続・八尺さま
深夜のリビングというのはどうにも落ち着かない。照明は薄暗く、冷蔵庫のモーターがかすかに唸っている。そんな中、私はパソコンの前でカタカタとキーボードを叩いている。
モニターに映し出されているのは、つい先ほどまで書き溜めていた『あの日の出来事』、そう、八尺さまだ。あの夏に祖父母の家で味わった恐怖を、ようやく文章にして吐き出している最中なのだ。
書き終えて投稿ボタンを押したとき、ああ、もう完了したんだなと微かな安堵が胸をよぎった。ところが、すぐにその安堵は霧散した。あれはまだ終わっていない、ずっとこの世のどこかで、ぬめぬめと、生きている気がする。
投稿完了の文字を見ながら、私は長いため息をついた。誰かの目に触れれば、少しは楽になれる気がしていたのだが、どこか胸がざわつくのはなぜだろう。重荷が軽くなったような、逆に増えたような、何とも落ち着かない気分だ。
───これで終わりにしよう。
そう思って小声で呟いたのだが、その声もどこか頼りなく、部屋の隅へと吸い込まれていく。と、そのとき、リビングのドアがギシリと軋んだ。振り向けば、娘が寝巻き姿で突っ立っているではないか。零時過ぎだというのに。
「パパ、何してるの?」
彼女は目をこすりながら、ぼんやりと私を見る。ぎくりとして、私はパソコンの画面を慌てて隠した。
「明日の仕事の準備をちょっとな」
「ふーん」
娘は首をかしげながらも興味津々の様子で画面を覗こうとする。私は急いでキーを叩き、画面を閉じる。
「もう寝なさい」
娘はまだ半分夢の世界にいるらしく、私を不思議そうに見つめている。私は立ち上がり、彼女を抱きかかえて寝室へと連れていった。腕に伝わる小さな温もりに、心の底からほっとする。
そうしてから半年ほど経ったある日。妻と娘の三人で夕食を囲んでいたときだ。娘が突拍子もないことを言い出した。
「八尺さまって知ってる?」
箸を持つ手がぴたりと止まった。心臓がきゅっと縮こまったかと思うほど驚いた。思わず上ずった声で尋ねる。
「ど、どこでそれを?」
娘は当たり前のことのように答える。
「学校で流行ってるんだって。大きい女の人が『ぽぽぽ』って言いながら襲ってくるんだってさ」
私は背筋に冷たいものが走るのを感じた。まるで肺が一瞬止まったような感触だ。妻はパート先で噂を耳にしたらしく、さらりと言う。
「私も聞いたわよ。意外と有名なのね」
その言葉に、私はもう一度息を呑んだ。娘は子供用のスマホを取り出すと、YouTubeのサムネイルを見せつけてくる。
「ほら、友達にすすめられた動画」
画面を再生すると、ポリゴンが粗めの3Dの男の子が、これまた3Dの八尺さまに追いかけ回されている。
「ゲームなのか……」
娘はニコニコしながら言う。
「ゲームだけじゃないよ。漫画もイラストもいっぱいあるみたい」
頭がこんがらがりそうだ。「ああ、そうか」と、とりあえず相槌を打ってみるが、内心はもう絶叫寸前。ここでわめき散らしたら妻にも娘にも心配をかけるし、どうやら私は深呼吸して耐えるしかないらしい。
その夜、二人が寝静まったのを確かめたあと、リビングへ戻った私はパソコンを起動して「八尺さま」と検索してみた。するとどうだろう。娘の言った通り、絵に描いたようなキャラクターとして、漫画やゲーム、さらにはイラストやグッズ展開まで、ずらりと並んでいる。どこか茶化すように扱われていて、しかもそれが大人気らしいのだ。
あきれかえるやら目まいがするやら。さらに悪いことに、私が半年前に書き込んだスレッドまでもがまだ息をしていて、私の忌まわしい記録が延々とコピペされている。
───こんなつもりじゃなかった。
私は当時、注目されたかったわけでもなければ、人を怖がらせたかったわけでもない。ただ、自分のトラウマを整理するため、一心不乱に書き殴ったにすぎなかったのに。
気がつくと、キーボードの上に拳を叩きつけていた。私の知っている八尺さまはこんなヌルい存在ではない。あんなに凶悪でおぞましい化け物なのに。
「忘れたくて書いただけなのに、どうしてこんなことに……」
