4・顔の見えない頭のおかしい男
2000年8月9日(水曜日)
屋外は連日35度を超える夏日だが、絢華は涼しい室内でアイスレモンティーを飲みながら、パソコンに向かっていた。
この頃、ようやく街中にパソコンが使える施設ができ始めた。まだまだ一人に一台の時代ではないため、時間で料金を払って利用する。今で言うネカフェの走りみたいなものだ。
普通の女子高生が頻繁に利用するには、やや高い料金設定ではあったが、絢華には男たちから巻き上げた金がある。それを注ぎ込むもっぱらの趣味が、インターネットだ。パソコンの向こうにある世界には、絢華にとって実に刺激的な闇が広がっていた。
絢華にパソコンを教えたのは、竹下である。最初は携帯電話の使用方法をレクチャーしていたのだが、ちょっとオタク要素のある竹下は、機械や通信に関する知識が非常に深い。そのうち絢華は、彼に連れられインターネットサロンを体験し、やがて一人で足繁く通うようになった。
親には「将来のためにパソコンを学んでいる」と殊勝な理由をひねり出したが、実際はチャットルームに入りびたりである。最近はダイヤルアップ接続がISDNに進化し、通信速度が大幅に向上した。それに伴い様々なサービスが登場したうちのひとつで、匿名で不特定多数と会話できるのが売りであった。
SNSなどが発達した今では当たり前のことだが、当時は画期的であり利用者はネットリテラシーの高い人々が大半だった。但し利用者の多くは社会人で、深夜の回線使い放題枠にアクセスが集中した。そのため、絢華のように平日の真っ昼間にチャットルームを徘徊する者は少なかった。
そんな中で出会ったのが、ハンドルネーム「暇人」だ。性別はわからないが、絢華の勘ではたぶん30代から40代くらいの男で、当たりは柔らかいが頭の回転が早く、時に不気味な発言をして絢華をぞっとさせた。
きっかけは、絢華がうっかりチャットルームの定員を設定し忘れたことだった。チャットは既存の部屋のほか、自分でもオリジナルの仕様で作れるため、絢華は時々定員一人の部屋を作り、好き放題に毒を吐いて楽しんでいた。
江藤に対する恨みつらみ、母親への罵倒、呪詛の言葉。それらの文字列が滝のように流れていくのを見るのは快感であった。しかしその日に限って、絢華は定員を設定し忘れてしまい、突然「暇人さんが入室しました」というお知らせが画面に表示された。
絢華は慌てて退室したが、初心者のためチャットを管理者権限で削除せずに出てしまった。そのため、後から入ってきた暇人のモニタには、毒だらけのログが100行分ずらりと表示されたままになっていた。普通の神経の持ち主なら、気持ちが悪いと思うはずだが、暇人は普通ではなかったらしい。翌日、絢華にコンタクトを取ってきたのである。
─AY1982(絢華のハンドルネーム)さんへ
昨日はお話できずに残念でした。あなたのログがとても興味深かったので、ぜひお話したいと思っています。あなたの悩みを、私なら解消してあげられるかもしれません。来週水曜日の14:00に、ルームを開いてお待ちしています。もしよかったら、お話しませんか?(暇人)
翌日、放置したままのチャットルームを削除しようと、インターネットサロンにやってきた絢華は、そこに暇人からのメッセージが残されているのを見て、戦慄を覚えた。自分の遺した罵詈雑言をすっかり眺めまわした挙句、一対一での会話を申し込んで来たというのか。
絢華はすぐさまルームを閉じ、AY1982のアカウントも削除した。本能的にこの相手と繋がらない方がいいと、頭の中で警告音が響いたからだ。そして、しばらくサロンには寄り付かずに過ごしていたのだが、問題の水曜日が来てしまった。絢華は朝から夏休みの宿題に意識を集中させようと机に向かっていたが、どうにもこうにも時計が気になって仕方ない。
昼食を食べて、再び机に向かう。しかし、一向に手元の文字が頭に入ってこない。絢華は辛抱たまらず身支度をして、駅前のインターネットサロンへ向かった。時刻は午後2時30分。暇人が指定した時間から30分も過ぎている。きっとしびれを切らしてルームを退出しているはずだ。しかし、その絢華の予想は外れた。暇人は定員2名のチャットを開いて絢華を待っていたのだ。
