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私の姉は、きれいなクズ  作者: 水上栞
第六章 タワマンとシャンパンコール
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6・おまわりさん、この人です!

 

2015年8月10日(月曜日)



 それからの絢華は、まさに堕落という言葉が相応しかった。まだ三十過ぎなので、その気になればいくらでも堅実な仕事に就いて、人生を再スタートできるはずなのだが、絢華には端からその気がない。好きな時間に起きて寝て、タワマンで自由に暮らした日々が忘れられないのだ。早朝から満員電車に詰め込まれ、面白くもないエクセルに数字を打ち込む毎日など、絢華にとっては死んでいるのも同然だった。


 再びパトロンを見つけて、悠々自適に贅沢な暮らしをしたい。もしくは金持ちの男と結婚して、優雅な専業主婦に収まるのもいい。もはや自分が三十路を超えた中年予備軍であるにも関わらず、絢華の自己評価は二十歳の花ざかりの頃のままであった。




 中流ソープを解雇された後、しばらく実家でくすぶっていた絢華だが、伯父から「働け」と叱責され、仕方なくまた仕事探しを始めた。しかし、資格もスキルもない人間が高収入の仕事を求めるとなれば、当然だが業種は絞られてくる。風俗の仕事なら山のように求人があるが、絢華はもうソープランドで働こうとは思わなかった。


 確かに、綺羅が言ったように「頑張れば」かなりの稼ぎが期待できる世界である。しかしそれは、ひとにぎりの敏い努力家に限ったことだ。絢華は客を悦ばせるために、知恵を絞ったり媚びたりするのはまっぴら御免であった。


 そして何より、物のように扱われることが我慢ならなかった。客は、金で買った女なら好きに消費していいと思っている。男にちやほやされてきた絢華には、それが何とも屈辱的であった。タワマンの主が最後に吐き捨てた「お前は犬猫と同じ」という台詞は、今も耳にこびりついて離れない。



 自分は誰よりも美しく特別な存在で、チートに生きる権利がある。それは幼少時から一貫して絢華のアイデンティティであり、世の男は自分にアガペーを捧げるべきだと信じているのだ。風俗店とは真逆のスタンスである。これでは仕事が続くわけもない。




 そう考えたところで、絢華は久々に柳瀬の顔を思い出した。高校時代に出会って以来「秘めたアガペーを捧げ続けている崇拝者」と、絢華が勝手に思い込んでいる男である。結婚や離婚のゴタゴタで、すっかりストーキングもご無沙汰になっていたが、絢華の脳内では今も自分の所有する男の一人である。



 5年ほど前までの職場は知っている。アルバイト先の家電量販店にそのまま就職したのだ。たまたま店に立ち寄った際、社員の制服で働いているところを目撃した。悟が一緒だったので声はかけなかったが、きっと「絢華と再会した店で、再び会えるチャンスを伺っている」に違いない、と絢華は妄想した。もちろん実際の柳瀬は、絢華のことなどきれいさっぱり忘れているのだが。



「柳瀬さんいらっしゃらないんですか? いつも相談に乗ってもらってたんですよ」



 何年かぶりに訪れた量販店のフロアには柳瀬の姿はなく、コンプライアンスにやや隙のあるアルバイト店員が、高校の同級生だと名乗った絢華に、ぺらぺらと彼の現状を教えてくれた。



「昨年、転勤で別店舗に移動したんですよ」


「そうなんですね。近くですか?」


「いや、それが東京支店なんです。もし機会があれば立ち寄ってください。喜ぶと思います」






 絢華が東京に姿を現したのは、それから約10日後。教えられた通り、柳瀬の勤務する池袋の家電量販店に足を運び、まずは働く様子を観察した。相変わらず印象の淡い顔立ちに、痩せ体型。色素の薄い髪が、社会人らしくすっきりと短髪になっているのが、唯一の変化と言えるだろう。



「少し肉付きが良くなったような気がする。まあ、三十路だし……、えっ?」



 陳列された家電の隙間から、柳瀬をウォッチングしていた絢華は、彼の手元を見て表情を固めた。控えめではあるが、きらりと輝く指輪が左の薬指で存在を主張している。絢華は体温が一気に下がるのを感じた。まるで自分の庭を荒らされたような気分だ。


 その後、絢華はビル内のカフェに移動して気持ちを落ち着け、閉店時間まで居座って従業員出口で柳瀬を待った。声をかけるためではない。尾行するためだ。



「いつの間に、いったい誰と」



 絢華よりひとつ年上の柳瀬は34歳なので、結婚していても何らおかしくない年齢である。絢華とて、既に結婚と離婚を経験している。しかしそんな自分の事情は棚に上げて、子飼いの崇拝者が勝手に他の女と番ったことを、絢華は許せなかった。