つぶやく声が微かに震える。耳の奥に「ぽぽぽ」という音がリフレインする気がして、慌てて耳をふさぐ。
【注意】長身の女が下校中に出没
本日午後、下校中の児童が身長2メートル以上の女性に声をかけられる事案が発生しました。女性は白い帽子、白いワンピースを着用し、意味不明な言葉を繰り返していたということです。幸い、児童に怪我はありませんでしたが、地域の安全確保のため、以下の点にご注意ください。
【保護者・地域住民の皆様へ】
◇お子様には帰宅時の注意を再度徹底してください。
◇下校時は集団での行動を促し、なるべく一人での帰宅を避けましょう。
◇不審な人物を見かけた場合は、すぐに警察または学校へ通報してください。
地域の安全を守るため、皆様のご協力をお願いいたします。
リビングにぽつんとともる灯りといえば、まるで舞台のスポットライトみたいだ。空気は静寂そのもの。娘はすっかり寝入っているし、家は音一つしない。時計は深夜を刻んでいるが、まるで時間さえ止まってしまったみたいに感じられる。
そんな沈黙を破って、妻がふいに話しかけてきた。
「どうしようか?」
声が妙に響いた。私はぱたぱたと目を瞬かせる。妻はスマホを見つめている。
「え、なにが?」
とりあえず口を開けてみたが、どうも喉が詰まったみたいにうまく声が出ない。嫌な汗が背中を伝う。
妻はスマホを揺らしながら、呆れた様子で
「娘の送迎、どっちがやるかって話よ。もう、ちゃんと聞いてよね」
と嘆息をつく。
「ああ、そうだよね。休みの日なら引き受けるけど、平日は……」
「まあ、そうよね」
妻はちょっと肩を落としながら、それでもスマホの画面をパッと閉じた。
「明日からパート、少し早めに上がろうと思うの。いい?」
「うん、ごめん」
こんなときに素直に頭を下げる自分が、どこか場違いみたいで落ち着かないが、それに妻は「いいって」と微笑む。
そして、一息つき、二人しばし黙りこむ。私は見抜かれている気がする。妻は今しがたから、私の様子がおかしいと感じているはずだ。まるで何か言い出すのを待っているみたいに。
そこで私は、たまらず声を出した。
「あのさ……この不審者って……」
どうにもどもってしまう。妻はスマホを再び開き、画面に視線を落とす。
「今週だけで、もう三度目だって。いたずらなんかじゃ済まないわよね」
「三度……も?」
私は同じ言葉を繰り返しながら、背筋がじわりと冷えていくのを感じた。
「そう。自動販売機の影から顔を出してね、子どもたちをじっと見つめながら、なんだかぼそぼそ言ってるらしいの」
その瞬間、頭の奥で何かがカチンと外れたような感覚があった。思い出したくないあれが、息を吹き返してくる。止めようとした舌が勝手に動く。
「それ、八尺さまじゃないのかな?」
妻の顔がぴたりと動きを止め、目を丸くする。
「はあ? ばかばかしい。子どもが危ないんだから、変なこと言わないで」
まったく否定されて当然だ。冷や汗が額を伝う。せっかく口から出かかった言葉を飲み込んでも、後悔が喉の奥にへばりついて離れない。
ただの不審者のはずなのだ。きっと警察がどうにかしてくれる……そう自分に説き伏せようとするのに、記憶の端っこにこびりついている八尺さまの影が、するりと抜け落ちてはくれない。
言わなきゃよかった。胸をざわつかせながら、私は妻から目をそらす。頭の片隅に、あの背の高い化け物の姿がちらついてならない。もう二十年以上昔のことだというのに——。
夕方、薄暗くなりはじめた庁舎内で、私はまだデスクに向かい、山積みの書類に目を通していた。周囲を見渡すと、同僚たちは既に帰り支度を終えていたり、雑談したりしていて、フロアはいつもの終業間際の空気だ。そろそろ切り上げようかと思った矢先、デスク横の内線電話が甲高く鳴った。
「○○市役所です。……はい、私ですが」
声の主は警察だった。どうも要件が慌ただしい。少し嫌な予感が胸をよぎる。すると、想像だにしなかった言葉が飛び込んできた。
『娘さんが行方不明になった可能性がありまして。申し訳ないんですが、至急署に来ていただけますか?』
