4・絢華、またもや音楽学校受験に失敗するの巻
1999年3月23日(火曜日)
昨年秋に「柳瀬くん救出プロジェクト(妄想)」を立ち上げた絢華であったが、その後は全く何も進展せず春を迎えた。音楽学校の受験で、それどころではなかったからである。
一般の高校と違って、音楽学校は何度も受験する生徒が多い。受験資格は、中学卒業、高校在学中、高校卒業後の14歳から18歳。つまり、最高4回のチャンスがあることになる。
「大丈夫よ! あと2回受けられるんだから!」
母の祥子が、悲壮な声をリビングルームに響かせる。午前10時の発表直後、声楽の先生を通じて絢華の第一次試験不合格が山下家に知らされた。その後、祥子はヒステリーを起こしてしばらく喚いていたが、やがてめそめそ泣き始め、さっきの「来年がある」を繰り返している。
「学校へ行ってくる」
絢華は学生鞄を持って玄関に向かった。今日は合格発表に合わせて休んでいたが、ここで母の恨み言を聞いているくらいなら、昼から登校した方がましだ。それに、絢華自身は今年も不合格なのはわかっていた。
母はその場を体験していないから、勝手なことが言えるのだ。受験会場で絢華は、周囲との徹底的な格差を見せつけられた。第一次試験は面接だけだが、それでも皆すらりと背筋が伸び、未来のスター然としたオーラが感じられる。
昨年は初めての受験だったので、委縮してしまったのかと思っていたが、二回目ではっきりわかった。自分に太刀打ちできるレベルではない。下手に二次試験まで進んで、歌唱と舞踊を審査されていたら、とんだ大恥をかくところだった。そういった意味では、これで良かったのだと絢華は安堵していた。
「今年は絶対、合格できると思ってたのに」
玄関で靴を履いていたら、絢華の背後に母親の気配がした。見送りをする振りをして、絢華を責めているのだ。しかし、絶対に「ごめんね」なんて言ってやらない。絢華が黙っていると、とうとう汚い本音が漏れだした。
「レッスンにだって、どれだけお金をかけたか」
絢華は手に持った学生鞄を、母親にぶん投げたい気持ちをどうにか抑えた。確かにレッスン代は高額だ。しかしその金は全て、絢華がモデル事務所で稼いだギャラから捻出されている。絢華の手元には、一銭も残っていないのだ。
祥子は自分の願望を娘に背負わせ、娘を働かせた金でそれを叶えようとしている。これを虐待と言わずして何と言うのか。よほどぴしゃりと言い返してやろうかと思ったが、そうすれば気が狂ったように泣き叫び、数日間は絢華を責め立てることは間違いない。それが面倒なので、いつしか絢華は母をスルーすることを覚えてしまった。
喚き続ける母親を残して家を出た絢華は、何駅か向こうのショッピングセンターへ来た。親には学校へ行くと言ったが、最初からそのつもりはない。ここ数カ月、ひどいストレスで頭がどうにかなりそうだったので、今日くらいは溜ったイライラを発散したい。それには、この古くて人の少ない店が最適なのである。
中心地の駅ビルに入ると、女子高の制服が目だってしまうが、少し郊外にある年配向けのショッピングセンターなら、誰も気にしない。特に今は冬用の紺色のコートを着ているので、ほぼ街の風景に溶け込むことができるはずだ。
絢華はショッピングセンターの3階に上がり、アクセサリーショップに入った。壁のボードにピアスやバレッタなどが、所狭しと陳列してある。絢華はその中からひとつを取り、裏をちらりと見た。店員には値段を確認しているように見えるだろうが、実は盗難防止タグの有無を調べているのだ。
絢華は裏面に何もないのを確認すると、アクセサリーを元の場所に戻すふりをして、するりと袖口に落とし込んだ。見事な手さばきである。細かい商品がたくさん並んでいる売り場なので、間近で見ても気づかないだろう。これが絢華のストレス解消法のひとつ、「万引き」であった。
初めてやったのが、小学校6年生。それ以来、次第にエスカレートして、今ではプロ級の腕前である。最近は防犯タグのついた店も増えてきたが、まだまだ小さな店では昔ながらの野放し状態だ。絢華にとっては、この界隈は鬱憤がたまったときの狩場であった。
