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大学生恋愛のすゝめ  作者: 亜久
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5限目:言語学 絵文字の記号論的考察

 前回の学外活動デートは、俺の論理システムに重大なパラダイムシフトをもたらした。「無駄」や「非効率」と定義していた事象が、必ずしも関係性yの値を低下させるわけではない。むしろ、特定の条件下では、ポジティブな影響を与えうる。


 この発見は、俺のモデルをより高度なものへと進化させる可能性を秘めている。しかし同時に、新たな問題も浮上した。


 それは、桜井詩織との非同期通信、すなわちメッセージにおけるコミュニケーションの最適化だ。

 特に、俺を悩ませているのが、「絵文字」及び「スタンプ」という、極めて非論理的な情報伝達手段である。


 あれは、単なる装飾ではない。文字情報だけでは伝達しきれない、感情のニュアンスという高次元の情報を圧縮し、伝送するためのデータ形式だ。しかし、その圧縮アルゴリズムが、俺には全く理解できない。


 例えばこれだ。


 俺:『次のレポート課題、参考文献のリストを送る』

 詩織からの返信には、『ありがとう!助かる〜!』という言葉の後ろに、にっこりと目を細めて笑う顔の絵文字が添えられていた。


 この、文末に付与された記号。

 これは、人間の笑顔を単純化したピクトグラムだ。構造は理解できる。だが、これが具体的にどのような感情状態を表現しているのかが不明瞭なのだ。


・純粋な感謝


・感謝に加え、親愛の情を示唆


・社交辞令としての儀礼的な笑顔


・俺の提供した情報が期待通りであったことへの満足


 考えられる解釈は複数存在する。この記号一つで、文全体の意味が大きく揺らいでしまう。これは、言語学における「多義性(Polysemy)」の問題に他ならない。


「この記号システムを、解明する必要がある」


 俺は再び図書館に向かった。今回のターゲットは言語学、特に「記号論(Semiotics)」の分野だ。

 記号論の祖、ソシュールによれば、記号は「シニフィアン(記号表現)」と「シニフィエ(記号内容)」の二つの要素から成る。


 例の、にっこりと笑う顔の絵文字の場合、


シニフィアン:黄色い円と、U字型の線で構成された図像。


シニフィエ:「喜び」「感謝」「親愛」といった、文化的に共有された抽象的な概念。


 問題は、このシニフィアンとシニフィエの関係が、極めて恣意的かつ文脈に依存する、という点だ。

 例えば、「(笑)」という記号が、文脈によっては嘲笑や呆れといった全く逆の意味シニフィエを持つように、絵文字もまた、その前後関係によって意味が変化するのではないか。


 俺は、これまでの詩織とのトーク履歴を全て印刷し、系統的な分析を開始した。

 各絵文字が出現した文脈、時刻、会話のテーマを分類し、データベースを構築していく。


 数時間にわたる分析の結果、俺は一つの法則を発見した。

 詩織が、特にポジティブな感情を表現する際に、多用する絵文字が存在する。それは、嬉し泣きとも爆笑とも取れる、あの「笑いながら涙を流す顔」の絵文字だ。


 シニフィアンは、大口を開けて笑い、両目から涙を流している顔の図像。

 これを文字通り解釈すれば、「極度の喜び」と「悲しみ」という、相反する感情が同時に発生している、極めて不安定な精神状態を示唆する。


 だが、俺のデータベースによれば、この絵文字は彼女が面白いと感じた時、嬉しいと感じた時に最も高い頻度で出現する。

 つまり、この文脈において、「涙」というシニフィアンは、「悲しみ」というシニフィエとは結びつかない。これは、感情の振幅が極大に達した状態を示す、一種の強調記号として機能しているのだ。


「……なるほど。これは、高度な暗号だ」


 この法則を応用すれば、俺もまた、絵文字を効果的に使用し、より円滑なコミュニケーションを構築できるはずだ。

 俺は、次のメッセージで、早速この新技術を試すことにした。


 高杉くんとのメッセージのやり取りは、私の毎日のささやかな楽しみになっていた。

 彼のメッセージは、相変わらず少し固くて、時々クスッと笑ってしまうような言い回しも多い。でも、その一つ一つに、彼なりの誠実さが詰まっている気がして、通知が来るたびに、私の心はぽっと温かくなる。


 ただ一つだけ、気になっていることがあった。

 彼は、絵文字やスタンプを、全く使わないのだ。

 いつも、きっちりとした黒い文字だけ。それはそれで彼らしいのだけど、私が送ったスタンプ付きのメッセージに、彼がどういう気持ちで返信してくれているのか、時々分からなくなってしまうことがあった。


(別に、無理に使ってほしいわけじゃないんだけど……)


 ほんの少しだけ寂しい。

 そう思っていた、ある日のことだった。


 その日、私はちょっとした失敗をして、一般教養の講義のノートのコピーを取り忘れてしまった。次の授業が始まるまで、もう時間がない。どうしよう、と焦っていた時、高杉くんから、まるで私の状況を読んでいたかのようなメッセージが届いた。


『今日の講義のノートだ。PDF化しておいた。必要なら使うといい』


 添付されていたのは、完璧にスキャンされた、読みやすい講義ノートのデータだった。アンダーラインまで引かれていて、重要箇所がひと目で分かる。


「うわ、すごい!助かる!」

 私は、心の底からそう思った。本当に、神様みたいだ。

 急いで、『本当にありがとう!高杉くんは神様だ〜!』と、大げさに笑いながら涙を流す、あの絵文字を付けて送った。


 すぐに彼から返信が来た。

 珍しくすごく早い。


 わくわくしながらトーク画面を開いた私の目に、信じられないものが飛び込んできた。


『問題ない。合理的な協力関係だ。ところで、君こそ、先日のレポートは見事だった』という言葉の後ろに、例の、笑いながら涙を流す顔の絵文字が、一つ、ちょこんと添えられていた。


「……え?」


 私は自分の目を疑った。

 何度も、何度も、そのメッセージを読み返した。


『君こそ、先日のレポートは見事だった』と、笑い泣きの絵文字。


 高杉くんが、絵文字を使っている。

 しかも、私が一番よく使う、「笑い泣き」の絵文字を。


(え、え、え、どういうこと!?)


