5・姑だって、やられたままでは終わらない
2010年1月11日(月曜日)
絢華と悟が結婚してから、間もなく2年が経とうとしていた。その間の結婚生活は順風満帆とは程遠いもので、原因の多くは絢華によるところが大きい。絢華は怠惰で、そのうえ浪費家であった。本人の希望で専業主婦をしているにも関わらず、その務めを全く果たそうとしなかったのだ。
最初の半年ほどは、悟も寛大だった。今まですべて親任せだった箱入り娘が、てきぱきと家事をこなすことなど期待していなかった。朝食の焦げた卵焼きや、アイロンを失敗したシャツも、精いっぱいの努力の結果だと許せるほどには絢華に惚れていた。
しかし、それがいつまで経っても改善されないことに、悟は次第に不満を持つようになっていった。若いといっても、絢華はすでに25歳を過ぎている。同年代で母親になっている女性も少なくないのというに、絢華は一向に主婦として成長しなかった。
「絢華、いくら何でもこれはひどい。いったい、昼間は何をしていたんだい」
ある日、仕事から帰ってきた悟が、あまりの部屋の散らかりように苦言を呈した。乾燥機から出した洗濯ものがソファに詰まれ、テーブルには食べ散らかしたコンビニ弁当の容器や、駄菓子の袋が散らばっている。キッチンのシンクにも朝の食器が置かれたままで、絢華がその日、何もせずに怠けていたことが伺い知れる。
「がんばろうと思ってるんだけど、うまくいかないの。ごめんなさい」
夫に叱責され、絢華がしょんぼりした顔をする。新婚当時なら悟も甘やかしただろうが、もうその手には乗らない。絢華の猿芝居を無視して、悟は予め考えておいた対応策を突きつけた。
「家事がうまくいかない原因は、君にやる気がないことだ。明日から週に一回、うちのお袋に来てもらう。家事のチェックをして、ダメなところは教育してもらうから、そのつもりで」
「ええっ、お義母さまが」
せっかく別居に持ち込んだのに、あの義母に指図されるなんてまっぴらだ。それでなくても、悟が休みの日には三井の実家に呼ばれ、お袋の味の修行をさせられている。これは実質、姑の嫁いびりに近かった。
絢華も婚約時代は料理スクールに通っていたので、味噌汁やカレー程度なら何とか作れるが、義母はわざと絢華の嫌がる魚の三枚おろしや里芋の皮むきなどを教えたがる。そして出来上がった不格好な料理をあざ笑うのだ。絢華はそれが屈辱的で我慢ならなかった。
さらには最近、義母のアポなし訪問が増えてきた。「近くに来たから」とケーキの箱など手にしているが、絢華たちの住むマンションは義母の行動半径からは外れている。最初のうちこそ、義母がエントランスから17階まで上がってくる間に、慌てて散らかったものを寝室に放り込み体裁を取り繕っていた絢華だが、近ごろは嫌がらせだとわかっているので、チャイムが鳴っても無視するようになった。
「家がこんな状態じゃ、帰ってきても心が休まらないよ。君もいい機会だから、本腰を入れて主婦業に取り組んで欲しい」
絢華もサボっていた自覚はあるので、反論ができなかった。しかし、絢華は壊滅的に家事が苦手である。いつ義母からチェックされてもいいレベルに家を保つなど、考えただけでも気が狂う。そこで、助けを求めた先は実家の母、祥子である。
「ねえ、お願い。私がノイローゼになったら大変でしょう? お義母さんが来る日の前日だけでいいの」
「そうは言っても絢華ちゃん、あなたも結婚したんだから、おうちのことをするのは当たり前のことよ。お母さんもそうしてきたもの」
実際は、祖母に次女を預けっぱなしでステージママをしていた祥子だが、そんなことは忘れたかのように絢華を諭そうとした。しかし、結局は娘には勝てない。歌劇団のスターにはなれなかったが、金持ちの歯科医に嫁いだ娘は、彼女の唯一の自慢の種だったからだ。
こうして、姑息に姑のチェックを凌いだ絢華であったが、やがてそれに味をしめ、さらに図々しい要求をするようになった。数日ごとに実家に来ては、密閉容器に惣菜を詰めて帰るようになったのだ。
理由は三井の姑が、献立についてもダメ出しをするからだ。絢華の料理はレパートリーが貧弱で、カレーやシチュー、サラダ、パスタなどのローテーションである。食に無頓着な悟はそれでも文句は言わなかったが、姑から言わせれば言語道断らしい。
