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大学生恋愛のすゝめ  作者: 亜久
2/9

1限目:数学 恋という名の未解決問題

 入学式から三日が経過した。


 俺、高杉賢人の生活は、定義されたスケジュール通りに進行している。講義への出席データ収集友人という名の情報交換ノードの構築。全ては計画通りだ。しかし、俺のシステム全体に予測不能な影響を与え続けるバグが存在した。


 そのバクの名は、桜井詩織。


 あの日連絡先を交換して以来、俺と彼女の間には断続的なデータ通信、すなわちLINEでのやり取りが発生している。それは、俺にとって全く新しい研究領域だった。


 自室のデスクで、俺は白紙のノートを広げた。この現象を、数式でモデル化しようとしたからだ。


 まず、俺たちの関係の進展度をyとする。そして、俺からのアクションを変数xとする。この二つの関係を記述する関数y = f(x)を定義し、その最適解を見つけ出すこと。それが当面の目標だ。


変数xに代入されるパラメータは多岐にわたる。

x1:メッセージの送信頻度

x2:メッセージの文字数

x3:内容における疑問符(?)の含有率

x4:相手への質問と自己開示の比率


 これらを調整し、yの値を最大化する。単純な問題に見えた。最初は。


 最初の実験として、俺はx1(送信頻度)を24時間に1回と設定した。メッセージの内容は、当たり障りのない『大学には慣れたか?』というものだ。


 数分後、彼女から返信があった。


『高杉くん、ありがとう!なんとかやってるよ。講義が面白くて、毎日楽しい!』


 特筆すべき点はない。標準的な応答だ。

 しかし、問題はこの後だった。会話をどう継続させるべきか。最適なx2(文字数)はいくつか。ここで俺は、相手の文字数に合わせるのがセオリーである。という、ネット上の不確かな情報を参考にするという初歩的なミスを犯した。


 

 」「^¥8765「 jklは彼女とほぼ同じ文字数で、

 『そうか。心理学の講義か。興味深い。こっちも講義や実験が多く、退屈にならない』

 と返信した。


 結果、通信は途絶した。いわゆる「既読スルー」という状態だ。


「仮説1:文字数を同等に保つ戦略は、必ずしも関係性yの向上に寄与しない。棄却する」


 俺はノートにそう書き込んだ。


 次の日、俺は新たな仮説を立てた。彼女の興味を引く、より知的な内容を提供すべきではないか。パラメータx3とx4の調整だ。


 俺は、前日の心理学の講義というキーワードを基に、メッセージを構築した。


「桜井さん。昨日の話だが、君が学んでいる心理学において、「好意の返報性」という原理がある。これは、他者から受けた好意に対し、同等の好意を返したくなるという心理効果らしい。この効果の作用機序を、神経科学の観点から説明することは可能か?君の見解を聞きたい」


 文字数は大幅に増加したが、知的好奇心を刺激する、極めて有益な情報交換になるはずだ。俺は自信を持って送信ボタンを押した。


 数時間後、ようやく返信があった。


『ご、ごめん!なんかすごく難しい話だね!私まだ基礎の基礎しか習ってなくて、全然分からないや……(汗)』


 文末には、キャラクターが汗を流している画像データ、「スタンプ」が添付されていた。


「仮説2:高度に専門的な話題の提供は、対象の処理能力を超え、応答遅延およびコミュニケーション品質の低下を招く。これも棄却だ」


 スタンプ。これこそが、俺のモデルを最も混乱させる要因だった。文字情報のように意味を確定できない。あれは、感情の情報を圧縮した、極めて高次元のデータ形式なのだ。解凍する方法が、俺には分からない。


 ノートには、失敗した実験の記録だけが増えていく。


 y = f(x)


 この関数f(x)は、単純な一次関数ではない。おそらく、複数の変数が複雑に絡み合った、非線形の多変数関数だ。もしかしたら、カオス理論で記述されるような、初期値鋭敏性を持つシステムなのかもしれない。


 つまり、昨日と同じメッセージを送ったとしても、彼女の気分という初期値がわずかに違うだけで、全く予測不能な結果(y)が返ってくる。


「この問題は……未解決問題だ」


 俺はペンを置き、天を仰いだ。

 フェルマーの最終定理も、ポアンカレ予想も、偉大な数学者たちによって証明されてきた。だが、この「桜井詩織」という名の未解決問題は、それら以上に難解なように思えた。


 だが、それがどうした。

 研究者とは、未知の現象を解明するために存在するのだ。


 俺は再びノートに向かった。

「追加パラメータx5:スタンプの使用。ただし、その意味解釈にはさらなる研究を要する」

「追加パラメータx6:共通の体験。共同作業による同期効果の検証が必要」


 そうだ。観測データが圧倒的に不足している。

 もっと彼女を観察し、分析し、データを集める必要がある。


 そのためには、次の接触が必要不可欠だ。

 俺はスマートフォンを手に取り、新たなメッセージの構築を開始した。今度の目標は、yの値をわずかでもプラスに動かすこと。例えば、次の週末に会う約束を取り付ける、とか。


