3・良い子は保険証を悪用しちゃダメだぞ!
2000年4月30日(日曜日)
春が来て、絢華は高校3年生になった。もちろん、音楽学校の受験結果は不合格である。昨年は「もう一度受験させろ」と泣き叫んだ母親の祥子も、今年はただしょんぼりと現実を受け入れた。
三度目の受験の条件として、レッスン代および受験に関わる費用を自ら働いて賄うと大見得を切ったはいいが、結婚以来ずっと専業主婦であった祥子にとって、社会の風は想像以上に厳しかった。
それでも絢華をスターにしたい一心で、パートの掛け持ちをしながら費用を捻出したのだが、疲労のため何歳も年を取ったようにやつれ、家の中も散らかり放題である。もうこの苦行をあと一年やり抜く根性は祥子にはなかった。
お陰でその間、絢華は羽を伸ばせた。仕事疲れでぐったりした母は、絢華に小言を言う気力もない。それをいいことに、パトロンたちと会ったり買い物をしたり。さらには、ようやく憧れの携帯電話も手に入れた。友人が少ないため電話やメールのやり取りはほとんどなかったが、こっそり学生鞄にしのばせた電話機がブルブル震えると、それだけで最先端の流行を手に入れたような気がして、絢華の心は躍った。
しかしひとつだけ、気に食わないこともあった。柳瀬が公立高校を卒業し、隣の市の大学に進学してしまったのだ。スパイのように情報を探らせていた竹下も、柳瀬とは違う大学に進学したため役に立たなくなった。こうなれば、自分で情報を集めるしかない。絢華は母親の監視が緩んだのをいいことに、再びストーカー行為に精を出し始めた。
絢華には小遣いやセックスを与えてくれる男がいたし、街を歩けば多くの男たちから言い寄られた。それなのに、どこにでもいる大学生でしかない柳瀬にこだわる理由は何なのか。絢華にもはっきりわからなかったが、彼は特別な存在であった。
同年代の男は、絢華の見た目でちやほやする。最初は柳瀬もそうなのかと思ったが、彼は痴漢から絢華を救い、名前も告げずに去って行った。それでいて、ひっそりとA.Yのイニシャルをジャージに縫い取るほど、心で絢華を崇拝しているのだ。
実際そのイニシャルは柳瀬の従兄弟のもので、絢華が勝手に勘違いしているだけなのだが、崇高なる唯一無二の愛アガペーを姫に捧げる、奥ゆかしい騎士のようなイメージを、絢華は脳内に作り上げてしまった。
それだけに、自分以外の誰かが柳瀬にちょっかいをかけるのが許せない。絢華は女神であり、迷える子羊の柳瀬を足元に傅かせている。そんな美しい構図を崩す異分子は、排除しないと気が済まなかった。自分はエロスの限りを尽くしているというのに、なんとも勝手なものである。
「そういえば柳瀬、いい感じの子がいるみたいだよ」
竹下がそう言うのを聞いて、絢華は「知ってるよ」と内心で舌打ちをした。久々にストーキングしてみれば、柳瀬は入学したばかりの大学でサークルの女とイチャイチャしていたのだ。自分という女神がありながら、許しがたい行いである。
竹下は大学生になったが、授業の始まりが遅いのをいいことに、今も絢華の通学ガードマンをやっている。たまに高校時代の友人にも会うらしく、大学での柳瀬の様子を報告してくれた。
先日絢華が柳瀬を尾行したとき、カフェで待ち合わせをして映画に行った女がいた。「いったい誰なんだ」と思っていたが、大学のアウトドアサークルで知り合った女らしい。名前は江藤久美子、柳瀬より一学年上だという。
高校のときもそうだったが、よくも次から次へと女ができるものだ。絢華は柳瀬から、何かしら女を惹きつけるフェロモンが出ているのではと考えたが、単に柳瀬が女に甘くて口がうまいだけである。悪く言えば罪作りなチャラ男なのだ。実際、絢華も彼のお世辞に浮かれ、こうして残念なストーカーになってしまった。
「大学のサークルってどういうことをするの?」
「いろいろじゃない? 柳瀬のサークルはアウトドアって言ってもガチのやつじゃなくて、キャンプとかバーベキューとか、ゆるい遊び仲間みたいな感じだと思う。インカレだし、柳瀬ファンのお友だちも来年入ったらいいよ」
「インカレって?」
「インターカレッジサークルの略で、他の大学とも一緒に活動するんだよ」
表向き、絢華の親友が柳瀬のファンで、絢華はその情報を竹下から教えてもらっている、ということになっている。最近は痴漢ガードくらいしか役に立たなくなった竹下だが、久々にいいネタが掘れた。絢華は江藤久美子について調べるべく、柳瀬の通う大学へ足を運んだ。
新一年生へのサークル勧誘が盛んに行われている時期だけあって、大学の掲示板で「アウトドア倶楽部ウラノス」は簡単に見つかった。ウラノスはギリシア語で空という意味らしい。手書きのポスターには、メンバー募集の内容と共に「新歓バーベキュー」のお知らせが書かれている。郊外のアスレチック施設で来週の日曜日に行われるらしい。
