7限目:情報科学 恋愛シミュレーション仮説
我々の関係性は、新たなフェーズに移行した。
「対話による制振ダンパー」の設置、すなわち、互いの感情を言語化し共有するというルールは、システムの安定に一定の効果をもたらした。これにより、俺の内部で発生していた無秩序な感情の振動は、ある程度予測可能な範囲に収束しつつある。
だが、安定は目的ではない。手段だ。
次なる目標は、この安定した関係性を、より良い方向へと最適化すること。具体的には、桜井詩織の「幸福度」という評価関数を、最大化することだ。
しかし、「幸福度」とは何か。
あまりにも曖昧で、定義が困難な概念だ。彼女が「楽しい」「嬉しい」と感じる状態を指すのだろうが、そのトリガーとなる事象は多岐にわたる。これを場当たり的な試行錯誤で探るのは、非効率的の極みだ。
「必要なのは、予測モデルだ」
彼女の行動原理をモデル化し、特定の入力(俺の行動)に対して、どのような出力(彼女の感情)が返ってくるかを予測する。いわば、恋愛シミュレーションだ。
俺は、情報科学の知識を総動員して、このシミュレーションモデルの構築に着手した。
ステップ1:データ収集
ソースは、これまでの彼女との対話ログ、共同活動における行動観察データだ。
俺は、それらの膨大なテキストデータと観測記録から、彼女の嗜好に関するパラメータを抽出した。
parameter_sweets (甘いもの嗜好度) = 0.9 (ケーキセットを迷わず選択)
parameter_zakka (雑貨嗜好度) = 0.85 (万華鏡作り体験に強い関心を示す)
parameter_animal (動物嗜好度) = 0.7 (道端の猫に注意を向ける行動を観測)
parameter_academic (学術的探究心) = 0.95 (講義への出席率、レポートへの取り組みから算出)
ステップ2:モデル設計
これらのパラメータに、それぞれ重み付けを行い、スコアリングモデルを設計する。
行動Aを実行した場合の彼女の予測幸福度 H(A) は、以下の式で近似できると考えた。
H(A) = w1 * P1(A) + w2 * P2(A) + ... + wn * Pn(A)
ここで、w は各パラメータの重み、P(A) は行動Aが各パラメータに与える影響度を示す。
ステップ3:シミュレーション実行
このモデルの最初のタスクとして、「彼女に贈る最適なプレゼントの選定」という課題を設定した。いくつかのプレゼント候補を、モデルに入力し、幸福度 H が最も高くなるものを探す。
候補1:人気の洋菓子店のケーキ
H(cake) = 0.9 * 0.9 + 0.85 * 0.1 + ... = 0.895
候補2:ガラス細工の猫の置物
H(cat_figure) = 0.9 * 0.2 + 0.85 * 0.8 + 0.7 * 0.9 + ... = 1.49
候補3:最新の認知心理学に関する論文集
H(thesis) = 0.9 * 0.05 + ... + 0.95 * 1.0 = 1.0025
計算結果は明確だった。
猫の置物が、最も高い幸福度スコアを示している。しかし、ここで俺のシステムに、未知のエラーが発生した。
「なぜだ……?」
論理的な計算結果は、「猫の置物」を推奨している。だが、俺の内部で、新たに成長しつつある別の思考回路……直感、とでも呼ぶべきか。それが、「それは違う」と警告を発しているのだ。
俺はモデルを再検討した。
そうだ。パラメータparameter_academicの重み付けが、過小評価されている可能性がある。彼女は、極めて知的好奇心が旺盛な個体だ。表面的な「カワイイ」という感情よりも、知的な満足感の方を、本質的には求めているのではないか。
俺は、w_academicの値を、他のパラメータの3倍に設定し、再計算を実行した。
H(thesis)_rev2 = 0.9 * 0.05 + ... + (0.95 * 3) * 1.0 = 2.8975
今度こそ、圧倒的な差がついた。
「最新の認知心理学に関する論文集」。これこそが、俺のシミュレーションが導き出した、論理的な最適解だ。
俺は、すぐさま大学のデータベースにアクセスし、関連分野の最新論文を検索、印刷し、丁寧にファイリングした。
表紙には、『桜井詩織氏の知的好奇心を満たすための最適解』と、テプラで印字したラベルを貼り付けた。
これで完璧なはずだ。
そう。俺の頭では、そう結論づけられていた。しかし、胸の奥で鳴り続ける、微かな警報音は、なぜか止まないままだった。
※
高杉くんと、「恋人(仮)」みたいな関係になってから、数日が経った。
私たちの関係は、周りから見たら、きっと何も変わっていないように見えるだろう。相変わらず、学食で難しい顔をして数式を解いている彼と、その隣で心理学の教科書を読んでいる私。
でも、私の中では、世界が少しだけ色鮮やかに見えるようになっていた。
彼が時々、ふと私に向ける視線の中に、以前の「観察」とは違う、温かい何かを感じるようになったからだ。
最近の彼は、なんだか、私のことをもっと知ろうとしてくれているみたいだった。
「桜井さんは、論理的なパズルと、直感的な間違い探し、どちらを好む傾向にある?」とか、「君が『綺麗だ』と感じる風景の、構成要素を言語化してみてほしい」とか。
相変わらず質問は独特だけど、その一つ一つが、私への興味で溢れているのが分かって、くすぐったい気持ちになる。
「ねえ、詩織の彼氏って、本当に変わってるよね」
昼休み、友人の美咲に高杉くんの話をしたら、案の定、呆れたように言われた。
「ていうか、それ、本当に付き合ってるって言えるの?」
「うーん、付き合ってる、のかなあ……」
自分でも、よく分からない。私たちは、まだ手も繋いだことがないし、「好き」という言葉を、ちゃんと言い合ったわけでもない。
「でもね」
私は、美咲に言った。
「すごく、誠実な人なんだよ。私のことを、世界で一番難しい問題みたいに、一生懸命、真剣に考えてくれてるの」
美咲は、「まあ、詩織がいいなら、いいけど……」と、まだ納得いかない顔をしていた。
それでいいのだ。
彼の良さは、きっと、私にしか分からない。それで十分だった。
そんなある日、彼から「渡したいものがある」と、短いメッセージが届いた。
放課後、いつもの中庭のベンチで会う約束をする。
渡したいものって、なんだろう。
もしかして、プレゼント……?
