4・マッパでビンタされる三十路女
2013年9月19日(木曜日)
それから綺羅は、たびたび絢華のマンションを訪れるようになった。最初は月に一回ほど、次第にそれが頻繁になり現在は週に一度の「宿カノ」状態である。
単純に綺羅を落として征服欲を満たすだけなら、一回だけでよかった。しかし、絢華は彼とのセックスがいたく気に入った。綺羅は鳶職を辞めてからしばらく女風(女性用風俗)で働いたらしく、かつて絢華を痺れさせた謎の男ほどではなかったが、女を悦ばせる技を備えていた。
一方、ホストクラブに絢華が客として行くことは、滅多になくなった。もともと男遊びで金を使うなど絢華の美学に反しているし、綺羅もしばらくはタワマンを楽しみたいので、無理に金を搾り取ろうとはしなかった。
一度だけ、綺羅の誕生日に店で一触即発の場面があった。店内で絢華とナツキが被ってしまったのである。ナツキは絢華が綺羅を本指名したのを知らなかったので、どういうつもりかと詰め寄った。それに対し、絢華はけろりとした顔でこう言ったのだ。
「私が誰を指名するかは自由よ。ホストって商品みたいなものでしょう? 実際、綺羅は他にもいっぱいお客さんいるじゃない」
そう言われて一旦ナツキは引っ込んだものの、自分と絢華のテーブルを行き来する綺羅を見て、対抗心に火が付いたようだ。奮発してオリシャンを入れ、絢華に見せつけるようにコールを受けた。しかし相手が悪かった。絢華は自分から噛みつかないが、やられたら基本的に倍返しの女である。男たちから巻き上げた金をここぞと突っ込み、店でいちばん高いシャンパンを注文したのだ。
「絢華姫から! いただきました! ア、ル、マ、ン、ドーーーーー!!!!」
アナウンスが流れるや否やファンファーレが鳴り、店内のホストが総立ちで手拍子を始める。その中を、ドライアイスのスモークを炊いたワゴンで、黄金色のボトルが運ばれてきた。
「姫、お手をどうぞ」
綺羅のエスコートで絢華が導かれたのは、造花と電飾でデコレーションされた派手な神輿である。椅子に鉄パイプをボルトで止めただけの簡易なものだが、そこに綺羅が絢華を横抱きにして乗り、若手が担いで店内を練り歩く光景はなかなか壮観であった。
その間、綺羅は絢華の目を見つめながらマイクで意味不明なラップをがなりたて、若手がそれ以上の声量で合いの手を入れる。30万円の余興としてはお粗末だが、神輿の上から眺めたナツキの憮然とした顔はすこぶる痛快だった。
そんな世の中をなめ切った絢華に天誅が下ったのはある日の朝。いつものように綺羅が仕事上がりにやってきて、さも我が家のように高級ソファーでブログ用の写真を撮り、絢華とクイーンサイズのベッドで淫らな時間を過ごした。彼らがようやく眠りについたのは、明け方近く。その油断しきった素っ裸の寝込みを、鋭い金属の一撃が襲った。
「ぐあっ!」
激痛で飛び起きた綺羅の頭や背中に、高級ゴルフクラブが打ち付けられる。その声に驚いて目覚めた絢華が見たものは、鬼の形相で綺羅を殴るタワマンの家主であった。
「やめて、死んじゃう!」
骨が砕ける音が響き、綺羅の顔からは血が噴き出している。これはまずいと思い、止めようとした絢華の左頬に熱い衝撃が炸裂した。
「このクソ女が、つけ上がりやがって! 誰のお陰で贅沢できると思ってるんだ!」
家主はそう言いながら、今度は右頬にも平手打ちを喰らわせた。男に殴られるなど、絢華の人生で初めてである。痛みよりも恐怖で身体が萎縮して、喉から声が出てこない。
「おい、こいつら事務所に連れて行け」
いつの間にか寝室には主の部下であろう、二人の男が入ってきており、綺羅と絢華に服を着せて、車で雑居ビルの一室に連行した。その間、綺羅はずっとタオルで顔を押さえて呻いていたが、絢華は自分の頬の腫れが明日に残らないか、そればかりを考えていた。
事務所の応接室には、二人の中年男性がいた。どちらもタワマンの家主の知人のようだ。そのうちの一人が、自分は弁護士だと名乗った。襟元にテレビでよく見るバッジが輝いている。
「単刀直入に申し上げますね。ハウスクリーニング代金と、家具の買い替え代金、鍵の交換料、慰謝料諸々を含めて、合計1000万円を請求します」
