5・ニューヨークから来たいい男
2005年9月22日(木曜日)
絢華たちのいる秘書課には5名の社員がおり、社長、専務、常務、本部長たちのスケジュール管理や来客時の対応などを行っている。ただし経費に関しては、リーダーの田中が取りまとめて経理部に申告する決まりだ。田中はその際に架空の経費を発生させ、差額を着服していた。それに気づいたのは、印鑑の色の違いである。
絢華はある日、田中の机にあった専務名義の経費申請書を見て、印鑑の色が2種類あることを不思議に思った。ほとんどは濃くはっきりと押印されているが、数枚だけ色が薄い。観察していると、どうも田中のデスクのスタンプ台がその原因らしい。
田中は責任者として押印許可証を所持しており、自己判断で役員の印鑑を押せる。つまり、濃い押印は専務が自ら経費の申告書を確認して押したもので、薄いものは田中が専務の印鑑を申請書に押印して経理に提出したのだと考えられる。悪事に敏感な絢華の勘が、これは怪しいと訴えていた。
絢華が試しに田中のスタンプ台で別の判を押してみると、思った通り色が薄い。そして、薄い印鑑で提出された領収証の発行者名や住所は手書きであった。ますます怪しい。念のため店名を電話帳と番号案内で調べてみると、該当する店舗は見つからなかった。間違いない、経費の架空請求による横領である。
絢華は田中の捏造した嘘の領収証に記載されている内容を控え、有給の日に公衆電話から社の経理部に電話をかけた。当時はまだ街にたくさんの電話ボックスがあり、番号非通知のツールとしても利用されていたのだ。
「いつも田代専務にご贔屓にして頂いております、メンバーズサロン竹嶋ですが」
田中が偽の領収証に記載していた店名である。絢華は店のママのふりをして「金額に間違いがあったので再発行したい」と告げ、経理は「田代専務に確認する」と返答した。そこまでは別段どうということのないやり取りだ。問題は経理が田代専務に内線を入れた後である。
「そんな店には行ったことがない。どういうことだ?」
当然だが、領収証がインチキであることはすぐにバレた。そしてそれを捏造した者が誰であるかも。実在しないクラブのママから電話があったという謎は残ったが、それは善意の内部告発と解釈され、深くは追及されなかった。絢華は完全なる外野の一人として「まあ、なんてこと」と、小鳥のように震えていた。
こうして田中雅美の横領は、会社に対する重大な背信行為として懲戒解雇の決定が下りた。そして、田中の父親が横領した金の損害賠償に応じることで、内々の処理をして自主退職となった。
田中が横領した金は、月に換算すれば家賃程度だったらしい。ちまちまと霞めた金で精いっぱいの贅沢を楽しんでいたということだ。もちろん、社員たちはみんな本当の退職理由を知っている。そのため田中は、7年勤めた会社を逃げるように去った。絢華にさえ関わらなければ、あと数年は楽しめたかもしれないのに、悪運尽きるとはまさにこの事である。
田中が去った後は、それなりに快適な環境で過ごしていた絢華だったが、間もなく一年目が終わろうかという頃、再びオフィスが騒がしくなった。今度はスキャンダルではなく、良いニュースだ。
ニューヨークの提携企業に出向していた沢渡課長が、研修期間を終えて帰ってくるという。絢華たち社歴の浅い社員は会ったことがないが、彼が日本にいた頃は女子社員の間で「理想の結婚相手」として激しい争奪戦が繰り広げられていたらしい。
「背がすらっと高くて、頭が良くて、それを鼻にかけない爽やかさがいいのよね。もう結婚してるのが残念だわ」
「奥さん、大学時代からの付き合いなんでしょ? そりゃあんないい男、絶対に手放さないよね」
休憩室で同僚たちが目をハート型にしながら話しているのを聞いて、絢華は沢渡和宏という男に、俄然興味がわいてきた。年齢は36歳、東京の国立大学を卒業し、30歳で係長に。そして33歳で課長昇進とともにニューヨークへ出向した。この会社では滅多にいない、エリート街道まっしぐらの有望株だ。
沢渡は現地の提携会社と太いパイプを築き、在米中にMBA(経営学修士)も取得している。将来の上級職入りは、ほぼ間違いないだろう。そして実際に会ってみた沢渡は、絢華の予想を超えたナイスガイだった。
