10話~揺れる想、い…?~
今日の分の淑女教育を終え、部屋で休憩していると何かがぶつかる音が何度も響いてくる。
窓を開けて庭を見下ろすと、そこにはアーネストと剣の教官が木剣で打ち合う光景があった。
「はぁっ!」
仕掛けたアーネストの鋭い一撃を教官が受け止める。
最初に見たときは、あっさりといなされ、転ばされていたアーネスト。それが今では、教官にいなす余裕を与えないほどに腕を上げていた。
元々彼は体を鍛えることと素振りは欠かしていなかったようだし、足りないのは技術…とは言ってたわね。
それでも、わずか数か月で指導役の教官を相手に粘り、時には追い込む姿を見ていると、彼の頑張りがすごいと感じる。
勉学も、綿が水を吸い込むようにどんどん学んでいると聞く。勉学だけでなく、マナーもぐんぐん上達している。
もう、そこには毛むくじゃらで、ただただ人を追い返すことしか考えていなかった礼儀知らずの姿はない。立派に、王族の一人として成長している青年の姿があった。
成長著しい彼の姿に、誇らしい気持ちもあった。
それに比べて私はどうだろう。見た目はただの街娘。淑女教育を受けてはいるし、先生からも目立った叱責は無い。
でも、どんどん成長していくアーネストに置いていかれているような気がしてならない。いや、気がしているんじゃない。実際にそうなんだから。
私は以前彼を何と言ったかしら。手間のかかる弟?。もうそんな風には思えない。いや、そう思うことが失礼だと、だんだん思うようになっている。
初めて会った時、お互いにマナーとか礼儀とか関係ないみたいな始まり方だった。でも、彼が本来生きる世界では許されないことだ。そして、徐々に許されなくなりつつある。教育を受けるたびに、自分のしたことが恥ずかしくなってくる。それがお貴族様なんだと分かり、同時に私はやっぱり彼の隣にいるべきじゃないとも。
最初は王子が婚約者候補と言われて、そんなのありえないでしょってしか思えなかった。実際には本当だったけど、アーネストを見てこれじゃ仕方ないなって。無礼には無礼をぶつけるみたいな。
苔むした屋敷に住んでて、こんなのが王子とか信じられなかった。王子なんて大したことないじゃん、私みたいなのがちょうどいいなのかなって。
でも、今はもう違う。アーネストははるかに上にいる。私ははるかに下にいる。
淑女教育で貴族についても教えてもらった。貴族の世界は複雑だ。下町で生きてきた私には、その複雑さは分からない。ただ分かるのは、個人でどうにかなる世界ではないということ。国王ですら、一人でどうにかできるわけではない。派閥があり、その派閥の力を借りないと政治はうまく進まない。
その派閥には家という存在が極めて重要になる。例外として、人外じみた魔力を有する魔法使いとかなら、個人としての権力が強いこともあるけど、本当にまれだ。ほとんどは家の力になる。
…私には家の力はない。一応血縁上、ルートロード家の娘ではあるけど、あんなおっさん…お父様がアーネストの後ろ盾になるのか。無理だわ、小物みたいな振る舞いしてるもの。
王族に嫁ぐ娘は、ほぼ高位貴族の出身だ。そうやって王族も権威を高めている。王族というだけでは通用しないのだ。
そんな世界に、下町育ちの何の後ろ盾にもならない私が、一体どうしてアーネストの婚約者になんてなれるというのか。
(あっ)
アーネストの手から剣が弾き飛ばされた。まだまだ教官のほうが上手らしい。
空を仰いだアーネストと目が合う。彼は照れ臭そうに笑った。まぶしい笑顔。銀の髪が陽光に照らされ、女の私が嫉妬してしまいそうに美しく見えた。
…どうして私は、彼を引っ張っていかないといけないだなんて、場違いなことを思ってしまったんだろう。身の程知らずも甚だしい。
(彼の隣に、私はふさわしくない)
笑う彼に手を振り、私は部屋に戻った。
いつから考えが変わってしまったんだろう。
王子の婚約者なんてありえないと笑い飛ばせたのが、沈む気持ちに変わったのは。
婚約者なんて面倒くさいって思ってたのが、彼の隣に立つ資格が無いと絶望するようになったのは。
彼が一緒にいるのは邪魔だったのに、寂しいと思い始めたのは。
…なんて、思っていた自分がバカらしくなることが起きた。
それは、婚約者候補としての期間は残り2か月になるころ。
その来客は突然に訪れた。
「えっ、お客様?」
淑女教育を受けていたとき、突然使用人から来客があると言われて私は首を傾げた。
来客の用事があれば全てネイサンが管理している。そのネイサンから何も言われてないし、だから普段通りに教育を受けていたんだけれど。
訝しく思いながら、使用人に連れられて応接間に向かう。
「まっ、こんな貧相な女が殿下の婚約者なんですの?」
応接間に入ったら、開口一番そんなことを言われてしまった。
ソファーに座っているのは赤いドレスを纏った令嬢だった。ウェーブのかかった長くて赤い髪を左右にくくり、その顔は小さく顔のパーツ一つ一つが整っている、瞳も赤く、目じりがつり上がって強気な感じを受ける。
(全体的に派手な子だわ)
貧相とはずいぶんな言い分だが、こちらからすればそっちのほうが派手過ぎて目に優しくないわ。すぐに言い返してやろうかと思ったけど、その前に声が掛けられた。
「クレア、こっちだ」
令嬢の対面にはアーネストもいた。ネイサンはアーネストの後ろに立っている。彼が自分の隣を指し示すのでそこに座る。すると、すぐさまアーネストは私の腰に手を回してきた。
(えっ?いきなり何?)
