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大学生恋愛のすゝめ  作者: 亜久
9/9

8限目:農学 関係性の土壌改良

 前回の「最適プレゼント選定シミュレーション」は、結果として失敗に終わった。俺のモデルは、桜井詩織の「笑顔」という最重要評価関数を最適化できなかった。


 なぜか。

 原因は明白だ。基礎的なデータ、すなわち、彼女に関する情報が、絶対的に不足している。モデルがいかに精巧でも、入力するデータが不正確かつ不十分であれば、正しい解を導き出すことはできない。Garbage In, Garbage Out。情報科学における基本原則だ。


 俺は原点に回帰する必要性を感じていた。

 そんな折、大学のキャンパスを横切っていると、農学部の実験圃場が目に入った。そこでは、学生たちが黙々と土を耕し、何かの苗を植えている。その光景を見た瞬間、俺の頭に、天啓のように一つのアナロジーが閃いた。


「……これだ。土壌改良だ」


 俺たちの関係性を、一つの「植物」だと仮定する。

 この植物を健全に成長させるためには、何よりもまず、その根が張る「土壌」が豊かでなければならない。

 この土壌とはすなわち、俺たちの「相互理解」や「共通の話題」そのものだ。


 現状の俺たちの土壌は、極めて痩せている。含まれる養分は、「心理学」「電子工学」といった、偏った専門知識ばかり。これでは、健全な成長は望めない。


 俺がやるべきことは、この土壌に、多様な養分を投入することだ。

 窒素(N):彼女の基本的な嗜好(好きな食べ物、色、音楽)

 リン酸(P):彼女の価値観や経験(子供の頃の夢、感動した本)

 カリウム(K):彼女の日常(趣味、休日の過ごし方)


 これらの情報を体系的に収集し、関係性という土壌の栄養バランスを最適化する。

 俺は、この新たなプロジェクトを「関係性土壌改良計画」と名付けた。


「実験圃場は、学食とする」


 適度な喧騒は、被験者の警戒心を解き、自然な情報開示を促す効果が期待できる。

 俺は、すぐさま桜井詩織に『昼食を共にし、いくつかの議題について議論したい』とメッセージを送信した。議題、というのはもちろんカモフラージュだ。本当の目的は、彼女という豊かな土壌から、サンプルを採取することにある。


 ※

 