「沢渡です。久々の本社勤務なので、至らない点も多々あるかと思いますが、ぜひよろしくお願いします」
簡潔な挨拶を音頭に代えて、沢渡の歓迎会が始まった。希望者のみの出席ではあるが、女性社員はほぼ全員が顔を出している。絢華も、同僚に巻きまれたふりをして参加した。本心は噂の人気者を品定めしてやろうという魂胆である。
沢渡が自分を見て、どのような反応を示すかが楽しみだった。日本を留守にしていた間に、こんな美人が入社していたと知ったら、エリート課長は驚くに違いない。憧れの沢渡が絢華に靡くのを見て、悔しがる女性社員たちの顔を眺めるのは、さぞ気持ちがいいだろう。しかしその絢華の思い上がりは、あっさりと打ち砕かれた。
役職の低い者が上の者にお酌をするという、日本の悪習を利用して絢華は沢渡の隣を確保した。そして首元に顔をぐっと近づけ「いい匂いですね、どこの香水ですか?」と尋ねたのだ。無邪気なふりを装って、相手をドキッとさせるテクニックである。大抵の男なら、絢華がこれをやると狼狽える。しかし沢渡は全く動じなかった。
「ありがとう、ペンハリガンのクァーカスです。妻がプレゼントしてくれたんですよ」
「そうなんですか、素敵な奥さまですね」
絢華は内心、舌打ちをした。沢渡はいわゆる塩顔で、イケメンとまではいかないが清潔感のあるルックスだ。身長も180㎝ほどあり、シャツの上からでも引き締まった体型であることがわかる。かんたんに誘惑に乗らないということは、これまで相当モテ人生を歩んできたのだろう。
絢華は非常に不愉快だった。色仕掛けに沢渡が反応しないことにも苛立ったが、妻を引き合いに出して躱されたことでプライドが傷ついた。すらりと美しい指に光るプラチナの結婚指輪を見て、絢華の心中で「意地でもこの男を落としたい」という、どろどろとした征服欲が湧いてきた。
「相変わらず、愛妻家だな」
沢渡と同期入社の社員が、向かいの席からからかう。沢渡夫妻が仲睦まじいことは社内でも有名で、新婚時代はよく花束やケーキを抱えて帰宅していたそうだ。絢華はイライラして余計なことを言いそうだったので、その日はさりげなくその場を離れた。
沢渡を攻略するには、まず妻について知る必要がある。そう考えた絢華は翌日、給湯室のお喋り雀たちに聞いてみることにした。彼女たちは社内パパラッチと言っても過言ではない。絢華は棚から紅茶のティーバッグを出しながら「昨夜はお疲れさまでした」と、さりげなく話題の糸口を投げてみた。
「山下さん、昨日はちゃっかり沢渡課長の隣に座ってたよね。なんの話をしてたの?」
入れ食いで引っかかった。絢華は紅茶をかき混ぜながら、残念そうな顔を作ってみせた。こういう連中は、敗者にはシンパシーを感じるのだ。
「ずっと奥さんの自慢でした。有名なおしどり夫妻なんですね」
「そうなのよ、もう結婚して10年近くたつけど、まだラブラブなのね。奥さん、いいところのお嬢さんらしくって──」
そこからは黙っていても、シャワーのように情報が降り注いできた。絢華はお茶を一杯飲む間に、沢渡の妻が33歳であること、資産家の娘であること、和風の大人しそうな容姿であること、大手銀行に勤めていたが寿退社をして専業主婦であること、ニューヨークで生まれた2歳の末娘は日米の国籍を持っていることなどを知った。
「そう言えば奥さん、あなたと同じ大学よ。幼稚舎からだって聞いたわ」
最後のその一言で、絢華は体中の血が逆流するような気がした。強烈な妬みが、腹の底で渦を巻いている。それは本来、絢華が手に入れるはずだったステイタスである。外部生ではあるがお嬢さま学校を卒業し、良い縁談に恵まれて夫の庇護の下で暮らしているはずだったのだ。
それがどうだ。一流とは呼べない企業の給湯室で、廉売品の紅茶をすすっている。それが絢華には辛抱ならなかった。全ては身から出た錆なのだが、絢華はまるで沢渡の妻に自分の幸運を攫われたような気がした。
絢華の中で、沢渡の妻に対する「憎い」という感情が生まれた。彼女のような人間が存在すること自体が許せないのだ。絢華はどす黒い憎悪を仮面の下に隠して、会ったこともない獲物に次なる照準を定めた。