これまで隣に座っても、こんな風に腰に手を回されたことは無かった。心臓の鼓動が早くなり、聞こえてしまわないかと不安になる。ついアーネストの方を向くと、彼はまぶしいほどに笑顔を浮かべていた。
「彼女が私の婚約者のクレアです。どうです、愛らしい女性でしょう?」
「いや私はこんや…」
「んん?」
「……なんでも、ないです」
否定しようとしたら、アーネストの笑顔に言葉が詰まった。
何だろう、今日のアーネストは笑っているのにものすごく圧を感じる。言葉が引っ込んでしまった。というか、なんだかちょっと怒ってる?あと、言葉遣いが丁寧なのに違和感がすごい。
そしてそれは対面の令嬢も同じ…いや、こっちはちょっとどころじゃない。はっきりと怒りの感情を私に向けてる。どいつもこいつも、貴族はもっと感情隠すもんじゃないの?
「おほん!殿下、殿下にはもっとふさわしい女性がおりますわ。そう、私みたいに!」
おお、こうも自分をアピールしてくるとは、感心するわ。
しかも、アーネストが王子だと分かって言ってくるのだから、それなりの家柄のご令嬢なんでしょうね。
「あいにくですが、私にふさわしい女性は私が選びます。陛下にも、そのように許可をいただいております。家柄や身分に囚われず、心から愛する女性を選ぶようにと」
「それでしたら私を選ぶべきですわ。私は殿下を愛しておりますわ」
「…私は貴女と初対面かと思います。それで、何を愛していると?」
初対面なのね。それでここまで売り込んでくるとはすごいわー。なに、貴族女性ってこんなに押しが強いものなの?まぁお家のために、貴族令嬢は結婚への真剣度が違うとは習ったけど。
「全てです!」
「………」
どやぁって感じで言い切ったよ、このご令嬢。
さすがにアーネストも固まってるわよ。
あとそろそろ腰の手を離してほしい。こっそり指を離させようにしてるのに、がっちりつかまれてるせいで指一本引きはがせないんだけど。この馬鹿力め。
「全て、とは?」
「全ては全てです!」
ここまではっきり言い切られるとすがすがしいわね。感心しっぱなしだわ、私。
まぁ私からすると、全てという時点で、好きな所が無いって言ってるのに等しいけど。
あと、そろそろこのご令嬢が誰なのか、誰でもいいから教えてほしいんですが。
私が来る前に挨拶してるんだろうけど、私ごときにはする必要が無いってことかしらね。
「私と結婚すれば、ルシエル侯爵家の後ろ盾が得られますわ!殿下のお役にきっと立ちます」
(…へー、侯爵家のご令嬢なのね。えっ、これで?)
私のイメージでは、高位貴族ほど慎みというか、そういうのがあると思ってたんだけど。もっと腹黒いやり取りがうごめいてるものだとばかりに思ってたのに、こんなにも直接的に来るものなのね。
それともこのご令嬢が例外かしら?
「私は後ろ盾を求めていません。不要です」
それでもアーネストは断り続けてる。
「そう言わずに。きっと殿下のお役に立ちますから」
「………」
あ、ちょっとピキッときてるわね。そろそろ被ってる猫が逃げそう。
「殿下にはそんな貧乏くさくて貧相な女は似合いませんわ。しかも、庶子という話じゃありませんか。そんなみっともない娘など捨て置いて、わたくしと結婚いたしましょう!」
(ふーん、結構言ってくれるわね。あれよね、これもう喧嘩売ってるわよね?)