一瞬、脳が凍りついたように感じた。鼓動がドクンドクンと加速し、手元のペンを机に落とす。周囲の物音が遠くなる。心臓が苦しく締めつけられるようで、声が裏返りそうになるのを必死に抑える。
「……わかりました。すぐ行きます!」
そう答え、私は電話を切る。考える暇もなく、デスクの上の書類を放り出したまま立ち上がる。上着だけ手に取り、ほぼ小走りでエレベーターに向かう。
廊下ですれ違う同僚が何か声をかけてきた気がするが、それどころじゃない。
外に出ると、すでに薄暗い夕刻。街灯がぽつぽつと灯り始めていた。私は駐車場へ急ぎ、車のロックを外して乗り込む。エンジンをかけると同時に、妙に胸がざわつく。ハンドルを握りしめた両手に汗がにじむのを感じる。
「……頼むから、何でもないことであってくれ」
そう呟きながら、私は車を素早く発進させる。いつもなら落ち着いて運転するところだが、アクセルを踏む足が自然と重くなる。信号の数がやけに多く感じられる。
娘が行方不明。迷子なのか、誰かに連れ去られたのか、考えたくもない。でも、冷静になれ、落ち着けと自分に言い聞かせる。警察が動いているのだ、ただならぬ事態なのは間違いない。
街の景色が夕闇に沈んでいく。建物の影が長く伸びるのが、嫌に不気味に見える。
警察署の灯りが見えたとき、私はハンドルを強く握り直した。娘に、どうか何事も起きていないように——。
薄暗い夕闇を飛ばすようにして車を駐車場へ滑り込ませた私は、警察署の玄関を走るように駆け抜けた。受付で名前を告げると、すぐに後ろから妻が呼ぶ声が聞こえる。彼女も顔を青ざめ、状況が分からず混乱している様子だ。
「あの娘が誘拐されたって」
私が受付の係員に声を荒げてそう告げると、署員に促されて二人で奥の会議室へ案内された。蛍光灯の白い光が目に刺さるようにまぶしく、私たちは無言のまま椅子に腰かける。しばらくしてから、警察官が数人入ってきた。そのうちの一人が、低い声で切り出す。
「——どうやら、お子さんが何者かに連れ去られた可能性が高いです。」
妻が息を呑む音が聞こえる。私は頭が真っ白になりそうだったが、なんとか口を開いた。
「誘拐ですか? 娘は大丈夫なんですか?」
警察官は申し訳なさそうに眉を寄せつつ、パソコンを操作してモニターに映像を映し出す。そこには、通学路に設置された監視カメラの映像が流れていた。夕暮れの道を、娘がリュックを背負いながら一人で歩いている。
しばらくして、映像の隅から白いワンピースを着た背の高い女が現れた。異様に細長いシルエットに、私たち夫婦は息を詰まらせる。
「この女性ですが、どうも身長がかなり高いようです。」
警察官が言葉を選ぶように言う。娘の横を歩く女は、娘に小声で何か話しかけているように見える。娘は警戒しているのか、少し後ずさりしているようだった。ところが女は近づいて娘の腕を取る。娘は怯えたように後ろを振り返りながら、仕方なく女と歩き出す。
「待ってください。あれは……?」
妻の声がかすかに震える。
私も口を開きかけたが、次の瞬間、映像の女が監視カメラの方へ向き直り、不自然なほどゆっくりとこちらを覗き込んだ。まるでカメラの存在を知っているかのようだ。
画面越しにもわかるほどの長身の女が、口元を歪めてニヤリと笑う。
皮膚が粟立つような嫌な笑み。娘はそのまま女に連れられ、映像の外へと消えていった。
「このときすぐに気づけていれば、もう少し早く対応ができたんですが。残念ながら周囲の歩行者も少なく、通報が遅れてしまいました」
警察官の声が耳鳴りに混じって遠のくように思える。現実感がないまま、私は妻の震える肩をそっと支える。妻は何度も「嘘……嘘……」と小声で繰り返している。
「娘はどこに連れていかれたんですか!」
妻の叫びに近い声が会議室に響く。警察官たちが申し訳なさそうに視線を落とし、静かに答える。
「犯人の行き先はまだわかりません。これからさらに近隣の防犯カメラ映像を調べたり、同じ目撃情報がないかを捜査します。お二人も、思い当たるふしや、娘さんが何か言っていたことはありませんか? 何でもいいので教えていただければと思います。」
