から見ても、やっぱりただのクローバーだった。
しばらく考えたが、答えは出ない。
「まあ、いいか」
十五年前にも、そうやって諦めた気がする。
蓮はしおりを机の上へ置き、残りの荷物へ手を伸ばした。
そのとき、一階から玄関の開く音がした。
しばらくして、母親の声が階段の下から聞こえてくる。
「あら、いらっしゃい。まだ上でやってるわよ」
誰かが返事をしたようだったが、蓮のいる部屋までは聞き取れなかった。
「誰だ?」
深く考える間もなく、階段を上ってくる足音が近づいてきた。
やがて、開けっぱなしだった部屋の入口から声がした。
「まだ終わってないの?」
聞き慣れた声だった。
蓮が振り返る。
部屋の入口に、千夏が立っていた。
写真の中では肩にも届いていなかった黒髪は、今では鎖骨を越えるくらいまで伸びている。子供らしく丸かった頬も、十五年分だけすっきりとした大人の輪郭に変わっていた。
「……どうしたの、急に」
「お母さんから連絡きたの。『全然片づけが進まない』って」
「告げ口早すぎだろ」
「朝から何時間やってるの」
「思い出って強敵なんだよ」
「はいはい」
「はいは一回じゃなかった?」
「それ私が言うやつ」
千夏が呆れたように笑った。
その瞬間、目尻がわずかに下がり、目が少し細くなる。
髪の長さも、顔つきも、十五年前とはずいぶん変わった。
それでも、その笑い方だけは写真の中の千夏とほとんど同じだった。
千夏は部屋へ入り、足元の段ボールを避けながら蓮の近くまで来た。
「何笑ってるの?」
「いや」
「片づけ諦めた?」
「違う」
「じゃあ手動かして」
「厳しいなあ」
千夏が床に置かれた段ボールを覗き込んだ。
「うわ、懐かしい。卒業文集」
「見た」
「何書いてた?」
「将来の夢、宇宙飛行士」
「え、意外」
「理由が『宇宙には学校がないと思うから』」
千夏が一秒黙った。
「最低」
「俺もそう思った」
「小学生のころから蓮だったんだね」
「どういう意味だよ」
「そのままの意味」
千夏が笑いながら、閉じてあった文集を手に取る。
その拍子に、ページの間へ戻しておいた写真が少しだけはみ出した。
「ん?」
千夏が写真を引き抜く。
「あ、これ」
「覚えてる?」
「六年生になったときのやつでしょ」
写真の中には、まだ桜の残る校舎の前で並んだ六年二組の子供たちが写っている。
千夏はしばらく写真を眺めた。
昔の自分を探すように指先を動かし、やがて一人の少年の上で止める。
「蓮、顔ひどい」
「さっき俺も思った」
「眠そう」
「たぶん眠かった」
「こっちはちゃんと写ってるのに」
「自分で言う?」
「だってちゃんと写ってるじゃん」
「はいはい」
「はいは一回」
「今それ使う?」
二人で笑った。
千夏が写真を眺めている間、蓮もその横から覗き込む。
十五年前の二人が、同じ一枚の中にいた。
今こうして同じ写真を並んで見ていることが、少しだけ不思議だった。
蓮が机へ手をついたとき、そこに置いてあった三つ葉のしおりが目に入った。
「あ、そうだ」
「何?」
「これ覚えてる?」
蓮がしおりを持ち上げる。
千夏の視線が、その三つ葉に止まった。
さっきまで笑っていた顔が、一瞬だけ止まる。
千夏がしおりへ手を伸ばした。
その左手の薬指で、細い銀色の指輪が春の光を反射した。
蓮の左手にも、同じものがある。
二人が結婚して、三か月。
「……」
「お前がくれたやつ」
「……うん」
千夏の返事は、ほんの少しだけ遅かった。
「本当に十五年後に見つかった」
「そう」
「予言者だった?」
「蓮が物なくすだけ」
「なくしてない。辞書に入ってた」
「それを忘れてたって言うんだよ」
「最終的には見つかった」
「十五年前と同じこと言ってる」
千夏が笑った。
けれど、その笑い方は少しぎこちなかった。
蓮は気づかず、しおりを裏返した。
「でさ」
「……何?」
千夏の声が少し低くなる。
「これ、結局何だったの?」
「え?」
「ここ」
蓮は裏側の文字を指さした。
「なんで最初と最後だけ大きいの?」
千夏の動きが止まった。
「……」
「昔も聞いた気がするけど、結局教えてくれなかっただろ」
「…………」
「千夏?」
千夏はしおりと蓮の顔を交互に見た。
それから、ゆっくり片手で顔を覆った。
「うそでしょ……」
「何が?」
「まだ分かってなかったの?」
「だから何が?」
「十五年あったんだよ? とっくに気づいてると思ってたのに!」
「十五年考えてないからな」
「考えて!」
「今考えたけど分からん」
千夏はしばらく何も言わなかった。
顔を覆っていた手を下ろす。
耳が赤い。
そこから頬まで、少しずつ赤くなっていく。
「……ちゃんと見て」
「見てる」
「昔もそれ言った!」
「じゃあ教えてくれよ」
「もう……」
千夏は蓮の手からしおりを取った。
両手で持ち、しばらく文字を見つめる。
十五年前に書いたものを、大人になった本人が読み返している。
それが恥ずかしいのか、千夏はなかなか口を開かなかった。
「千夏?」
「分かってる。言うから」
「うん」
「急かさないで」
「急かしてない」
「顔が急かしてる」
「どんな顔だよ」
「知らない」
千夏は一度だけ小さく息を吸った。
「最初」
「うん」
「Cでしょ」
「うん」
「最後は?」
「R」
「そう」
「それで?」
千夏が蓮を睨んだ。
「そこまで言ってまだ分かんない?」
「分かんないから聞いてる」
「ほんとに?」
「うん」
「……はあ」
千夏は天井を仰いだ。
それから、しおりへ目を戻す。
「真ん中」
「真ん中?」
「読んで」
蓮は言われたとおり、最初と最後を除いた文字を目で追った。
「……love」
「そう」
「…………」
千夏は蓮を見なかった。
しおりだけを見つめながら、小さな声で続ける。
「Cが、Chinatsu」
「……」
「Rが、Ren」
「…………」
千夏の声がどんどん小さくなった。
耳はもう真っ赤だった。
「だから」
そこで一度、言葉に詰まる。
言いたくないのかもしれない。
けれど、もうここまで言ったら引き返せない。
「C……love……R」
蓮はしおりを見た。
そこで初めて、その文字列が一つの英単語ではないものに見えた。
CloveR。
C。
love。
R。
「…………あ」
頭の中で、十五年前の景色がつながった。
放課後の教室。
赤くなった千夏の耳。
――三つ葉だっていいじゃん。
――最初と最後!
――ちゃんと読んで。
――持ってて。
そして翌日の校舎裏。
泥のついた指。
必死に探した四つ葉。
千夏へ差し出した蓮。
――こっちのほうがいいだろ。
「……待って」
「何」
「これ」
「うん」
「告白だったの?」
言葉にした瞬間、千夏の顔が一気に赤くなった。
耳だけではない。
頬も、鼻のあたりまで赤い。
「今さら言わせんな!」
「いや、だって――」
「十五年だよ!?」
「でも俺――」
「十五年前に気づけ、ばか!」
顔を真っ赤にした千夏が、ぽかりと蓮の肩を殴った。