目の前のご令嬢…いいや、もうはっきり言ってやる。小娘ごときにここまで言われて、黙っていられるほど、私は辛抱強くないのよね。もう、自分はアーネストにふさわしくないとか思ってた神妙な自分なんかどっか行った。こんな小娘に言われるがままにされる義理とかないわ。
「貴様、それ以上…いてっ!」
何か言いかけたアーネストを、手の甲をつねって止めた。文句を言いたそうにこちらを見たアーネストは笑顔で黙らせておく。
売られた喧嘩は買う。下町育ちなめんな。女の喧嘩に男の出る幕なんて無いのよ。
「おいそこの乳臭い小娘」
「なっ、はっ、えっ」
立ち上がって目の前の小娘を指さして呼びかけると、まさか自分のことだとは思わなかったのか目が点になっている。もう無礼だとか淑女なんてどうでもいいわ。
さぁ一気に畳みかけるわよ。
「あんたはアーネストにふさわしくないのよ」
「なっ!あなたなんかにそんなこと言われる筋合いは…!」
「あるに決まってるでしょ」
「えっ」
言い切られるとは思わなかったのか、驚いてるわね。さぁここからが本番よ。
「こちとら、あんなカビ屋敷のときから一緒にいるのよ。綺麗になった途端湧いて出てくるような、その程度のうわっつらしか見てないのとは違うの。あんたはアーネストのことを全て好きだとか言ってるけど、実際は何も知らないから言えないだけでしょ」
「う、うるさいですわ!あんたなんか庶子の分際で…」
「庶子だろうがなんだろうが、いついかなる時でも支える気概があんたにあるの?そういえば、アーネストには他のご令嬢も婚約者候補として声がかかってたはずだけど、あんたはどうなの?」
「っ…」
やっぱり。黙ったってことは、まだアーネストが人嫌いで、けむくじゃらのころに来たけど帰ったってことよね。それが、ちょっと小奇麗になった程度で手のひら返してくるなんて、呆れるわ。
顔を真っ赤にしてにらんでくるけど、全然怖くない。
「確かに『これ』はちょっと見た目がダメで性格もダメダメだったけど、その程度で逃げ帰ったあんたが愛してる?どの口が言うんだか」
「おい、クレア。そこまで言わなくても…」
「事実は黙ってなさい!」
「はい!」
「うわ~…こわいっすね」
「外野も黙る!」
「おっす!」
話の腰を折ってくる邪魔者二人を黙らせ、なおも私は続けた。
「愛してるだなんて軽々しく口にするんじゃないわよ。薄っぺらいにもほどがあるわ。そもそも愛してるだなんて、具体的に何ができるの?家の力無しに」
「わ、わたくしは殿下のお子を産むことができますわ!」
「そんなの女なら誰だってできるわよ。私だってできることだわ。バカなの?」
「~~~っ!」
結局、それ以外できることが無いみたいで黙ってしまった。
ひたすらににらんでくるけど、それでこちらが臆するとでも思ってるのかしら。
私は腕を組み、侯爵家のご令嬢を見下ろす。
「あんたにアーネストは渡さない。他のご令嬢にもね。分かったんならさっさと帰りさない、お・じょ・う・ちゃ・ん?」
「く~…覚えてないよ、この庶子風情が!お父様に言いつけてやりますわ!」
捨て台詞を吐いてご令嬢は屋敷を出て行ってしまった。
全く、根性がないご令嬢だわ。
すっきりした私はそのまま応接間から出ていこう…としたところで、後ろから捕まった。
「クレア…」
アーネストが後ろから羽交い締めするように抱き着いてくる。
頭も私の肩に乗せ、耳のすぐ横で名前を呼ばれるのがこそばゆい。
背中に感じるアーネストの体温。回された腕のたくましさ。それらに私の鼓動が高鳴っていく。でも、それに気付かれたくなくて、私は再びその手をつねった。
「いっ!?」
痛みで緩んだ抱擁を振り払い、アーネストに向き直るとにこりと笑う。
アーネストも笑みを返してくるけど、私は床を指さす。
「えっ?」
意味を理解せず、唖然としたままのアーネストにまた床を指さした。
「座れ」
「えっ?」
「床に座れって言ったの」
「いや、何で…」
「座れ」
「はい……」
やっと床に正座したアーネストを前に、私は腕組みをして見下ろす。顔は笑みを作り、ドキドキする気持ちを悟られないようにしないと。
「ねぇアーネスト?」
「な、なんでしょう?」
私の笑みにただならぬ何かを感じたのか、アーネストの顔は引きつっている。
こんなくだらない寸劇を開くことになった元凶には、しっかりとお灸をすえておかないとね。
「なんであんな子娘がいるところに私を呼んだの?」
「いや、それは俺には婚約者がいるから、連れてくれば諦めるかと思って」
