5・すごく落ち込んだとき、それは今
2023年8月31日(木)
つい先日、絢華は41歳になった。この世で迎えた、最後の誕生日である。かつては男たちから贈られる花束や高級ブランド品を持て余すほどだったが、今では常連客が寿司折を差し入れてくれるくらいが関の山だ。仕事帰り、深夜のコンビニで売れ残りのショートケーキを買って、自分を祝ってやろうかとも思ったが、よけい惨めになりそうな気がしてやめた。
そのうち必ず良い風が吹いて、自分を高く買ってくれる男が現れる。そうしたら、また昔のように華やかな暮らしに返り咲けるのだ。それが夢物語であることに気づいていても、絢華は頑なに一縷の望みに縋りついた。それほど生活は荒み、追い詰められていた。
この頃の絢華は、なりふり構わず金になることなら何でもやった。年齢的にパパ活や風俗は厳しいので、最近はインターネットで怪しげなサイトを巡り、名前も知らない人間と関係を持つことが多い。特殊な性癖を持つ者は、案外どこにでもいるものだ。金をもらってそういう人々の相手をするのが、絢華の小遣い稼ぎになっていた。
先日はある夫婦に頼まれ、いわゆる3Pという行為を行った。また、ある時には石膏で女性器の型を取りたいという男の要求にも応えた。最初は知らない人間と密室で対峙するのが恐ろしかったが、そのうち恐怖心は薄れ、同時に人間としての感情も欠けていくような気がした。
さらに、絢華は窃盗も繰り返すようになった。高校生のころもショッピングセンターで万引きをしていたが、それはスリルを求める遊びであった。しかし今は、明確に金が目当てである。狙うのは、程よく混雑した電車やバスの車内が多く、無防備にバッグの口から財布を覗かせていたり、ズボンの尻ポケットにスマートフォンを突っ込んでいる乗客は絶好のカモだった。
財布は札だけ抜き取って、スマホは外国人に売る。華僑の張に囲われていたとき、そのような転売ルートがあることを知ったのだが、盗品だろうが構わず買ってくれるので、絢華にとってはありがたかった。
以前は店の客からも金を抜いたりしていたが、今の店をクビになるとまずいので、職場では大人しくしている。自宅アパートの近所も狙わない。やるなら、郊外の老人宅だ。田舎に行くほど戸締まりが甘く、防犯カメラもない。そして年寄りはタンスや仏壇の引き出しに、まとまった現金を隠し持っている。
こうして、自転車操業で借金の返済をしていた絢華だが、たまには目の保養をしようと出かけたハイブランドの店で、大学時代のクラスメイトに遭遇してしまった。その時の屈辱は耐え難かったようで、日記の中に穏やかでない言葉が綴られていた。
──殺す殺すあの女は殺す金の力で飾り立てたブサイクのくせに勘違いするな殺す
そのクラスメイトが、絢華に何かをしたわけではない。ただ彼女は夫と思われる男性と買い物をしており、変わり果てた絢華には気づかなかった。しかし絢華は彼女が学生時代より何倍も磨かれていることに衝撃を受けた。
控えめではあるが高価なことがわかる服装、手入れの行き届いた髪や肌、そして支払いの際に使った黒いクレジットカードが何より絢華を苛立たせた。絢華も歯科の院長夫人だった頃、所持していたものだ。
卒業して、約20年。地味で平凡だった同級生がセレブの風格を身につけ、方や大輪の薔薇のように咲き誇っていた自分が、安物の服を着て借金に喘いでいる。その逆転の構図を在り在りと見せつけられた気がして、絢華は逃げるように店を後にした。
ひとつ幸運だったのは、殺意を抱かれた彼女が、絢華の攻撃を免れたことである。それから数ヶ月後に絢華はこの世を去ってしまったので、悪巧みの計画を立てる暇もなかったのだ。
売人がいつものアルミパウチとは違う、小さな袋を絢華に手渡したのは、11月初旬。そろそろ薄手のコートが恋しくなる季節のことであった。最近は「眠れるサプリ」もだんだん効き目が弱くなってきて、基準の倍量を飲むようになっていた。そうすると朝の目覚めが悪いので、無水カフェインのドリンクを常用するようになった。
そのせいで絢華の体には常に倦怠感がつきまとい、食欲もなくなっていた。それを売人に相談したところ、「疲れが取れるサプリ」をすすめてきた。小袋の中には、ピンクとブルーの打錠が2個入っており、形がハート型なので一見ラムネのように見える。