 挑戦はまだ始まったばかりだ。


 ※

 

「……うーん」


 私はスマートフォンの画面を眺めながら、首を傾げていた。

 表示されているのは、高杉賢人くんとのLINEのトーク画面だ。


 入学式での衝撃的な出会いの後、彼とは時々、こうしてメッセージのやり取りをしていた。助けてもらったお礼に、と私から誘った手前、やり取りが続くこと自体は嬉しい。嬉しい、のだけど。


 彼の送ってくるメッセージは、なんていうか、少し……いや、かなり変わっていた。


『大学には慣れたか?』


 最初のメッセージはごく普通だった。私も安心して、講義が楽しいことなんかを返した。でもそこからだ。彼からの返信はまるでレポートのようだった。


『そうか。心理学の講義か。興味深い。こっちも講義や実験が多く、退屈にならない』


 ここで会話が終わってしまったので、(あれ?私、何か変なこと言ったかな?)と少し不安になった。普通の会話なら、「どんな講義が面白いの?」とか、そういう風に続くものじゃないだろうか。


 次の日に来たメッセージは、さらに私の予想を超えてきた。


『桜井さん。昨日の話だが……君の見解を聞きたい』


 画面を三回くらいスクロールしないと読めないくらいの長文。しかも、書かれているのは「好意の返報性」とか「神経科学」とか、聞いたことはあるけど、一年生の私には到底説明できないような専門用語のオンパレード。


(こ、これは、試されている……!?)


 私の学力を試しているのかもしれない。そう思うと、冷や汗が出てきた。必死に教科書やネットで調べてみたけれど、分かるはずもない。


 結局、私は正直に『分からない』と、汗をかいているスタンプ付きで返信するのが精一杯だった。本当は、もっと気の利いた返事がしたかったのに。


(高杉くん、怒ったかな……。呆れられたかも……)


 そんな風に落ち込んでいたら、数分後に、また彼からメッセージが届いた。今度は、もっと短かった。


『承知した。サンプル数が不足しているため、現時点での結論は時期尚早と判断する』


 サンプル数……?

 私のこと、やっぱり研究対象か何かだと思ってるんだ。


 そう思うと、少しだけむっとした。でも、不思議と嫌な気はしなかった。

 だって、彼のメッセージはどれも句読点の打ち方までかっちりしていて、誤字も脱字も一つもない。きっと、すごく時間をかけて、真剣に文章を考えてくれているんだろうな、というのが伝わってくるのだ。


 不器用だけど、誠実。それが私が彼に抱いている印象だった。

 だから、彼の独特なコミュニケーションも、なんだか微笑ましく思えてしまう。


(この気持ちは、心理学的に言うと……『ギャップ萌え』の一種なのかな?それとも、母性本能……?)


 自分の心を分析しようとして、でもすぐにやめようと思い直す。友達になろうとしている相手の心を、そんな風に分析するのは、なんだか失礼な気がしたから。


 そんなことを考えていたら、またスマートフォンが震えた。高杉くんからだ。

 今度はどんなメッセージだろう。ドキドキしながら画面を開く。


『提案がある』


 たった一言。でも、その一言になぜかものすごく重要なことが書かれているような予感がした。私が返信する間もなく、すぐに次のメッセージが送られてきた。


『今週末、空いている時間はあるか。我々の関係性における共通体験パラメータの欠如は、相互理解を阻害する重大な要因であると結論付けた。この問題を解決するため、共同での情報収集活動、具体的には、図書館での学習会を提案したい。イエスかノーで回答を』


 ……やっぱり、高杉くんは高杉くんだ。


 お誘いの言葉が、こんなに学術的で、しかも選択肢がイエスかノーしかないなんて、生まれて初めてだ。

 普通なら「え?」って引いてしまうかもしれない。


 でも、私は。

 その回りくどくて、理屈っぽくて、でも必死な彼の言葉を読んで、思わず一人でくすっと笑ってしまった。


(回りくどいよ、高杉くん)


 もっとシンプルに、「一緒に勉強しない?」って言えばいいだけなのに。

 それができないのが、彼らしさなのかもしれない。


 私は、トーク画面に向かって、ゆっくりと文字を打ち始めた。

 イエスか、ノーか。

 そんなの、答えは決まっている。


 だけど、ちょっとだけ、意地悪してみたくなった。


 

 高杉賢人は、スマートフォンの画面を凝視していた。

 彼が「図書館学習会」という、論理的かつ合理的な提案を送信してから、すでに10分が経過している。しかし、桜井詩織からの返信はない。既読の文字はついている。


(なぜだ……?)


