2・お育ちの良い御曹司、君に決めた!
2003年10月12日(日曜日)
絢華は連休を利用して軽井沢の別荘へやって来た。もちろん、山下家の所有するものではない。つい先日から付き合い始めた、達川雅之の実家の持ち物である。
雅之は一流大学を卒業して、現在は外資系のIT企業に勤める27歳だ。絢華とは、モデルの仕事が縁で知り合った。彼の実家は老舗の呉服屋を営んでおり、その広告モデルを務めたのが絢華である。
絢華を気に入った雅之は、社長である父親を通じて会食の機会をもうけた。そこで「息子があなたのファンなんですよ」と紹介されたというわけだ。会った途端に「連絡先を教えろ」と迫ってくる男に比べれば、何とも回りくどいアプローチだが、絢華にはそれが非常に品よく思えた。
実際、今まで付き合ってきた遊び人と違い、雅之は何をするにも洗練されていた。身に着けるものは、英国生地のダークスーツ、時計はグランドセイコーで車も国産の高級車である。やや小柄で平凡な顔立ちだが、育ちの良さが自然とにじみ出る、由緒正しい本物の御曹司であった。
初めて誘われたデートも、雑誌に載っている有名店ではなく、ひっそりと路地裏に佇む小さな鮨屋だった。一枚板の看板に草書体で店名が書かれているが、絢華には読めない。きっと一見客は来ないのだろう。
雅之は絢華に好き嫌いを聞いた後、板前に「おまかせで」とだけ告げ、あとは終始にこにこと聞き役に徹した。絢華は美しく仕事のされた江戸前鮨を堪能し、実に楽しい時間を過ごした。
「よかったら、僕とお付き合いしていただけませんか」
タクシーで家まで送ってきた別れ際、雅之にそう言われて絢華は悪い気がしなかった。野生の勘が「この男をつかまえておけ」と叫んでいる。絢華は恥ずかしそうに目を伏せて「私でよかったら」と頷いた。
そして、その後の絢華の行動は素早かった。同時進行で付き合っていた三人の男を、全て切ってしまったのだ。そのうち一人は、簡単だった。勤めていた証券会社がバブル崩壊の煽りを受け倒産したため、恋愛どころじゃなかったようで、あっさりと別れを受け入れてくれた。
しかし、あとの学生二人は納得しなかった。別れたくないと縋る男たちに手を焼いた絢華は、目に涙を浮かべて昼ドラ並みのクサい芝居を打った。
「父が決めた相手とお見合いすることになったの」
「断わりなよ、彼氏がいるって言えばいいだろ」
「そしたら、あなたをつれて来いって言うわ。そのまま結婚になるけど、それでいいの?」
そう言うと、急に男たちの頭の中で天秤が揺れ始める。絢華のような美女を手放すのは惜しいが、彼らはまだまだ独身生活を楽しみたい。絢華の父親は厳しいと聞くし、どうしたものか……。ぐるぐると考えを巡らせる彼らに、絢華はさらに追い打ちをかけた。
「卒業してすぐに家庭に入ることになるから、急いで結婚式の準備をしないといけないわよ? あなた、貯金は足りるかしら」
何年も先だと思っていた人生のビッグイベントを目の前に突きつけられ、遊び盛りの男たちは、たまらず白旗を上げた。いくら絢華が魅力的でも、現実として受け入れられるものではなかったのだ。
こうして絢華は無事に身辺整理を終えた。今度の獲物は大きいので、一本釣りでいこうと決めたのだ。雅之とは一時のお楽しみではなく、最初から結婚狙いである。絢華は表向きだけでも、身持ちの固い深窓の令嬢でなければならなかった。
ただし、県会議員の都築だけは関係を残しておいた。彼とは40歳近く年の差があるため、まさか寝ているとは思われないはずだ。いざとなったら政治家のコネクションは強い。絢華はそういう損得勘定では抜け目がない女だった。
「絢華ちゃん、お袋が来週うちに寄らないかって言ってるけど、どうする?」
別荘の大きな掃き出し窓から、スウェットシャツを着た雅之が入ってきた。彼は旅行先でも早朝ランニングを欠かさない。さっきようやく起きたばかりの絢華は、まだ眠い頭をフル回転させながら、状況を整理した。
来週、絢華は雅之の実家が経営する呉服屋に行くことになっていた。なんとクリスマスのプレゼントとして、訪問着を作ってくれるという。さすが御曹司だ。その採寸をしたついでに、すぐ近くにある実家へ絢華を連れて来いと、雅之の母が言っているらしい。
「私なんかがお伺いしていいのかしら。まだ……そんなに日が経っていないのに」
