2限目:歴史学 先人たちの恋愛戦略
前回の実験、すなわち桜井詩織との音声通信において、関係性yの値はわずかながら正の方向へ遷移した。これは観測された事実だ。
しかし、なぜyの値が向上したのか。その因果関係は未だ不明瞭である。俺の論理的な提案に対し、彼女は「業務連絡みたい」という非論理的なフィードバックを与えた。この矛盾をどう解釈すべきか。
俺は一つの結論に達した。
「俺の思考モデルには、致命的な欠陥がある」
俺はこれまで、この問題を純粋な数学、あるいは情報科学の領域だと考えていた。だが、桜井詩織というシステムは、それ以上に複雑なパラメータを含んでいる。感情、文化、そして歴史だ。
人間は、過去の経験の蓄積によって行動を決定する。ならば、より広範な、人類全体の過去の経験、すなわち「歴史」に学ぶことこそが、最も効率的な解法発見へのショートカットではないか。
俺は大学の中央図書館へと向かった。目的は、歴史上の偉人たちが繰り広げた「恋愛」という名の交渉、戦略、そして紛争のケーススタディを収集・分析することだ。
巨大な書架から、古代ローマ史、フランス革命史、中国史に関する分厚い専門書を数冊引き抜き、閲覧席に陣取る。ページをめくり、高速で情報をスキャンしていく。
ケース1:クレオパトラ
カエサルやアントニウスといった最高権力者を魅了した戦略。具体的には、自身の権力、富、そして美貌を最大限に活用し、劇的な演出(ex. 絨毯にくるまって登場)で相手の感情をハックする手法。
分析結果: 極めてハイリスク・ハイリターン。初期投資コストが天文学的であり、再現性が皆無。現代の大学生が実行するのは不可能。非効率的であり、却下。
ケース2:ナポレオン・ボナパルト
妻ジョゼフィーヌへ送ったとされる情熱的な手紙。膨大な文字数と、感情を直接的に表現する語彙が特徴。
分析結果: 一見、感情の伝達効率が高いように見える。しかし、メッセージあたりの具体的情報量は極めて少ない。これは信号対雑音比(S/N比)が著しく低い状態であり、受信者側での解読コストが高い。さらに、彼の戦略は最終的に破綻している。失敗例として記録。
ケース3:光源氏(※フィクションだが参考データとして採用)
多数の女性との関係を同時並行で維持。和歌や贈り物を駆使したコミュニケーションが主体。
分析結果: 複数のターゲットにリソースを分散させる戦略は、個々の関係性の深度を低下させる。また、和歌という暗号化されたメッセージは、現代においてその意図が正確に伝達される保証がない。失敗のリスクが高すぎる。
書物を読み進めるほど、失望が募っていく。
歴史上の恋愛は、非合理的で、感情的で、あまりにも場当たり的だ。これでは、体系的な戦略として抽出することができない。
「前提が、間違っているのか……?」
恋愛を、目的達成のための「戦略」と捉えること自体が、誤りなのかもしれない。
俺は思考の袋小路に入り込んでいた。その時、一冊の本が目に留まった。古代中国の兵法書、『孫子』だ。
恋愛とは直接関係ない。だが、あらゆる人間関係における普遍的な法則が、ここには記述されているのではないか。
俺はページを開いた。そこには、こう書かれていた。
『彼を知り己を知れば、百戦殆うからず』
これだ。俺に欠けていたのは、これだった。
俺は俺自身(己)の論理モデルについては理解している。だが、桜井詩織(彼)についてのデータが、圧倒的に不足しているのだ。彼女の思考様式、価値観、行動原理。それを知らずして、有効なアクションプランなど立てられるはずがない。
