4.結婚式は花嫁の承認欲求を満たすものです
2008年2月11日(月曜日)
「そうだったのね、ありがとう。でも……」
絢華が目を伏せて哀しそうな表情をした。あざとい大根女優の芝居である。悟はてっきり絢華が喜ぶだろうと思っていたので、どうしたことかと眉根にしわを寄せた。
「実は私が注文していた冷蔵庫、うちの母がお祝いとして選んでくれたの。だから、別の物を使うわけにいかないわ」
悟の顔に困惑が浮かぶ。結婚前に相手の親の心証を悪くするのはよろしくない。自分の母親は単なるアドバイスだったので「ここは絢華の親に譲るべき」と判断したようだ。悟はキッチンをちらりと見て、冷蔵庫の梱包が解かれていないことを確認すると、絢華を安心させるように微笑んだ。
「そういうことなら、電気店に掛け合ってみよう。まだ使用前だから、きっと交換してくれるんじゃないかな」
「ありがとう。大事なことを伝えていなくて、ごめんなさいね」
「いやいや、僕の方こそ勝手に変更して悪かったよ」
実際には、絢華の親からの贈物というのは作り話である。冷蔵庫の梱包が解かれる寸前、注文した品でないことに気づいた絢華が、配送員に待ったをかけた。そしてそれが義母の策略であることを察知し、実家の母に泣きついたのだ。
大事な娘が嫌がらせをされていると聞いた絢華の母は憤り「こんなことなら私が買ってあげたらよかった」と電話口で嘆いた。そこからヒントを得て、咄嗟に作り話を思いついた。絢華は息を吐くように嘘がつける女なのだ。
結局、冷蔵庫は元の品番に交換され、キッチン家電を無事にシリーズで揃えた絢華であったが、三井の姑がそれで収まるわけもない。企みがうまくいかなかった腹いせに、今度は披露宴の進行を邪魔する暴挙に出た。
「お義母さまのウェディングドレス?」
悟からの連絡を受けて、絢華の顔が瞬時に曇った。すでにドレスは前撮り、披露宴用ともにサイズ調整が終わり、お色直し一回の進行表も出来上がっている。特に披露宴のドレスは、絢華の華奢なボディを際立たせる繊細なマーメイドラインで、コーディネーターも絶賛したほどの素晴らしい品だった。
それなのに、三井の母が35年前の古臭いドレスに変更してはと言い出したのだ。義母のドレスは生地こそミカドシルクの高級品だが、ギャザーで大きく膨らませた肩や、フリルがひらひらとついたスカートが、いかにも昭和感を醸している。これにはファッションに疎い悟も顔を顰めた。
「母さん、もうドレスは決まってるんだし、こんな古いのを引っ張り出して来なくてもいいじゃないか」
すると義母は眉を吊り上げ、息子に猛然と抗議をした。
「ひどいわ! このドレスは、生地をフランスから取り寄せて、一流のテーラーで作らせたものよ。いつかあなたのお嫁さんに着てもらおうと、大事に保管しておいたのに!」
母の夢をこわさないでくれと、情に訴えかける作戦であある。悟はうんざりしながらも、取りあえずは絢華に「どうする?」と聞いてみることにした。当然だが絢華は嫌がるに違いない。そうすれば、自分も母親にきっぱりと断ることができる。しかし、絢華の答えは「お義母さまのお気持に添いましょう」という意外なものだった。
「そのかわり、マーメイドラインのドレスも着させてちょうだい。最近はカラードレスの代わりに、ウェディングドレスを2パターン着る花嫁さんも増えてきたんですって」
「君がそれでいいなら」
母親と婚約者の争いを回避でき、悟はほっと胸を撫でおろした。絢華の承諾を聞いた義母も、あまりにすんなり事が運んで首をひねったが、取りあえず自分の要求が通って満足だった。披露宴で嫁に自分のドレスを着せることで、招待客は三井家の支配者が誰であるか暗に察するだろう。
しかし、当然ながら絢華は大人しく引き下がるつもりはなかった。義母をいい気にさせておいて、最後に足元をすくってやろうと考えていたのだ。その手先として使われたのが、義父と愛人である。彼らは絢華の企みに加担することに難色を示したが、弱みを握られているため仕方なく応じた。
その作戦が発動したのが、披露宴の当日。三井家のしきたりに則り、白無垢と羽織袴で挙式を行った絢華と悟は披露宴会場へ移動した。この地域では最も格式のある老舗ホテルである。このあと絢華は色打掛に着替えて披露宴会場へ入場し、重要なゲストの挨拶が終わった段階で、義母のウェディングドレスにお色直しをする段取りになっていた。
