1・「お久しぶりです」って、どの口が言う?
2003年5月12日(月曜日)
絢華は大学3年生になった。普通の大学生であれば、この時期は就職活動に向けて準備をすすめるはずだが、絢華たちのお嬢さま大学では皆のんびりとキャンパスライフを楽しんでいる。
企業の社長や医師、国の官僚などの娘が多いため、あくせくとせずとも親のコネで優良企業に入社できるし、今どき珍しい家事手伝いという名の優雅なニート生活を楽しむ者も少なくない。中には「卒業後は母と一年間ヨーロッパへ」というセレブもいて、それにはさすがの絢華も目を丸くした。
そんなお嬢さま方の関心といえば、就職よりも結婚である。それは絢華も例外ではなかった。娘を歌劇スターにするのを諦めた母親が、良家の子息との結婚を夢見ているのも大きい。やれ「一流大学卒で土地家屋持ち」だの「次男で親とは別居」だの、聞いているだけで絢華は結婚にロマンを感じなくなり、逆に将来的な投資に近い感覚が生まれてきた。
絢華にとって結婚の条件は、まず第一に経済力である。同窓会に出席したとき、クラスメイトに恥じないレベルの生活をしていたい。容姿に関しては、特に美形でなくても構わない。むしろ自分の引き立て役になってくれる程度が好ましかった。自分で「イケてる」と思っている男は、自信過剰で女をバカにしているタイプが多い。それよりも絢華を何よりも優先し、お姫さまのように甘やかしてくれる男が理想だ。
この頃の絢華には、いわゆる上流階級と言える家柄のボーイフレンドが3人いた。いずれも一流大学の学生もしくは卒業生で、仕事でも出世が約束された有望株である。それぞれ、男の方は絢華を本命と思っているが、絢華は一人に決めずにいた。
絢華の美しさは、間もなく21歳という今、まさに絶頂期である。どんな男でもその気になれば落とせると自負していたし、実際にそうであった。その美貌を武器に男たちを品定めし、自分に最も高い値をつけた男と結婚しようと目論んでいるのだ。今はまだ選択の段階で、もっと良い男はいるはずだ。焦って一人に絞り込むのは早計である。それが絢華の考えであった。
「絢華ちゃん、誕生日は会えるんだよね」
「ごめんなさい、うちは家族でお祝いするの」
絢華は三人の彼氏たちに、「父親が厳しいため交際は秘密にして欲しい」と約束させていた。もちろん、あちこち手を出していることが発覚しないための嘘である。そして誕生日やクリスマスなどのイベントになると「家族」を持ち出してうまく逃げ切る。箱入り娘と思わせておいて、実は三股をかける極悪非道の女であったのだ。
「じゃあ、プレゼントは何がいい?」
「うーん、準くんがくれるなら何でも嬉しいよ。でも、身に着けるものなら最高に幸せかも」
そう言って三人に全く同じブランドアクセサリーを買わせ、1個だけ残して後は売ってしまう。哀れな男たちは、絢華が常に自分が贈ったアクセサリーを身に着けていると思い込み、まんまと騙されてしまうのだ。
また、高校時代から始めた援助交際という名の売春も、以前ほど頻繁ではないが続けていた。小笠原と久枝は、もうずいぶん前に疎遠になってしまったが、市議会議員だった都築祐作だけは、県会議員になった今も時たま会っている。
そのお陰で、大手企業への就職もすんなりと決まりそうだ。絢華の父親も大企業の部長職だが、父の縁故で入社すると会社での行動を監視されそうで嫌だった。その点、都築の口利きなら誰も煩いことは言わないはずだ。政治家を味方につけておいて本当によかった。絢華は16歳の自分を褒めてやりたい気分だった。
輝くような美貌と、たくさんの男たち。大学生活を我が世の春とばかりに謳歌している絢華であったが、ただひとつ思い通りにならないことがあった。ストーキングの相手、柳瀬圭一郎である。
高校一年生から、かれこれ5年以上ひとりの男に執着し、彼のプライベートを追いかけ回してきた。だからと言って、絢華は柳瀬を恋人にしたいとは思っていない。彼は自分の所有物で、届かぬ想いだと知りつつも、女神である絢華に真実の愛アガペーを捧げ続ける。そういう役回りが、絢華の妄想劇場の中で出来上がっているからだ。
