7・きらい、きらい、みんな大きらい
2018年5月15日(火曜日)
伯父からは「とっとと働け、借金を返せ」、母からは「再婚相手を見つけろ、家事を手伝え」と、やかましく言われ続け、うんざりした絢華が家を出るため選んだ仕事がクラブのホステスだった。地方都市なので、銀座にあるような高級クラブではない。それでも人気があるホステスであれば、日給2万円以上稼ぐことができるらしい。
ソープは奉仕の精神がない絢華には向かない商売だし、キャバクラは色恋営業をするのが面倒だ。消去法で考えて、自分の持つ武器「美貌」だけで勝負できそうなのはクラブだった。もちろん、売れっ子になるためには勉強や努力も必要だろうが、それは絢華の目標とするところではない。
自分の稼ぎはそこそこでも、良いパトロンを見つけて囲ってもらえば良いのだ。そのためには客筋の良い店が必要になる。絢華は金持ちの年寄りが顧客に多そうな、旧くて落ち着いた店を数軒回って、どうにかヘルプホステスの仕事を手に入れた。母親には「水商売なんて」と泣かれたが、すげなく無視した。ただし、叔父が知ったら発狂するだろうから、そこだけは固く口止めしておいた。
やがてクラブで働き始めて2カ月、絢華は早速カモをつかまえた。稲田興産というレジャー会社の会長で、年齢は76歳。何度か取り巻きを連れて来店し、自身はほとんど飲まずに静かに座っているだけの老人だったが、絢華にとっては絶好の条件だった。
息子に社長の座を譲って隠居をしているらしいが、資産家だけあって隠居といえども羽振りが良い。そして何より、数年前に妻を病気で亡くしていることが、絢華にとって魅力的だった。老い先短い老人の後妻に収まれば、今度こそ財産分与で大金が懐に転がり込むのではないか。そんな邪な考えで、絢華は稲田に接近した。
稲田はそもそも店のナンバーワンである優美の客である。へらへら笑って酌をするしか能のない絢華は、優美のヘルプとしてテーブルに着いていたが、ある日稲田が忘れ物をしたことできっかけを掴んだ。本来なら担当の優美が届けるべきところを「ちょうど明日そちら方面に用事がある」と嘘を吐いて、絢華は稲田の自宅まで赴いたのだ。
それが縁で稲田と絢華はお礼の食事から始まり、次第に親密な関係へと発展していった。高齢なので性的な接触は希薄であったが、絢華が目論んだ通り稲田は愛人を囲う巣として、サービスドアパートメントを手配してくれた。ウィークリーマンションの豪華版という感じで、週一回の清掃や各種の生活サービスが受けられる。
絢華は大喜びで実家を引き払い、新居での生活を始めた。かつてのタワマンに比べれば数段ランクが落ちるが、贅沢は言っていられない。うまく稲田と結婚できれば、間違いなく豪邸に住めるのだ。それまでの我慢と割り切って、絢華は祖父ほども年の差のある稲田に寄りそい、健気な恋人のふりをした。
そんな絢華の行いを、面白く思わない人物がいた。稲田の担当ホステス、優美である。店には二人の関係を知らせないと決めていたのに、ある日うっかり稲田が口を滑らせ、交際の事実が知れ渡ってしまった。
「あんた、どういうつもり」
「どうって……、普通にお付き合いしているだけですよ?」
優美は控室で絢華に詰め寄るも、悪びれないその態度に柳眉を逆立てた。生来、激高しやすい性質の女である。
「普通に、って! あたしをバカにしてるの?」
「別に優美さんから担当を奪おうなんて思ってませんし、プライベートのことなんで」
「ふざけんな、本カノがヘルプなんて、担当してる私が間抜けみたいじゃない!」
筆頭ホステスのプライドが傷つけられたのだろう。優美が目を吊り上げて絢華につかみかかろうとしたとき、奥の部屋からママが出てきた。手に白い封筒を持っている。
「はいはい、そこまで。優美、ヘルプ相手にケンカしてる元気があったら、接客に回してちょうだい。稲田さんから担当を外されたわけじゃないでしょ。だったら、今まで通りにやるのがプロよ。ああ、それと絢華」
着物に合わせて大きく結い上げたママの髪型が、絢華には外国映画に出てくる魔女のように見えた。ママはにっこりと口元だけ笑みを浮かべて、絢華に封筒を差し出した。
「優美の立場もあるから、あなたは今日までにさせてもらうわ。枕で客を取るのもいいけど、うまく立ち回れない子はうちにはいらない。はい、お疲れさまでした」
