6限目:建築学 心の耐震設計
桜井詩織という存在は、俺の安定した論理システムにとって、観測史上最大の外部応力である。
彼女の予測不能な言動、特に「絵文字事件」以降、俺の内部では、これまで経験したことのない規模の感情の振動が観測されている。この振動は、思考のクリアランスを著しく低下させ、計算リソースを不必要に消費させる。
この状態を放置することは、極めて危険だ。
建築物が高周波の振動に晒され続けると、共振現象によって内部構造に疲労が蓄積し、最終的には崩壊に至る。俺の精神構造もまた、例外ではない。
「早急な対策が必要だ。心の耐震設計が」
俺は、専門分野である電子工学から一旦離れ、建築構造力学のテキストを開いた。
建築物における耐震設計には、大きく三つのアプローチがある。
耐震構造: 柱や梁を太くし、構造自体を強固にすることで、地震の揺れに「耐える」。
制振構造: ダンパーなどの装置を組み込み、揺れのエネルギーを「吸収」する。
免震構造: 建物と地面の間に特殊な装置を入れ、揺れを建物に「伝えない」。
これを、俺の精神モデルに応用できないか。
まず「耐震構造」。これは、俺の論理的思考そのものを、より強固にするアプローチだ。感情の揺れに対し、動じない精神を構築する。しかし、これは現状の俺には困難だ。桜井詩織という変数は、俺の論理の想定を常に超えてくる。
次に「免震構造」。彼女からの刺激そのものを遮断する、ということか。連絡を絶ち、会わないようにする。それは可能だが、関係性yの値をゼロにする行為であり、本末転倒だ。却下。
残るは、「制振構造」だ。
外部からの揺れ(彼女からの刺激)に対し、そのエネルギーを吸収し、熱エネルギーなどに変換して放出するダンパー。俺の心にも、この「感情制振ダンパー」を組み込む必要がある。
では、そのダンパーの役割を果たすものは何か。
それは、「ルールの明確化」と「状態の言語化」ではないか。
俺たちの間に存在する暗黙のルールや、定義の曖昧な感情を、明確な言葉で定義し、共有する。それによって、予測不能な揺れを、ある程度、予測可能なものへと変換できるはずだ。
「よし。設計図を引こう」
俺はCADソフトを立ち上げると、俺と彼女の関係性を、一つの建築物としてモデリングし始めた。
俺という基礎(Foundation)の上に、彼女という上部構造(Superstructure)が乗っている。いや、違う。俺たちは独立した二つの塔であり、その間を繋ぐ連絡通路(corridor)が存在する、と考えるべきか。
数時間にわたる設計作業の末、俺は一つの図面を完成させた。
それは、俺たちの関係性を視覚化した、世界でたった一つの「構造設計図」だ。
これを見せれば、彼女も俺の意図を、そして俺が直面している構造的危機を、正確に理解してくれるに違いない。
俺は、完成した設計図をA3用紙にカラー印刷し、彼女に「緊急の報告がある」とメッセージを送った。
※
高杉くんから『緊急の報告がある』なんて、ただ事じゃない雰囲気のメッセージが届いた時、私の心臓は、どきりと音を立てた。
緊急って、何だろう?
何か、大変なことが起きたのかな。それとも、私が何か、彼を怒らせるようなことをしてしまったんだろうか。絵文字の件は、電話で仲直りできたと思っていたけれど……。
不安な気持ちで、大学の中庭にあるベンチで彼を待っていると、彼は少し険しい顔で、大きな筒状のケースを抱えてやってきた。
「や、やあ、高杉くん。緊急の報告って……?」
「ああ。まずは、これを見てほしい」
彼は、厳かな手つきでケースから一枚の大きな紙を取り出し、テーブルの上に広げた。
そこに描かれていたのは……何かの、設計図?