私は唇を噛みしめながら、あの光景を脳裏で繰り返す。白いワンピースの女。その背の高さと独特の笑い方が、頭の奥でこびりついて離れない。まさか、と思いたくはない。なのに、記憶の底で刺激される感覚がどうしようもなく恐怖を煽る。
「私たちから何かあれば、すぐにお伝えします。お願いします、娘を早く……」
かすれた声でやっと言葉を絞り出した私を、警察官は優しい目で見つめて頷いた。隣の妻はじっと映像が止まったモニターを見つめたまま、まだあの笑みを忘れられないように震えている。こんな悪夢じみた現実が、今まさに私たちの目の前に広がっているのだ。
エンジンをかけているあいだ、車のボンネットから漂う熱気が微かに揺らめいているのが視界の端に映る。妻は助手席で小刻みに震えながら、家が見えてくると黙って降りた。
言葉を交わす余裕など、どちらにもなかった。娘がこのまま無事に帰ってくるのかすらわからない状況で、お互いに気丈に振る舞おうとするほど余計に息苦しく感じる。
「近くを探してくる。娘が帰ってくるかもしれないから、お前は自宅で待っていてくれ」
そっと妻の肩に手を置き、家に押しこむように促す。扉が閉まる音を背中で聞きながら、私は再びアクセルを踏んだ。
行く先は、あの山村。自分でも理由は言葉にしづらいが、あの白いワンピースの女——八尺さま——の表情を見た瞬間、そこへ向かわなければと思った。誘拐された娘を助けるには、あの地と向き合わねばならない。その確信だけが頭を支配する。
高速道路の料金所を抜けたころ、運転に集中しながらハンドフリーの電話をかける。受話口から父の低い声が聞こえると、胸が強く打った。
「なにかあったのか?」
父の問いかけに、私は一気にまくしたてるように娘の誘拐を伝え、白いワンピースの大女を見た——それが八尺さまだとしか思えない、と。そして今から山村に向かうと告げると、しばし沈黙が落ちた。嫌な汗がハンドルににじむ。
「あの事件以来、お前を山村から遠ざけてきた。だから、お前は何も知らんだろうが、事件のあと三年もたたずにあの村の住民はみんな変死を遂げたんだよ。お前を救うために力を貸してくれた人たちも、一人も残っていない。」
受話器の奥で、小さなノイズが混じる。冷たい空気が肺に入りこみ、思わず息が止まった。どうして、そんな大切なことを今まで教えてくれなかったのか。言葉を失っている私に、父が淡々と続ける。
「みんなの総意だったんだ。お前は本来八尺とは無関係だから、せめて何事もない人生を歩んでほしいと。お前の祖父母も、皆もそう願っていた。」
静かな口調なのに、その内側に抱えた苦渋が痛いほど伝わってくる。
私がそれでも山村へ行くと言うと、父はわかったと低く息をつき、「儀式で世話になった霊能力者に相談してみる」と言い残して電話を切る。
静まり返った車内に、エンジンの回転数だけが重苦しく響いた。
「娘を取り戻す」
自分に言い聞かせるように呟く。高速道路を踏みしめる車輪の音が、やたら大きく感じられる。
すでに日は沈み、トンネルを抜けるたびに闇の深さを増す山道の景色が、視界の端でちらついていた。そこに、監視カメラ越しのひどく歪な挑発が脳裏を離れない。ぽぽぽ……という音すら、まるで耳鳴りのように頭をかき乱している。
「必ず……助けるからな。」
声に出して自分を鼓舞する。急き立てられるようにアクセルを踏み込み、あの山村——そして八尺さま——へと向かう道を突き進んでいった。
私は車を農協の集荷所跡に止めた。父が言っていたように、人の気配などまるでなかった。集荷所の建物は朽ち果て、崩壊が進んでいる。
周囲は闇に覆われている。不規則に並ぶ電柱の街灯すら機能していない。私はトランクから懐中電灯を取り出し、山村の方へと光を向ける。そこには深く生い茂る草木の影しか見えず、生き物の気配がいっさい感じられなかった。
いざ足を踏み出そうとした瞬間、ポケットのスマホが震える。液晶には見覚えのない番号。胸騒ぎを覚えながら、震える手で通話ボタンを押した。
「もしもし――」