一瞬、このまま無視してしまおうかと思ったが、警戒心よりも興味の方がはるかに強かった。どうせ匿名のネットである。会話の内容が気に入らなければ、さっさとチャットを退出してしまえばいい。
さらに、前のアカウントは削除して新しくRapunzelに作り変えてある。先日と同一人物とは気づかれない可能性もあるし、気づかれたところで個人情報のかけらもない名前なので、特に失うものもない。そう思って絢華が入室した途端、モニタの画面にカタカタと文字列が現れた。
──こんにちは。お待ちしてました、山下絢華さん
それを見て、絢華は椅子から転げ落ちそうになった。なぜチャットで一瞬すれ違っただけの相手が、自分の名前を知っているのか。不気味なことに漢字まで正確に合っている。絢華は今すぐに家に逃げ帰りたかったが、先ほどから思考を支配している、強烈な興味がそれを押しとどめた。
──あなたは誰
絢華は震える指先を宥めながら、ようやくそれだけタイプした。すると、待ち構えていたかのようなタイミングで、再び画面に文字列が現れた。
──驚かせてごめんなさい。怖がらないで、あなたの味方ですよ
──誰ですかどうして私を知っているの
絢華は手書きと同じように、デジタルでも句読点を使わない。さぞや相手は読みにくいはずだが、暇人は意にも介さぬ様子で会話を続けた。
──あなたのことは何でも知っています。学校、家の住所、所属しているモデル事務所、お付き合いしている男性も。二人いますよね
絢華の背中に大量の汗が噴き出した。「脅迫される」と恐怖を感じたが、意外にも暇人はフレンドリーな調子で語りかけてきた。
──大丈夫、あなたを脅そうなんて思っていませんよ。人のことを調べるのは、趣味だと思ってください。あなたに興味を持っただけです。どうやら江藤久美子さんが嫌いなようですね。彼女をやっつけたいのでしょう?
絢華の身元が割れた理由はわからないが、江藤に対する恨みは前回のログに吐き出していたので、それで知ったのだと思われる。もちろん江藤はやっつけたい。しかし、暇人の目的が何なのかわからず、絢華は答えに窮した。
──見ず知らずの他人にいきなりそんなことを言われて、警戒するのはわかります。信じてもらえるかどうかわかりませんが、私は人を罠にはめるのが大好きなんです。悪趣味でしょう?(笑)
それは画面上ではただの文字列であったが、その行間から冷ややかな狂気が感じられた。普通の人間からすれば自分も狂人の一種なのだが、それは棚に上げて絢華は精いっぱい警戒しながら質問を投げた。
──何をしてくれるの?
──お望みどおりに。名前の通り、暇なんで(笑)取りあえず、何がしたいか決めておいてください。また来週の同じ時間に、ここで会いましょう
そう言い終えるや否や、暇人はチャットを退出してしまった。絢華は終始手玉に取られた悔しさと、つかみどころのない恐怖で混乱していた。いきなり現れた見知らぬ誰かが、個人的な恨みを晴らしてくれるなど、およそ荒唐無稽な話である。
しかしその一方で、絢華の勘が「暇人は本気で言っている」と告げていた。本当に趣味なのか、それとも他に目的があるのか知らないが、絢華が江藤を柳瀬から引き離したいと望めば、彼はその通りに手助けしてくれる気がする。
そして、これも全くの勘ではあるが、暇人は何やら得体のしれない力を持っている気がした。少なくとも普通のサラリーマンではない。平日の昼間にインターネットを徘徊し、数日のうちに絢華の素性を調べ上げるルートを持っている。金と暇はたっぷりあると考えていいだろう。
今日、サロンに行くまではあんなに逡巡したのに、すでに絢華は来週また暇人とチャットをすると決めていた。どうせ名前も学校も、悪事までも嗅ぎつけられているのだ。かえって隠し立てする必要がなく清々する。もし暇人が見返りに金や体を要求してきたら、それはその時に天秤にかければいい。
世間では「ネットで知り合った人を信用するな」と言うが、自分に限ってはうまくやるから大丈夫だと、絢華は何の根拠もない自信を持っていた。しかしインターネットの世界には、絢華など鼻息で蹴散らしてしまうような、頭の切れるサイコパスが跋扈しているのを、この時の彼女はまだ知らなかった。




