6・姉の日記を読み終えて──与田絵梨のモノローグ
姉の日記は、そこで終わっていた。まさに、死の間際の記録だ。自業自得の転落人生とはいえ、なんとも哀れな最期である。しかし、だからと言って「手を差し伸べていればよかった」という気持ちは毛頭ない。彼女は私に喰らいついたが最後、枯れ果てるまで寄生し続けたであろう。
年の離れた姉妹として生まれ、疎遠のまま死に別れした私たちだが、遺された日記を偶然に発見したことで、思いがけず姉の内面を知ることとなった。彼女の思想や行いは私にとって、あらゆる面で常軌を逸したものであり、読むうちに精神が崩壊しそうな場面も度々あった。
私はこの秘密を、自分の中にだけ留めておこうと決めている。吐き出したところで、死者の尊厳が貶められるだけで何の実りもない。中には今も時効が成立していない犯罪もあるが、私は聖人君子ではないので、過ぎたこととしてこのまま蓋を閉じてしまうつもりだ。ただ、ひとつの疑念を除いては。
ここ数日、胸の中で膨れ上がっていた違和感が、突然こぼれ出てしまったのは、ある土曜の昼下がり。この日は夫の昌司がランチを作ったので、私が食後の皿洗いを担当していた。普段ならこれから配信の映画を観たり、食料品の買い出しに行ったり、ゆるやかな夫婦の休日を過ごすはずだった。
パスタに使った鍋を、固いスポンジでこすり洗いしながら、まるで天気の話でもするかのように、するりと言葉が自分の口から滑り出たことに、ちょっとびっくりした。本当はもっと、確信を得てから問いただすつもりだったのだ。
「ねえ昌司、あなたが姉に薬を飲ませたの?」
シンクの背後にいる昌司が、一瞬体を堅くする気配を感じた。私は鍋を洗いながら、何と軽率だったのだろうと、後悔した。きっと昌司は、妻からそんな突拍子もない質問をされるとは思わず、驚き戸惑っているはずだ。私はさっきの言葉をどうごまかそうかと、水しぶきをあげながら鍋の底をこすり続けた。
私の中に疑念が芽生えたのは、日記の中に登場したヤクの売人が、姉にサプリの入ったアルミパウチを渡した場面だ。そのサプリは、私のチームが開発したサンプルを思い起こさせた。更年期特有の肌荒れに特化したマルチビタミン剤で、一般販売に先立ち30代から50代の女性でモニタリングを行っていたものだ。
もちろん私も毎日飲んでいたし、製薬会社勤務の昌司にも意見を聞くため、家に数か月分のパウチをストックしていた。もしも昌司が何袋か持ち出していたとしても、きっと私は気づかなかっただろう。
さらには、姉の飲んでいた不眠解消サプリだ。もしかするとそれは、実家の母の睡眠薬ではなかっただろうか。母は父の死後、心療内科に通い始めた。と言っても、たまに実家に様子を見に行くとモリモリ食べているし、韓国の俳優に熱を上げる元気もある。恐らくは、周囲の同情を集めたくて通院しているだけだと思われるのだが、処方される薬を飲まないのでどんどん溜まっていく。それをいつも昌司が処分してくれていたのだ。
「お義母さん、残薬は本来なら医療機関か薬局で引き取ってもらわないといけないんですが、ご面倒でしょうから僕が処分しておきますね」
「そうしてもらえると助かるわ。私、どうもお薬が体に合わなくって」
その会話を覚えていたので、睡眠薬と昌司、そしてヤクの売人が一本の線でつながってしまった。心情的には大人しく理性的な夫が、そんな大それたことを仕出かすなど考えたくもないが、製薬会社のMR(メディカル・レプリゼンタティブ)は、ある意味「ヤクの売人」とも言える。
ただし、昌司には姉を害する動機がない。確かに私たちの居所を探そうとしていたし、そのうち迷惑になるかもしれない存在ではあった。しかし、まだ実害があったわけでもなく、昌司は姉の顔さえ知らないのだ。
どれだけの時間が流れただろう。実際には数十秒ほどだったかもしれない。気まずい沈黙に耐えかねて、場を取り繕おうとした私の言葉尻を攫うように、昌司の静かな声が響いた。
「変なこと聞いちゃって、ごめ──」
「……いつから」
「えっ」
「いつから知ってたの」
今度は私が戸惑う番だ。昌司の表情を見る限り、冗談ではないらしい。ただの思い過ごしだと信じたかったことが、まさか真実だというのか。私は考えを整理できず、黙って昌司を見つめていた。そんな私に彼はいつものように、淡々とした調子で語り始めた。
「会社に、お義姉さんが来たことは言ったよね。実は、あれからも何度か連絡が来たんだ」
