4・おまえを地獄に堕としたい
2004年4月22日(木曜日)
今でこそ街のあちこちに防犯カメラがあるが、2000年代初頭はそれほど多くなかった。雅之が住む高級マンションも然り。せいぜいオートロックのエントランス付近と駐車場、エレベーターなど、人の出入りがある場所に限られている。それを利用して、絢華は雅之を罠に嵌めた。
雅之は毎週木曜日にジムへ行く。木曜日はスイミングのタイム測定があり、専門のコーチが来るので特別な日なのだ。この日も雅之は会社から一旦自宅へ戻り、私服に着替えて車でジムへ向かった。時間にして、約30分。その間に防犯カメラが映し出した映像は以下の通りだ。
19時14分
雅之がエントランスを通過、エレベーターで2階へ
19時22分
絢華がエントランスを通過、エレベーターで2階へ
19時48分
雅之がエレベーターで一階へ、エントランスを通らず駐車場へ
20時07分
絢華がエレベーターで一階へ、エントランスで昏倒
エントランスで倒れた絢華は頭と顔が血まみれで、管理人が慌てて救急車を呼んだ。絢華は右手を骨折し、頭部にも4針縫う怪我をしていた。
病院で怪我の原因を問われた絢華は、最初は言葉を濁していたが、やがて「雅之に殴られた」と供述した。医師も鈍器で強く殴られた傷だと診断したため、駆けつけた絢華の父親が警察に通報した。
やがて、雅之は任意の事情聴取という形で警察に出頭することになった。この時点では絢華の狂言だと確信していたため、雅之は自分の無実がすぐに証明できると思っていた。ところが、事態は彼の思わぬ方向へ転んだ。実況見分のため、家宅捜索が行われることになったのだ。
「僕は先月から、彼女に会っていません。何かの間違いではないですか」
雅之は絢華の自作自演であると訴えたが、防犯カメラの映像では、マンションに入った時点で無傷だった絢華が、出るときには血まみれになっている。彼女のような小柄で非力な女性が、わずかな時間で自分に大怪我を負わせることはほぼ不可能だ。担当刑事は疑りを隠そうともせず雅之を追求した。
「達川さん、先月あなたから彼女に別れを切り出したと聞いていますが、そのことで揉めたりしてませんでしたか?」
「いえ、彼女も納得して別れました。本当にそれ以来、連絡もしていません」
「でも、防犯カメラには山下さんの姿が映っていますし、あなたの在宅時間とかぶっている。部屋で会ったんじゃないんですか?」
「彼女は部屋に来ていません。本当です、信じてください」
さらには何も出てこない筈の自宅から、事件の物証となるものが発見された。不燃物のゴミ箱には、絢華の血液がついたワインの瓶。拭き取られてはいたが、床にも血の跡があった。それを聞いて、それまで楽観視していた達川家は、すぐさま呉服屋の顧問弁護士を呼び寄せた。
身に覚えがないとはいえ、大事な息子に嫌疑がかけられたままでは世間体が悪いし、もしも裁判にまで発展すれば店の暖簾にも関わる。そうなる前に、さっさと金で手打ちにしてしまおうと考えたのだ。
──いくら積んだんですか、御曹司は
──300万円ですこれって安いんでしょうか高いんでしょうか
──相場よりはかなり高いはずです。ここらで手打ちが安全でしょう
結局、達川家の弁護士から示談を提示され、絢華は大金を手に入れた。無実の罪を着せられた雅之は、きっと一生釈然としないだろう。種明かしをすれば、あの日絢華は部屋に入っていない。防犯カメラに姿を映しただけで、非常階段のドアの裏に隠れていたのだ。
そして雅之が部屋を出た後で、合鍵で部屋に入った。別れるときに鍵は返したのだが、実はもう一本予備を作っていたのである。そして部屋の中で、暇人が手配した男が絢華を殴った。江藤久美子に封筒を手渡した、例のサラリーマン風の男だ。彼はカメラに映らないよう密かに侵入したらしく、非常階段で落ち合った。
「男の身長は、何センチだ」
「168㎝って言ってたわ」
「じゃあ、実際は165㎝くらいだな。利き手はどっちだ」
「右」
「よし、じゃあまずは腕で受けろ」
