7・慰謝料って、女性がもらえるお金ですよね?
2011年2月7日(月曜日)
「追って弁護士から連絡が行くので、それまでは実家で待機してくれ」
絢華が悟からそう告げられたのは、ある休診日の夜だった。悟が午前中からどこかへ出かけたので、その隙に絢華は例の如く隣県で不倫相手とよろしくやり、日が暮れる前に自宅へと帰ってきた。
絢華は悟が先に帰ってきていることに気づき、咄嗟にショルダーバッグを背後に回した。先日男に買ってもらった、ハイブランドの限定品である。そして急いで作り笑顔を顔に貼りつけた。
「ただいま、早かったのね。夕ご飯すぐ支度するわね」
「それはいいから、座って。話がある」
瞬間、絢華は何を言われるかを察知した。頭の中で、何度もシミュレーションした言い訳の中から、どのパターンが最適か考えを巡らせたが、悟の声がそれを遮った。
「結論から言うと、君と離婚したいと思っている」
これほど温度の低い悟の声を、かつて絢華は聞いたことがなかった。理屈屋ではあるが、絢華がわがままを言えば、最後には折れて甘やかしてくれる夫であった。きっと何か疑いを持っても、絢華が目を潤ませて弁解すれば有耶無耶になるだろう。そう楽観視していたのだ。しかし悟の表情は固く引き締まり、その険しさに絢華は戸惑いを隠せなかった。
「いつまで突っ立ってるんだ、座りなさい。今日これが、内容証明つきの書留で山下の家に届く。時間指定にしてあるから、間もなくお義母さんから電話があるだろう」
そう言いながら悟が絢華に封筒を突き出した。この書類のために、今日は弁護士と接見していたらしい。どこにでもあるA4サイズの事務封筒だが、中を見て絢華は悲鳴をあげそうになった。絢華が不倫相手の男と腕を組んで、ホテルに出入りする姿が写真に撮られている。しかも複数名だ。絢華は悟がプロの興信所を雇ったのだと直感した。
添えられた書類は、ここ数カ月の絢華の身辺調査に違いない。日付や時間ごとにレポートされているが、気が動転して内容が頭に入ってこない。絢華はパニックになり、女が苦しい嘘を捻り出すときの決まり文句を口にした。
「待って、違うの」
「何が違うんだ、ここに映っているのは君だろう? それとも谷村尚美かな」
絢華は体が硬直した。その名が知られているということは、出会い系サイトに登録したこともバレている。興信所は恐らく、男たちの身元も割り出しているだろう。どう言い繕うべきか考えているうち、悟から実家での待機を言い渡された。こうなってはもう、どうしようもない。
茫然としたまま、絢華はスーツケースに当面の荷物を詰め、悟が呼んだタクシーで実家へ向かった。きっと書留の内容を見た母親からであろう、携帯電話に何回も着信があったが無視した。とても話ができる精神状態ではない。玄関を出るとき、ようやく自分のやったことの愚かさを実感したのだ。安寧な居場所を失うことほど、絢華にとって恐ろしいことはないはずだった。
それから二週間後、三井家の客間には7人が集まり、神妙な面持ちで卓を囲んでいた。顔ぶれは悟の両親、悟、絢華、三井家が雇った弁護士。そして、絢華の母親と伯父である。絢華の父親は昨年、闘病の末に逝去したので伯父は親代わりとして出席している。
あの後、絢華の実家では当然ながら大騒ぎになった。母の祥子は泣き狂い、悲劇の主人公になってしまった。伯父は絢華の愚かな行いを責め、額に青筋を立てて怒鳴り続けた。そんな状況にうんざりした絢華は自室に閉じこもり、ヘッドホンをつけて日がな一日テレビを見続けた。
実のところ絢華は、家を追い出された時点では、まだ希望があると思っていた。義父に頼んで、「一度の過ちくらい許してやれ」と悟を説得させようと考えていたのだ。絢華は義父の浮気の秘密を握っている。それを盾に迫れば、断りはしないだろうと思っていた。しかし、義父はきっぱりと絢華の頼みを拒絶した。
「私の弱みを握った気でいるんだろうが、お互い様だよ。絢華さん、あんたうちの家内の着物を質入れしただろう?」