『うーす、八尺さまに惚れられた不運な男はあんたでいいか?』
若い女の声だった。そこには緊張感のかけらも感じられない。事態の深刻さをわかっているのだろうかと、苛立ちさえ覚える。
「儀式でお世話になった霊能力者さんは、年配の方だったと記憶していますが」
そう問いかけると、軽い調子の声が返ってきた。
『ばあちゃんは老衰で死んだ。今はあたしが引き継いでんだ』
一瞬、落胆が胸を締めつける。あの日、命を救うために駆けずり回ってくれたおばあさんは、もういない。だが、蜘蛛の糸のような可能性であっても、今の私はすがりつくしかない。
「娘は……大丈夫でしょうか?」
『その前に、あんたに確認しときたいことがあんだけど。ここ半年で八尺さまの存在が急激に強くなってんだよね。何か思い当たることない?』
背筋に悪寒が走る。思い当たる節は、はっきりとあった。
「あの時、私はどうかしていた。八尺さまの記憶を、誰かに知ってもらいたくて、匿名掲示板に書いたんです。それがいつの間にか拡散して……八尺さまの話が大衆化されてしまった」
『あー、やっぱりな。ばあちゃんが言ってたんだよ、八尺の呪いは解けてなかったって。あんた、時間をかけてちょっとずつ八尺さまの封印を解いちゃってたんだね』
そんな馬鹿な、と言いたいが、思い当たることしかない。私は悔恨で歯を食いしばる。
「どうすれば……いいんです?」
『目的を言いな』
目的。決まっている。私は答えを絞り出した。
「娘を助ける。それが目的です」
『目的を果たすためなら死ねる?』
「……はい」
『じゃあ、協力してやるよ。昔あんたが儀式で使った家屋、場所は覚えてるか?』
私は、脳裏に暗い廊下や古びた畳の部屋が過ぎる。何とか道順も思い出せそうだ。
「ええ、たぶん。行けると思います」
『そこで八尺さまを待つんだ。奴は絶対にやってくるよ』
「待つだけでいいんですか? 清めの儀式や盛り塩は――」
『ばーか、八尺さま呼び込まなきゃ娘は助けられねえぞ』
「そう……ですよね」
『スマホの通話はつなげっぱなしにしといて。娘の命はあたしが保証してやるから』
「わかりました」
『あ、それと。山村に入ったら、スマホ越しに聞こえる言葉は全部無視しな。だが絶対に通話は切るなよ?』
「ええ、二回目ですからわかっているつもりです」
『じゃあ、行ってこい。久しぶりの八尺さまとの対面、覚悟しとけよ』
二度と顔を合わせたくなかった存在と、今再び相まみえなければならないのか。だが、娘を取り戻すにはこの道しかない。私は運命に導かれるように、農協の倉庫跡をあとにした。
草に覆われた細道をかき分けながら進むと、祖父母の実家が視界に入った。建物のあちこちが崩れているが、かろうじて形を留めているのが何とも痛々しい。
玄関のドアは閉まっていたが、鍵は壊れているらしく、少し力を入れると簡単に開いてしまった。軋む音が耳に嫌に響く。中は湿った埃と黴のにおいが漂い、少し足を踏み入れるだけで床が抜けそうだ。
かつて儀式を行ったあの部屋は、二階の奥まった場所にあったはず。私は抜けそうな階段を慎重にのぼり、暗い廊下を進む。時折、風が吹き抜けて床下を鳴らすのか、妙な震動を足裏に感じる。踏む場所を誤れば床板が崩れ落ちそうで、冷や汗が止まらない。
目的の部屋の襖の前にたどり着いたとき、私の胸は早鐘のように鳴り響いていた。襖をゆっくり開けると、そこだけは異様にきれいで、まるであの夏以来、一切の時が止まっているかのようだった。
埃ひとつなく整然とした畳、薄曇りの障子から差し込む微かな光――そこに漂う空気は神聖というより、不自然なまでの静けさを含んでいる。
私は襖をそっと閉め、部屋の中央に進んで畳に腰を下ろした。スマホを両手で包み込むように握りしめ、そのまま鷲づかみにしていると、まるで発熱するカイロのような熱がじんわり伝わる。視線を下げ、呼吸を整えようとしたときだった。
——おい、大丈夫か? 返事をしろ?
唐突にスマホから響く若い霊能力者の声。しかし、それはまるで遠くの方から聞こえてくるような、焦点の定まらない音だ。
——このままだと娘は助からないぞ。返事をしろ!
