4・アガペーの泉が枯れ果てる瞬間(とき)
2022年12月20日(火曜日)
ヤクの売人と絢華の接触は、時間にすれば月に10分程度のものではあったが、その間に絢華は様々なことを男に打ち明けた。彼は絢華を性欲の対象として見るわけでもなく、ただ静かに話を聞いてくれる。友人がいない絢華にとって、そんな人間関係はすこぶる心地よいものであった。
「ねえ、サプリの仕事をしてるんなら、志木薬品工業って知ってます?」
「取引はないけど、けっこう大手ですね」
絢華は義弟への連絡をまだ諦めておらず、門前払いを喰らってからも、何度も会社に電話をかけたり、手紙を送ったりしていた。しかし義弟からの返信はなく、別の手を講じねばならないと考えていたのだ。
「義弟が働いてるんですけど、うちの妹夫婦、結婚の挨拶にも来なかったんですよ。そんな大会社で高給取りなら、困ってる義姉に手を差し伸べるくらいしてくれてもいいのに。そう思いません?」
絢華は、金さえあれば興信所に頼んで居所を突き止めたいこと、借金の返済を肩代わりしてもらいたいこと、そしてあわよくば今後の生活の面倒も見てもらいたいことなどを、ぺらぺらと打ち明けた。男は静かにそれを聞いていたが、やがてそれが妹の話に及ぶとさすがに眉を顰めた。
「それに、たぶん義弟は私が気に入ると思うんですよね。うちの妹って……、ちょっと見た目がアレというか。見比べたら、私を選べばよかったと思うんじゃないかな」
たとえ体を使ってでも義弟を篭絡し、安定した生活を手に入れるつもりだと絢華は男に語った。絢華にとって安定とはすなわち、働かずに生きていくということである。実家を追われた現在、寄生できる先はそこしかない。なんなら妹を退け、義弟を自分の手の中でコントロールするものいい。何か揉め事があっても、家族間なら警察は不介入なので好き放題できる。それが絢華の魂胆だった。
容姿の衰えを自覚し、パトロンの男たちからも見放され、不自然な整形手術をくり返しながらも、まだ自分の美貌は武器になると信じている、それが絢華の救いがたい愚かさであったと言えよう。
実はこれより少し前、絢華にとって精神的に大きなダメージを受ける出来事があった。まるで世界中に敵ばかりがいるようで、何としても取り入る先を確保したいという気持ちが強くなった。その出来事は、絢華が20年ぶりに竹下を呼び出したことが発端である。
竹下誠吾は高校時代、絢華に告白した男子高校生だ。彼は痴漢よけのため、絢華の登校時に電車の中でボディガードをしており、絢華からは「友だちでいましょう」と距離を置かれながらも、同級生の柳瀬の情報を与え続けていた健気な少年であった。現在彼は地元の企業で課長職に就き、妻と二人の子を持つ。かなり恰幅が良くなってはいるものの、人懐こそうな目元は当時のままである。
絢華が今日、竹下に連絡したのは柳瀬の行方を探るためだ。柳瀬の妻に泥棒の濡れ衣を着せたせいで、彼らはどこかへ引っ越してしまった。さらには電気量販店も辞めたようで、すでに池袋の店には在籍しない。
昔なら探偵を雇う金くらいあったのだが、今や絢華は文無しに近い。そこで、かつて柳瀬の友人であった竹下に調査を頼もうと考えた。会う場所は、かつて絢華が住んでいたタワマンに近いカフェ。ハイソな人々が集うエリアである。
「お久しぶりです、元気でした?」
そう言いながら最上級の笑顔を咲かせたつもりの絢華であったが、竹下は驚いたような表情をしている。
「えっと、山下さん? ちょっと雰囲気が変わったね」
無理もない。竹下が覚えている絢華は、透明感あふれる天然の美少女であり、フィラーで頬が膨れた人工的な中年女ではない。しかし絢華は竹下の戸惑いなど構いもせず、早々に要件を切り出した。この男は今も自分を崇拝しており、何でも頼みを聞くと信じていたのだ。