青い線と赤い線が複雑に交差し、細かい数字や記号、そして『応力集中点』『許容応力度』『座屈注意』といった、物々しい注釈がびっしりと書き込まれている。
「……これ、なに?」
「僕たちの、関係構造設計図だ」
「かんけいこうぞう……せっけいず……?」
私の頭の上には、巨大なクエスチョンマークが浮かんでいた。
彼は、その設計図の一点を、人差し指でとん、と指し示した。
そこには、二つの大きな柱が描かれ、それぞれに『高杉賢人(論理構造体)』、『桜井詩織(感情構造体)』とラベルが貼られている。
「現在、僕たちの関係は、この二つの柱が、極めて不安定な接合部のみで連結されている状態にある。この状態で外部から強い応力、例えば、君の予測不能な言動などが加わると、接合部に深刻なダメージが発生する」
「え、ええ……?」
彼は、私の反応などお構いなしに熱弁を続ける。
まるで、大切なプレゼンテーションをしているみたいに、真剣な顔で。
「特に問題なのが、ここだ」
彼が指し示したのは、二つの柱の間に描かれた、ぐにゃぐにゃと波打つ、ピンク色の奇妙な図形だった。
そこには、『未定義の感情(仮称:好き?)』と書かれている。
「この未定義の感情が、僕の論理構造体に対して、想定外の共振現象を引き起こしている。これが、僕のシステム全体を不安定にさせている最大の原因だ」
「す、好き……?」
私は、その文字から目が離せなくなった。
心臓が、まるで大きな鐘みたいに、頭の中でがんがんと鳴り響く。
もしかして、これって。
これって、もしかして……。
「そこで、提案がある」
彼は、私の混乱をよそに話を核心へと進めた。
彼は、設計図の余白部分を指さす。そこには、新しく追加されるべき、頑丈そうなダンパーの絵が描かれていた。
「この『対話による制振ダンパー』を、僕たちの関係に新たに設置したい。具体的には、週に一度、お互いの感情状態と、その原因について、言語化して報告し合う。それにより、この未定義の感情エネルギーを、安全に吸収・解放することが可能となる」
「……」
私はもう、何も言えなかった。
頭が、完全にキャパシティオーバーだった。
目の前で、こんなに複雑で回りくどくて、でも、必死な方法で自分の気持ちを伝えようとしてくれている人がいる。
『君のせいで、僕の心はぐちゃぐちゃなんだ。だから、ちゃんと話がしたい』
きっと、彼はそう言いたいんだ。
その不器用さが、あまりにも愛おしくて。
その真剣さが、あまりにも眩しくて。
私は俯いて、必死に笑いをこらえた。
だめだ。ここで笑ったら、彼のプライドを傷つけてしまうかもしれない。でも、もう限界だった。
「……ふ、ふふっ……」
ついに、私の口から、こらえきれない笑い声が漏れてしまった。
高杉くんの顔が、みるみるうちに曇っていく。
「……なぜ笑う?僕の設計に、何か構造的な欠陥があったか?」
「ち、ちがうの……ごめん……!」
私は、笑いすぎて出てきた涙を指で拭いながら、首を横に振った。
「そうじゃなくて……嬉しくて……」
「……嬉しい?」
彼の眉間のしわが、さらに深くなる。彼にとって、「笑い」と「嬉しい」が、この文脈で結びつくことが、理解できないのだろう。
私は、深呼吸を一つして、彼の目をまっすぐに見つめた。
そして、彼のあの複雑な設計図を、とん、と指さした。
あの、ぐにゃぐにゃのピンク色の図形。『未定義の感情(仮称:好き?)』と書かれた、その部分を。
「高杉くん」
「……なんだ」
「この、未定義の感情ってやつ」
私は少しだけ勇気を振り絞った。
「それ、たぶん、『好き』で、合ってると思うよ」
言った瞬間、高杉くんは完全にフリーズした。
まるで、巨大な電流を流し込まれたロボットみたいに、ぴしり、と固まってしまった。
彼の顔は、普段の無表情が嘘のように、みるみるうちに赤く染まっていく。
「……そ、それは、まだ、仮説の段階だ……!」
彼がようやく絞り出したのは、そんな言葉だった。
「ふふっ。そっか。じゃあ、その仮説が正しいかどうか、これから二人で、検証していこうよ」
私は、いたずらっぽく笑いかけた。
「あなたの言う、『対話による制振ダンパー』、設置してみようよ。面白そうだし」
私の言葉に、彼はしばらくの間、何も言えずにただ口をぱくぱくとさせていた。
彼の論理回路が、猛烈な勢いで再計算を始めているのが、目に見えるようだった。
やがて、彼は、まるで小さな子供が、初めて見るおもちゃを前にするように、おずおずと、こう言った。
「…検証には、正確なデータ収集が不可欠だ」
「うん」
「君の、『好き』という感情の定義と、僕のそれとが、一致しているかどうかも、確認する必要がある」
「うん、そうだね」
「だから…」
彼は、一度、ぐっと言葉を飲み込むと、決心したように、顔を上げた。
その目は、少しだけ潤んでいるようにも見えた。
「だから、これからも、僕のそばで、観測対象でいてほしい」
それは、告白と呼ぶには、あまりにも理屈っぽくて、遠回しな言葉だった。
でも、私には、ちゃんと聞こえた。
世界で一番、分かりにくいけど、世界で一番、まっすぐな「好き」が。
私は、満面の笑みで、頷いた。
「喜んで」
私たちの間にあった、不安定だった接合部は、まだ少し、ぎこちないかもしれない。
でも、確かに、がっちりと、音を立てて繋がった。
この関係が、これからどんな揺れに見舞われるのかは、まだ分からない。
だけど、二人で設計したこの構造なら、きっと、どんな地震にも耐えられる。
そんな、確かな予感がした。