静寂を破るその声が、部屋に嫌に反響しているようにも思える。でも、私は反射的に声を出そうとはしない。ただ、畳に額を押し付けるようにして意識を集中する。まるで自分を守る最後の盾のように。
(始まった……)
鼓動が一気に速まるのを感じる。耳鳴りがし、背筋を冷たい汗が伝う。
──ねえ、返事して! お願い、お願い、お願い!
女の声が不自然に早口になってくる。さっきまでの霊能力者の淡白な口調とは明らかに違う。
──あなた! ねえ、あなた! 娘は無事なの?
聞き覚えのある声――妻の声だ。私はハッとして思わず顔を上げそうになるが、何かに警告されている気がして踏みとどまる。
──あなたがお迎えに行ってくれなかったから! こおんなあこおとおにいなーたーよー
聞いたこともない節回しの言葉が混じっている。もはや妻の声とも言い難い、不気味に跳ねるようなリズム。
──なーたーよー♪ なーたーよー♪
怖気が走る。さっきまで電話越しに会話していたはずの霊能力者から、妻、そして今は何者ともつかない者の声へと移り変わっている。
私は震える肩を抱きしめるようにし、声を殺して耐えるしかない。薄暗い部屋の空気がねっとりと体にまとわりついてくるようだ。
──なーなー……なー……ぽ……ぽぽ……ぽぽぽぽ……
聞こえた瞬間、私は息を呑む。それは“あの声”だ。明らかに人の声ではない振動をともなう低いリズム。さらにそれが連なるように響いてきた。
──ぽぽぽぽ……ぽぽぽぽぽ……ぽぽぽぽぽぽぽ……
まるで耳のすぐ脇で囁くように、あるいは鼓膜を揺らすように増幅していく。私は思わず周囲を見渡す。
(やはり、ここはあの夏となにも変わらない)
部屋の隅では、かすかな風が畳を撫でているのか、さわりさわりと音がする。全身を嫌な寒気が駆け巡り、心臓が痛いほど鼓動している。
──ぽぽぽぽ、ぽぽぽぽぽ、ぽぽぽぽぽぽぽ……
たまらず私は膝をついて立ち上がる。脚が震えてうまく踏ん張れない。畳の軋む音が、かつての悪夢を鮮明に呼び戻す。窓の方へ向かうと、気配がすぐそこまで来ているのを感じた。
「娘は帰してやってください。関係ないんです」
外気がまるで存在しないような重苦しい空間の中で、絞り出すように声を上げる。
──ぽぽぽぽ? ぽぽぽ?
遠慮なく響くその声は、あざけるように私の言葉を模倣しているようだ。私は苦々しい思いを噛みしめつつ、全身を凍らせながらもう一歩窓際に近づく。
「私はもうどこにも逃げません。だから───」
そう言いながら私は思い切って窓を開け放った。
すると、そこにはまぶしいほどの真夏の日差しが広がっていた。青空の下、青々と茂った木々が風にざわめき、小川のせせらぎがどこか遠くから耳に届く。まるで時空がねじれているかのように、先ほどまでの夜の空気は跡形もなく消えている。
私は言葉を失い、窓の外を見つめる。視界がぐらりと揺らいだ。
そのとき――突然、視界を埋め尽くすように真っ白なワンピースの女が現れた。伸びた影が畳を覆い、あまりに長すぎる腕がこちらを掴もうとする。私は反射的に身を引こうとするが、女は大きく口を開いて叫んだ。
「ぽそぽきぽっぽたぽろ」
背筋を冷たい針で刺されるような感覚。私の喉が凍りつきそうになる。だけど、この時だけは後ろに退がらないと決めていた。震える両手を広げ、まるで自分を差し出すように立ち尽くす。娘を助けるためなら、ここで終わらせるしかない。
窓の外の、酷く不自然な真夏の昼下り。風がひゅうと鳴いて、八尺さまの巨大な身体がねじれるようにこちらへ迫る。
「あぁ……」
喉から零れる微かな声。最後に脳裏をよぎるのは、娘の笑顔、そして妻の涙――
ぽぽぽぽぽぽぽぽぽ
一際大きなあの声が近づき、私は全身を飲み込む真っ白な光を感じながら、祈るように瞳を閉じた。
ぎっくりが再発して死んでます。なかなか、長編に戻る体力がない。