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大学生恋愛のすゝめ  作者: 亜久
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ガイダンス:僕らの出会いは量子共鳴のように

 春の陽光は昨日までのそれとはまるで違う種類の輝きを放っていた。


 真新しいブラウスの袖に腕を通し、まだ少し硬いジャケットを羽織る。クローゼットの鏡に映ったのは見慣れた自分でありながら、どこか知らない誰かのようにも見える少しだけ大人びた姿だった。


「よし」


 そう小さく呟き、私は一つ深呼吸をする。今日私は大学生になる。


 最寄りの駅からの電車に揺られながら窓の外を流れていく景色をぼんやりと眺めていた。住宅街の屋根公園の梢、そして時折視界をよぎる私と同じような少し緊張した面持ちで真新しいスーツに身を包んだ若者たちの姿。彼らもまた。今日から始まる新しい生活に胸を躍らせているのだろうか。


 私の行き先は丘の上に広大なキャンパスを構える京應大学。文学部に新設された心理学科で学ぶ四年間は一体どんな日々になるのだろう。人の心はどうして動くのか。喜びや悲しみはどこからやってくるのか。高校生の頃から抱き続けてきたその問いに少しでも近づけるだろうか。そんな期待が心臓のあたりをくすぐったく温めていた。


 大学の最寄り駅に降り立つと、ホームは人でごった返していた。改札を抜けた先には、様々なサークルや部活のプラカードを掲げた先輩たちがずらりと並び、一大アーチを形成している。


「入学おめでとう!テニスサークルでーす!」

「音楽好き集まれ!軽音部はこちら!」

「国際交流に興味ない?世界中に友達作ろうよ!」


 熱気と喧騒が渦を巻いていた。高校までのあの整然とした通学路とは全く違う、自由で少し混沌とした空気。そのエネルギーに気圧されそうになりながらも私は不思議と高揚していた。これが大学。私がこれから毎日通うことになる場所。


 桜並木の坂道を人の波に乗りながらゆっくりと登っていく。満開のソメイヨシノが、空を覆い尽くさんばかりに枝を広げ風が吹くたびに薄紅色の花びらが雪のように舞い散った。あまりの美しさに思わずため息が漏れる。映画やドラマで何度も見た理想のキャンパスライフそのものだった。


 入学式の会場である大講堂は、すでに多くの新入生で埋め尽くされていた。自分の学部と学籍番号が書かれた座席を探し当てて腰を下ろす。周囲からはひそやかな話し声が聞こえてきた。すでに出身高校の友人同士で固まっているグループもあれば隣り合った席でぎこちなく自己紹介を始めている人たちもいる。


(友達できるかな……)


 期待と同じくらいの大きさの不安が胸の奥で小さな芽を出す。私は昔から、自分から話しかけるのが少し苦手だった。人の顔色を窺いすぎてタイミングを逃してしまうのだ。心理学を学びたいと思ったのも、そんな自分の性格を少しでも変えたい人の心を理解して、もっと上手に関われるようになりたいという気持ちがあったからかもしれない。


 やがて厳かなパイプオルガンの演奏と共に式典が始まった。学長の祝辞は少し難しく、眠気を誘ったけれど、「知の探求」や「自由な精神」といった言葉が私の胸に確かな熱を灯してくれた。そうだ私はここに学びに来たんだ。新しい知識を新しい価値観をそして新しい自分を見つけるために。


 式の終わりを告げる校歌斉唱が終わり講堂内が再びざわめき始める。新入生たちはこれから始まる学部のガイダンスやサークルの新歓へとそれぞれの期待を胸に席を立った。私もその流れに乗って講堂の出口へと向かう。


 その後の記憶は少し曖昧だ。人の波に押し出されるようにして外に出ると、そこには先ほどよりもさらに激しい勧誘合戦の戦場と化していた。四方八方からビラが差し出され大声で活動内容をアピールされる。圧倒されてどう反応していいか分からず、曖昧に会釈を繰り返しながら歩みを進めるのが精一杯だった。