「ねえ、お願いがあるの。竹下くんにしか頼めなくて。柳瀬くんって覚えてるでしょう? 彼の勤務先ってわかるかしら。彼のことを好きだった友だちが、どうしても知りたいって言うの」
竹下は、まつ毛を瞬かせながら懇願する絢華をしばらく眺めていたが、大きなため息をついてアイスコーヒーを一口飲み、表情を引き締めて慎重に言葉を吐き出した。
「やめといた方がいいんじゃないかな」
まさか竹下の口から断りの言葉が出るとは思わず、絢華は「へっ」と間抜けな声を漏らしてしまった。竹下は返事を待たず、なおも続ける。
「その友だち、柳瀬のことストーキングしてたよね? あいつの務め先で、異動先の店舗を聞き出した女性がいたらしいんだけど、その後であいつの奥さんが変な事件に巻き込まれたんだよ」
柳瀬は楽天的で大雑把な男だが、さすがに盗難騒ぎの件は重く見たようで、彼なりに犯人がなぜ妻を攻撃したのかを考えたらしい。その際、一人の怪しい女の存在が浮かび上がった。ある女が「自分は同級生だ」と言って、以前勤めていた店で柳瀬の異動先を聞き出したらしいが、そんな女は知らないし接客した覚えもない。
念のため、うっかり個人情報を漏らしたアルバイトに女の容姿を尋ねてみると、「小柄ですっごい美人でした」と供述しており、それが事件の際にマンションの防犯カメラに映っていた人物と符合することに気づいた。
「俺、その話を柳瀬から去年の同窓会で聞いて、頭の中でひとつの仮説ができあがったんだよ」
そう言いながら絢華を探る竹下の目は、もう昔の純朴な少年のものではない。数々の交渉事を経験してきた、鋭い男の眼光であった。絢華は次第に身が竦むのを感じた。
「あいつ、昔からよくモテたけど、いつも女の方のトラブルで別れるんだよ。あんまり続くから呪われてるんじゃないか、なんて嘆いてたけど、それがもしも誰かの悪意だったとしたら、辻褄が合うだろ」
絢華の顔からは、もう取ってつけたような笑顔は消えていた。この男はどこまで察しているのか、そして柳瀬にはもうバレているのか。絢華はぐるぐると考えを巡らせながら、竹下の次の言葉を待った。
「まあ、あくまでも仮説で証拠はないから、俺も柳瀬には言ってない。ただしあいつも警戒してるから、今度何かあったら警察沙汰になるだろうね。そのときは俺も黙ってるわけにはいかないし」
そこまで言うと、竹下は伝票を手に取り立ち上がった。絢華は黙ったままだったが、もうこれ以上話をするつもりはないということだ。きっと最初から絢華の狙いがわかったうえで、釘をさすために来たのだろう。
「山下さん。久々に会えて嬉しかったよ。そういうことだから、お友だちには残念だけど柳瀬にはもう関わらない方がいい、って伝えておいて。もし、その友だちが本当にいるんなら、だけど」
絢華はこの日をきっかけに、急激に不眠がひどくなった。かろうじて彼女を支えていた、異常なほどの自己肯定感が揺らいでしまったのだ。絢華にアガペーを捧げていたはずの子羊たちは、もはや自分を女神と崇めてはくれない。写真の中の老いた自分にショックを受けたときもそうだったが、絢華の精神は現実を拒んで暴走した。売人からもらった「眠れるサプリ」を飲み始めたのは、まさにこの頃である。
時折、夢の中で竹下が絢華を嘲笑したり、目の前で柳瀬に罵倒される光景が浮かび上がり、そのたびに不安な気持ちで目を覚ますのだ。最初は決められた量を服用していたが、そういう状態ではつい量を過ごしてしまう。こうしていつの間にか美肌サプリではなく、睡眠サプリの方が絢華にとって依存度の高いものになっていった。