意味がわからずキョトンとしている絢華と綺羅に、弁護士が請求の理由を説明した。そもそも絢華は、家主の好意で一時的な部屋の使用を許可されていたに過ぎない。それなのに、絢華は家主の許可なく第三者を連れ込んだ。さらには家具や部屋の設備を我が物のように使用し、淫らな行為に及んで室内を汚した。これは家主として看過できるものではない。
「それ、ぼったくりだろ!」
予想外の大金に、思わず綺羅が異議を唱える。弁護士はちらりと綺羅を一瞥して「えっと、沼田さん……でしたね」と資料に目を戻した。綺羅の本名が沼田清二であることを、絢華はこの時初めて知った。
「リビングにあるソファーだけでも、イタリア製のオーダーメイドですから300万円近くします。あなたのブログに、うっかりワインをこぼしてシミになった、という記事が写真付きで掲載されていますよね」
「いや、それは……」
「もちろんベッドや寝具も買い替えです。あと、あなたはゴルフクラブも勝手に持ち出してますよね。それも弁償してもらいます」
綺羅がホスト仲間のコンペに参加するとき、玄関にあったゴルフバッグを担いで行ったのは絢華も知っていた。その際の写真がブログに載っているので、どうやっても言い逃れはできない。それ以外にも弁護士は、絢華と綺羅が消費した様々な項目を挙げて金額を示した。もう途中からはお経を聞いているようだった。
「以上の賠償額に慰謝料を加えて、計1000万円です。絢華さんのことは信頼していただけに、裏切られて精神的に大きなダメージを受けています」
それに関しては、さっき殴ったからチャラなのではと思ったが、口には出さなかった。弁護士ではない方の男が、どう見ても堅気ではない。この事務所の持ち主らしいが、田舎の不動産屋と自称していた家主は、どうやら思っていたより荒いシノギで成り上がったようだ。
ちなみに連れ込みがバレたのは、家主の会社の女性社員が綺羅のブログを見て、「これは社長のマンションでは」と気づいたからである。自分のバスローブを着てピースをしているホストを見て怒髪天になった家主は、会社の若手に調査をさせていたらしい。
説明を聞きながら、絢華は何としても支払いから逃れようと知恵をめぐらせた。弁護士に理屈で勝つ自信はなかったので、家主に情で訴えるしかない。つい先日まで絢華にぞっこんだった男だ。涙で潤んだ目で泣いて見せれば、何とかなるのではないか。
「ねえ、もうしないから許して? あんまり会えないから、寂しかったの」
浮気女のお決まりの台詞である。しかし、絢華の泣き真似は見事に通用しなかった。家主は毛虫を見るような目を絢華に向け、苦々しく言葉を吐き出した。
「冗談じゃねえ、可愛がってやった恩を仇で返すような真似をされて、許せるわけがないだろうが」
「でも、付き合ってたわけじゃないのに」
あてが外れた絢華が、焦ってうっかり本音を零してしまった。絶対に言ってはいけない一言だ。家主の顔色が変わったのに気づいて取り繕おうとしたが、もう遅い。
「はあ、付き合う? ぬるいことをぬかすな。お前は、俺に飼われてたんだよ! 犬猫と同じだ、身の程を知りやがれ!」
家主は立ち上がると、そのまま応接室をでていった。取り付く島もないとは、このことだ。その後、弁護士から慰謝料に関する書類に拇印を求められ、綺羅と話し合って期日までに入金するように告げられた。絢華はどん底の気分だった。今夜からもう、タワマンには帰れない。
仕方なくその日は、病院へ行くという綺羅と別れてビジネスホテルに泊まったが、翌日さらに絢華にショックな現実が待っていた。なんと、綺羅が飛んでしまったのだ。住んでいたアパートから貴重品だけ持って、店にも連絡せずに姿を消した。
結果、絢華の手元には、丸々1000万円の請求書だけが残った。いっそ自分も行方をくらましてしまおうかと思ったが、知恵も人脈もない絢華にはどうしていいかわからない。仕方なくたまに会っている男たちを頼ってみるも、皆一様に「大変だったね」とは言いながら、ぷつりと連絡が途絶えてしまった。誰も面倒な三十路女に関わりたくないのである。絢華は今度こそお手上げだった。