「ねえそこの君!」


 不意に腕を強く掴まれた。驚いて振り返ると黒いマントを羽織った少し怪しげな雰囲気の男性が二人、にやにやと笑いながら私を見下ろしている。


「君からは強い『気』を感じる。我々と共にこの世界の真理を探求する旅に出ないか?」

「私たちのサークル『超常現象研究サークル』に入らない?」


 有無を言わさぬその態度に私は完全に怯んでしまった。

 「あ、あの私……」

 「いいからいいから!」

 「とりあえず部室に行って話を聞こう!」


 まずい。こういう強引な勧誘が一番苦手だ。断らなきゃ。でもどうやって?「結構です」ときっぱり言えばいい。頭では分かっているのに喉が詰まったように声が出ない。腕を引かれ人の流れから引き剥がされていく。周囲の学生たちは楽しそうにおしゃべりしながら通り過ぎていくだけで誰も私の窮状には気づいていないようだった。どうしよう。私の大学生活始まる前からこんなトラブルに巻き込まれるなんて。


 涙が滲みそうになったその時だった。


「待ってほしい」


 低く平坦で感情の読めない声が勧誘員たちの声を遮った。


 ※

 

 t=0を自宅のドアを開けた時刻と定義する。目的地である京應大学大講堂までの最短経路は経路探索アルゴリズムによれば38.7分。誤差を考慮し余裕を15%確保。完璧な計画だ。


 俺、高杉賢人は物事を論理的にそして効率的に進めることを信条としている。感情という不確定要素は可能な限り排除すべきものだ。今日から始まる大学という新しい拠点においてもその基本方針は変わらない。


 駅のホームに溢れる人の流れ。無秩序に見えるがこれは一種の流体力学モデルとして近似可能だ。改札というボトルネックを通過する際の密度変化は非常に興味深い観測対象である。俺は、人々の流れを予測し衝突を回避しながら最短経路で改札を抜けた。


 行く手に広がる桜並木。多くの新入生が足を止めスマートフォンで写真を撮っている。非効率的だ。桜の花びらが落下する運動は空気抵抗を考慮した放物運動として数式で記述できる。その美しさを理解できないわけではないがわざわざ立ち止まって時間を浪費する必要性は認められない。俺は最適な歩行速度を維持したまま感動に浸る人々をナンバ歩きで追い越していく。


 入学式の会場である大講堂は巨大な音響空間だ。パイプオルガンの音波が壁や天井に反響し複雑な定常波を形成している。学長の祝辞は論理構造にいくつかの飛躍が見られた。前提Aから結論Bを導くプロセスにおいて十分な証明がなされていない箇所が散見される。聴衆の感情に訴えかけるレトリックが多用されているがその論理的妥当性には疑問符が付く。


 俺がこの大学の電子工学科を選んだのは、それが最も明快な学問だと考えたからだ。入力(Input)に対して明確な出力(Output)がある。世界は複雑な回路で構成された巨大なシステムだ。その法則を理解し制御することができればあらゆる事象は予測可能になるはずだ。恋愛や友情といった非線形で予測不可能な人間関係は俺の興味の対象外だった。


 式が終わり、人々が一斉に出口へと向かう。この高密度な状態からの解放プロセスはエントロピー増大の法則を視覚的に理解する良い教材だ。俺は壁際に沿って移動することで中心部の混雑を回避する。次の目的は、所属する学科のガイダンスが行われる第3物理実験室の位置確認だ。キャンパスマップはすでに頭に入っている。現在位置から目的地までのベクトルは明確だ。


 しかしその直線経路の途上に予測不能な特異点シンギュラリティが存在した。いわゆるサークル勧誘だ。様々なコミュニティが新規メンバーというリソースを獲得するために無秩序な活動を展開している。エネルギーの無駄遣いだ。俺はそれらのクラスターを避けながら進んでいた。


