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私の姉は、きれいなクズ  作者: 水上栞
第四章 絢華とひとクセありの男たち
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6・沢渡夫人の、キッツいお仕置き

 

2006年5月10日(水曜日)



 認めたくはないが、絢華は最近ある変化に気づき始めていた。それは、自分の市場価格が下落しつつあるということだ。学生時代は、ただきれいであればよかった。しかし男も社会に出れば、だんだんと経験値が上がってくる。美しいことはもちろんプラスではあるが、それに加えて知性や包容力など、大人の魅力が求められるようになるのだ。


 その点、絢華は美貌に胡坐をかいたまま20歳を過ぎ、男に依存するばかりで金と手間のかかる女である。ちょっと知恵のある男なら、遊び相手にしかならないと判断するのも当然だろう。



 しかし、絢華も間もなく24歳。女子大の同窓生たちは続々と相手を見つけており、中には既に結婚した者もいる。絢華は彼女たちには負けたくなかった。25歳ごろまでに結婚して、豪勢な結婚式を挙げたい。そのためには愚図愚図している暇はないのだ。



 見合い結婚の可能性も考えてみた。雅之と別れた後、しばらく落ち込んでいた母親の祥子が、最近あちこちから「良縁」を見繕って来るようになった。しかし、一人目は資産家ではあるが田舎の地主で、結婚と同時に義両親や大舅と同居だったので、絢華が即時に断った。


 二人目は大企業勤務の次男だったが、念のため行った婚前調査で、母親が怪しげな新興宗教に入信していることが判明した。これはさすがの祥子も、慌ててお断りを入れたようである。



 こうして色々な男を俎上に載せてみると、やはり雅之と比べて見劣りがすることは否めない。あの時、焦って失敗したことが改めて悔やまれた。いったい沢渡の妻は、どうやってエリートとの結婚にこぎつけたのか。自分が彼女より劣っているとは思いたくない。絢華が沢渡夫妻を恨めしく思う理由は、ぐらつきかけている自信に依るところが大きかった。






──やめといた方がいいんじゃないですか。その気がない男に仕掛けても、勝算は薄いと思いますよ



「沢渡の妻を攻撃する手助けをして欲しい」と言う絢華を、暇人はあっさりと跳ね退けた。絢華の頼みは男がらみの私怨ばかりで、暇人はそろそろ飽きてきた様子だ。仕方がないので絢華は、自分で計画を練ることにした。とは言え、沢渡にはなかなか隙がない。部署が違うため会社の中では話す機会が少なく、車通勤なので尾行も出来ない。業を煮やした絢華は、強行作戦に出ることにした。



「ねえ、山下さんの使ってたハンカチって、もしかして」


「やっぱり? それに、あの香水ってそうだよね」



 絢華が給湯室を去った後で、お喋り雀たちがひそひそと噂話を始めた。シンクで紅茶のカップを洗った後、絢華はポケットから男物のハンカチを取り出して手を拭いた。それだけでも目を引くには十分であるが、その柄は誰もが見覚えがあるものだったのだ。


 薄いグレーの地に、ペールブルーのピンストライプ。沢渡のシャツと同じ柄である。沢渡は着るものにこだわりが強く、シャツもオーダーメイドだ。そしてその共生地で作られたハンカチを愛用していることは、社員の間で有名だった。


 さらには、絢華が通り過ぎる際に漂う香りも、沢渡と同じだと気づく者が多かった。絢華はいわゆる「匂わせ」を行ったのである。ハンカチはエレベーターの中で沢渡のポケットからそっと抜き取ったもので、それにペンハリガンをたっぷりと含ませた。その企みはまんまと成功し、噂はあっという間に広まった。




 さらに絢華は最終兵器として、ある物を手に入れた。胎児のエコー写真である。女子大の友人が妊娠中と聞き、家に上がり込んで盗んだのだ。きっと友人は、たいして親しくもない絢華がお祝いを持って来たのが不思議だっただろう。しかし、マタニティハイでつい色々と見せびらかしてしまい、その中にごく妊娠初期のエコー写真があった。


 普通の人間なら、そんなものを持ち出すと大変なことになるとわかるだろうが、絢華はいかに沢渡の妻の心を折るかで頭がいっぱいになっていた。これまで幸せを信じて疑わなかった女には、夫に裏切られたショックがいちばん効くだろうと考えたのだ。




 そんなある日、絢華に思わぬ呼び出しがかかった。人事部長から「会議室に来るように」とのお達しである。これまでたっぷりと匂わせを行ったので、社内では絢華と沢渡の噂があちこちで囁かれている。それを人事部が問題視したのかもしれない。


 ただし不倫の証拠は何もないので、何か言われたら絢華はしらを切ろうと思っていた。そのうち妻の耳に噂が届き、精神的に不安になったタイミングでエコー写真を送りつける計画である。


