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大学生恋愛のすゝめ  作者: 亜久
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4限目:経済学 デートの機会費用

 これまでの実験により、桜井詩織に関する基礎的な生物学的データは収集できた。心拍数、瞳孔径、自己接触行動の頻度。これらの指標は、彼女の感情状態を推定する上で一定の有効性を持つ。


 しかし、これらのデータは全て、大学という閉鎖された環境クローズドシステムで得られたものだ。より複雑な外部要因が存在するオープンな環境下で、彼女の行動がどう変化するのか。それを観測しなければ、真のモデルは完成しない。


「次なる実験のステージは、学外でのフィールドワークとする」


 すなわち、一般的に「デート」と呼ばれる共同行動だ。

 しかし、俺にとって、これは断じて浮ついた娯楽などではない。これは、限られた資源(時間、費用)を投下し、関係性の向上というリターンを最大化するための、極めて高度な経済活動だ。


 俺は、今回のデートを一つのプロジェクトと定義した。

 プロジェクト名:桜井詩織との関係性向上における最大効用点の探索


 まず、考慮すべきは「機会費用(Opportunity Cost)」だ。

 このデートに費やす時間と費用を、もし他の活動、例えば、電子工学の研究、プログラミング学習、またはは睡眠に充てていたとしたら、どれだけの利益が得られたか。今回のデートが生み出すリターンは、その機会費用を上回らなければならない。でなければ、このプロジェクトは「投資不適格」と判断される。


 俺は、あらゆる変数を計算し、完璧なデートプランの策定に取り掛かった。


【高杉賢人によるデートプラン Ver. 1.0】


13:00 駅前集合。時間厳守。遅延は機会損失を増大させる。


13:05 - 13:45 移動(電車)。移動時間中は、事前に準備したディスカッショントピック(例:認知心理学とUI設計の関連性について)で、有益な情報交換を行う。沈黙は非生産的時間である。


13:45 - 15:45 目的地:市立科学博物館。入館料:600円。期待されるリターン:知的興奮の共有、科学リテラシーの相互確認。コストパフォーマンスは極めて高い。


15:45 - 16:00 移動(徒歩)。


16:00 - 17:00 カフェで休憩。注文は、血糖値を効率的に維持できるコーヒーと、脳のエネルギー源となるブドウ糖を適度に含むチーズケーキを推奨。滞在時間は最大60分。長居は限界効用の逓減を招く。


17:00 - 17:40 移動(電車)。復路では、当日の活動内容のレビューと評価を行い、次回の改善点を議論する。


17:45 駅前で解散。プロジェクト完了。


 完璧だ。

 移動、学習、休憩の全てのフェーズにおいて、時間的・費用的コストは最小化され、期待されるリターンは最大化されている。無駄な要素は一切ない。感情という不確定要素が入り込む隙もない。


 俺はこの計画書をPDF化し、桜井詩織に送信した。件名は「【重要】共同活動計画書」だ。

 数分後、彼女から返信があった。


『わーい!楽しみ!』


 スタンプ付きの、短い一文。

 彼女がこの計画の論理的整合性と効率性を正確に理解したとは考えにくい。だが、結果として同意コミットメントは得られた。それでいい。


 プロジェクトは、計画通りに実行されるはずだった。

 そう、この時の俺は、まだ固く信じていたのだ。


 

 高杉くんとの、初めての学外デート。

 そのお誘いは、またしても彼らしい、独特なものだった。


『【重要】共同活動計画書』という件名のメール。添付されていたのは、分刻みの完璧なタイムスケジュールが書かれた、ビジネス文書みたいな計画書。


 普通なら「えぇ……」って引いちゃうかもしれない。

 でも、私はもう知っている。これが、彼の最大限の「君と過ごす時間を、一秒たりとも無駄にしたくない」という気持ちの表れなんだってこと。その不器用な誠実さが、たまらなく嬉しかった。


 だから、私はただ一言、『楽しみ!』とだけ返信した。


 そして、約束の日曜日。

 駅前の時計台の下で待っていると、彼は約束の時間のきっかり五分前に現れた。


「やあ、高杉くん!おはよう」

「おはよう、桜井さん。定刻前の到着、高く評価する。時間資源の重要性を理解している証拠だ」


 彼は腕の時計を確認しながら、満足そうに頷いた。

 今日の彼は、いつもより少しだけ柔らかい素材のジャケットを着ている。なんだか、それだけで新鮮に見えて、少しだけドキドキした。


「それじゃあ、計画書通り、まずは電車に乗ろうか」

「計画書、ね。ふふっ、了解です、リーダー!」


 私が少しおどけて言うと、彼は「リーダーという役割は、責任と権限の所在を明確にする。悪くない」と、また真顔で呟いていた。


 電車の中では、彼が準備してきたという「ディスカッショントピック」について話した。少し難しかったけど、彼が一生懸命、私にも分かるように説明してくれるのが嬉しくて、私は夢中で相槌を打った。


 

 目的地である科学博物館は、すごく楽しかった。

 巨大な恐竜の化石を見て「わー!大きい!」と私がはしゃげば、隣で彼が「この骨格構造は、力学的に見て極めて合理的だ。最小の材料で最大の強度を確保している」と解説してくれる。

 プラネタリウムで満点の星空を見て「綺麗……」と私がため息をつくと、隣で彼が「我々が見ている光のほとんどは、数万年、あるいは数億年前に放たれたものだ。つまりこれは、壮大なタイムトラベルなんだ」と教えてくれる。