付き合い始めて日が浅いという意味だったが、二人の間に一種独特の空気が生まれた。昨夜は雅之と絢華の、いわゆる「初夜」であったのだ。これまで二人は三回デートをしたが、いずれの日も雅之は紳士的に絢華を家まで送り届け、山下家の父母にきちんと挨拶をして帰った。
今まで不良中年や遊び人の学生と付き合ってきた絢華にとって、それはかつてない経験であった。大切に扱われることが、いかに女としての自尊心を満足させるかを、絢華は初めて知ったのだ。
ただし雅之とのセックスは、非常に退屈なものだった。まるで教科書をなぞっているかのように単調で、それでも処女を装うために、絢華は久々に血糊を使って精いっぱいの演技をした。雅之がそれで納得するのであれば、彼を縛るツールとしては十分に役に立つだろう。
「あっちが会いたいって言ってるんだし、気軽に来てよ」
雅之がシャワーを浴びるために、上半身のシャツを脱いだ。小柄だがジムで鍛えているだけに、引き締まった良い筋肉をしている。絢華は恥ずかしそうに目を逸らしながら頷いた。男の裸など見慣れているが、一応は昨夜まで処女だったことになっている。
雅之の実家が絢華を呼ぶ理由は、息子の交際相手の品定めだろう。雅之は次男坊で長兄が呉服屋を継いでいるが、そこはやはりブルジョアである。可愛い末息子に財産狙いの変な虫でもつかないかと、目を光らせているに違いない。
絢華にとっては、好都合だった。雅之との関係は、なるべく早めに周知させたい。結婚に向けて足場を固めるためには、彼の家族は突破せねばならない関門であった。特に母親は、もしも「毒」なら早い段階で対策を練る必要がある。絢華はふんわりと微笑み、了承の意を雅之に告げた。
「じゃあ、お伺いします。ご両親は甘いものはお好き?」
当日、絢華が雅之とともに呉服屋を訪れると、自宅で待っているはずの母親が、既に待ち構えていた。一緒にいるのは兄嫁だそうだ。なるほどそう来たかと思ったが、絢華はいかにも世間知らずの娘らしく、戸惑った様子で頭を下げた。
「山下絢華です。初めてお目にかかります」
「まあ、本当にきれいな方ね。ポスターのモデルをして下さったのよね」
そこから先は、雅之の母の独壇場であった。採寸される絢華が動けないのをいいことに、実に巧妙に品よく質問攻めにしてくる。下町のおばさんなら下世話な詮索になるところを、社交的な話術に見せるところは流石の手管である。
「絢華さんは、ふだん着物はお召しになるの?」
「日舞をやっていましたので、基本の着付けはできます。でも、あまり上手ではありません」
「大丈夫よ。雅之とお付き合いしているうちに、自然と上手になるから」
遠慮なく躾けますよという意味だろう。どうやら第一関門はクリアしたようだ。絢華はこのときばかりは、自分を習い事漬けにした母に感謝した。山下家は家格としては達川家と釣り合わないが、絢華に関しては「よく仕込まれたお嬢さん」という印象を持たれたらしい。
採寸の後は実家に移動して、そこでも雅之の母は絢華の話をあれこれ聞きたがった。その間、雅之はにこにこと聞き役に徹し、兄嫁は一言も口を挟まなかった。絢華は何となくその雰囲気に違和感を覚えたが、兄嫁がお茶を淹れ直すためにキッチンへ立ったとき、その謎が解けた。手伝いを申し出てキッチンへ付いてきた絢華に、兄嫁が堰を切ったように喋り出したのだ。
「ごめんなさいね、お義母さんマシンガントークでしょ。うんうん、って聞いとけばいいからね」
絢華が驚いた表情をしていると、くすくす笑いながら兄嫁が達川家の裏事情を教えてくれた。雅之の母親はお姫さま育ちで、自分が場の中心でないと機嫌が悪い。父親は仕事人間で家のことには関心がなく、息子たちは母親の長話にスルースキルを備えている。いつも雅之が笑顔で聞き役に回るのは、そういう家庭環境のせいかもしれない。
「あなたも余計なことは言わないことよ。そうしたらみんな、平和でいられるんだから」
由緒正しいブルジョアにも、外からわからない闇はあるようだ。しかし、もっと始末の悪い毒親育ちの絢華にとっては、それくらいの毒は効きもしない。絢華はヘレンドのカップをトレイに並べながら、いかに雅之に婚約の意思を固めさせるか、笑顔の下で薄暗い策略をめぐらせていた。