さらに読み進めると、興味深い一節があった。
『戦わずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり』
力でねじ伏せるのではなく、相手が自ら望んでこちらに協力する状況を作り出す。それこそが、最善の策だというのだ。
つまり、俺がやるべきことは、奇策を弄して彼女をデートに誘うことではない。彼女が「高杉賢人と一緒にいる時間は、有益で快適だ」と自発的に認識するような環境を設計することだ。
図書館での学習会。それは、この戦略を実行するための、完璧な戦場だった。
俺たちの共通の目的は「学習」。この目的を達成するために、互いに協力する。その過程で、俺は彼女のデータを収集し、彼女は俺との時間の有益性を認識する。まさにWin-Winの関係だ。
「……見えた」
進むべき道筋が見えた。俺は静かに本を閉じ、決戦の時を待つことにした。
※
高杉くんとの約束の日曜日。私は少しだけ、そわそわしていた。
図書館で一緒に勉強する。ただ、それだけのことだ。友達となら、何度もしたことがある。
でも、相手が高杉くんだと思うと、なんだか特別なイベントのように感じてしまう。
(どんな服、着ていこうかな……)
勉強の邪魔にならないように、でも少しだけ。ほんの少しだけ、可愛いって思ってもらえたら。そんな下心を抱いている自分に気づいて、少し顔が熱くなる。結局、いつもより少しだけ綺麗な色合いのニットを選んで、家を出た。
約束の時間より、三十分も早く図書館に着いてしまった。
やる気に満ち溢れているみたいで、少し恥ずかしい。時間をつぶそうと、心理学の新着図書の棚を眺めていた、その時だった。
閲覧席の奥の方に、見覚えのある背中を見つけた。
まっすぐな姿勢で、微動だにせず、机の上の本に没頭している。高杉くんだ。
(わ、もう来てるんだ。すごい集中力……)
声をかけようかと思ったけど、彼のあまりに真剣な横顔に、ためらってしまった。まるで、世界に彼と本の二つしか存在しないみたい。何を読んでいるんだろう。電子工学の、難しい専門書かな。
私は、そっと書架の陰に隠れて、彼の様子を盗み見ることにした。なんだか、いけないことをしているみたいで、心臓がドキドキする。
彼の机の上には、数冊の分厚い本が積み上げられていた。
背表紙の文字を、目を凝らして読んでみる。
『詳説ローマ帝国史』
『フランス革命』
『始皇帝と古代中国』
(……え?歴史の本?)
電子工学とは、全く関係がない。意外な趣味だ。歴史が好きなのかな。
彼はその中の一冊を手に取ると、ものすごいスピードでページをめくり、時折、何かを考えるように深く頷いたり、ペンでノートに何かを書きつけたりしている。その表情は、まるで難解な恋の詩でも読み解いているかのように、真剣で、そしてどこかロマンチックに見えた。
(もしかして……)
私の頭の中に、一つの、とんでもない仮説が浮かんだ。
(高杉くん、ああ見えて、本当はすごくロマンチストなんじゃないかな……?)
いつも理屈っぽくて、効率がどうとか、データがどうとか言っているけど、本当は、歴史上の偉人たちの情熱的な恋物語を読むのが好きなのかもしれない。
そして、もしかしたら。もしかしたら、だけど。
今日の私との勉強会のために、「女の子が喜ぶ会話のネタ」とか「文系の喜ぶ会話のネタ」みたいなものを、探してくれている、とか……?
(……いやいや、まさか!自意識過剰だよ、私!)
