3限目:生物学 恋する雄の求愛行動
図書館での共同学習は、極めて有意義な結果をもたらした。収集されたデータは多岐にわたる。桜井詩織の思考様式、論理構築の癖、そして集中状態における微細な身体的変化。俺のデータベースは、着実に拡充されつつある。
しかし、まだだ。まだ決定的に不足している情報がある。
それは、彼女の「無意識」の領域に関するデータだ。
人間は、言語や論理といった高次の情報処理システムだけでなく、より根源的な、生物としての本能的なプログラムによっても行動を決定する。それは、自律神経系の反応や、ホルモンバランスの変化として、身体の表面に現れるはずだ。
「次の実験フェーズは、生物学的アプローチによる、対象の生理的反応の観測とする」
俺は新たな研究計画をノートに書き込んだ。
必要なのは、制御された環境下での、近距離における継続的な観測だ。最適なフィールドは、大学のカフェテリア。適度な雑音が存在し、被験者の警戒心を低下させる効果が期待できる。
目的は、彼女の何気ない言動から、生物学的な「興味・関心のシグナル」を抽出すること。
例えば、瞳孔の散大は関心の高まりを示唆する。声のトーン(基本周波数)の上昇は、ポジティブな感情状態と相関がある。髪を触る、脚を組み替えるといった自己接触行動も、心理状態を反映する重要な指標だ。
俺は、これらのデータを収集するための準備を整えた。小型のノートとペン。そして、俺の脳内に構築された、リアルタイムデータ分析システム。
さらに、今回はただ観測するだけでなく、こちらから特殊な刺激を与え、その反応を測定するという、より能動的な実験を試みることにした。
参考にしたのは、ある鳥類の求愛行動だ。
「ニワシドリのオスは、青色の物体、花びら、木の実、時には人工物を集めて巣を飾り、メスへの求愛行動を行う」
これは、特定の視覚情報が、メスの性選択において重要な役割を果たすことを示している。この原理を、ヒトという種に応用できないか。
まず、対象個体(桜井詩織)の嗜好色を特定する必要がある。これまでの対話ログをテキストマイニングした結果、「空」や「海」といった単語に対するポジティブな反応が複数観測された。これにより、彼女の嗜好色が「青」であるという仮説を立てた。
俺は、数日後の講義で配布されたレジュメの中から、一枚だけ、鮮やかな青いグラフが大きく印刷されたものを選び出し、クリアファイルの一番手前にセットした。
これを、観測中に「偶然」彼女の視界に入れる。
この「青色の刺激」が、彼女の深層心理にどのような影響を与えるか。
もし、この刺激の提示後に、彼女のポジティブな生理反応が有意に増加すれば、ニワシドリの戦略はヒトにも応用可能であるという、画期的な発見に繋がるかもしれない。
「実験開始だ」
俺はスマートフォンを取り出し、桜井詩織へメッセージを送信した。
『次の金曜の昼休み、君の時間を15分ほど確保したい。先日、君が提出したレポートの論理構造について、いくつか議論したい点がある。場所は、中央カフェテリアを提案する』
名目は、あくまで学術的な議論。
本当の目的は、その裏で進行する、極秘の生物学的観測にある。
※
高杉くんから、またお誘いが来た。
『レポートについて議論したい』という、いかにも彼らしい、真面目な口実で。
でも、それが彼の照れ隠しだってこと、私にはもう、少しだけ分かっている。本当は、ただ、私と話したいだけなんだって。
そう思うと、スマートフォンの画面に表示された短いメッセージが、宝物みたいにキラキラして見えた。
約束の金曜日。
昼休みが始まると同時に、私は少し早足で中央カフェテリアに向かった。
ガラス張りの明るいカフェテリアは、多くの学生で賑わっている。その一番奥のテーブルに、高杉くんはもう座っていた。机の上には、参考書らしきものと、ノート。そして、一杯のブラックコーヒー。その姿は、まるで一枚の絵みたいに、すっと風景に溶け込んでいた。
「高杉くん、お待たせ!」
「いや、問題ない。時間通りだ」
彼は顔を上げると、私をじっと見つめた。
その目に、どきりとする。
彼の目は、いつもそうだ。まるで、私の心の奥まで見透かそうとするみたいに、まっすぐで、強い。今日も、私が席に着いてから、彼はほとんど瞬きもせずに、私の顔を、というよりは、私の顔のあたり全体を、観察しているようだった。
「え、えっと……私の顔、何か付いてる?」
思わず、自分の頬に手をやる。
「いや。問題ない。異常値は観測されない」
「そ、そっか……」
そうじゃないんだけどな。
そんなにジロジロ見られたら、緊張しちゃうよ。
ただでさえ、彼と二人きりだと、心臓がいつもより少し速く動くのに。
私は、彼の視線から逃れるように、メニューに目を落とした。
「何にしようかな。あ、ケーキセットがある。美味しそう……」
「合理的な選択だ。糖分は、脳のエネルギー効率を向上させる」
彼が真顔で言うので、思わず笑ってしまった。
私がケーキセットを注文して席に戻ると、彼はすでにノートを開いて、何かを書きつけていた。本当に真面目だな。
「それで、レポートの、どのへんが気になったの?」
「ああ、それについては後ほど。まずは、君というシステムが安定状態に移行するのを待つ」
「しすてむ……?」
よく分からないことを言う人だ。
でも、彼のそんなところにも、もうすっかり慣れてしまった。
ケーキが運ばれてきて、私は一口、口に運んだ。甘いクリームが口の中に広がって、幸せな気持ちになる。
その時、ふと彼の視線が、私の手元ではなく、私の瞳のあたりに固定されていることに気づいた。
(なんで、そんなに目を見るんだろう……?)