私は無言で頷いた。姉が昌司の会社に突然やってきて、ガードマンにつまみ出されたのは聞いている。昌司はすぐに上司に相談し、取次はもちろん電話も完全ブロックを行った。しかし姉はそこで諦めず、手紙で金を無心してきたらしい。その手紙に「この番号に電話してくれ、もしくは店に来て欲しい」という一文があった。昌司はそれを読んで、ある考えが頭に浮かんだという。
「話はいろいろ聞いてたけど、顔も知らないし。どんな人なんだろうって」
自分たちを執拗に追い回している人物を、知らないままでは対策も打てない。そう考えた昌司は通りすがりの一見客を装い、姉の店を訪れたという。そこで、話の流れから置き土産にしたサプリに、姉が喰いついたというわけだ。
そこからは、偶然の連続である。たまたま入ったコンビニで、姉に呼び止められた昌司は一瞬「正体がバレたのか」と冷汗が出たそうだ。しかし姉はサプリが欲しかっただけだとわかるや、それを餌に敵の腹を探ってみようと考えた。
「妹夫婦への愚痴、これが情報としてすごく役立った」
姉は私たち夫婦の行方を探す方法を、あれこれ考えていた。実家で昌司の名刺を見つけた後も、母がカレンダーや手帖に何か書き付けていないかを探り、もしも妹夫婦が実家に来る日がわかれば、ガレージに停めた車にGPSを付けることも計画していたらしい。
昌司はそれらを先回りして、全て潰していった。実家から自分たちの情報を一切排除し、母を訪れる際は念のためレンタカーで行った。そう言えば「エンジンの調子が悪い」と何度か車を借りたことがあったが、今思えばあれはそういうことだったのか。ペーパードライバーの私は全く気付きもしなかった。
そして姉が不眠で悩んでいると知り、昌司の中に悪魔的な閃きが舞い降りた。昌司は薬のプロである。その彼が、バルビツール系の睡眠薬を患者に長期にわたり常用させればどうなるか、わからないはずはない。
昌司は、姉を廃人に追い込むつもりだったのだ。そうなれば姉は、実家に戻り伯父の監督下で過ごすか、医療施設で拘束される。姉から自由の翼と行動力を削いでしまおうというのが、昌司の計画だった。
それを聞いて私は、正直ぞっとした。普段はお人好しで頼りない夫が、実はこんな策士だとは思わなかった。そしていつも優しい夫の笑顔の裏に、これほど冷淡な一面があるなど知りたくはなかった。
「でも、そんな悠長なことは言ってられなくなった」
ある日、姉が昌司に「妹が見つかったかも」と嬉しそうに言った。何と姉はインターネットで私の名前をしらみつぶしに検索し、旧姓で登録していたワークショップの名簿を発見したらしい。それはネット上では見えないPDFファイルであったが、姉はスマホでダウンロードして調べたのだという。やがて彼女は、私が次回出席する会合の情報を得た。
なんという執念だろうか。そのエネルギーがあれば人生やり直せると思うのだが、姉は頑なに他人に寄生する生き方を望んだ。昌司が誘導して聞き出したことによれば、姉は良からぬ友人に頼んで、私を誘拐するつもりだったそうだ。姉は、家族間の揉め事に警察は不介入と思い込んでおり、多少手荒く説得すれば、私が従うと考えたようだ。この計画を知り、昌司は作戦を変更した。それが例のMDMAである。
昌司は違法な麻薬を姉に渡し、警察に匿名の通報をするつもりだったという。麻薬は所持しているだけでも罪になる。姉のことだから、叩けば余罪もいっぱい出てきただろう。うまく行けば数年の実刑判決が下るだろうし、執行猶予でもしばらくは大人しくなるはずだと昌司は踏んだ。
しかし、不運な姉は酒の酔いと睡眠薬依存、そして初めて摂取する麻薬のオーバードーズで階段から転落し、帰らぬ人となった。その知らせを聞いた昌司の心中は、どうだっただろうか。警察署に私を迎えに来た彼は、普段通りの顔をしていた。混乱する私の頭の中に、昌司の声がゆっくりと響いてくる。
「……まさか、死ぬとは、思わなかった」
もしもあの日、姉の日記を見つけなかったら。そして、興味に駆られて中を覗かなかったら。私は何も知らず、いつも通りに夫婦で小さなソファに座り、週末の午後を過ごしていたはずだ。
「君を、守りたかったんだ」
もう一度、ゆっくりと昌司の声が鼓膜に浸みこんでいく。シンクに置いたパスタ鍋から流しっぱなしの水が溢れ、午後の光を反射している。その、あまりにも普段通りのキッチンの光景を見ながら、私は小さく身震いをした。
【私の姉は、きれいなクズ/完】