絢華は内容をメモすると、静かにその場を立ち去った。そして翌週、サークルメンバーのにぎやかな声が響くバーベキュー会場に、絢華の姿があった。と言っても、誰も絢華と気づかない変装だ。髪には三角巾を巻き、ポロシャツにエプロン。ゴム手袋とマスクをつけて手には黒い大きなゴミ袋を持っている。パッと見には、施設の清掃員にしか見えない格好である。
絢華は狙いを付けていた江藤久美子のバックパックに近づき、鮮やかな手さばきで財布とパスケースを抜き取った。バーベキュー台の周りは煙や油で汚れるので、荷物は隅のベンチに寄せてあるのだ。絢華にとって、そこから何かを盗むなど朝飯前であった。
「江藤久美子、19歳。経済学部2年、自宅は池上町の5丁目、電話番号は……」
絢華は免許証や学生手帖から得た情報をトイレでメモに書き写し、保険証以外を元のバッグに戻した。近日中に病院を受診しない限り、江藤が保険証の紛失に気づくことはないだろう。バーベキュー台の方をちらりと見ると、柳瀬が楽しそうに肉を焼いていた。その横には缶ビールを手に持った江藤がへばりついている。
未成年の飲酒を通報してやろうかとも思ったが、そうなると柳瀬にも迷惑がかかりそうでやめておいた。ターゲット一人をピンポイントで攻撃するのが絢華のやり方である。
やがて、バーベキューから10日ほどたった頃、大学の掲示板の前に黒山の人だかりができていた。サークルの募集案内や学内イベントのお知らせなど、普段は楽しげな話題で埋め尽くされるボードの中央には「落とし物」と書かれた札があり、いくつかの紙類が一緒に貼りつけられていた。
その内容は、江藤久美子の保険証と「泌尿器科」の診察券、そして記入済みの問診票であった。問診票は診察前に患者が症状を伝えるための聞き取りなので、普通に考えれば院外に出ることはない書類である。ちょっと考えれば不自然なのはわかりそうだが、そこに書かれた内容が見る者の目を奪った。
そこには江藤久美子の名で、数週間前から性感染症と疑われる水泡が局部に発生していること、市販薬で効果がないため泌尿器科を受診したことなどが書かれていた。しかも、頻繁に不特定の相手と性交渉を行い、妊娠と堕胎の経験もチェックに印が入っている。
「私の字じゃない! 私、こんなクセのある字じゃない!」
友人から「あなたの保険証が掲示板に」と聞いて駆け付けた江藤は、診察券と問診票を見て金切り声をあげた。もちろん、その問診票は絢華が書いたでたらめだ。絢華は江藤の保険証を使って、彼女が性的にだらしないイメージを学内に広めようとしたのだ。もちろん、柳瀬から邪魔者を遠ざけることが目的である。
最初、診察券や診断書が手に入れられないかと「学校の自由研究の参考に」と嘘を吐いて、病院を経営する援交相手の久枝に相談してみたのだが、あっさりと断られてしまった。
「無理だよ、診察券は診察が終わってからしか発行しないし、診断書は医師の名前や病院の印鑑が必要になる」
ならば自力で手に入れようと適当な症状をでっちあげ、江藤の保険証で泌尿器科を受診したというわけだ。そのため、診察券は本物である。問診票は本物に記入する際デジカメで撮影し、その質問項目を参考にしてワープロで自作した。絢華のクセ字だけはどうしようもなかったが、掲示板を見た学生を騙すには十分な出来だった。
「私じゃない、信じて! 誰かが私の保険証を悪用したの」
江藤は身の潔白を晴らそうと至る所でそう訴えたが、気の毒に思ってくれたのは近しい友人だけで、しばらくは学内で噂の的になってしまった。泌尿器科にも「何かの間違いでは」と問い合わせたが、江藤久美子と名乗る若い女性が受診しており、診療費もきちんと支払って帰った。書類に書かれた住所なども合致しているため、これ以上は警察に相談してくださいと言われてしまった。
絢華のシナリオでは、ここまでやれば江藤は居たたまれずサークルをやめて、柳瀬と疎遠になるはずだった。しかし、その計算は狂った。フェミニストの柳瀬がサークルや学内の仲間に根気よく事情を説明し、彼女の汚名を濯いだのだ。これがきっかけで、柳瀬と江藤の仲は急速に深まった。
これは絢華にとって、計算外であった。病気でもないのにわざわざ泌尿器科を受診し、局所が痒いと嘘を吐いて内診まで受けたのだ。いくら絢華がビッチだとしても、17歳の女子高生にはハードなミッションである。
それなのに、その作戦がまさかのオウンゴールになるとは。絢華は江藤を恨んだ。柳瀬から引き離すのはもちろん、めちゃくちゃに痛めつけて、彼女の尊厳を奪ってやらねば気が済まなくなってしまった。