 ところがノックをして入室した応接室には、人事部長だけでなく沢渡、そして30歳くらいの女性がいた。絢華はその女性を直感的に沢渡の妻だと確信した。



「山下さん、こちらは沢渡課長の奥さまです。当社の主要株主でもいらっしゃいます」



 それを聞いて、絢華は嫌な予感がした。大番狂わせである。資産家の娘とは聞いていたが、まさか本人が主要株主とは。せっかく周到に噂を広めてダメージを与えようとしていたのに、これでは相手の方が圧倒的に立場が強いではないか。



「夫に関する、おかしな噂が流れていると聞いています。今日はそれが事実無根だと確認するためにお伺いしました」



 涼やかな声だが、静かな圧が感じられる。絢華は上から見下されるような不快感を覚えた。沢渡の妻は知的な黒髪の肩上ボブで、色白の肌にベージュのブラウスが品よく映えている。美醜のレベルは中の上だが、にじみ出る教養と清潔感が眩いオーラを放っていた。絢華が黙っていると、人事部長が絢華に質問をした。



「山下さんと沢渡課長がお付き合いをしているのではと、一部の人たちが邪推しているようです。課長はそのような事実はないとおっしゃっていますが、間違いないですか?」



 まともな頭なら、この場は否定一択である。そうすれば単なる噂として放免してもらえる。馬鹿なことをしたと反省して、大人しくしていればいいのだ。しかし単に噂の真相を問うだけなら、人事部長だけで良かったはずだ。


 沢渡夫妻の前で絢華に否定の言質を取る意味は、噂の出どころが絢華だということを彼らが確信しており、妻はその芽を摘みに来たということだろう。楚々とした佇まいから垣間見える勝者の貫禄に、絢華は激しい憎悪を覚えた。


 自分が手に入れるはずだったものを全て持ち、高みからこちらを見下ろす女に、何としても一太刀入れてやりたい。その憤りが絢華を暴走させた。



「ひどいです、沢渡さん」



 そう言いながら絢華は俯いて、涙をぽろぽろと零した。いざという時にのみ発動する、迫真の大芝居である。皆がびっくりして見守る前で、絢華はなおも続けた。



「遊びだったんですね。ひどいわ、私のお腹には赤ちゃんだっているのに」



 これには全員が呆気にとられた。絢華は立ち上がるとロッカーへ向かい、バッグからエコー写真を取り出して応接室に戻ってきた。自分が愚かな行動をしているのはわかっていたが、どうしても沢渡の妻が泣き崩れる顔が見たかった。しかし写真を見た彼女は、なぜか苦笑いをしている。



「それで、どうされるんですか? 産むおつもりですか」



 まさかそう聞かれるとは思わず、絢華が言葉に詰まる。産みますと言えば、それなりのダメージは与えられるだろうが、そのうち必ず嘘が発覚するだろう。数秒ほど考えて、絢華は苦しい返事を絞り出した。



「……今回は、諦めようと思ってます。でも、沢渡さんの子どもです」


「じゃあ、DNA鑑定をしましょう。生まれた赤ちゃんでも、堕胎した胎児でも、親子関係が調べられますので」



 近年、警察の捜査でよく聞く言葉だが、まだ一般人には浸透していない。しかし沢渡夫妻が暮らしていたニューヨークには、専門のクリニックがあるらしい。



「私は夫を信じていますので、100%彼の子ではないと断言できます。しかし鑑定の結果、夫の子であればあなたの要求を何でも受け入れましょう。そのかわり──」



 部屋が水を打ったように静まり返った。沢渡も妻の啖呵に驚いているようだ。やがて氷の刃のように鋭い声で、沢渡の妻は絢華に最後通牒を突きつけた。



「虚偽と判明すれば、名誉棄損と詐欺で訴えます。その覚悟は、できているんですよね?」



 そこからは、どうやって家に帰ったのか覚えていない。自分の思い違いだったようだと謝罪をして、部長に早退を促された。そしてそのまま、会社を辞めた。自主退職の形ではあるが、実質上は解雇である。


 もちろん絢華には、両親はもとより親戚中から非難の嵐が吹き荒れた。父の縁故で入社しておきながら、破廉恥極まるスキャンダルを起こしたのだから当然である。しかし当の本人は反省するどころか不貞腐れてしまい、「家事手伝い」という名の引きこもりになった。


 社会的な脱落者になったことより、絢華にとって耐え難かったのは、沢渡の妻に完全敗北したことだ。女としても、人間としても、彼女のほうが何枚も上手であったことは認めざるを得ない。その顛末を後日暇人に語ったところ、こう言って笑われた。この上なく屈辱的ではあったが、絢華は言い返す言葉がなかった。



──だから、やめておけって言ったんです。世の中にはね、ケンカしちゃダメな相手がいるんですよ




 第四章/完





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― 新着の感想 ―
[良い点] 女は強くて弱いですね〜。 [一言] 本物のお嬢様には敵いません。 資産の余裕は心の余裕。
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