2・三井家の皆さん、仲良しごっこは終わりです
2013年1月25日(金曜日)
新年ムードもようやく落ち着いた、ある寒い冬の朝。絢華は極めて不愉快なニュースを耳にした。なんと、元夫の悟が再婚したというのだ。まだ離婚届を提出してから二年も経っていない。しかも、相手は絢華の知っている女だ。
「看護師さんなんですって? こう言っちゃアレだけど、もしかして前から何かあったんじゃないかしら、って勘ぐっちゃうわねぇ」
無神経な発言で絢華のイライラを増幅させているのは、母の祥子だ。三井家と付き合いのある知人の家に年賀状が届き、年明けに悟が入籍する旨が書き添えられていたらしい。久しぶりに服を取りに帰った実家で、絢華はそれを聞かされショックを受けた。
相手の女は、旧姓を板野里美という。確か年は絢華よりひとつ上だったはずだ。看護師の他に歯科衛生士の資格も持つダブルライセンスで、医療事務もできることから、元義母のお気に入りだった。何かにつけ「絢華さんも板野さんを見習ってほしいわ」と嫌味を言われていたので、絢華はそれが気に入らなかった。
その板野里美(現在は三井)が、悟と結婚した。まるで自分のテリトリーを侵されたようで、絢華は里美に敵愾心を抱いた。既に悟とは離婚しており、ましてや自分の浮気で婚家を追われた身であるにも関わらず、悟は今も自分の所有物である感覚が、絢華の中にはあったからだ。
悟は自分に忠実な崇拝者であり、小さな自尊心のために離婚を選んだにせよ、内心では絢華を追い求めて後悔しているはずである。それなのに世間体を気にする元義母が、いつまでも長男が独身では格好がつかないからと、手近な里美との再婚を焚き付けた。そして、計算高い里美も安月給の看護師から院長夫人への転身に目が眩み、その話にまんまと乗っかったのだ。
全て妄想の中の仮説なのだが、それが絢華には許せなかった。そして、またしても常軌を逸脱した行動に出た。今度はこれまでで最も罪深い、殺人未遂である。
ある日の午後、絢華は三井家のキッチンに立っていた。絢華が結婚していた頃と、少しレイアウトが変わっている。現在はこの家に悟夫婦が同居し、里美もこのキッチンを使うようになったためだろう。ただし、セキュリティの甘さは以前と変わっていない。そのお陰で絢華はこうして留守宅に忍び込めたのだ。
元義母も悟もケチなので、セキュリティ会社と契約しているのは病院の建物だけだ。自宅には玄関にだけ防犯カメラが備え付けられているが、裏口はまるで無防備で、絢華が結婚していた頃と同じように、義母はガスメーターの扉の中に鍵を隠していた。
絢華は何食わぬ顔で裏口から室内に入り込み、ユーティリティからキッチンに続くドアを開けた。この日は、悟と里美は病院で仕事中。元義母はマダム連中との月イチ恒例ランチ会だ。元嫁なのでそういうルーティンはしっかり把握している。絢華は手袋をはめた手で、おもむろに冷蔵庫のドアを開けた。
三井の元義母が救急車で病院へ搬送されたのは、その日の夜。医師の診察の結果、毒物による急性中毒症状と結論づけられた。毒物の種類は、植物性アルカロイドの一種「ダチュラ」、別名チョウセンアサガオである。
ダチュラはエンジェルズトランペットとも言われ、釣り鐘型の大きな花を咲かせる人気の園芸植物であるが、葉、根、種などに猛毒を持つため、誤食による事故が少なくない。絢華はダチュラに関する記事を読み、キッチンのゴマすり器の中に種を混入させたのだ。ダチュラの種は、ちょっと刻むとゴマ粒にしか見えない。
元義母はとにかくゴマが大好物で、料理にすりゴマを山ほどかける。さっき冷蔵庫を覗いたら、ほうれん草のお浸しがあった。出かける前に夕飯の支度をして行ったのだろう。きっとそのお浸しにも、ゴマすり器でゴリゴリやるはずだ。
そして絢華の目論見通り、元義母はダチュラの毒に侵された。食事の途中で目がくらみ、やがて嘔吐や頻脈などの異常が現れたため、悟がすぐさま救急車を手配したらしい。処置が早かったため大事には至らなかったが、場合によっては命に関わることもあるという。この恐怖体験で、元義母は精神的に大きなダメージを受けた。
しかし、絢華の本当の狙いは別にあった。それは、三井家に嫁姑間の諍いを芽生えさせることだ。いったい誰が毒物を混入させたのか。キッチンは限られた人間しか使わないため、きっと元義母は嫁がやったのだと疑うだろう。同居の嫁に小言や嫌味は日常茶飯事だろうから、本人にも思い当たる節があるはずだ。