 提案の論理構造に、欠陥はなかったはずだ。

 現状の問題点を明確に提示し、その解決策として具体的かつ実行可能なアクションプランを示した。選択肢を二つに絞ることで、相手の意思決定コストを最小限に抑える配慮もした。完璧な提案だった。


 考えられるエラーの原因は何か。


 通信回線上の問題。

 対象個体が、より優先順位の高いタスクを処理している可能性。

 提案内容そのものに、俺が認識していない重大な欠陥が存在した可能性。


 賢人が眉間にしわを寄せ、高速で思考を巡らせていた、その時。

 画面がふっと切り替わった。


『電話してもいい?』


 予測していなかった形式のデータが入力された。音声通信の要求だ。

 賢人は一瞬ためらった。テキストによる非同期通信と違い、音声による同期通信は、思考のためのタイムラグが許されない。発言の全てが、リアルタイムで評価される。この行動リスクが高い。


 だが、ここで拒否することは、関係性yの値を著しくマイナスにする危険な選択だ。

 賢人は覚悟を決め、『問題ない』と返信し、すぐに緑色の通話ボタンをタップした。


「……もしもし」

 ヘッドセットから聞こえてきたのは、文字とは少し違う、柔らかくて温かい響きを持つ声だった。賢人の心臓の鼓動が、わずかに速くなる。これも記録すべき生体データだ。


「あ、高杉くん?ごめんね、急に電話して」

「いや、問題ない。要件を聞こう」

 冷静を装い、賢人は言った。


「うん。あのね、さっきのメッセージ、見たよ。図書館でのお勉強会のお誘い、ありがとう」

「ああ。それで、回答は?」

 イエスか、ノーか。賢人は固唾を飲んで待った。


 すると、電話の向こうで詩織がくすくすと笑う気配がした。

「あのね、高杉くん。誘ってくれるのは、すっごく嬉しいんだけど」

「……だけど?」

「その言い方だと、なんだか業務連絡みたいだよ」


 業務連絡。

 その単語は、賢人のデータベースには存在しない概念だった。


「どういう意味だ?」

「えっとね、もっとこう……気軽に、『今度の日曜日、一緒に図書館で勉強しない?』って、それだけでいいんだよってこと」

「……なるほどな。冗長な表現を削除し、メッセージの圧縮率を上げるべきだった、ということか。参考になる」


「ちがう、ちがう!そういうことじゃないんだけどな……!」

 詩織の少し困ったような、でも楽しそうな声が耳に届く。


 賢人には、彼女が何を言いたいのか、まだ正確には理解できなかった。

「効率性」や「論理性」とは違う、何か別の評価軸が、この世界には存在するらしい。それは、今の彼の数式では、まだ記述できないものだ。


「それで、桜井さん。結局、君の解は、イエスか、ノーか。どちらなんだ」

 賢人は、本質的な問いに戻った。


 電話の向こうで、詩織が小さく息を吸う音がした。そして、少しだけ弾んだ声で、こう言った。


「もちろん、イエスだよ。楽しみにしてるね、高杉くん」


 その瞬間、賢人の頭の中で、一つの数式が弾けた。


 y = f(x)


 このyの値が、今、確かに、ほんのわずかだが、プラスの方向に動いた。

 なぜ動いたのか、そのメカニズムはまだ解明できない。だが、結果は観測できた。


「……そうか。了解した。詳細なスケジュールは、後ほどテキストで送信する」

 感情の揺れを悟られまいと、賢人は意識的に平坦な声で言った。


「うん、待ってる!じゃあ、またね!」


 通話が切れる。

 しん、と静まり返った部屋で、賢人は自分の胸にそっと手を当てた。

 心臓が、電子が軌道を周回するくらいの速さでBPMを刻んでいる。


「……未知の変数だ」


 桜井詩織という存在は、あまりにも未知の変数が多すぎる。

 だが、同時にとてつもなく興味深い研究対象であることも、また事実だった。


 ノートに、新しい一行が書き加えられる。

「実験結果:y > 0。ただし、再現性は不明。さらなる検証を要す」


 恋という名の未解決問題。

 その証明への第一歩は、今、ようやく踏み出されたばかりだった。

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