 私の頭は、完全にパニックになった。

 いや、絵文字を使ってくれたこと自体はすごく嬉しい。嬉しい、のだけど。

 なんでこのタイミングでこの絵文字なの……?


 私のレポートが、見事だった……?

 それは、褒めてくれてるんだよね?

 でもなんでその後ろに「笑い泣き」なの?


 もしかして……


(私のレポート、本当は出来が悪すぎて、笑うしかなかったってこと……!?)


 そうだ。きっとそうだ。

 彼は優しいから、口では「見事だった」なんて言ってくれたけど、本当はその稚拙な論理展開に呆れて、笑いを通り越して涙まで出てきちゃったんだ。


 ああ、恥ずかしい。

 穴があったら入りたい。

 なんで私は、あんなレポートを彼に見せてしまったんだろう。


 私の顔は、みるみるうちに熱くなっていく。

 嬉しかったはずの気持ちは、一気にどん底まで落ち込んでしまった。


 どうしよう。なんて返信したらいいんだろう。

「ごめんなさい」って謝るべき?それとも、気づかないフリをするべき?

 ぐるぐると同じことを考え続けて、私はスマートフォンの前で、完全に固まってしまった。



 高杉賢人は自室の椅子に深く腰掛け、思考を巡らせていた。

 桜井詩織に、学習したばかりの、あの笑いながら涙を流す絵文字を送信してから、すでに一時間が経過している。

 しかし、彼女からの返信はない。既読の表示は、とっくについているというのに。


「……なぜだ?」


 今回のオペレーションは、完璧だったはずだ。

 彼女が最も多用し、ポジティブな感情と強く結びついていると分析した記号を、賞賛という明確にポジティブな文脈で使用した。

 これにより、俺のメッセージの感情価は増幅され、関係性yの値は飛躍的に向上する。そのはずだった。


 考えられる原因は何か。


 ・記号の誤用 俺が解読した、あの絵文字の意味が、根本的に間違っていた可能性。


 ・文脈の不一致 「レポートが見事」という文脈と、あの記号の間に、俺が認識していない意味的な衝突コンフリクトが発生した可能性。


 ・外的要因 彼女が、返信不可能な何らかの状況下に置かれている可能性。


 賢人が、過去のトーク履歴を再度スキャンし、自身の仮説のどこに欠陥があったのかを分析していた、その時。

 ピロン、と軽い通知音が鳴った。

 詩織からの返信だ。


 賢人は息を飲んで画面を開いた。

 そこに表示されていたのは、彼の予測をまたしても大きく裏切る一文だった。


『レポート、変なところが多くてごめんなさい……。笑われちゃったかと思って、ちょっと落ち込んでました……』


「……なに?」


 笑われた?落ち込んでいた?

 意味が分からない。俺は彼女を賞賛したのだ。なぜ、それが「笑い」になり、「落ち込む」という結果に繋がる?


 俺の論理回路が、ショート寸前になる。

 シニフィアンとシニフィエが、完全に分離してしまっている。


 俺は震える指で、返信を打ち始めた。

 もう記号論も、言語学も関係ない。

 今伝えなければならないのは、観測された事実ではなく、俺の内部で起きているただ一つのことだけだ。


『誤解だ』

『俺は、君を笑ったりなどしていない』

『ただ、君が使っていたから、俺も使ってみようと思っただけだ。君が喜ぶと思った』

『君を落ち込ませるつもりは、全くなかった。すまない』


 絵文字もスタンプも何もない。

 ただの黒い文字の羅列。

 だがそこには、これまでのどのメッセージにもなかった、高杉賢人の率直な「感情」が込められていた。


 メッセージを送ってから数分後。

 スマートフォンがぶるっと震えた。

 電話だ。桜井詩織からの。


 賢人は一瞬ためらった後、覚悟を決めて通話ボタンを押した。


「……もしもし」

「あ、高杉くん……!」


 電話の向こうから聞こえてきたのは、少しだけ、鼻をすするような声だった。


「ご、ごめん!私の方こそ、早とちりして……!」

「……いや」

「そっか……私の真似してくれたんだ。なんだか……すごく、嬉しい」


 その声は、泣いているようでもあり、笑っているようでもあった。


「君が、落ち込んでいなかったのなら、いい」

 賢人は、それだけ言うのが精一杯だった。


 その後の会話は、あまり覚えていない。

 ただ、電話を切った後、賢人は、自分のノートに書きなぐった「絵文字=感情変換テーブル」を、ぐしゃぐしゃに丸めて、ゴミ箱に放り投げた。


 どうやら、人間の心というものは、記号や数式だけで簡単に記述できるほど単純なシステムではないらしい。

 まだまだ、この研究には膨大な時間がかかりそうだ。


 賢人は小さくため息をつくと、少しだけ、本当に少しだけ、口元を緩ませた。

 それは、彼の論理モデルではまだ定義できない種類の穏やかな感情だった。

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