たぶん誰に説明しても理解できない構図ではあるが、絢華の中ではそれは確定事項だった。何度も妄想で描いた設定が、いつの間にか真実として彼女の中で定着してしまった。それだけに、柳瀬がまさか自分を忘れているなど、絢華には思いもよらぬことであった。
「お久しぶりです」
「えっ」
大型家電量販店のオーディオ用品売場。にっこり笑って挨拶をした絢華に、戸惑った様子の柳瀬が発した言葉は「どちら様でしょうか」であった。その瞬間、絢華の頭は混乱した。久々の女神降臨に、柳瀬はきっと歓喜すると思っていたのだ。もっとも絢華の方は年がら年中ストーキングしているので、全くお久しぶりではない。
「えっと、山下絢華です。高校のころ、電車の中で助けていただいた……」
そう言われてようやく、柳瀬は絢華を思い出した。その反応は絢華にとってシナリオになかったもので、もしかすると目の前の男は自分の気を引きたくて、そっけない演技をしているのではないかと思ったほどだ。
「ああ、電車の! お久しぶりです」
ようやく柳瀬が笑みを浮かべた。少し警戒されていたようである。バイト先に知らない女が現れ、久しぶりと言われれば不審に思うのは当然だ。しかし、絢華はそのリアクションをどう受け止めて良いかわからなかった。
絢華の脳内における柳瀬は、電車の中で出会った美少女に一瞬で恋をしたものの、当時の恋人に義理立てをして想いを閉じ込め、心の中で密かに真実の愛を育て続けている。そんな彼の前に、数年ぶりに想い人が姿を現したのだ。驚きと歓びで感極まって、平静を保てなくなるのが普通だろう。
なのに何なのだ、この「素」の対応は。おかしい、こんなはずではない。狼狽えて思考がまとまらない絢華の頭の上から、まるで緊張感のない柳瀬の声が降って来た。
「今日は、何かお探しですか?」
30分後、絢華は買うつもりのなかったイヤフォンの袋を膝に乗せ、地下鉄の中で憮然としていた。いくら自己肯定感が強い絢華でも、自分の認識にバグがあったことは認めざるを得ない。ただ、その原因が何なのかには思い至らなかった。否、理解するのを拒否していると言った方が正しい。
絢華はあの後、目についたイヤフォンを指差し、「何かおすすめのものを」とその場を取り繕った。そしてすごすごと尻尾を巻いて帰って来たのだが、去り際に未練がましく仕掛けだけは残してきた。
「選んでくれて、ありがとう。これ、もしお暇だったらどうぞ」
そう言って柳瀬に渡したのは、女子大の学祭チケットだった。来月行われる学園祭で、絢華はミスコンに出場する。3年生と4年生にのみ出場資格のあるコンテストで、絢華は今回が初出場ながら「もうミスは決まった」と言われるほど、ぶっちぎりで他の候補者を引き離していた。
その姿を柳瀬が見れば、彼は自分への憧れをさらに深くするだろうと踏んでいたのだが、今となってはせめて自分がミスに選ばれるのを見て、柳瀬に自分の値打ちを正しく理解してもらいたいという、挽回の祈りが込められていた。
「ええっ、あのお嬢さま大学の? すごいな、プラチナチケットじゃないですか」
柳瀬は社交辞令で言ったのだが、それが通じる絢華ではない。作戦失敗のダメージでグラグラの中でも、彼の言葉を真に受けて急激に新たな妄想が芽吹いてきた。
柳瀬はあまりに長く自分に会わなかったため、アガペーの泉が枯渇してしまったようだ。しかし今日、絢華の姿を目にしたことで、再びその泉が湧き出したに違いない。きっと彼は今ごろ「どうして連絡先を聞かなかったのか」と後悔しているはずだ。そして、絢華が渡したチケットを握りしめて学際にやって来るのだ。
地下鉄の中で電気店の袋を握りしめ、絢華は自尊心にエネルギーを注入した。その鉄のようなポジティブさは、本来であれば長所となるはずだが、絢華の場合は現実から目を逸らすものとなった。
やがて迎えた学園祭ミスコンテスト。下馬評通り絢華は満場一致の優勝に輝いたが、それを最も見せつけたい柳瀬は、ついに会場に姿を現さなかった。