そんなことを考えただけで、顔が熱くなって、心臓が跳ねる。
別に、高価なものである必要なんて全くない。
彼が、私のために、何かを選んでくれた。その時間と、その気持ちだけで、私は、世界一の幸せ者になれるのに。
期待に胸を膨らませて、私は約束の場所へと、少しだけ駆け足で向かった。
※
ベンチに座って待っていると、高杉くんが、少し緊張した面持ちでやってきた。
その手には、彼にしては珍しく、一冊の、分厚いファイルを抱えていた。
「待たせたな」
「ううん、全然!それで、渡したいものって……?」
私の期待に満ちた視線を受け、彼は一度、ごくりと喉を鳴らした。
そして、まるで重要な研究成果を発表するみたいに、厳かにそのファイルを私に差し出した。
「これだ。受け取ってほしい」
私はどきどきしながら、そのファイルを受け取った。
表紙には、『桜井詩織氏の知的好奇心を満たすための最適解』と書かれている。
(……さいてきかい?)
不思議に思いながら、私はそっとファイルを開いた。
中に入っていたのは――びっしりと、英語で書かれた、何枚もの、論文のコピーだった。
「……え?」
『A Computational Model of Visuospatial Attention』
『The Role of the Hippocampus in Episodic Memory Formation』
『Neural Correlates of Decision Making Under Uncertainty』
タイトルを見ても、全く意味が分からない。
これが、プレゼント……?
嬉しいとか、悲しいとか、そういう感情の前に、ただ頭には巨大な「?」が生まれていた。
私は、どんな顔をすればいいのか分からず、とりあえず、全力で、ひきつった笑顔を作ってみせた。
「あ、ありがとう……。すごく、学術的なんだね……?」
その瞬間、高杉くんの表情がわずかに、本当にわずかに曇ったのを、私は見逃さなかった。
彼は、私の顔を穴が開くほどじっと見つめている。彼の頭の中の、高性能な「表情分析システム」が、フル稼働しているのが分かった。
やがて、彼は、まるで敗北を認めるかのように、がっくりと肩を落とした。
「……シミュレーションは、失敗だ」
「え?」
「俺のモデルは、君の『笑顔』という、最も重要な評価関数を、全く最適化できていなかった。予測幸福度は3.02。だが、観測された実際の値は、推定0.45。誤差が大きすぎる」
彼は悔しそうに、自分のノートに何かを書きなぐっている。
私は、彼のその言葉と、あまりに真剣な様子を見て、ようやく全ての状況を理解した。
そして、次の瞬間。
「……あは、ははははっ!」
私は、こらえきれずに大声で笑い出してしまった。
お腹が痛くなるくらい、涙が出るくらい、笑った。
「ご、ごめん……!だって、おかしくて……!」
ぽかんとしている高杉くんに、私は涙を拭いながら言った。
「あのね、高杉くん。このプレゼント、正直、内容は全然分からない」
「……だろうな」
「でもね」
私は、その分厚い論文のファイルを、ぎゅっと胸に抱きしめた。
「私のために、一生懸命、シミュレーションまでして、これを選んでくれたんでしょ?」
「……ああ」
「その気持ちが、本当にに嬉しかったよ。だから、このプレゼントの点数は、100点満点。ううん、200点!」
私の言葉に、彼は鳩が豆鉄砲を食ったような顔で、完全に固まっていた。
彼の論理回路が、またしても、処理能力を超える情報量に、悲鳴を上げているようだった。
「……評価関数は、オブジェクトそのものではなく、それに付随する『意図』に設定すべきだった、ということか……」
彼は、ぶつぶつと呟きながら、猛烈な勢いでノートにメモを取っている。
その姿が、本当に愛おしくて。
私は、まだ笑いが止まらないまま、彼に言った。
「ありがとう、高杉くん。最高のプレゼントだよ」
私の心の中の幸福度メーターは、彼の計算なんかじゃ、到底測れないくらいの値を、とっくに振り切ってしまっていた。