世間体を気にする三井家のことなので、警察沙汰にすることはないだろうが、嫁に裏切られた恨みを、そのまま我慢するような元義母ではない。せっかく目をかけて、大事な息子と結婚させてやったのに、恩知らずもいいところである。やはり看護師などと一緒にさせず、悟には良家の令嬢を迎えてやるべきだった。そう考えると、里美の顔を見るだけで元義母は腸が煮えくり返る思いであった。
そして里美の方も、疑われていることに不快感を抱き始めた。事件の後、家族はもちろん親戚や病院のスタッフへも、何度も自分の無実を訴え続けてきた。しかし、皆表面上は「もちろんだ」と信じているふりをするだけで、内心は里美を疑っているのが態度でわかる。
まず食卓からゴマすり器が消え、料理にゴマが必要なときは、小分けのパックを1回ごとに開封するようになった。そして、里美には料理をさせない。買い物も冷蔵庫の管理も元義母が行い、料理は先に里美が口をつけて、何ともないのを確認してからようやく食べ始める。
毒物で大変な目にあったのだから、神経質になる気持ちはわかる。仕事をしている嫁に楽をさせてやりたいという建前も、世間一般から見ればありがたいものだろう。しかし、濡れ衣を着せられたまま、生活をするのは里美にとって耐えられないストレスであった。
ある日、ついに里美は悟に二者択一を迫った。今後も同居を続けるのであれば、完全に自分への疑いをなくして欲しい。それができないのであれば、同居を解消して欲しい。そしてどちらも選べないと言うなら、離婚も視野に入れると明言したのだ。
悟は里美の覚悟に驚愕し、妻がそこまで追い詰められていることをようやく実感した。正直「そのうち平常に戻るだろう」と、仕事に逃げていたのだ。しかし前の離婚で凝りているので、もう二度と家族での揉め事は起こって欲しくない。特に里美は、歯科医院にとっても不可欠な存在だ。絢華の浮気を、こっそり教えてくれたのも彼女だった。悟はよくよく考えた結果、夫婦で実家から出ることを選択した。
その決断を三井の両親に告げたとき、最初は元義母が激高して大変だったが、悟と元義父が時間をかけて説得した結果、なんとか納得させることに成功した。彼女にとっても、疑っている相手と別居する方が心の安寧を得られやすい。そのうち孫ができたら、お互いの家を訪問し合って家族の付き合いをすればいいのだ。
こうして、短い間ではあったが三井家の嫁姑の仲良し生活は幕を閉じた。終わってみれば、最初から距離を持って接した方がお互いにとって幸せだった。絢華と暮らした高級マンションは既に売却していたため、悟は通勤に都合の良いファミリー向けの物件を早急に購入し、そこが夫婦の長年の棲家となった。
「ふーん、一般庶民の家って感じね」
悟と里美の新居を見上げて、絢華は満足そうに微笑んだ。毒を仕込んでからの顛末は、元義父の愛人から一部始終を聞いていた。不倫相手の妻に対抗心を燃やす彼女は、絢華の便利な情報屋になってくれている。元義父もうっかり漏らした家族の恥部が、まさか元嫁に流れているとは知りもしないだろう。
こうして三井家の毒殺事件は、有耶無耶のうちに闇に葬られた。結局、誰が何の目的で毒を盛ったのか。元義母は今も里美の仕業だと信じているし、元義父はもしや自分の愛人がと内心で疑いを持っていた。悟には全く犯人の見当がつかず、それが最も気になる点だったが、警察を介入させないのであれば答えは謎のままである。
しかし翌年の夏、三井家にとって驚くようなことが起こった。なんと実家の植木鉢からダチュラが生えてきたのである。最初は何の植物だろうと面白半分に義父母が水やりをしていたが、そのうち釣り鐘型の花の蕾が付いて、調べたところそれがダチュラであるとわかり、一同が戦慄した。
誰も種まきをした記憶がなかったが、当たり前である。キッチンで毒をゴマすり器に入れた絢華が、嫌がらせのダメ押しとして残った種を撒いたのである。たまに絢華はこっそり三井家の庭を外から覗いては、憎きダチュラを彼らが世話しているのを嘲笑っていた。三井家にとっては、絢華自身がまさに家庭に根を張り脅かす、毒性植物のような存在だったのかもしれない。