「婚約者?いつから私が婚約者になったのかしら?」
「婚約者…候補です」
「そうよね。それなのに、私を使って諦めさせるとか何を考えてるのかしら?」
「いや、それは…」
目を泳がせて言い訳を考えてる。全く、これじゃ全然ダメじゃない。無いはずの犬耳がペタンして落ち込んでるのが見える。ちょっと心が痛むけど、ここははっきり言っておかないといけないのよ。
私は大きく息を吸い込んだ。
「アーネスト!」
「はい!」
大声で私に呼ばれると、しょげて丸まっていたアーネストの背筋がピンとなった。
「あんな子娘の一匹や二匹、一人で追い払えるようになりなさい!前のあなたならできた事でしょう!?」
「そ、それは…」
「できる!?できない!?どっち!」
「や、やります!」
「どもらない!」
「やります!」
「よろしい」
そこまで言って、やっとアーネストの顔に凛々しさが戻ってきた。その顔で見られると、途端に落ち着きかけていた動悸が再び暴れ出す。
「…もう、いちいちこんなことで私の手を煩わせないでちょうだい」
それだけ言って私はくるりと振り返る。
さっさと自室で落ち着きたい。そう思って部屋を出ていこうとしたのに。
「…『あんたにアーネストは渡さない』」
そんなことをぼそっと言いやがる執事の存在が、今は溜まらなく恨めしく思えた。
「殿下のお子を産むことだってできると、断言されたっすね?」
「こ、言葉のあやよ!」
振り返ると、ネイサンはニマニマとした表情を浮かべている。それがもう、本当に憎たらしい顔だわ。
ぼじくり返された自分のセリフに、顔が熱くなるのが止められない。
「もう婚約者候補じゃないっすね。婚約者のセリフっす」
「ダ…ダメよ、候補だもの」
「いいじゃないっすか。もう候補じゃなくても」
絶対にそれは認められない。だってそれを認めたら、とんでもないことになるもの。
「婚約者候補で半年いたらもらえる報奨金がもらえなくなっちゃうじゃない」
「えっ、そっちっすか?」
「そうよ、文句ある?」
半分は本心だけど、半分は嘘。今それを認めるのは、なんだか…そう、癪なんだもの。
「俺が文句ある」
いつの間にか立ち上がっていたアーネストが、私を後ろからまた抱きしめてくる。振り払おうとしたけど、力ではアーネストに叶わず、振りほどけない。
まずい、今はまずい。さっきよりも強くアーネストを意識してしまってるから。背中に触れるアーネストの体温が、服越しに分かる鍛えた身体が、それらを全て知覚しようと感覚がそちらに集中してしまっている。
どんどん顔が、耳が熱くなっていく。それはもう、隠せないほどどうしようもなくて。
「耳が赤いな、クレア」
「~~っ!」
耳元で囁かないでほしい。アーネストの吐息が耳にくすぐったい。
「かわいいよ、クレア」
そんなことを言われて、もう動悸が抑えられない。今までそんなこと言ってきたことないじゃない!何で今更。
が、次の瞬間、耳をついばまれる。これに私の羞恥は限界に達した。
「チェストー!」
「ごふっ!?」
「おー…綺麗に入ったっすねー」
咄嗟に繰り出した肘鉄が、見事にアーネストの脇腹を突き刺さる。抱擁が緩んだ隙をついて、アーネストの襟首をつかみ、そのまま横に投げ飛ばした。
「ごはっ!」
「…クレア様、そんな技どこで」
「下町娘のたしなみよ!」
「下町こえーっす…」
床に転がされ、脇腹を抑えたままのアーネストを放っておいて私は急いで応接間から逃げ出した。
そのまま自室に入ると、ベッドに飛び込んだ。
(あーあ、やっちゃった…)
部屋に戻ったら、途端に冷静になった。
なんであんなことを言っちゃったんだろう。売り言葉に買い言葉になっちゃったけど、でもやっぱりアーネストをあの程度の気持ちで愛してるとか言うのが許せなかった。
彼がどんな思いで人と繋がるのを恐れ、孤独に過ごし続けてきたのか。それも分からず、ちょっと表に出てきた程度ですり寄ってくるご令嬢の厚顔無恥さに腹が立った。
(アーネストがこれまでどんな苦労をしてきたかも知らずに!)
そう思ったら、黙っていられなかった。案の定、底の浅い愛をお持ちのご令嬢はさっさと逃げ帰った。その程度の覚悟で来るんじゃないわよ。
ただそのせいで盛大に自爆してしまったのは失敗だった。…もう、アーネストの顔が見れそうにない。それに、アーネストから『かわいい』と言われた程度で動揺した自分が許せない。前の私なら、「はいはい」で流せたはずなのに。もう流せない自分がそこにいる。
「まいったわね…」
呟きは、布団の中に消えていった。