彼の視線は、なんだか、お医者さんが患者さんを診察するみたいに、すごく分析的なのだ。
心がどきどきする。
この胸の高鳴りは、彼に見つめられているから?それとも、ただ美味しいケーキを食べて、血糖値が上がったことによる、ただの生理現象……?
分からない。
高杉くんと一緒にいると、自分の心なのに、自分のものじゃないみたいに勝手に動いてしまう。
「桜井さん」
「は、はい!」
「一つ、興味深い行動が観測された」
「え?」
彼は、自分のノートを少しだけ、私の方に向けた。
そこには、几帳面な文字で、こんなことが書かれていた。
『対象C、糖分摂取時に瞳孔径が増大。快楽中枢の活性化を示すか?』
「……え?」
私の頭は、一瞬、真っ白になった。
※
「……これ、どういうこと?」
私は、彼のノートに書かれた信じられない一文を指さして、問い詰めた。私の声は、自分でも驚くほど、少し震えていた。
高杉くんは、表情一つ変えずに答える。
「観測された事実を、客観的に記述したまでだ。君は、ケーキを食べた直後、瞳孔が平常時より約15%ほど散大した。これは、交感神経が優位になったことを示す、極めて重要な生体データだ」
「で、でーた!?」
「ああ。君の行動は、僕にとって貴重な研究対象だ」
やっぱり、そうだったんだ!
社会実験とか、軍事演習とか言っていたのは、全部本気だったんだ!
なんだか、急に全身から血の気が引いていくような、それでいて、顔だけがカッと熱くなるような、不思議な感覚に襲われた。
「ひ、人のこと、勝手に研究対象にしないでよ!」
「なぜだ?未知の現象を解明したいと思うのは、研究者として当然の探究心だ」
「私は現象じゃない!人間!」
私の抗議も、彼には全く響いていないようだった。
彼はさらにノートのページをめくり、信じられないことを言い始めた。
「他にも、興味深いデータが取れている。君は、僕と話す時、平均して3.7回、無意識に髪を触る。これは、心理学でいうところの自己接触行動の一種であり、緊張や不安、あるいは、相手への関心を示すサインだと考えられている。どちらの仮説が有力か、現在分析中だ」
もう、だめだ。
恥ずかしすぎて、この場から消えてなくなりたい。私の無意識の癖まで、全部分析されていたなんて。
私がテーブルに突っ伏して頭を抱えていると、高杉くんは、おもむろに自分のクリアファイルに手を伸ばした。
「さて。それでは、次の実験に移ろう」
「まだやるの!?」
彼は私の悲鳴を無視して、ファイルから一枚の紙を取り出した。
その紙には、円や棒がいくつも描かれた、青くて大きなグラフが印刷されている。なんだか、すごく綺麗な青色だった。
「桜井さん、このグラフを見て、何か感じることはあるか?」
「え……?えっと……綺麗な、青だね……?」
「ほう」
彼は、私の返事を聞くと、私の目を、これまで以上に鋭く、そして深く、覗き込んできた。
その視線に射抜かれて、私は身動きが取れなくなる。
心臓が破裂しそうなくらい大きく、そして速く鳴り始めた。
「……面白い」
彼は、私の顔をじっと見つめたまま、ぽつりと呟いた。
「青色の視覚刺激を与えた後、君の心拍数に明らかな上昇が見られる。瞳孔も再度散大を開始した。ニワシドリの求愛戦略は、ヒトという種にも、ある程度の有効性を持つ可能性が示唆された」
「にわし……どり……?」
もう、彼の言っていることの半分も理解できない。
でも一つだけ、分かったことがある。
彼の瞳が。
いつもは冷静で、温度を感じさせない彼の瞳が、ほんの少しだけ楽しそうにきらきらと輝いている。
まるで、ずっと欲しかったおもちゃを見つけた子供みたいな顔で。
その顔を見てしまったら、なんだかもう怒る気もなくなってしまった。
「……もう、好きにして……」
私が力なくそう言うと、彼は満足そうに頷き、再びノートに何かを書き始めた。
『対象C、捕食者に対する完全な降伏のサインか?あるいは、信頼関係の構築が完了したことを示すか?要継続観察』
私の知らないところで、彼の研究はまた一歩、新たなステージへと進んだようだった。
そして、私の心も。
彼に分析されることへの羞恥心と、それでも彼から目が離せないこの気持ちのせいで、ぐちゃぐちゃにかき乱されていく。
このドキドキは絶対に、ケーキのせいなんかじゃない。
私はただ、それを認めるのが少しだけ、怖いだけだった。