 高杉くんと「恋人(仮)」になってから、私は彼からの「お誘い」に、すっかり慣れてしまった。

『議題について議論したい』

『共同作業を提案する』

『観測実験に協力願いたい』

 彼の使う言葉はいつも大げさだけど、その裏にある「君と会いたい」という、たった一つのシンプルな気持ちが、私にはちゃんと届いていた。


 だからその日、学食で彼に会った時も、私はいつも通りの少し変わった楽しいランチタイムが始まるのだと信じて疑わなかった。


「こんにちは、高杉くん」

「ああ。時間通りだ。早速だが、本題に入る」


 彼は、私が席に着くなり、ノートとペンを取り出した。いつものことだ。

 でも、今日の彼は、なんだかいつもより、目がギラギラしている気がする。まるで、世紀の発見を目前にした科学者みたいに。


「まず、議題1:朝食の最適化について。桜井さん、君が今朝摂取した食料の品目と、その栄養素含有量を、可能な限り詳細に報告してほしい」

「え?えっと……トーストと、目玉焼きと、コーヒー、かな……?」


「なるほど。炭水化物、タンパク質、カフェインか。ビタミンが不足している。改善の余地があるな」

 彼は、何かをすごい勢いでノートに書き込んでいる。


 まあ、これくらいなら、まだいい。いつもの高杉くんだ。

 しかし、その日の彼は、明らかに様子が違った。


「次の議題だ。君が好む音楽のジャンルを、トップ5まで、その選好理由と共に提示せよ」

「え、ええと……J-POPとか、好きかな。歌詞がいいなあって……」

「歌詞の、どの部分の、どのような表現が、君の感情に作用するのか。具体例を挙げて説明してほしい」


「議題3。小学生時代、最も得意だった科目は何か。また、その科目における、君のテストスコアの平均値と標準偏差は?」

「え、え、標準偏差!?」


「議題4。君がリラックスできる室温と湿度を、それぞれ有効数字2桁で答えよ」

「議題5……」

「議題6……」


 質問は、まるでマシンガンのように、途切れることなく続いた。

 それはもう、会話ではなかった。尋問、あるいは、口頭でのアンケート調査だ。

 私は彼の質問に答えるだけで精一杯だった。私が頼んだカルボナーラは、どんどん冷めて固まっていく。


 楽しい、という気持ちが、少しずつすり減っていくのを感じた。

 私のこと、知ろうとしてくれてるのは、嬉しい。嬉しい、はずなのに。

 なんでだろう。なんだか、すごく、疲れてしまった。


 私が、彼の質問の弾幕に、ぐったりとしていた、その時だった。


「あれ?詩織に、高杉くん。二人とも、おっつかれー」

 ひょいと、私たちのテーブルに、明るい声が割り込んできた。

 同じ心理学科の先輩、彩香さんだった。


「彩香先輩!こんにちは」

 私はまるで救世主が現れたかのように、ぱっと顔を上げた。


「どうしたの、二人とも。なんか、すごい真剣な顔しちゃって。テスト勉強?」

 彩香先輩は、人懐っこい笑顔で、高杉くんの開いたノートを覗き込んだ。


 高杉くんは、私たちの会話など意にも介さず、彩香先輩に真顔で答えた。

「いえ。これはテストではありません。現在、我々は、関係性という土壌の栄養素分析を目的とした、体系的な情報収集を行っています」

「どじょう……えいようそ……?」


 彩香先輩は、一瞬、きょとんとした顔をしたが、すぐに全てを察したようだった。

 彼女は、私の疲れ切った顔と、高杉くんの尋常ではない集中力を見比べると、くすっと笑った。


 そして、まるでいたずらを思いついた子供のように、高杉くんに言った。

「ねえ、高杉くん。ちょっとだけいいかな?君の学部の新しい先生の評判、聞きたいんだけど」


「あーあの教授ですか。彼の研究分野は……」

 高杉くんが、データベースを検索するように話し始めたのを、彩香先輩は「あ、こっちで、こっちで!」と、少し離れた場所に彼を連れて行ってしまった。


 数分後。

 高杉くんは、一人で私たちのテーブルに戻ってきた。

 その表情は、なんだか、雷にでも打たれたみたいに、呆然としている。


 彼は、無言で席に着くと、ぱたん、と大きな音を立てて、ノートを閉じた。

 そして、私の冷めきったカルボナーラをじっと見つめると、ぽつりと、こう言った。


「……水のやりすぎは根を腐らせる、か……」


「え?」


「養分も、一度に与えすぎれば、浸透圧の異常を引き起こし、植物は枯れる。土壌改良は、時間をかけて、ゆっくりと行うべきだった。俺の計画は、根本的に間違っていた」


 彼はまるで懺悔をするように、そう言った。

 彩香先輩が、彼に何か言ってくれたんだ。きっと、農学部にいる彼にも分かるように、植物に例えて。


 私はなんだか、その光景がおかしくて、愛おしくて。

 疲れなんて、どこかに吹き飛んでしまっていた。


 彼は、閉じたノートを鞄にしまうと、私をまっすぐに見て、言った。


「……すまなかった。君を、疲れさせた」

 それは、彼の口から、初めて聞いた、まっすぐな謝罪の言葉だった。


 そして、彼は少しだけ間を置いてから、本当に、本当に、小さな声でこう続けた。


「……そのパスタは、もう、美味しくないだろう。新しいものを、注文し直さないか」


 それは、質問ではなかった。

 データ収集でも、実験でもない。

 ただ、冷たいパスタを前にしている私を気遣う、彼の不器用な優しさだった。


 私は、満面の笑みで、頷いた。

「うん!」


 その日、私たちが、新しく注文し直した温かいカルボナーラを食べながら、どんな話をしたのか。

 それはもう、他愛もない、本当に普通の雑談だった。

 でも、その何でもない時間が、痩せっぽちだった私たちの関係性の土壌に、じんわりと、温かい水を染み込ませていくのが、私にはちゃんと分かっていた。

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