内々に話がしたいと、義父を呼び出した町はずれの喫茶店で、その言葉を聞いて絢華は戦慄した。複数人の男から小遣いをせしめていた絢華だが、散財が過ぎて金に困ることが何度かあった。そのとき、義母の着物を盗んで質屋に持って行ったことがある。そしてそれをうっかり流してしまった。流質期限の3カ月以内に返済すればいいと思いつつ忘れていたのだ。
思い出して慌てて取り戻そうとしたが、既に買取り業者の手に渡っていた。絢華は質屋に「どうして連絡してくれなかったのか」と文句を言ったが、質流れになっても質屋は連絡をしないのが商習慣だ。そしてその着物が、運の悪いことに知り合いの目に留まってしまったというわけだ。
「お宅の奥さんの訪問着を、デパートの質流れ市でお見掛けしました、と言われたんだ。まるでうちが質入れしたようじゃないか。顔から火が出るかと思ったよ」
個性的な柄の手書き友禅だったため、覚えている人がいたらしい。すぐに義母に箪笥を改めさせたところ、やはりその着物がなくなっている。義母も悟も泥棒が入ったと思ったようだが、絢華の腹黒さを知っている義父は、嫁の仕業だと疑った。そして懇意にしているデパートの外商に問い合わせてみたところ、隣県の質屋が出元だと判明した。
「窃盗罪の時効は、刑事で7年、民事だと20年だ。私が被害届を出せば、質屋は誰が着物を売りに来たか警察に情報を開示しないといけない」
もしも絢華が義父の不倫を言いふらせば、それ以上の報復が待っているということだ。不倫はあくまでも家庭内の問題だが、窃盗となれば警察が動く。質屋の監視カメラや箪笥についた指紋から、誰が犯人かは容易くわかってしまうだろう。
「こちらも、やり合うつもりはない。お互い、黙っていればいい話だ。わかったね?」
義父はそう言って、店を出ていった。絢華はあてにしていた義父の協力を失い、いよいよ窮地に追い込まれた。こうなっては、離婚は避けられないだろう。ならば、せめて少しでも良い条件で話し合いがしたい。絢華の頭の中は、反省よりも保身でいっぱいになっていた。
そして迎えた、両家の話合い。悟の離婚の意志は固く、絢華が有責である証拠も確実に揃っていることを、弁護士が淡々と法的な解釈を添えつつ説明した。絢華が協議離婚に応じない場合は、裁判所を介した調停離婚または裁判離婚になる。
「図々しいお願いだとは重々承知の上で、悟さん、絢華とやり直してもらうことはできませんか」
伯父が恥を忍んで頭を下げたが、悟は無言のままであった。何しろ短期間の調査だけでも、自分の妻が合計6人の男と関係を持ち、金銭を受け取っていたのだ。悟なりに精いっぱい大事にしていたし、金銭的にも不自由はさせなかったはずだ。なのに、絢華は涼しい顔で夫を裏切っていた。そんな女を許せるほど、悟は心が広くない。
「冗談じゃありませんよ、汚らわしい! 嫁が淫売だったなんて、末代までの恥だわ!」
悟が答えない代わりに、義母が絢華に罵声を浴びせた。絢華は伯父から言われた通り、いかにも反省している表情で黙って俯いていたが、その横では母親が最初から最後まで泣き続け、このままでは収拾がつかないと判断した弁護士が、財産分与の話に切り替えた。
「協議離婚に応じて頂ける場合は、この場で財産分与と慰謝料の金額を決めたいと考えます。本件は絢華さんが有責となりますので、慰謝料として悟さんへ200万円の支払いを請求──」
「ちょっと待ってください!」
しょんぼりしていたはずの絢華が、突然弁護士の言葉を遮った。そしてキョトンとした顔で、とんでもないことを言い出したのだ。
「逆じゃないんですか? 慰謝料って、私がもらえるお金ですよね」
この発言には、一同が唖然とした。愚かにも絢華は、離婚の慰謝料は夫から妻に支払われるものだと信じていたらしい。さらに、財産分与として悟の資産の半分が与えられると思っていた。弁護士からこの場合の財産とは、夫婦として過ごした間に得たものだけが対象だと諭され、マンションが手に入ると思っていた絢華はひどく落胆した。
欲望の赴くまま好き勝手に生きて、ついには一文無しの丸裸で放逐されることになった絢華だが、彼女の本当の地獄はここからが始まりだと、この時はまだ知る由もなかった。
第五章/完