 その時一つの事象が俺の視界に入った。


 二名の男性個体(以後対象A, Bとする)が一名の女性個体(以後対象Cとする)の腕を掴み強制的に移動させようとしている。対象Cの表情筋の動き、瞳孔の収縮率身体の硬直度合いから彼女が極度のストレス状態にあることは明らかだ。介入すべきか否か。俺の行動原理はあくまで効率性と合理性に基づいている。他者のトラブルは俺の目的達成における変数ではない。関与するメリットはない。


 ……ないはずだった。


 だが対象Cの表情が閾値を超えた。眉が下がり口角が引きつり目には水分の膜が形成され始めている。これはシステムの安定性を著しく損なう危険信号だ。このまま放置すれば対象Cの精神状態は不可逆的なダメージを負う可能性がある。それは全体システムにおける看過できない非効率を生む。


 思考時間は0.5秒。介入による時間的損失と非介入によるシステム全体の非効率性増大。両者を天秤にかけた結果俺は「介入」を選択した。


 俺はゆっくりと彼らに近づき口を開いた。


「待ってほしい」


 ※

 

 その声に怪しげな勧誘員二人と、腕を掴まれた桜井詩織が一斉に振り返った。


 そこに立っていたのは一人の青年だった。スーツは着ているがどこか着慣れない印象を与える。表情は能面のように動かずその瞳はまるで何かを観察、分析するかのようにじっとこちらを見据えている。高杉賢人だった。


「なんだお前?」


 マントの男の一人(対象A)が面倒くさそうに賢人を睨む。


 賢人は動じない。彼は詩織の腕を掴む男の手と詩織の顔を交互に見比べると再び平坦な声で言った。


「その勧誘行為は彼女の自由意志を侵害している可能性が高い。彼女の現在の心拍数呼吸数発汗量は明らかに平常時とは異なる。これは交感神経が優位になっている証拠であり、強い心理的圧迫を受けていることを示唆する」


「「はぁ?」」


 対象AとBは顔を見合わせた。何を言っているんだこいつは。その表情が雄弁に物語っている。


 詩織もまた呆気に取られていた。助けに入ってくれた……のだろうか?でも言っている内容が全く頭に入ってこない。交感神経?


 賢人は構わず続けた。


「さらに言えば君たちの勧誘方法は極めて非効率的だ。人間の意思決定は論理と感情の相互作用によって行われる。君たちは『気を感じる』といった非科学的な言説で感情に訴えようとしているがその論理的基盤が脆弱であるため彼女のような理知的な個体には逆効果となる。本来であればサークルの活動内容、それによって彼女が得られる具体的なメリットを定量的に提示し論理的な納得を引き出すべきだ」


「り、理知的……?」


 詩織は思わず呟いた。自分のことを言われているのだろうか。


「なんだかよく分かんねえけどよ邪魔すんなって!」


 痺れを切らした対象Bが賢人の胸を小突く。しかし賢人は微動だにしない。彼はただ淡々と事実を述べるだけだ。


「物理的な接触は推奨しない。僕の体重をm、君が僕を押す力をF、接触時間をΔtとすると僕が受け取る力積はFΔtとなり僕の運動量に変化が生じる。だが僕の足裏と地面との間の静止摩擦係数μは十分に大きく君の与える力では僕をこの位置から動かすことはできない。無駄なエネルギー消費だ」


「……」

「……」


 対象AとBは完全に沈黙した。目の前の男が何を言っているのかさっぱり理解できない。理解できないがゆえに得体の知れない不気味さを感じていた。こいつはヤバい。本能がそう告げていた。


 賢人は最後のダメ押しとばかりに決定的な一言を放った。


「君と僕が出会う確率はこのキャンパスにいる全学生数をN、僕たちがこの時間にこの場所にいる確率をP(A)とP(B)とすると極めて低い値になる。その稀有な機会をこのような不毛な議論に費やすのは宇宙のエントロピーを無駄に増大させるだけの行為だ。理解したか?」