そう言うと男は、手袋をした手で躊躇なくワインの瓶を振り下ろした。不燃物のゴミ箱に入っていた、雅之が好んで飲むイタリアワインの空き瓶である。男は背が高いため、雅之の身長に合わせて殴る角度を調整したようだ。こういう荒事を多くやっているのだろう。
絢華が右腕で瓶を防ぐと、骨に激痛が走った。そして次に目から火花が出そうな痛みが脳天を襲う。「顔には傷をつけないで」と言ったので頭部になったが、それでも顔が歪むのではないかと心配になった。しかし雅之を地獄に突き落とすには、リアリティが必要である。
やがて絢華の額に血が流れ落ちてきたので、その滴りをわざと床に数滴落として拭き取った。こうすれば、警察は雅之が証拠隠滅を図ったと考える。ワインの瓶も血がついたまま紙に包んで、不燃物ゴミの中に戻した。あとはエントランスへ降りて、迫真の演技をするだけだ。遠くから救急車の音が近づいてくるのを聞きながら、絢華は腹の底でしてやったりとガッツポーズをした。これが当日の顛末である。
やがて、悲劇のヒロインから約一年。傷もすっかり癒えた絢華は、そこそこの会社の秘書室で働いていた。本当なら卒業後は御曹司と結婚し、優雅な専業主婦になっていたはずである。そうでなくても、都築の紹介で優良企業にコネ入社できる予定だったのに、どちらもダメになってしまい、絢華は大急ぎで就職活動をする羽目になった。
あくせく働いてキャリアを積む未来など、絢華の人生設計図にはない。せっかく美しく生まれたのだから、夫の資産や社会的地位にフリーライドする特権があると信じているのだ。幸い父の口利きで現在の会社に就職できたが、同級生たちが入った会社に比べて知名度や格はいまいちである。
特に、男性陣がしょぼい。みんな絢華に色目を使ってくるが、たいして出世が望めなさそうな面子である。しかも、そんなしけた男を取り合って、女性社員が殺伐としている。そんな環境で、目立つ容姿の絢華が標的になるのは時間の問題だった。
「山下さん、それ前回も言ったよね。いつになったら覚えてくれるの」
秘書課のリーダー、田中雅美がネチネチと絢華に絡む。もちろん、前回そんな注意は受けていない。男性社員のいる前で、絢華を無能扱いするのはいつものことだ。絢華は素直に「申し訳ありません」と言って、頭を下げた。本人はいつもの事なかれ主義を貫いているだけだが、その態度が男性社員にあざとく「可哀そうな私」をアピールしているようで、ますます田中は絢華が憎らしく思えた。
田中は間もなく30歳を迎えるが、恋人はここ2年いない。平均以下の容姿に最近ちょっと肉付きの良すぎる腰回り。そんな彼女にとって目の前の新人は、羨望と憎悪の対象であった。コネ入社で秘書課に配属されたらしいが、社会の厳しさをみっちりと叩きこんでやらねばなるまい。田中は自身の私怨を正義にすり替え、絢華を執拗に攻め続けた。
一方、絢華は田中を観察しながら害虫駆除の方法を考えていた。田中は鬱陶しいハエのような女で、そのうち叩き潰してやるつもりだった。そのためには、彼女の弱点を探る必要がある。絢華は田中を尾行し、ある不審な事実を発見した。
田中は、職場からわずか3駅という一等地に住んでいる。家賃が高いエリアなので、独身用の慎ましやかな住まいかと思ったが、オートロックで宅配ボックス備え付けの高級マンションだった。近所の不動産屋で確認すると、1LDKで15万円だという。田中は入社7年目の中堅とはいえ、そこまで高い家賃を払えるとは思わない。
さらには、休日に出かけるときの服装に違和感を覚えた。出勤時の田中は、ごく普通のオフィスファッションだが、土日の私服はバレンシアガのワンピースにルブタンのヒールである。カジュアルなラインとはいえ、全身で50万円は下らないコーディネートだ。普通の会社員が買うには無理があり過ぎる。
絢華は身に覚えがあるので、初めは田中が売春をしているのではと考えた。しかし、彼女に男の影はない。高価な服を着て映画に行ったり、街をぶらついたりしているだけなのだ。ならば、その金の出どころはどこなのか。絢華はある日、とうとう田中の尻尾をつかんだ。なんと彼女は、職場の経費を横領していたのである。