「そんなメニューじゃ栄養が偏るわ。疲れて帰ってきた夫に、美味しいものを食べさせるのが専業主婦の役目でしょう?」
炊き立てのご飯に、汁物。メインは肉と魚を交互に出し、小鉢や野菜の副菜が最低でも二品。出汁はインスタントではなく、昆布とかつお節の合わせ出汁を取るようにと指示された。さらに朝食がトーストから和食になり、起きる時間が30分早くなったのも、寝起きの悪い絢華にとっては苦痛であった。
デパ地下の惣菜や家事代行で何とかしようとも考えたが、絢華があまりに無計画に金を使うので、結婚半年で悟に家計を管理されるようになった。そのため、金の使い道がごまかせない。仕方なく絢華はスーパーで食材を買い、それを実家に持ち込んで母親に調理させることにしたのだ。
「絢華ちゃん、こうしょっちゅうだと困るわ。お母さんも忙しいのよ」
この時期、絢華の父はがんの再発で入院しており、祥子も毎日のように病院へ通っていた。そんな中で、結婚した娘の世話まではとても手が回らなかった。しかし絢華は親の事情などお構いなしで「だってぇ、やっぱりお母さんの料理が美味しいんだもん」と悪びれない。そしてそう育ててしまった祥子も、最終的には娘の言いなりになってしまうのだ。これでは絢華が成長するわけがない。
そんな主婦失格の絢華であったが、思いのほか忙しく過ごしていた。エステにネイル、週一度の美容室は、美貌を保つために絶対必要なケアであり、小遣いの大半を注ぎ込んでいる。とは言え、悟から「小遣いは5万円」と決められているので、あっという間に予算が尽きてしまう。それ以外で服や化粧品を買いたいときは、その都度お伺いを立てねばならない。そして、呆れたような顔で夫から小言を喰らうのが常であった。
「服もバッグも、クローゼットに入りきらないほどあるのに、なんでそれ以上買う必要があるの?」
「だって、流行とかあるし」
「主婦なんだから、普段着があればいいだろ」
悟は金持ちの割に金銭にとても細かい。そして家具や持ち物に関しては、無駄を省いてシンプルに暮らすというのがモットーだ。経営者としては有能なのだろうが、絢華にはそれが窮屈だった。稼いでいるのだから、妻が欲しいものくらい買ってくれればいいのだ。
その不満が募った絢華は、とうとう禁断のラインを踏み越えてしまった。当時何かと世間で話題になっていた「出会い系」に手を出したのである。最初は品物を盗んで換金しようと考えたが、絢華が万引きできるのは金銭的価値のないものばかりだ。そこで、手っ取り早くまとまった金を稼ぐには「売春」が確実であるとの考えに至った。
しかし、そこで問題になるのが相手である。学生時代は、周囲の助平親父を手玉に取ればよかった。しかし人妻となった今では、身元が割れるリスクは避けなければならない。その点、偽名を使って男を釣れる出会い系は都合がいい。
ちなみに、当時の出会い系は「犯罪の温床」と言われていた。本人確認が緩い時代で、既婚者や詐欺師が虚偽のプロフィールで登録できたためだ。騙されて事件に巻き込まれる利用者も多かったが、嘘つきの女王である絢華はそれを逆手に取った。
谷村尚美、25歳。それが絢華の偽名である。アイコンは、万が一知人に見つかっても「別人です」と言い逃れできるよう、目元周辺をトリミングした写真を使った。このようなサイトでは、イラストやペットの写真をアイコンにする女性がほとんどだが、それだけに本人の写真を掲載すると男からの注目度が一気に上がる。ましてや一部分とは言え絢華の美貌である。たちまち谷村尚美のアカウントには、1000を超えるアプローチが集中した。
絢華はその中から、慎重にカモを選んだ。まずはガツガツした男はふるい落とした。釣りやすくはあるが、そういう輩に関わると執着されて後々面倒なことになる。次に「年齢より若く見られます」「俳優の〇〇に似ていると言われます」などとアピールしてくる男も除外した。自分を客観視できない人間にはロクな奴がいないというのが、絢華の持論である。
そしてもちろん、金を持っていないと思われる男は論外。候補を絞って何度かサイト内のメッセージでやり取りするうちに、絢華の獲物である「ある程度の社会的ステイタスがあり、異性にモテない既婚者」が浮かび上がってきた。
彼らはたとえ騙されたと気づいても、きっと大騒ぎしない。社会での立場や家庭その他もろもろ。高い勉強代だったと諦めないと、失って困るものが多いからだ。