ぶんぶんと頭を振って、妄想を打ち消す。
でも、一度そう思ってしまったら、もう彼がそういう人にしか見えなくなってくる。
いつも難しい言葉を使うのも、本当は照れ隠しで。本当は、ナポレオンみたいに、情熱的な言葉を心に秘めている人なんじゃないかな。
そう思うと、彼の少し変わった言動の一つ一つが、なんだか急に、たまらなく愛おしいものに思えてきた。
約束の時間が近づき、彼は本を片付け始めた。私は慌てて書架の陰から離れ、何食わぬ顔で入口の方へと向かう。
心臓が、さっきよりもずっと速く、大きく鳴っていた。
※
「高杉くん!お待たせ」
約束の時間の五分前。私は待ち合わせ場所に指定された図書館のエントランスで、彼に声をかけた。
「いや、定刻通りだ。問題ない。むしろ、誤差修正の範囲内だと言える」
高杉くんは腕時計を一瞥すると、いつも通りの平坦な声で言った。
でも、今日の私には、その言葉が少しだけ照れているように聞こえるから不思議だ。
「それじゃあ、行こうか」
私たちは二人並んで、閲覧席へと向かった。隣を歩くだけで、なんだか緊張してしまう。
静かな閲覧席で、私たちは隣同士の席に座った。
それぞれが持ってきた教科書やノートを広げる。私は心理学概論のレポート。彼は、何やら複雑な数式が並んだ物理学の課題のようだ。
しばらくは、カリカリというペンの音だけが響いていた。
心地よい静寂。でも、私は少しだけ、会話のきっかけを探していた。
すると、不意に、高杉くんが口を開いた。
「桜井さん」
「は、はい!」
急に呼ばれて、思わず大きな声が出そうになる。私は慌てて口元を押さえた。
彼は、私のそんな様子を意にも介さず、真剣な眼差しで私を見つめて、こう言った。
「孫子の兵法に、こういう言葉がある」
「そ、そんし……?」
「『兵は詭道なり』。つまり、戦いとは、敵を欺く行為である、と」
何を言っているんだろう。
でも、今日の私には、その言葉の「裏の意味」が分かる気がした。これはきっと、彼なりのコミュニケーションの始まりなのだ。歴史好きの彼らしい、ユニークなアプローチ。
私は、にこりと微笑んで、彼の言葉の続きを待った。
「このレポートという戦場において、我々の敵は、課題そのものではない。評価者である教授の思考を読み解き、いかに最小の労力で最大の評価(単位)を勝ち取るか。それが本質だ」
「な、なるほど……?」
「故に、僕は今から、君のレポート作成という戦闘行為を支援する。君の専門分野における僕の知識はゼロだ。だが、客観的な視点から、その論理構造の脆弱性を指摘することはできる。これは、一種の軍事演習だと考えてほしい」
軍事演習。
普通に聞いたら、ただの変な人にしか聞こえないだろう。
でも、書架の陰から彼の姿を見てしまった私には、その言葉が、彼なりの最大限の「一緒に頑張ろう」というエールに聞こえた。歴史上の英雄譚に自分を重ねて、私を励ましてくれているんだ。
不器用で、回りくどくて、でも、なんて優しい人なんだろう。
「……ありがとう、高杉くん」
私の胸は、きゅうっと温かくなった。
「嬉しいな。私の軍師になってくれるんだね」
「軍師……?悪くない響きだ」
賢人は、わずかに口の端を上げたように見えた。
その日、私たちは閉館時間まで、本当に集中して勉強に取り組んだ。
賢人くんの指摘は、驚くほど的確だった。「ここの接続詞は、論理の飛躍を生んでいる」「結論を先に提示し、その根拠を後から述べる構成の方が、説得力が増す」。彼の言葉は、心理学の知識はゼロのはずなのに、私のレポートを格段に分かりやすくしてくれた。
帰り道。夕日に照らされた桜並木を歩きながら、私は今日の出来事を反芻していた。
彼はきっと、私が想像している以上に、ずっと奥深い人だ。
「今日の演習は、有意義だった」
隣を歩く賢人くんが、ぽつりと言った。
「うん、私も!すっごく助かった!ありがとう」
「礼には及ばない。君の思考パターンに関する、貴重なデータが取れた。これは、僕にとっても大きな戦果だ」
戦果、という言葉に、私はまた笑ってしまった。
彼は最後まで、彼らしい言葉しか使わない。
でも、それでいい。
今はまだ、彼の言葉の本当の意味なんて、分からなくてもいい。
ただ、彼が私に向けてくれる、その真剣な眼差しだけを信じてみよう。
そう思った。