 JRからメトロに乗り換え、約1時間。柳瀬の家は、ぎりぎり東京都内にある小さなマンションだった。柳瀬が帰宅したとき家に明かりがついていたので、やはり結婚していることは間違いなさそうだ。絢華はその夜は一旦そこで引き上げてホテルへ戻り、翌日の早朝から再びマンションの張り込みを行った。


 その結果わかったのは、柳瀬の妻の名が景子であること、そして生後間もない赤ん坊がいることである。妻の名はいつものように、ポストからDMを引き抜いて調べた。そして赤ん坊は、ベランダに干された洗濯物から推測した。



 さらには、思いがけず絢華にとって頬の緩む発見もあった。赤ん坊の肌着でいっぱいのベランダの隅に、見覚えのあるジャージが干してあったのだ。かつて高校時代、通学電車の中で柳瀬が来ていた「A・Y」イニシャルのジャージである。風に揺れるその古着を見て、絢華の脳内でひとつのストーリーが生み出された。



「なんだ、やっぱり私を忘れられないのね」



 柳瀬にとって今も絢華は女神であり、それは結婚しようが変わらない。絢華のイニシャルを入れたジャージを着ては、密かに想いを温め続けているのだ。そんな荒唐無稽な妄想が、絢華の頭の中を支配した。しかしその妄想は、次の瞬間に中断された。



 絢華が仰ぎ見ていた3階のベランダに、ひとりの女性が姿を現した。柳瀬の妻、景子に違いない。その容姿を見て、絢華は強烈な不快感を覚えた。タイトなショートヘアに、はっきりとした目鼻立ち。170㎝ほどありそうな高身長は、まるで歌劇団の男役のようである。絢華の人生で最初に負けを喫した入試の雪辱を思い出し、絢華の捻くれた心が柳瀬景子を敵認定した。






 その数か月後、柳瀬のマンションで盗難事件が発生した。警察は犯人の可能性に柳瀬景子をリストアップしたが、本人は頑として否定した。もちろん、本当の犯人は絢華である。



 あれから絢華は何度か東京へ通い、執拗に景子をつけ回し、玄関の鍵の番号をスマホの無音カメラで撮影することに成功した。そしてインターネットで、その番号の合鍵を注文したのである。その後、絢華は住人に成りすましてマンションへ侵入し、他の家から物を盗んで柳瀬家の押し入れに隠した。


 他の家への侵入は、朝のゴミ出し時間を狙った。オートロックで気が緩み、鍵をかけずに長々とゴミ置き場で雑談をしている主婦は少なくない。絢華はその隙に彼女らの家へ入り込み、アクセサリーや金券など小さな金目の物を盗んだ。そこからは簡単だ。景子の外出を確認して堂々と合鍵で柳瀬家に入り、目立たない袋に盗品を入れて押し入れの隅に隠すだけである。


 そのうち物がなくなったことで騒ぎが起こり、件のおしゃべり主婦連中が警察に届け出た。そのタイミングで、絢華は主婦の中でボス格と思われる部屋のポストに、密告文書を差し入れた。



 ──305号室の柳瀬さんが、お宅から出てくるところを見ました。盗難の被害届を出されたと聞いて、もしかしたらと思ってお知らせします。



 盗難の捜査では、防犯カメラの映像や現場の指紋など、物的な証拠が大きな決め手になるが、それらがない場合は目撃証言も吟味される。今回は匿名の密告であり、犯行現場の目撃ではないので証拠としては弱いものの、一応形式的な聞き取りが行われた。



「私じゃないです! 人のものなんて盗りませんし、このマンションの他の部屋に入ったこともありません!」



 疑いをかけられたと聞いて、烈火のごとく怒りながら犯行を否定した景子であったが、それから間もなくして柳瀬家は都内の別の場所へ引っ越して行った。恐らくは押し入れに隠されていた盗難品に気づいたのだろう。



 捜査の方は結局、証拠不十分で犯人の特定には至らなかったし、家宅捜索も行われなかった。柳瀬家の人々が証拠品を隠滅すればそれで終わる事件だったのだが、やはり隣人たちに疑われたことで居心地が悪くなったようだ。


 もちろん、正直に証拠品を警察に提出して、徹底的に身の潔白を証明する方法もある。しかし、そこまで清廉な人間などそうそういないものだ。男役のような涼やかな顔を歪ませて、マンションから逃げ出す景子の姿を想像しただけで、絢華は溜飲が下がった。傍から見れば彼女には何の罪もないのだが、絢華にとっては「気に入らない」というだけで、許しがたい罪に値するのだ。





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