「……わ、分かった!分かったから!」

「もういい!行くぞ!」


 対象AとBはついに根負けした。彼らは詩織の腕をパッと離すとまるで化物から逃げるように人混みの中へと消えていった。


 あっという間の出来事だった。


 残されたのは詩織と彼女を助けた(?)風変わりな青年賢人だけだった。


 しんと二人の間に奇妙な沈黙が流れる。風が吹き桜の花びらが二人の間をはらはらと舞い落ちた。


「あ、あの……」


 先に口を開いたのは詩織だった。


「助けてくれてありがとうございました」


 深々と頭を下げる。怖かった。本当に助かった。感謝の気持ちは本物だ。


 しかし賢人からの返答はまたしても詩織の予想の斜め上を行くものだった。


「問題ない。あれは社会実験の一環だ。君が解放されたことによりシステムの不安定要素が一つ排除された。これは全体にとって有益な結果だ」


「しゃかい……じっけん……?」


「ある事象に対して外部から特殊なパラメータ(僕)を投入した際にシステムがどのように振る舞うかを観測した。非常に興味深いデータが得られた」


 真顔でそう言う賢人の瞳はキラキラと輝いているように見えた。詩織は感謝の気持ちと同時に巨大な困惑に包まれていた。この人は一体何者なんだろう。


「えっと……とにかく本当に助かりました。私桜井詩織って言います。文学部です」


 なんとか会話を繋げようと詩織は自己紹介をした。


「高杉賢人だ。理工学部。よろしく」


 賢人は短く答えた。やはり表情は変わらない。


「理工学部……」


 詩織は納得したようなしないような複雑な気持ちになった。理系の人というだけで全てを片付けていいものか分からないが、少なくとも自分が今まで出会ったことのないタイプであることは確かだった。


「じゃあ僕はこれで」


 言うが早いか賢人はくるりと踵を返し歩き出そうとした。彼にとってこの場での目的はすでに達成され、これ以上のコミュニケーションは不要だと判断したのだ。


「あ、待って!」


 詩織は思わずその背中を呼び止めていた。自分でもなぜそうしたのか分からなかった。ただこのまま別れてしまうのはなんだか違う気がしたのだ。


 呼び止められて賢人は不思議そうな顔で振り返る。


「まだ何か?」


 彼の思考ではすでにこのイベントは終端状態に至っていた。


「あの、お礼に今度何か……お茶でも……」


 言いながら、詩織は顔が熱くなるのを感じた。自分から男性を誘うなんて生まれて初めてのことだった。しかも会ったばかりのこんなに変わった人を。


 賢人は少しの間黙って詩織の顔を見つめた。彼の頭の中では高速で計算が行われていた。


 提案:桜井詩織からの『お茶』の提供。

 目的:謝意の表明。

 受諾した場合のメリット:未知のデータが得られる可能性。

 デメリット:時間的リソースの消費。

 結論:メリットがデメリットを上回る。提案を受諾する


「……分かった。合理的な提案だ。連絡先を交換しよう」


 そう言って賢人がごく自然にスマートフォンを取り出したので今度こそ詩織は心底驚いてしまった。


 こうして桜舞い散る入学式の日に文系で感受性豊かな桜井詩織と理系で超理論派の高杉賢人は最悪で最高に印象的な出会いを果たした。


 お互いの学部棟はキャンパスの端と端。専攻も真反対。共通点など何一つないように思えた。


 連絡先を交換するだけで、きっともう二度と会うこともないだろう。


 その時の二人はまだそう思っていた。


 全く噛み合わない歯車がそれでも確かにカチリと音を立てて噛み合った瞬間。


 知的で少しおバカな二人の「恋愛のすゝめ」が今ひっそりとプロローグの幕を開けたのだった。

作者は理系です。


もしよろしければモチベーションに繋がりますので、評価やブクマをしてくれると嬉しいです。

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