封筒の中には、その日までの給料が入っていた。クビを切られた絢華は、もちろん稲田に泣きついたが、「よし、何とかしてやろう」と言うので結婚してくれるのかと思いきや、知り合いの店を紹介してくれただけであった。しかも、前より少しランクが落ちる。
がっかりした絢華であったが、それでも働かざるを得ない。家賃はタダだが、美容院代や洋服代、自炊をしないので毎日の外食代など、稲田からたまにもらう小遣いではとても賄えないのだ。絢華は渋々と、新しい店でヘルプの仕事を始めた。
この頃ようやく、自分の人生が確実に坂を転がり落ちていることを絢華は自覚し始めていた。タワマンの主を怒らせなければよかった、三井の家で真面目に主婦をやっていればよかった、雅之の気に入るように努力して呉服屋の社長夫人になればよかった……。自分のやらかした数々のヘマを振り返り、絢華は唇を噛んだ。
後悔しても時間は巻き戻せないのだが、その反省を噛みしめる暇もなく、またもや絢華は坂を転落した。稲田が急死したのだ。しばらく連絡がないと思っていたら、脳梗塞で病院に搬送され、そのまま帰らぬ人となったらしい。絢華がそれを告げられたのは、稲田の死から一カ月後。稲田の息子が社長を務める、稲田興産の経理担当者が絢華に面会を求めてきた。
「えっ、今月中にですか」
「はい、今あなたのお住まいの部屋は、今月いっぱいで家賃の支払いを停止させていただきます」
ホテルのカフェでそう告げられ、絢華は目の前が真っ暗になった。絢華が住んでいるサービスドアパートメントの家賃は、稲田興産の経費で落とされていたらしい。会長の存命中は息子である社長も「年寄りの娯楽」と大目に見ていたが、逝去してしまえばそうもいかない。そのため、あと10日ほどで荷物をまとめて出ていって欲しいと言われたのである。
「急に言われても、困ります。他に行くあてもないし」
「それなら同じ部屋を、あなたが契約されたら良いのでは? ちなみに家賃は月20万円です」
「そんなに払えません。それに、あの部屋は私がお願いしたのではなく、稲田さんがご用意してくださったんです。私たち……、結婚の約束をしていたので」
なんとか追い出されまいと、絢華は苦し紛れに婚約の話を捻り出した。もちろん絢華の頭の中だけの皮算用ではあるが、今となっては死人に口なしである。しかし相手は呆れたような顔をしている。
「はあ、婚約ですか?」
「はい、婚約者なら法的にも権利とか、あるはずですよね」
「それはおかしな話ですね。稲田会長は既婚者でしたし、奥さまはご存命です」
面談の帰り道、絢華は打ちひしがれていた。妻に先立たれた寂し気な老人は、稲田の芝居だったのだ。弁護士からは、もしも稲田会長が独身と偽って交際に持ち込んだのなら、絢華には訴える権利があると言われたが、証拠をそろえない限り返り討ちに遭う可能性もある。どちらにせよ今の絢華には、弁護士を雇う余裕などない。
絢華は仕方なく荷物をまとめ、束の間の棲家を後にした。服や靴がけっこうな量あるので、保証人の要らない単身者向けアパートを契約したが、床も水回りも粗末で絶望しそうだった。それでも、窮屈な実家に帰るのはまっぴらだ。そのうちまた金蔓が現れて、自分をここから連れ出してくれるだろう。絢華はそんな夢物語に縋りついた。
それにしても、先立つものが足りない。今の店は稼ぎが少ないし、ホステスの仕事は服や美容など経費がかかる。その上、引っ越しまでして絢華は手持ちを使い果たしてしまった。母親も最近は、絢華を警戒して貴重品は金庫に入れているので、実家を漁っても大したものは見つからない。
どうやって目先の金を工面しようか。そう考えたとき、絢華の頭にある人物の顔が浮かんできた。妹の絵梨である。もうずいぶん会っていないが、いい大学を出てお堅い企業に勤めているので、きっと高給取りのはずだ。そう言えば確か先日、入籍したと聞いた。夫婦で共働きならば、姉に都合する金くらいどうにかなるだろう。そんな下心で久しぶりに実家に電話した絢華は、けんもほろろに突き放された。
「だめよ、電話番号は教えないわ。絢華ちゃん、あの子にお金をせびるつもりでしょう? 何か用事があるならお母さんが伝えるから。それよりあなた、いまどこに住んで──」
そこまで聞いて、絢華は電話を切った。どいつもこいつも、役に立たない奴らばかりだ。自分は妹よりも優位な存在で、常に恵まれていなければならないのに、なぜ家族まで自分を排除しようとするのか。絢華は粗末なアパートの床に蹲り、我が身の不運を恨み続けた。