 彼のフィルターを通して世界を見ると、いつも見慣れた景色が、全く新しい、知的でわくわくするものに変わる。それが、私にとっては何よりの喜びだった。


 そう。ここまでは完璧だったのだ。

 彼の、あの完璧な計画書通りに。


 問題が起きたのは、科学博物館を出て、カフェに向かう途中のことだった。


 私の目に、一軒の小さなお店の看板が飛び込んできた。

 古びたビルの二階にある、レトロな雰囲気の雑貨屋さん。看板には、手書きの文字で「寄り道歓迎」と書かれている。


「ねえ、高杉くん!」

 私は、思わず彼のジャケットの袖を掴んでいた。

「あのお店、ちょっとだけ、寄ってみてもいいかな?」


 

「寄り道……?」

 高杉くんは、私の指さす先にある雑貨屋を一瞥し、眉をひそめた。

「計画外の行動だ。その行動によって得られる期待収益は、現時点では算出不能。リスクが高い」


「だ、だめ……かな?」

 私がしゅんとして上目遣いで見つめると、彼は一瞬、言葉に詰まったようだった。そして、小さくため息をつくと、腕時計を見た。


「……猶予は15分とする。15分後には、プロジェクトを当初のスケジュールに復帰させる」

「やった!ありがとう!」


 私は彼の手を引くようにして、古いビルの階段を駆け上がった。

 お店の中は、宝箱をひっくり返したみたいに色々なもので溢れていた。外国の古い切手、ガラスでできた動物の置物、不思議な模様の万華鏡。どれも、何の役に立つかは分からない。でも、ただ見ているだけで、心が躍る。


「見て、高杉くん!この猫の置物、すごく可愛い!」

「……猫というモチーフは、人間の庇護欲を刺激する記号として機能する。商業的に見て、合理的なデザインだ」

「もう、そういうこと言わないの!」


 私が笑いながら彼を窘めていると、お店の奥で、万華鏡作りの体験コーナーが開かれているのが目に入った。


「わ!万華鏡、作れるんだって!」

 私の目は、完全に釘付けになった。

 キラキラしたビーズやガラスのかけらを選んで、自分だけの模様を作る。なんて素敵なんだろう。


「……高杉くん」

 私が振り返ると、彼はすでに険しい顔で腕時計を睨みつけていた。

「予定時刻を3分オーバーしている。これ以上の遅延は、後続の計画に致命的な影響を及ぼす」


「お、お願い!これだけ!これだけやらせて!」

 私は、両手を合わせて彼に懇願した。

 これが私の悪い癖だ。一度夢中になると、周りが見えなくなってしまう。


 高杉くんはしばらくの間、難しい顔で何かを高速で計算しているようだった。

 機会費用、サンクコスト、期待収益率……。きっと、彼の頭の中では、ものすごい勢いで経済用語が飛び交っているんだろう。


 やがて、彼は一つの結論に達したようだった。


「……分かった。計画を修正する」

「ほんと!?」

「ただし、条件がある。僕も参加する。そして、この体験が、我々の投下した時間と費用に見合うだけのリターンを生むかどうか、君が僕を納得させるプレゼンテーションを行うこと」


「ぷ、ぷれぜん……?」


 結局、私たちは二人並んで、万華鏡作りに挑戦することになった。

 私は夢中で好きな色のビーズを選んだ。彼は、ビーズの一つ一つの形状と光の反射率を分析しながら、最も効率的に美しい模様を生成できる組み合わせを計算しているようだった。


 そして、出来上がった万華鏡を覗き込んだ瞬間。

 私は、思わず「わぁ……」と声を上げた。

 そこには、キラキラと輝く、光の宝石箱が広がっていた。二度と同じ形にはならない、一期一会の模様。


「……どうだ、桜井さん。君のプレゼンを聞こう」

 隣で、高杉くんが腕を組んで、厳しい表情で私を見ていた。


 私は、なんて言おうか、少しだけ迷った。

 そして、彼にこう言った。


「あのね、経済学のことは、私、よく分からないけど」

「……ああ」

「でも、こういう、計画通りにいかないこととか、何の役に立つか分からないけどすごく綺麗だなって思う気持ちとか、そういう『無駄』な時間の中にこそ、一番大切なものが隠れてるんじゃないかなって、私は思うんだ」


「……無駄の中に、価値が?」

 彼の目が、少しだけ、見開かれた。


「うん。だって、もし計画通りにカフェに行っていたら、私たちはこの万華鏡の綺麗さを知らなかった。この時間は、私たちの機会費用を、ちゃんと上回ったと思うな。……だめかな?」


 私の言葉に、高杉くんは何も答えなかった。

 ただ黙って、自分が作った万華鏡をじっと覗き込んでいた。

 そのレンズの向こうに広がるキラキラした世界に、彼は何を見ていたんだろう。


 帰り道。

 結局、カフェに行く時間はなくなってしまった。

 彼の完璧な計画は、私のせいでぐちゃぐちゃになってしまったのだ。


「ごめんね、高杉くん。私のわがままで……」

「……いや」


 彼はぽつりと呟いた。


「今日のプロジェクトは、当初の目標を達成できなかった。つまり、経済的に見れば『失敗』だ」

「……うん」

「だが……」


 彼は、そこで言葉を切ると、私の方をまっすぐに見て、こう言った。


「計画外の偶発的な事象が、当初の想定を上回る価値バリューを生み出す可能性。……そのリスクとリターンについては、再計算の必要がある。今日の君の行動は、興味深い観測データだった」


 それは、彼なりの、最大限の「楽しかった」という言葉なんだと、私には分かった。

 夕日に照らされた彼の横顔は、なんだか、いつもより少しだけ、優しく見えた。

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