結局、その日は小さなピアスひとつと、猫の絵のついた付箋、デンタルフロスを盗んだ。別に欲しかったわけではない。スリルを味わうことが目的である。絢華は駅のゴミ箱に盗んだ商品を捨て、何食わぬ顔をして家に帰った。
玄関のドアを開けると、家の中から怒鳴り声がした。伯父が来ているらしい。それに応じて祥子の金切り声が響く。絢華は彼らに見つからないよう、そっと足音を忍ばせて二階へ上がった。今日の不合格通知を受けて、来年の受験の話でもめているに違いない。
絢華の音楽学校受験は、もともと一度限りの約束だった。父親も叔父も中学を出たばかりの娘が、実家を離れて関西の全寮制学校に行くことに反対した。しかし、祥子が「記念にしたいから」と押し切って受験させてもらったのだ。
それなのに、不合格とわかった途端「もう一回だけ受験させてくれ」と泣き喚き、うんざりした父が「これで最後」という条件付きで許可を出した。それが去年の話である。
しかし、絢華は母がその約束を守るとは思っていなかった。彼女は常々平気で嘘を吐く人間だ。自身の悲願である娘の音楽学校入学を、そう潔く諦めるはずがない。また今年も半狂乱でゴネまくり、父と伯父が根負けするまで闘うつもりだろう。
そんなに歌劇団に憧れているのなら、親の反対を押し切って自分が挑戦すべきだった。しかし、周囲の圧に負けて志を貫けなかった。そしてその夢を娘に押し付けて、叶えられるのが当たり前だと信じている。
「くそばばあ」
絢華は口汚く罵ると、履いていた靴下を丸めてドアに投げた。あと2回どころか、200回受けたって合格するはずはないのに、また無意味なレッスンを続けねばならないのか。しかし「受験をやめたい」と言えば、どんな目に遭わされるかわかったものではない。従順なふりをして、気の済むようにやらせておくのが最善策なのである。
そんな毒気の強い母親だが、子どものころは良い親だと思っていた。いつも絢華の容姿を褒め称え、モデルの仕事にも常に付いてきてくれた。雑誌やテレビに出て、周囲から憧れの目で見られるのは快感だったし、そのうち自分は神様に選ばれた、特別な人間なのだと思うようになった。
仕事以外でも祥子は絢華を何よりも優先し、大抵の欲しいものは買ってくれた。絢華には7歳離れた妹がいるが、姉妹の扱いは天と地の差である。妹は不器量で祥子の眼鏡にかなわず、小学校に上がると祖母の家にやられた。それも絢華にとっては、優越感をくすぐる出来事だった。
ある日、たまたま妹が家に来ていたとき、絢華は彼女の鞄についているマスコットを「可愛いね」と言ってみた。母がどうするか、ちょっとした遊び心だった。祥子は思った通り、妹にそれを絢華に譲るよう命じ、妹が従わなかったので力づくで取り上げてしまった。妹は大泣きしていたが、それが自分たちの値打ちの差なのだと、綾華は愉快な気分になった。
しかし成長するにつれて、絢華も母親の異常性に気づき始めた。周囲の同年代と自分は、あまりにも生活が違う。特に中学生になってからは、友人たちが次第に親離れして青春を謳歌し始める中で、絢華だけがその輪に入れなかった。習いごとが多く遊ぶ暇がなかったのもあるが、祥子が同級生との交流を制限していたからだ。
「絢華ちゃんはスターになるんだから、学校ではお友だちに気を付けてね」
ただでも容姿が目立ちやすいため、学校ではひっそりと大人しく、波風を立てないよう過ごすように言われた。絢華は中学の3年間特定の友人を作らず、ふわふわ微笑んで過ごし、並み居る男子生徒からの告白にも応じなかった。「スターになる」という母親の言葉を愚直に信じていたからだ。
しかし音楽学校の受験会場で、絢華は自分の置かれた現実を知った。人生イージーモードで生きて来た、15歳の少女の初めての挫折であり、母への嫌悪が芽生えた瞬間であった。絢華はそのとき初めて実の親に対し、「死んでくれたらいいのに」と本気で思った。