「……これは、ひょっとしてヤバいやつなんじゃない?」
さすがの絢華も警戒したが、売人はけろりとした顔で「それはない」と言い切った。更年期の女性向けに開発しているリラックス効果のあるサプリで、ホルモンバランスの乱れから来るイライラや不眠、更年期うつなどを解消する効果があるらしい。
「気分がすごく落ち込んだとき、試してみて。ちょっとホワッとした感じになるから、外出中は控えてくださいね」
そう言えば絢華も、そろそろ更年期にあたる。もしや女性ホルモン減少で体調が狂っているのかと、妙に納得する説明であった。絢華はもらったサプリをハンドバッグに入れ、そのうち機会があれば試してみようと思いつつ、そのときはそのまま忘れてしまっていた。
絢華がそのサプリを思い出したのは、亡くなる数時間前。いつものように店に行くと、大きなカサブランカの花束が飾られており、クーラーにはシャンパンが冷やされていた。
「今日、何かお祝い事でもあるんですか」
店の客の祝い事だろうかと思って尋ねた絢華の耳に、ママから信じられない言葉が返ってきた。
「そう、おめでたいことなのよ! みっちゃんが、結婚することになったの。相手は、丸山さん」
絢華はそれを聞いて、すぐには状況を整理できなかった。まず、みっちゃんというのは同じ店のホステスで、本名はみちこ。年は絢華の3歳下なので、今年38歳だ。バスが1日に数回という田舎から出てきた女で、背が低くぽっちゃり。愛嬌はあるが色黒の平面顔で、どう贔屓目に見ても美女とは言えない。
そのみちこが結婚するのも驚きだったが、相手が常連客の丸山であることに絢華は動揺した。丸山は50代半ばの土建業で、薄い頭髪を坊主に刈り込んでいる。バツイチで小金持ち、いかにもガテン系の社長といった風貌である。実はこの丸山と、絢華は一度寝ている。
アフターで小料理屋に行って、そのままの流れだったのだが、帰り際にタクシー代だと言って2万円くれた。その後もよく店に来てくれたし、誕生日に寿司折を持って来てくれたのも丸山だ。そのためすっかり絢華は丸山を、自分のキープだと思い込んでいた。
それなのに、絢華にとっては何ランクも格下認定の後輩に、横からさらわれてしまった。それが何とも屈辱的で、絢華は腹の底からどす黒い感情が沸き上がるのを感じた。しかし、絢華にもプライドがある。先輩らしく余裕の微笑を浮かべて、みちこに祝福の言葉を贈った。
やがて丸山がやってきて、店内はちょっとした婚約披露パーティー会場となった。絢華もシャンパンのグラスを掲げて乾杯したが、丸山が臆面もなく皆の前でのろけるのを見て、再び自尊心が疼いた。まるで自分が使い捨てされたような気分だった。そして実際、そうなのである。
そこまでなら、何とか絢華も正気を保てただろう。しかし営業時間が終わり、店を出るときにみちこからかけられた言葉が、絢華には我慢ならないものだった。みちこは今日が勤務の最終日ということで、店のスタッフに一人ずつ挨拶に回っていた。
「絢華先輩、いろいろとお世話になりました」
「とんでもない、どうぞお幸せにね」
絢華としては、いろいろ言いたい気持ちをぐっとこらえて、当たり障りのないことを言ったのだが、天然なのか故意なのか、みちこの返しが直球だった。
「ありがとうございます。そして、何だかすいませんでした」
「何が?」
「だって、狙ってたんでしょう、丸山さんのこと。でも、私の方がよかったんですって。気の毒ですけど、こればかりは仕方がないので。ごめんなさいね」
にこにこしながらそう言うみちこを見ていると、絢華は今すぐこの不細工の首を絞めて、側溝に投げ込んでやりたい衝動に駆られた。周囲の視線があったのですぐに我に返ったが、もし二人きりなら何をしていたかわからない。その帰り道である、絢華が売人からもらったサプリを思い出したのは。
──気分がすごく落ち込んだとき、試してみて
シャンパンの酔いに任せて、絢華はタクシーの中で錠剤を飲み込んだ。今の最悪な気分を、一刻でも早く消し去りたかった。そして、スマホの日記アプリに世の中への恨みを吐き出しながら、やがて絢華の意識は深い靄の中へと吸い込まれていった。