その際、義両親の婚礼写真がスクリーンに映し出され「35年前にお義母さまが身に着けたドレスが、花嫁に受け継がれ云々」という、クサいナレーションが流れる。本番間近になってお色直しの回数を増やされたプランナーが、顔を引きつらせながら考え出した窮余の一策である。
この時まで義母はご機嫌の絶頂だった。贔屓の呉服店で新調した留袖に、年甲斐もなく白浮きした厚化粧で、せっせと来客に愛想を振りまいている。何しろ「三井家はVIPとのお付き合いが多い」というゴリ押しで、山下家の招待客は半分にまで削られたのだ。義父母が忙しいのも当然である。
お陰で新婦側はほとんど親族だけになってしまった。父母は憤慨していたが、絢華にとってはその方が都合が良い。学生から社会人を通じて、敵はいても友だちなど一人もいないのだから。
「ああっ!」
色打掛の支度が終わり、次に着るドレスのカバーを外した衣装係の声が、花嫁の支度部屋に響き渡った。昨日、搬入された際には問題のなかった義母のウェディングドレスに、焦げ茶色のシミがついている。しかも人目につきやすい胸の中央だ。慌ててスタッフが水拭きを試みたが、完全には取れない。支度部屋は大騒ぎになり、会場で客の相手をしていた義母にも知らされた。そして、義母は留袖の裾をからげて支度部屋に駆け込み、ドレスのシミを見るや大声を張り上げた。
「誰か、漂白剤を持って来て!」
絢華の思った通りになった。義母は何かにつけ塩素系の漂白剤を使いたがる。白物には塩素と決めつけているのだ。エプロンを付けた清掃員らしき女性が漂白剤を持ってくると、義母はティッシュを数枚箱から引き出し、素手のまま漂白剤を紙に吸わせて勢いよくシミの部分を叩き始めた。
「ああっ、何よこれ!」
今度は義母が悲鳴をあげる番だった。茶色のシミ自体は漂白剤で消えたものの、その周りの生地がピンク色に染まってしまったのである。急いで水で拭いてみたが、ピンクは周囲に広がるばかり。間もなく新郎新婦の入場である。こうなってはもう、どうにもならない。
「最初の進行スケジュールでいきましょう」
プランナーの声に、一同が頷く。義母のドレスが割り込む前の、お色直し一回のプランである。内容を増やすのは大変だが、カットするのはすぐできる。ナレーターや映像担当者に指示を出したり、繰り上がったドレスの準備でバタバタと動き回るスタッフの中で、義母だけが茫然とドレスのシミを見ながら立ちすくんでいた。
「2着目もウェディングドレスだったのが、不幸中の幸いでした」
苦笑するプランナーに向かって、絢華は「本当ですね」と微笑んだ。もちろん、ドレスのシミは絢華の仕業である。衣装係の目を盗んで、カバーの隙間からマスカラを突っ込んだのだ。狙ったのは、コサージュなどでカバーできない胸の真ん中である。大事に35年も保管し、3万円もかけてクリーニングしたミカドシルクが台無しになって、義母はさぞパニックになっただろう。
漂白剤で生地が染まったトリックは、義父に仕込みをやらせた。義実家から会場へドレスを搬入する間際、布地に酸化チタン配合の日焼け止めクリームを刷り込んでおくよう指示を出しておいた。そこへ塩素系の漂白剤を塗布すると、化学反応でピンクに変色する。絢華も以前にブランド物のシャツが染まったことがあり、その際にクリーニング店で原因を教わったのだ。
マスカラで目立つシミを付けたのは、義母に漂白剤を使わせるためだ。絢華は義母自らの手で、ドレスを取り返しのつかない状態にさせたかった。哀れな義母はまんまと絢華の罠に嵌り、その後の披露宴の最中も自己嫌悪で暗い顔をしていた。これから一生、息子の結婚式を思い出すたび、彼女は苦い記憶に苛まれるだろう。
ちなみに、義母に漂白剤を持ってきたエプロンの女性は義父の愛人である。最初は絢華に脅されて渋々ではあったが、不倫相手の妻を陥れると聞いて俄然やる気を出した。今後、義母を追い込む際には使える駒になりそうだ。
絢華は非常に満ち足りた気分で、華やかに式の主役を勤めあげた。いくら姑が横槍を入れようが、負けるわけにはいかない。結婚式というものは、花嫁の承認欲求を満たすためにあるセレモニーなのだから。




